できたのである」 らゆる方法で語られる真実の一部でしかないのである。 クレアソンは具象的小説が一一十世紀文学の主流と一般に受けとら れていることに、二重のアイロニーを見てとる。文学界は、自然科 学とその業績のすべてに対して、早くも幻減を感じていた , ーー・それ リアリズム文学の最盛期は過去のものとなりーー・・とクレアソンは ばかりでなく、現実主義のよって立っ基礎そのものーー十九世紀科いうーーーその結果、サイエンス・フィクションの、小さな自己充足 学の考えていた絶対にゆるぎない世界像そのものが、文学の言葉に的なジャンルへの分離現象は、それそれの内部的な読者とせまい好 翻訳される以前にすでに時代おくれになってしまったのである。十みとを持ったままいっそう激しくなり、正当に評価することがます 九世紀中葉の科学者は、彼らの実験と観察の方法が、必然的に物質ます困難になりつつある。・フラック・ユーモア作家や他のナンセン とエネルギーの真の性質をーーしたがって現実そのものを明らかにス文学の作家たちならば、過去の迷妄を鏡にうっしてみることがで するにちがいないと信じていた。だがこの仮説は、意外にも、二十きる。しかしこの核兵器の脅威につきまとわれた宇宙時代の中で生 世紀の理論物理学と矛盾することがわかった。アインシ = タインをきる人間の条件を表現するうまい隠喩をひねくりだすためには、科 始め ( イゼンベルグ、プランクらの世界では、あらゆる観測は観測学と、イマジネーションと、二重に関りを持っサイエンス・フィク 者の位置と相対的関係にあり、物質とエネルギーとは互いに入れ変ションのような何者かが必要なのである。 ( 『最後の全地球カタロ りうる。しかも科学的法則というものは、すべて、観念的な構成要グ』には、生きのびるための推薦品として、フランク・ 素として以外には必すしも存在しない〈粒子〉の振舞いの、統計学の『砂の惑星』が入っている ) 的分析の上に基礎を置いている。こうした。ハースペクティヴから見 ついでクレアソンは、今後のは主流文学へのーーそれが今 た場合、具象的小説のいう〈真の世界〉 ドライザーや、ヘミン日、何を指すかはべっとしてーーある種の再接近が不可欠だという グウェイ、ドス ・パソス、シンクレア・ルイス、シャーウッド・アのだが、サイエンス・フィクションがいつの日か主流文学になると メダファー ンダースンなどの世界は、一つの暗喩、巨大な、不可知的な生成流暗示するところまではいい切っていない。 転の中から、ごくせまい意味合いをえぐりだそうとする、かなり独界内部の批評家は、これほど用心ぶかくはない。三十一歳の 断的な意図の一つにすぎないことになってしまう。リアリズムの文新進作家で一九六八年度のネビ = ラ賞受賞作『成長の儀式』の 学は、もちろん、人間の条件について、何らかのことを語ってくれ作者アレクセイ・パンシンは、サイエンス・フィクションを、「過 はする。しかしそれが、すべてを語るということは絶対にあり得な去二百年間にわたって追放され悪名を着せられていた、古い伝統を いのだ。それは、たとえば、ウィリアム・・ハ ロウズ、ジョセフ・ヘ持っ気品ある芸術」の「現代的な顕われ」だと語り、その長いあい ラー、ドナルド・く / ーセルム、ノーマン・メイラー ヨルゲ・ルイだにわたった追放も、いままさに終ろうとしている、と予言する。 パンシンとその妻コリイとよ、、 ス・ポルへス、カフカ、ジョイスなどの現代作家たちによって、あ ぐしま、浩澣な研究の論文を仕
遺稿「まったくへンなことですが、生物界第への憧れを語り、その世界の消息を読者テーマへの肉迫ぶ 司 0 学でいうところの先祖返り現象が、いま十代に伝えようと試みている。北海道の精神病院りが注目される。 のあいだで起っているのです。仕事の必要上のシーンでフチ取りされた構成はなかなか巧なお巻末の平井和 喬 ョ いろいろなリサーチを集めてみると、テレビみで、テーマや手法も従来の日本にはな正論が面白い。見 とマンガしか見ない。い わゆる劇画世代の半かった新鮮さがあって興味深い。しかし・ほく事な自己 ( ? ) 分 には二つの点で大きな不満が残った。