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検索対象: SFマガジン 1973年3月号
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1. SFマガジン 1973年3月号

り成り、脚註、参考書目、その他さまざまの参考文献を完備した本 全くとりつかれないかのどちらかで、ジャズの場合によく似てい である。 今日、エイミスのこの自己弁護的な口調には一九三〇年代のあの この新しい研究分野におけるもっとも博識な学者の一人は当年三 毒々しい雑誌の表紙と同じような、何となく妙な古臭さが感じ十七歳、短軆エネルギッシュな人物であるダーコ・スーヴィン博士 られる。過去十年間にーー・そのあいだに実際の宇宙飛行士が月へ行で、現在モントリオールのマクギル大学でエリザベス朝演劇とサイ って戻ってきたーー・サイエンス・フィクションのうち荒唐無稽な分エンス・フィクションを講議している。博士の最近のプロジェクト アカデミック・クリティカル・ア・ハラダス 野の多くが学術的批評装置として知られる複眠の怪獣によっの一つは、文学形式の新らしい分類法の確立で、それには、過去か て純文学の洞窟の中へさらわれていった。今ではアメリカとカナダら現在にいたるすぐれた作家たちの作品の役割りの重要性を研 の百以上の大学が文学としてのサイエンス・フィクションの講座を究することも含まれている。『われらは真に何を語りつつあるか』 持っている。そこの卒業生はメジャーの作家たち、たとえばアという、比較的最近トロントの大会の席上公開された長文 イザック・アシモフやアーサー・ O ・クラークなどの作品を、卒業のエッセイの中で彼は、シリアスな評論のための基本的方針を 論文の題材としてとりあげ、ふるいにかけている。創作講座が、厳つぎのように述べた。 密にこのジャンルだけで名を成した作家たち ( たとえばコーネル大 私はつぎのことを公理と認める。 学のジョアナ・ラスなど ) によって開かれている。この分野の教師 ①いかなる研究および論理的探究の分野もそれが少なくとも概括 や学者の手によってサイエンス・フィクション研究協会 的に限界を定められないかぎりは踏査されえない。 ) という団体が組織され、〈ェクストラボレーション〉という隔 ②社会審美学的で形而上学的でない実在としての文学領域という 年刊の雑誌を発行している。学生はいわゆるハード・コア・サイエ ものは存在する。 ンス・フィクションをーーーたとえばロ・ハ ート・・ハインラインの ③こうした実在は、それ自身の内的生命と論理とを持ち、それは 『異星の客』 ( 一九六一 ) やフランク・ハー ハートの『砂の惑星』 逆の仮定の場合を除いては、他のジャンルからのテーマ、傾 "Dune" ( 一九六五 ) ア 1 シュラ・・ル・グインの『闇の左手』 ( 一 向、モデルへの弁証法的浸透性を排除しない。・ 九六九 ) などを、カルト的崇拝の的に祭りあげている。そして現在、 ④この討論にかかわる分野は自然主義的フィクション、ファンタ すくなくとも二冊ののテキスト・フックが大学の本屋で手に入 ジー、神話、民話、詩およびサイエンス・フィクションとす る。一冊は『サイエンス・フィクション・その未来』 "Science Fiction:The Future" という短篇とエッセイのアンソロジー、もう 一冊は『・リアリズムの彼岸』 "SF:The 0 ( h Side of Realism" で、これは二十六篇の批評、作品分析、および書誌学的ェッセイよ 容易に想像されるように、サイエンス・フィクションのすべてに ““ 67

2. SFマガジン 1973年3月号

っこ 0 一堂に会したファンと作家たちはテープルの下にもぐって酒に科学知識を与えることなのか ? 科学を正しく書くことと、良い を汲みかわし、雑誌の・ハックナン・ハーを売買し、怪獣の仮装そして小説を書くことと、どっちがより大切なのか ? 子供つぼい逃避主 水鉄砲の水をかけあったりする。そして、それ以外の時は、サイエ義とよくいわれるが、それのどこがいったい悪いというのか ? 特 ンス・フィクションと普通〈メインストリームの文学〉といわれるに、読者のかなりの部分が未成年である場合には ? こうした疑問 小説群ーーー『陽はまた昇る』から『アムボイ・デュークス』に至るがつぎつぎと湧き上ってくるにもかかわらず ( 初期のファンダムの あらゆる小説を含む 歴史を要領よく伝える『不死 の嵐』 "The lmmortal Storm ・ ) 融通のきくジャンル という本がインサイダーの一 との正しい関係 人の手で書かれている ) この は何か、といった問 ジャンルの将来は、少数の作 題をカンカンガクガ クと討論しあうの 家や編集者やファンやーー宇 宙の看視役の生物たちを含め だ。サイエンス・フ てー・ーサイエンス・フィクシ イクションが「未来 ョンを真面目に受け取る人々 の文学」だという議 のグループによって決まると 論も数多くあった 思われている。 が、誰一人としてそ れが厳密にどういう 意味を持つかを説明 したものはいなかっ 大学生のための論のア たし、サイエンス・ ンソロジー『サイエンス・フ イクション・その未来』の編茂 フィクションそのも のについても満足の 者はディック・アレンで、現宮 いく定義を試みたも 在コネチカット州プリッジボ カ のはなかった。昔ながらの魔法使いと妖精のお伽話式ファンタジー ート大学で英文学の助教授をしている。アレンは詩人でもあり、サ と『クリスマス・プレゼント』のような小説とを、区別するものはイエンス・フィクションのイメ 1 ジを広く彼自身の作品の中に用い 9 いったい何か ? サイエンス・フィクションの真の効用は、一般人ている。彼の最初の詩集は一九七一年にデラコートとデルタの両社