ひとっ析で、これに他者 三分数は社会に出てしまっていて、そのあとにつ づくはずの世代、とくに高校から下の小学校は文章ーーたとえば「品のある端正な横顔がの目による「美し 上級までの年齢層は、活字に対する欲求が強白く冴え、憂いの翳を宿らせていた。白樹のき誤解」が加われ本 当 日 く、むさ・ほるように読みあさっているので顔は、深い苦悩を滲ませていた」といった紋ば申し分ない。 日一 ひび・こうじ『最 007 を切り型は、このテーマにふさわしくないので す小五クラスで松本清張、乱歩、 はないか。それと風景描写の安易さーーーであ後の文明人記録』 読み、中学に進むと古典となった本格派の探 偵小説を好む。しかもそれが流行現象にまでり、もうひとつは物語のポイントになる記憶 ( 金剛出版社・ 780 円 ) は、電子機器の会 なっていて、結局二十代の大学生を含むャン喪失の動機の軽さである。さらに下敷き作品社を経営している著者が十五年前に書いた長 グとよばれる層が、いちばん本を読まず、読が単なる意匠として ( 作者の表現を借りれば篇で、核戦争に生き残った最後の文明人たち を借景みとして ) しか生かされておらず、まが巡礼の旅で、。ハプア島の奥地に特殊な苔に む根気もない世代といわざるをえなくなり、 この連中と最もかかわり合ってきた私たちた彼岸世界を支える論理的整合性の脆弱さよって放射能汚染をまぬかれた地球最後の楽 は、大きなショックをうけています」 ( さる ( たとえばランドル・ギャレットの『魔術師園を発見、そこに残されていた日本青年の興 味深い手記が紹介されるーーーという趣向。木 一月二十七日急逝した大伴昌司ーー本号別項が多すぎる』などとくらべて ) 物足りない。 参照ーーーが「日本推理作家協会会報」肥月号「あとがき」はない方がよかったように思う。原伸朗『鬱虫』 ( 新潮社・ 650 円 ) は平凡 しかしこれは・ほくのようなトウの立った人間なサラリ ーマンの腹の中で精神の排泄物を食 の会員消息欄に寄せた文章 ) べて成長した奇怪な虫が外へ飛び出し、世間 の感想であって、若い世代はまた別の味わい を騒がせる物語で、作者みずから描き添えた 荒巻義雄の処女長篇『白き日旅立てば不死』方をすることだろう。第二作で期待される。 ・ 2 漫画的挿怯が楽しい ・ 670 円 ) が出た。かって本誌平井和正『死霊狩り』 ( 早川文庫 ( 早川書房 30 円 ) はアクション〈ゾンビ 1 稲垣足穂『青い箱と紅い骸骨』 ( 角川書店 に掲載されて〈人気力ウンター〉でプラッド ・ 1800 円 ) は、初期作品篇を収録した べリ作品をおさえて一位になった『ある晴れタ 1 〉シリーズの第一弾。朝日ソノラマから ソ 3 た日のウィーンは森の中にたたずむ』を長篇四冊本で出た『テス ( ンター』を全面的に改愛蔵版。同『ミシンと蝙蝠傘』 ( 中央公論社 ・ 7 8 0 円 ) は、表題作のほか『天守閣とミ 化したものだということなので、未読だった稿したもので、三部作になる予定らしい。宇 ・ほくは併せてそれを読み、さらにこの作品の宙からの恐るべき侵略者を迎えうっために世ナレット』『墜落』『稲生家Ⅱ化物コンクール』 「下敷き」になっているサドの『ジュスティ界中からタフガイが集められ、殺人機械としをおさめた新作集。詳しく紹介する余裕がな とちらもタルホファンには見 くて残念だが、・ ーヌ』を読み返した。記憶を喪失した日本のて養成される。そのひとりである日本の若い 青年建築家がルーレットでかせぎながらヨー レーサーが主人公。「人間性の奥底にひそむ逃がせない。渋沢竜彦の新しいアンソロジ】 悪の本能、攻撃性を描きたかった」と作者は『幻妖』 ( 現代思潮社・ 980 円 ) については ロッパを放浪するーという物語をとおして、 作者は現実の彼岸にあるもうひとつの世いう。〈ウルフガイ〉シリーズとともに暴力来月ご紹介しよう。 S F ててくたあ
不承不承に納得するのだった。半月がたち、立体物理学者はもう危プスさ。こちらでやることに完全に同調して、向うの世界のコップ なくなっていた。ある時私はふと金魚鉢を見て、あっと叫んた。黒スも風変りなレンズを磨いて、こちらのと同じ状態にして、こちら 5 いグラミという魚はこの過ぎ去った期間に成長しないばかりか、すの大馬鹿野郎がその中へ手を突込んだと全く同じ瞬間に、やはり手 つかり小さくなっており、これは金魚も同様たった。さらに一週間を突込んだのさ。それで二人の事務長の各自が突き出た手を自分の が過ぎると、魚は孵化したばかりの子魚になりやがて微塵になり、手だと思ったのだ : : : 万事が平行して進行していたのだ、いまもそ ちょっと泳いだかと思うと、底へ落ちて溶けてしまった。クリスタうだ・ーー一瞬も違わずに。いまだて向うの世界のまったく同じ酒 ルの中を通したものは年を取らず、若くなったのだ。 . ここで我々は場に、君と私そっくりなのが腰を据えて、同じ言葉をしやべってい るのだ」 この現象の本質を理解した。フェオナズは『反世界』へ行く窓で、 『反世界』ではすべてがこちらとまったく同じだが、反対の方向へ 「ちょっと待った ! 君は天体物理学者がクリスタルの中へ入っ 動いているということだ。最初フェオナズから現れたのはこの世のて、出て来たと言った。君はそれが君のところの天体物理学者だっ 天体物理学者ではなく、突き出されたのは我々の金魚鉢ではなく、 たのを見たんだろう」 私が手を突込んだ時あそこから出て来たのは、私の手ではなかった「ただ我々にそう見えただけさ。出て来た者が我々のところのとち ことが判明した」 っとも変っていなかったから。その時我々のところのは『反世界』 「結構」と私は言った。「だが、君は指を握られた時、それを感じこ 冫いたのだ」 たのではなかったか。あの音声学者が君の手を取った時さ」 「だが、彼にはどこへ来たのかわからなかったのかい ? 彼はあと 「私は握られたのは感じた。それはその瞬間私の手を向うの、『反で何か話さなかったかい ? 」 世界』の音声学者が取ったからだ。一方私の分身も向うから手先を「何も。彼も向うの世界へ行ったことを知らなかったのだ。何の相 こちらへ出して、こちらの世界の音声学者の手が触れるのを感じ違も無いんだからーーー向うのも全く同じ地下室だったのだ。私も同 た。で、例えば我々がレンズの中へ水道管を突込んだ時には、こちじことを体験した。クムイス色の靄の中へ没入・し、やがてクリスタ らへ向けて突き出て来たのはこちらの世界の水道管ではなくて、ま ルから出て、自分はまた元のところへ戻ったと考える。ただ窓へ背 ったく同じものながら、向うの世界の水道管だったのだ。我々の方を向けて這入りこんだのに、どういうわけかそちらへ顔を向けて出 の水道管は『反世界』へ没人して、我々には姿を隠していたのだ。 て来ただけの違いだ。この時私の分身も我々の世界へ出て来て、こ だから、壁には突当らなかったのだ」 ちらの世界のほかの連中が見ても、変ったところは無かったのだ。 「どうもよくわからないなあ」 あとになって我々にはこのからくりがわかった。向こうへ顔を出し 「何もわからないことはないさ。『反世界』では万事がまったくこて『″反世界″の皆さん、今日は』てなことを言う。すると、私の ちらの世界と同じなんだ。同じ宇宙、同じ地球、研究所に同じコッ分身も同時にコップス以下の面々に同じ挨拶をするというわけだ」
ますべてが、である。 いや、ひょっとすると、・ホ 1 ディ自身そのものだって・ た、この″世界樹″のみえる平和な世界すら、夢のつづきといえな時間や空間や諸物や、そこで逢った者たちゃ、交わした会話とか くはない。そんな不確かさが、そこに絶えずつきまとっているので色々なものが、きちんとそれなりに統一がとれて、秩序があるのだ った。つまり、世界の枠組みたいなものがある。その世界には、そ あった。そんなわけで、このまるで物語内の人間をおもわせるよう の世界なりの法則性みたいなものが整っているのである。 な羊飼は、自分すら架空の人物であるかもしれないなどと、おもっ たりすることもある。 むろん、こちら側にたちもどってきて思いなおすと、ぜん・せんお 、し、つこ。場面、場面の印象は、すごく鮮明であるのに、意味が いま、知らず知らず睡りはじめている。夢想が夢のカカナ わからなかったり、つながらないところもあるのだった。 中へ移る境いは、いつものとおりはっきりしない。いつのまにか、 しつも行 そことつながっているのであった。