3. SFマガジン 1973年3月号

( 発想の転換などとい 0 た言葉まで陳腐に聞える「あ、またあの変人が発狂した。女のくせに恋愛ものというものがない。常に冷静であり、感 ~ のは根本的にどこか狂っているのではないか、政なんて読むからだ、ざまあみろ」たとえ人がそう情をなかなか現わさないというのが良いとされて 8 治家さんよ ) 我々全てが、もっともっと深いとこ言っても、私はのため最後までガン・ハリぬく いる。じめじめした島国根性というのだろうか。 ろの何かを求めていかねばならないは、そうのであります。ラストにこの偏見がせめて私のま無論、悪いというのじゃない。ただ、嫌いなだけ いった意味でのスベキュレイテイプな役割を遂行わりだけであることを祈ります。・ハンザイ ! である。についても、をだと思うか 可能な文学の一形態であると思われる。 ( 東京都練馬区南大泉の小林八重子 ) ら読めるのであって、文学として見た場合、 ーズよりへミングウェイであろうし、シェイクス いささかやぶへびであるが、ファンは ばかり読んでいてはいけない、という警告でもあ 2 月号の「でてくたあ」は非常に興味深くピアでありゲーテである。の自覚というもの る。 ( 愛媛県宇和島市並松甲井上正次 ) て、海外セクションの福島正実氏は福島正実編のがあって、人はを読む、読書する場合におい 3 冊、福島正実訳 1 冊を紹介していまして、日本ても、どういう本かと聞かれた時、の場合は ハロ 1 ズの「火星のプリン 「だよ」と答え、 私はより多くの人にを知ってもらおうと日の石川喬司氏は″御三家″という、星、 夜努力している若冠十五才の女の子でございま松、筒井の三人を紹介して、他には珍らしくも 2 セス」などとは答えない。ただ、著名な作家の す。私メの年頃の少女は毎日恋を夢見てくらして冊しか紹介していなかった。何故に興味深かった、作家として有名な作家の、という場 いることでありましよう。しかし私の毎日は半狂かというと、・ほくは珍らしくも 5 冊、紹介されて合は別である。これはが売れない、というこ 乱のうちにすぎさってしまうのです。それという いた本を読んでいたのである、・ほくにとっては多とに発するんだと思う。いや、知識階層へ、とい う意味であり、という名とイメージのみが通 のも、こんなにもを読む人は少ないのか、と いのであり、無視してくれるなかれ。 いう実態を目の前にしているからであります。 筒井康隆の「デマ」は面白かった。とにかく筒って、小説が読まれていない。 の弱さは、やはりだという点にある。 「本が好きです」なんて言ってる人も「はど井氏の作品はすべて面白い。初の海外旅行はどう うもねえ : : : 」などと敬遠するのです。ところがだったのかと思うと、またまた面白い。離婚が云ジャズとクラシックと比・ヘると、公的な目で見た 十人中十人っまり百 % は読まずきらいなのであり云ということにもめげず、筒井氏にはガン・ ( ッテ場合、人の大方はクラシックを良しとする。それ ます。読んでもみないできらいですというのは、 もらいたい。ただ、筒井氏は離婚するっていうこと同じなのではないだろうか。 ( 富山県小矢部市野端の柴田孝 ) どういうことでありましようか ! 学校の先生なとは、何も言ってはいない。そんな噂もない。だ どはは文学にあらずというような顔をしてからして、離婚が云々である。コンテスト用の写 「を読むのは読書ですかねえ : : : もっと名作真を見ると、頬の肉がおちているが、あれは技術 いつも、考えるんだけど、何故、私めは、食費 を読みなさいよ、名作をキミ」こんなことをほざの問題なのであろう。文学が云々とかいうのを切りつめた金で、あさすずめを打って、すずめ くのですよ、ああ、先生はあの偉大な・ハラードのは、どうでもよろしい。はなので、の涙ほどの勝った金より高い本を買っちまうのだ 哲学を名作ではないというのでしようか " のままの方がいし 。と文学の差、というものろうか ? きっと、早川書房や創土社が悪いの ファンのみなさん、こんなことをほっておはないんであって、は文学から分れた、とい だ。そして、彼らの手助けをしている、島正実 いてもいいのでしようか、真面目な私がを支うよりも、文学の一部であり、文学の部分であるや石川喬司がいけないのだ。新宿に行くと、決ま 持するがゆえに変人あっかいされているなんて、と思う。は普通の文学への反抗であり、通常って″レインポーと紀伊國屋に行き、をレイン ・ホー当でストーンズとデビット・ボウイを聞き、 おョメさんのもらい手さえなくなりそうなけはい文学からの転換ではないかと思う。 です。ダレカモラッテエー。しかし、を特別最近、ことごとく人間にマジメな傾向が目立紀伊國屋でハヤカワ文庫などを買っちまう。 視して小説の奇形児のように見る、そんな偏見つ。・ほく自身もそうであるけれど、ただのナンセたかが、二百円余と馬鹿にはできないのだ。あれ ( アメリカの水泳選手ではない ! ) が存在する今ンスにも深さとか重みがなくちゃいけないというも、これもと買い、創土社の「ダンセイニ幻想小 弱音などははいていられません。私は、怒りをこ感じである。物事はスマ】トに、なのである。売説集」や「ラブクラフト傑作集」なども買い、さ めてさけびつづけるのです。べら・ほうめ ! 三次れる本は「日本教について」だとか「恍惚の人」でらには、なるまがいの雑誌まで買っ 元と四次 R の間にはさまって死んじまえ ! ある。日本作家には冒険活劇とか、生命を賭けたちまうと、月末は苦しくなり、プルジョアからル

4. SFマガジン 1973年3月号

、らハードカ。ハーとペ ー・ ( ' クで同時に刊行された『無名の多れていない。彼らは機械の内部に入り、それを人間的なものに変え 0 様なタイムマシンの詩』である。彼は現在、近未来のアメリカ以外ているのだ。機械になりたいとさえ考えているものもある」 7 のどこかの僧院を舞台にとった長編のソネットを書きつつあるが、 サイエンス・フィクションを文学として学生に教えることを通じ ・ヘーシック この詩の中に登場する僧侶団はーーー伝説的な創設者は何度もタイムて、アレンは、教育と文学についての基礎的な考え方に多少の再考 マシンで姿を消しているーーーマリワナを栽培し、ノアの箱船を建造を促された。私は五十年代の終りから六十年代の始めにかけて大学 ・クリティシズムで一般演習を受け し、大空に神のしるしあるいは〈御遺体〉を望遠鏡で探すのに多忙に行き卒業した。私はニュー をきわめているのだ。 た。〈曖昧さの七つの種類〉の類いである。そこでは文体がすべて であり、しかも複雑であればあるだけ良しとされた。サイエンス・ アレンは一九七一年春からサイエンス・フィクションのセミナー を始めた。最初のセミナーには、二十五人に制限されたクラスに百フィクションが学内でしだいにはやりはじめたとき、前から耽読し 二十五人の学生が入ろうとしてひしめきあった。「学生たちはサイていたわれわれのうち二、三人が、真剣に、これを教えることを考 エンス・フィクションがいま自分たちの生きている世界について語 えはじめた。だがこれには大きな障碍があった。というのは、サイ エンス・フィクションについて教場で語ろうとすると、従来われわ っている、と信じている」とアレンはいう。「私は彼らを、アイン シュタインの子だと思っている。知的にというのではなく、もっとれが学んできた批評の言葉が役に立たないことを知ったからであ 一つの結論に到達していた。つま 基本的な、心のレベルでそケなのだ。社会について、また宇宙につる」アレンはこのときすでに、 現代アメリカ詩の重大な欠陥は、彼を含めたあらゆる現代詩人 いての彼らの仮説は、文学の主流派たちのそれとは全く違う。彼らり、 は・アルフレッド・プルフロックの感受性のスイッチを切ってし ・クリティシズムの影響をあまりに強く受けた結果として まったのた。彼らは絶対というものがーー時間にも空間にもーーーな「他人に向かっていかに語るかということを忘れてしまっている」 ということにある、という事実である。彼は嘗て読んだ偉大な叙事 いということを知っている。彼らは変化を自明のものと考えてい る。サイエンス・フィクションもまた然りなのだ」一人の興奮した詩について考えた。考えれば考えるほど、彼が脳裡に刻みつけたも スダイル 青年はアレンに向かっていった。「ぼくはようやくぼくの人生に役のが言葉ではなく、文体でもなく、登場人物でも」なく、「情景や ワールドヴィジョン 立っコースを取りましたーーー文学ですよ」サイエンス・フィクショ イメージを通して表現されたその作家の世界像」であることに気 ナレーティヴポエトリ ンについてこんなふうに考える学生たちは、しばしば科学についてがついた。このことを念頭において彼は叙述詩の実験を始めた ストーリ プ戸ーズ 全く無知であることもあった。科学者は彼らにとって殆んど神秘的のである。「私は物語を語ろうとしたーー・散文の要素をーー読み易 な存在になってしまった」とアレンはいう。この若者たちは、機械く理解し易いーーを詩の中に取り返そうとしたのだ」と彼は語って アフタ・エフエタト も理解しないし理解したいと思ってさえいない。だが彼らは電話や いる。教場で、彼はサイエンス・フィクションの〈読後感〉と彼 エレキギターなどとともに生きていながら、すこしもそのことを恐が呼ぶものを、それを得るため使われた手段よりも重視して、成功 キャラクタ スダイル

5. SFマガジン 1973年3月号

文明や銀河系外スー ーマン」たちの物語をむさ・ほり読みたくなる 「ディックが銅を純粋なエネルギーに転換する何らかの方法を発ことがある、といっている。しかし、ケストラーのいいたかったの 見したんだ。あの風呂桶はまっすぐ空へ飛びあがってーー」 はそれではなく、そうした未来的な驚異物語をあまり読みすぎると 「それにしたって、やつばり途方もなく聞こえるわ、マーチン」たちまち飽きてしまう、ということなのだ。 と彼女は遮った。「いくらあなたがそういっても」 「気をつけて、ドロシー」と彼は注意した。「現実に起ること スウイフトの「ガリヴァー旅行記」やハックスリーの「すばら で、途方もないことなど何もないんだよ。この銅製の風呂桶はワ しき新世界」やオーウエルの「一九八四年」はいずれも偉大な文 シントンを出て真先ぐ何処かわからないところに向けて飛びだし 学作品である。これらの作品の中では、未来的な発明も他の宇宙 たんた。ばくらは適当な乗物に乗って追いかけるつもりなんだ」 の珍奇さもたんに背景として、あるいは社会的メッセージの口実 としての役目を負わされているにすぎないからである。言葉を換 いうまでもなく、なかには一人や二人の異色の作家ーーたとえ えていえば、これらの作品は、正確に、サイエンス・フィクショ ば、レイ・プラッド・ヘリとかカート・ヴォネガット・ジュニ . アのよ ンでない度合だけ文学なのである。 うな変り種はある。二人とも界の出身でより広範な読者層と、 批評家からの評価をも獲得した。しかしプラッドベリは真の意味で ェイミスがプリン 一九五九年春、イギリスの作家キングズリー・ 作家とは考えられていない なぜなら彼は明らかに技術と いストン大学に来て、クリスチャン・ガウス・セミナーの一環として うものを憎悪しているからだ。そしてヴォネガットは作家とし一連の講演を行なった。土イミスの選んだのはサイエンス・フィク ての過去を否定する方向へ向かってしまった。その上ーーー一一人ともションだった。ケストラーと同様に彼もの中に社会的メッセー ジを求めている。だがケストラーとはちがってエイミスは求めてし あまりに作品が良すぎるーーというわけである。 メインストリーム 時には〈純文学〉の正式メイハーが象牙の塔から出て来て、ヴたものを現代のサイエンス・フィクションの中に発見した。この講 エルヌやウエルズから現代の雜誌の作品に至るまであらゆる種演は一九六〇年に『地獄の新地図』という題で出版されたが、これ 類のサイエンス・フィクションを楽しく読んでいると認めることもはという文学ジャンルに好意的な立場をとって一般読者用に書 ある。だが、こうした勇敢な人々ですら、余り行き過ぎないようにかれた最初の長篇ェッセイだった。にもかかわらずェイミスはこの という警戒は怠りない。 一九五五年のエッセイ『ファンタジ 1 の本の冒頭で、サイエンス・フィクションの読者の大多数はたぶん彼 退屈』の中でアーサー・ケストラーは、自分が嘗てサイエンス・フ自身と同じような〈熱狂的ファン〉だろうということを説明してお イクションの熱狂的なファンであったことを告白し、今でも時折りかなければならないと考えた。「中毒になる場合と同じように」と その熱が再発して、「宇宙旅行や時間旅行、火星の処女やロポット彼は書いている。「これも少年時代にとりつかれるか、でなければ ノシアル 6

6. SFマガジン 1973年3月号

情熱を持っている人々は、学者サークルのこうした遅まきながらの十二世紀の子供用の玩具である「人間製造セット」を送られる。主 認識に、喜びと困惑とのまじった復雑な感情を覚えている。作人公は説明書の指示に一つ一つ従って自分自身の生きた複製をつく 家たちは、ずっと以前から、彼らの仕事が、ほかのポビュラーな小るが、けつきよく二一五三年からやってきた人口調節官に複製の方 説ジャンルの大半を占めている一語いくらの小説類ーー・たとえば西と間違えられて解体されてしまう ) 部小説とか、ミステリーとか、ゴシック小説のようなものとは、本「当時のわれわれの作品は文学ではなかったかもしれないが、文学 質的にちがうものだという信念を持ってきた。だがトロント大会の以下のものではなかった」とクラスはいう。「かりに他の何者でな 聴衆の中にいたある作家にとっては、このスーヴィン博士の〈分類くとも、われわれは、柔軟な精神の持主のための遊園地を提供して ーであるようにーーー思 いたのだ。いまになって誰かからわれわれの見も知らない壁が存在 法〉はやや大袈裟にーー日曜剥製師がオー われた。大会のあとで、フィリップ・クラスーーー以前からの読者にしていたといわれても、ただ、恐るべき喪失感を味わうばかりであ にウィリアム・テンの名でよく知られているーーは、学者評論家先る」 生たちはどうやら「全分野に定着液をぶちまけてわれわれを壁に貼クラスがかくもこよなく愛し回想するサイエンス・フィクション りつけようとしている」らしい、といっている。クラス自身が、実のすばらしい小世界は、すくなくとも部分的には、サイエンス・フィ は、決して反学術派とはいえない存在なのだ。彼は過去六年間にわクションのファンダムというきわめて独得なグループによって支え 、ゴシック小説などの受 たって、ペンシルヴァニア州で創作法の講議をしてきた経験を持つられたものであった。西部小説やミステリー ているからである。しかしクラスは、「サイエンス・フィクション動的なーーー消費一方の読者とはちがって、真のアディクトたち の黄金時代」を懐しげに振り返り、一九四〇年代から五〇年代にかは、ただ気に入った小説を読むだけでは決して飽き足りなかった。 けては、パルプ雑誌の勢力もまだ強く、彼自身もなかまの作家たち非常な量の時間とエネルギーを費して雑誌や単行本を蒐集する も、最良の作品をきわめて規則正しく発表していた、と述べてい ばかりでなく、自らアマチュアの〈ファンジン〉を発行しーーーこれ コレクティヴ・ク , 工 る。この時期を通じて、ジャンルは、特別な一種の集団的創が、多数のこの分野の才能ある作家たちを育てるファームの役割り イティヴィティ 造性を育てていた、とクラスはいう。「われわれは、どこまでもを果した。若き日のレイ・・フラッドベリもその一人だったのだ 永遠に前進できるように感じていた。つねにお互いの先を行き、おさらに、銀河宇宙的規模とはいわないまでも、地方的、あるいは全 互いのアイデアに新らしいツイストを加え、従来のどんな文学ジャアメリカ的な規模でのファン同士の集会を組織し、実現したのであ ンルにもない新らしいものを創造していけると信じていた」と、彼る。第一回の世界大会またはワールドコンは、一九三九年ニュ はごく最近書いた。 ( 四〇年代のウィリアム・テンのよく知られて ーヨークで開催された。三〇回めのワ 1 ルドコンはこの ( 一九七二 いる作品には『クリスマス・プレゼント』がある。ごく普通の若者年 ) 九月ロサンジェルスで開催の予定である。特に初期のこうした である主人公がある日、理由不明の時間のオーダーの狂いから、二大会の雰囲気は大学の同窓会と伝道集会のあいの児のようなものだ

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は、とっぜん、いわゆる主流文学の作家たちと比較されたいと望 グラルーンはつづけざまに命令した。「構造物は移動まで手をみ、「見えつばりな、ものまねめいた小説を書きはじめたものも現 7 つけずに残しておけ。ニューヨーク市とハーヴァ 1 ド大学はいまわれた。皮肉なことに、多くの若い作家たちは、昔なっかしいニュ 解体しろ。あの男をこのセクターから移せ。 ー・クリティシズムの仕様書にあわせて書こうとしはじめ、その半 面、ニュー はじめろ」 ・クリティシズムで教育された若い学者たちが、まった アレンのテキストでは、このエンディングのあとに、編者の提出く違う文学的価値を創造しようとしつつあるのである」 したつぎのような四つの質問がついている。 作家たちが、近年、文体的にもまたテーマの上でも、しだい 止ハインラインの主人公の持っファンタジーは常識的なもの に野心的になってぎたことには、疑問の余地がない。しかしこのこ サイレン とは、学界からの魔女の呼び声にはあまり関係はなく、むしろ市場 2 この小説を奴隷の時代としての少年期あるいは未成年期の目 の条件の変化ーーアカデミックな批評家たちがほとんど計算に入れ で見て議論せよ。 『彼ら』のエンディングをわかり易く書き改めよ。サープラない要因ーーの方にかかわりを持っている。アメリカ作家クラ ト・ンレヴァ 1 く ーグは、実際に生計を得るため イズ・エンディングの工夫は、小説に効果を与えているかそれ・フの前会長ロ・、 とも削減しているか ? に書いている作家たちによってその大半を占められている界 将来、政府の精神制御は、身体制御より受け入れられ易くなで、最も成功している一人である。 ( ミステリーや西部小説作家と ると思うか ? は異り、作家は映画化権やテレビとのタイアップで大金を儲け るということは減多にない ) シルヴァー・、 ーグはまだ三十代後半の グラルーン自身も、パルプ雑誌から教育学への、このスムーズな若さでありながらすでに百冊を越える著書を持つが、彼は彼自身を 移行には驚いたのではないだろうか ? 含む散文ジャンルの質と、実際の売れロの質との関係についてきわ アレンは、こうした、サイエンス・フィクションへの新らしい学めて率直に述べている。彼自身の言葉によると、彼は・フルックリ 問的関心が、多少の不幸な効果をおよぼすかも知れない、というこン生まれの「大変なお喋りの青年」で、十の年にはじめてサイエン とははっきり意識していた。「たとえば」と彼はいう。「講義をはス・フィクションを読み、十三で真剣に書きはじめ、十七の時には じめて以来、昔ほどサイエンス・フィクションを読むことが楽しく 。ハルプ雑誌に喰い入ることのできない自分の才能の無さに絶望して なくなってしまった」 作家になることをあきらめてしまおうとした。両親のすすめに それだけではない。彼が憂慮していたように、作家のうちに従って、彼はコロンビア大学に入り、最悪の場合でもジャ 1 ナリズ

8. SFマガジン 1973年3月号

代 . ・シリーズ る 0 新しい文学的視野をひらく異色アンソロジー 3 1 譜開 4 1- 4 《一 1 異色の鬼才が選び上げた戦栗の恐イ 系一三ロ展 怖小説。星新一・遠藤周作・宇能 京 異形の白昼 鴻一郎・曽野綾子・都筑道夫・戸体、のの 東 川昌子・笹沢佐保他¥ 6 8 0 男 ー現代恐怖小説集ー筒井康隆編 」派派 替話 派′格会 特異なユーモア感覚で選んだ現代の ューモア小説の饗宴。遠藤周作・説 ②④ 田辺聖子・五木寛之・北杜夫・吉 房のアップルハイ 行淳之介・野坂昭如¥ 680 筒井康隆編 ューモア小説フェスティバルー 推 読後「奇妙な味」の残る、しかも 後 譜饗 「底味」のある作品を選んだ注目 のアンソロジー 。安岡章太郎・柴 風奇妙な味の小説 の派 作 ー現代異色小説集ー吉行淳之介編田錬三郎・河野多恵子他¥ 680 派ン 格マ 文学の美食家が選ぶ暗黒の超現実の 本ロ 作品群。泉鏡花・大坪砂男・埴谷望 暗黒のメルヘン 雄高・島尾敏雄・安部公房・三島渇、 ①③ ー日本幻想小説集ー澁澤龍彦編由紀夫・倉橋由美子他 \ 760 者田 透徹した批評眼で選び上げた兵士 4 の文学集。村山知義・黒島傅治・の 東東 兵士の物語 北川晃二・梅崎春生・大岡昇平・コ ノを 一兵卒の文学集ー大西巨人編中野重治・島尾敏雄他¥ 750 ^ 以下続刊〉 ロロ

9. SFマガジン 1973年3月号

らゆる作品は、社会に 0 いての立場を明白にしなければならなか 0 領域から、彼らのモデ ~ をと 0 たのだ」彼らには、より広い活動分一 4 7 ーグは述べている。「一方ある雑誌では何も意野も与えられていた。雑誌の短編小説にとってかわって、ペー た」とシルヴァ 1 ・、 ・ハックの長編が、サイエンス・フィクションの主流の形式となって 見を表明することが許されない。いちばん原稿料のよい雑誌ーー一 はいちばん規制が厳しかった。一語一セント出きたからである。作家たちは、はじめて、このジャンルの内部 語三 ~ 四セント 版時に支払ってくれる出版社ならば、ばくの意見を書かしてくれたでの最高の芸術的レベルに従って書き、自分の才能の限界にまで自 が、当時ぼくと妻とはリヴァーサイドに家を買ったばかりでそれでらを押しやることができるようにな「たのだ。こうした見込みに大 、こ気をよくしたシルヴァー・、 ーグは、一九六六年この分野に立ち はとても暮らしていけなかった。しかもその頃にはもちろん、ハイし冫 ンラインやアシモフならばいざ知らず、単行本を出してくれる出版帰り、「創造の熱狂」にかられて、つづく四年の間に十三冊以上の ーグは「サイエンス・フィ長編を書きあげたのだった。 社は多くなかった」そこでシルヴァー・、 シルヴァー・、 ーグが賞揚した新進作家たちの何人かは、自分の作 クションを単身改宗させようと努める」よりも、ノンフィクション 品を〈サイエンス・フィクション〉という名で呼ぶことに敢て反対 をーー高校生むきの歴史ものや考古学ものを書き始めた。こうした した。たとえばサミュエル・ディレーニイは〈スベキュレイティ 種類の本は、教師や図書館に受け入れられれば年よく売れるよう になる。シルヴァーバ ーグは年に五 ~ 六冊の割合で、取材し、書くヴ・フィクション〉という言葉を好んで用いたし、また他の作家た ようになり、その結果、経済的には、作家にーーー全国的・ヘストセラちは〈スベキ = レイティヴ・ファンタジー〉あるいは〈サイエン 1 を書かない作家に望みうる最高の度合に安定した。その後一九六ス・ファンタジー〉または単に疑問の余地ない〈〉という名称 ーグは、たんにパルプ時代の ンルヴァーく ーグの言を提案していた。しかしシルヴァー・、 四年と一九六五年に、マーケットは 葉に従えば , ーー「驚くべきいきおい」で拡大した。五万語の長編に意味合いを避けるためだけに新しいレー・〈ルを発明しても意味がな いと考えたのだ。「ほんとうは、昔から、二種類のサイエンス・フ 千ドルのアドヴァンスを払う出版社がとっぜんその三倍出すように イクションしかなかった」と彼はいう。「その一つはウエルズや、 なった。明らかに、大学生の中にサイエンス・フィクションのより 広い、洗練された読者層を見出したのだ。同時に、新しいジェネレヴェルヌや、オーウエル、ハックスリーなどによって書かれた高級 ーションの作家たちー・愚にもっかない。 ( ルプ雑誌での年期奉なサイエンス・フィクションであり、これは、さまざまな人々によ ヴィジナリー 公を経験しない若い作家たちの一群が現われた。「われわれの大部って、たとえば〈幻想小説〉とか〈ユートビア文学〉などの名で呼 分はほかの、小説のまずい作家たちのまねをすることから始めた」ばれた。もう一つは〈コマーシャル・サイエンス・フィクション〉 とシルヴァー・、 ーグはいっている。「これに反して六〇年代の新進で、世間から一種の文学的ゲットー扱いされてきたものである。最 作家たちーーたとえばサミュエル・ディレーニイ、ロジャー・ゼラ近では、この二種類のサイエンス・フィクションは、一つに収斂し ズニイ、トマス・ディッシュ、・・ ' ハラードなどは、文学の全ようとしている。いま・ほくはこう考えている・ーーーわれわれはいまま

10. SFマガジン 1973年3月号

一料第れいいいけい 1 いいい日はいいいいいハいいいいい 空飛ぶ円盤研究 ( 大阪 ) ン・プロまで成り下がちまう。その上、彼女との いましたのです。さすがポール・アンダースン。 ( 至急住所氏名お知らせ下さい ) デート費も失くなり、みじめな気持で涙を飲んところで、どっかで、 Z& ・についてああだ で、彼女にミルク代まで出してもらわずをえない こうだと、おっしやっていたけど、私めが考えま私達は、あまりにも偏見や先入観にとらわれた 状態にまで堕落しちまうのだ。注、彼女のミルクするところでは、まあ、そんなことはいいじゃな生活をしていないだろうか ? 私達は、そういう タンクは余りにも小さすぎるために、喫茶店で購いか、個々の人が個々に宇宙を持ってるんだから疑問を持ちます。現在二十世紀は科学の時代だと : と思うのでありましよう。 入しているのだ。もしも、すべての女性が我が永 いわれています。しかしながら、科学的な物の見 遠の愛人デジャ ー・ソリスかモンロー並であった現代宇宙詩シリーズはなかなか良いですね。 方・考え方が身についているとは、いえないのが なら、みじめな気持で涙飲むことなく、ミルク ( ガ 1 月号のジョン・ウェイン氏、現米文学の現役で、現状だと思うのです。人類の進歩は、おのおのの ラクトースいつばいの母乳 ) を飲んでいるんだけ私めの好きな、ギーンズ ' ハークやウィリアム・ 時点で、偏見や先入観を打ち破ってきた結果だと どなあ いけないー これ以上、悪口を書く口ウズなんかの仲間なのです。ウィリアム・ ' ハ いうことを頭にたたきこんでおいてもらいたいの と、その筋から、その筋って言うのは一四七の筋ウズの「裸のランチ」は、私めは、一種の Z3TJ です。人類が初めて火をとったときもそうだった でなく、どっちかというと、たぶん二五八の筋じであり得ると一人で思い込んでおり、これから かもしれません。地動説を説えたコ・ヘルニクスや ゃないかと思うのですが、眼の周囲が青くなっての文学は、的手法を駆使してクラインの壺のガリレオ。進化論を説えたダーウイン。他にもた パンダちゃんのようになっちまうよ、と、きっー ように内宇宙リ外宇宙的な展開を続けるんじゃな くさんあります。とにかく、偏見や先入観にとら 、お達しが出ているのでもうやめます。ああ、 いかなあと独り勝手なこと思っておるしだいなのわれないことこそ、本当の意味において、科学的 でありましよう。最初の文学は言うまでもなく、 恐わ。 だといえるのではないでしようか。そのような考 ところで、この間、紀伊國屋で、二人でうろっ神話なのでありますから、神話幻想員となえに基づいて私達は〈超心理学〉なる新しい学問 いていますと、私めの好きなポール・アンダースっちまうのでありましよう。すなわち、ワープ・を研究していこうと考えたしだいです。もちろ ンとディクスの「地球人のお荷物」のテデイベア航法的論法をとると、文学Ⅱとなり、またそん、一般の心理学もやっていこうと思います。申 の表紙があるではありませんか。もう、私めは、 の上に、テレポーテーション的論法では、全現像し遅れましたが、私達の会の名は、埼玉県立春日 ⅱと相成り候。 月末の苦しみも忘れ果てて、大枚二百五十円をは 部高等学校超心理学研究会というのです。会の目 たいて買っちまったのです。日頃 : ハロウズやメ追加、デヴィド・ボウイの「屈折す星くずの上的は、超常現象 ( テレバシー、念力、透視、予 リット、そして、 ( ワードやムーアばかり読んで昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群」は詩だ知、幽霊、 u) の科学的研究にあります。理 、た、私めは、その夜、クスクス笑いこけてしまけとっても的であっていいのだ。 論の学習をするとともに私達は、その有無を調べ るための長期にわたる実験を行ないます。これが 私達の会の最も重要な仕事なのです。また、全国 第一一 ( , を宿 03 味か収・誌宙てて号 = 幻年ては 意れの表 8 本 . 宇い出ニ月周せ , 的な調査もやってみようと思っています。 るこ報代 2 はろ「づでは 0 6 の代 」このつ刊号るを誌 O ~ 幽霊を見たことがある人、この世では考えられ はも係る丘会と古年月近去円ト をの . 関す日協の最は最の , ぶ一 ないような体験をしたことがある人、テレ・ハシー 宣もい 0 とタ行み界に時。外か飛ポ会 や念力、透視、予知などの俗に言う超能力を持っ 便のた門市旅じで一刊海ほ空レ 名 の外き専中宙なす , 回 , の「い ている人は、私達にどしどし協力して下さい。で ン以い , を豊宇お , 刊 2 頁本たし 既 ~ きるだけ多くの人達から情報が届くことを期待し ア一てり究府代に月く月年 1 れ詳約 フパげお研阪近で貶早隔はプ内さの在 ています。問いあわせでもかまいません。何とぞ 系ロあと析大「す年年め在イ国」現に 御連絡下さい。 トプりの分 ( 名で半じ現タ , 開会員毎 ~ クと名と一会ム りは , 判本で演会行 ( 埼玉県春日部市春日部高等学校 ア々の介純。ラ刊よ。が 5 9 京講 . 発一 超心理学研究会 ) フ , 時そ紹梨 ) コ創」るたス東念る誌 でら集高の いいで一日記い雑 リレ 、 6 ド彎を ーー 49