すると、ポーディは、、 で、それに無理につなぎ合わせて理解しようとするの・だが、そう くそのもうひとつの国に着いてしまうのであった。 すると、こちらの秩序が混入するせいか、まるで不可解な出来事と 眠っているポーディを眺めると、端正な顔立ちは、はや、なごんなるのであった。あちらの世界にいるときは、ちっとも不思議では それに、驚いたり、喜んた なかったはずの、その出来事が : でいて、幸せそうにみえる。きっとよい夢をみているのであろう。 口元もほころんでいた。 り、柿れたり、楽しかったそのことが、すっかり色あせていて、ち まるで、神々の種族の国をおもわせる、どこか古く土臭く、白茶っとも面白くなくなっているのである。 そのときもポーディは、その奇妙な人々のすむ、とても沢山の住 けた、しかしあくまでも諸物が透明すぎるほどはっきりとしてい る、蒼古的な世界の午後 : ・ カ時がそこで流れて、陽が丘へむ居のある場所へいっていたのだった。それは、むこうの人の言葉 か . ってちかづいていた。″世界″の影は、、 しっせいに、長く伸びてで、″蓮華の街″というのだった。が、 いる。あたかも、大地にはりつけられたような黒い影がある。 「蓮華とはなんだろう」・ と、静かに大気が冷えはじめたのか、かすかに身ぶるいにしたポ「街とはなんたろうか」 1 ディは、軽く鼻をひくつかせる。くしやみとともに起きあがり、 わかっていたはずの、その言葉の意味すら不明瞭になっているの : 」っこ 0 ちょっと痴けたように、あたりを見まわした。 むろんその他にも、ポ 1 ディは幾度もその国を訪れたから、彼ら 「夢をみていたんだな。いや、むこ一つの世界から、また、こっちの の話すきき慣れぬ言葉を、かなり覚えこんでいる。で、むこうにい 世界へもどってきたのだ」 る限りでは、何の不自由も覚えない。しかし、 ひとりでうなずいて、首を左右に振る。事実、夢の世界の方が、 こちらとくらべて、どっちが確かなのか区別しにくいほど、はっき ク尸ぐいったいどこにあって、どういうところなのだろう幻 か。ポーディは、またはっきりと醒めきらぬような面持ちで、夢の りとしていた。
ま 0 たようである。しかし、その社会と、いわゆる主流文壇とるし、その逆の場合も多い。そして、十八世紀以前に書かれたヨー ロッパ文学の古典の事実上すべての作品は、異教徒の、あるいはヤ の間の障壁をとりのそけというキャンペーンは、大学のキャン。 ( ス リスト教伝説に根ざす空想世界を舞台にとりながら、それにきわめ 内で、いましだいに勢いを得ようとしはじめている。たとえばオ ( イオ州のウースター大学の英文学教授であり『【リアリズムのて具象的なデテールを書きこむことによ 0 て成立している。クレア ソンによれば、こうした居心持のいい舞台 彼岸』の編者で、〈サイエンス・ 装置がこわれたのは、いわゆる理性の時代 フィクション研究協会〉の会長で の到来と、自然科学の勃興のためだった。 あるトーマス・・クレアソン 古き伝説・神話はその強力な拘東カを失 をいかにも文学史 ( 四十五歳 ) よ、 い、作家たちがおのおのの見た真実を表現 家らしい非常に遠大な展望をここ 6 する新しい方法を探すうちに、空想的で同 ろみている。クレアソンはいう 時に具象的な叙述様式は瓦解をはじめてし 0 方法を、主流文学」適、 ) 、 まったのである。 応させようとするかわりに、な・せ 具象的な叙述の新しい、ポビュラーな方 だれも、そのものが正当に評。、ま 2 法、ーーっまり散文の小説は、個人とその時 価されることを必要としていると 代との間の変りやすい関係を描くのに、特 考えないのか、と。 に似つかわしいように考えられた。と同時 文学史をほんの一瞥するだけで ヴィジオナリ ファンタスティク に、人々は、依然としてロマンスや寓話物 も、幻想的なあるいは空想的な リアリスティク 語、とくに、はるか遠い島々の探険を描く 文学が、つねに、現実的あるいは リプレゼンテーショナル 空想的な航海物語などを、かわらぬ喜びを 具象的な文学と境を接して存 持って読みつづけたのだ。 崎 在してきたということ、さらに だが、そこには何かが欠けていた。もし宮 は、重要な芸術作品の殆んどに ) 7 神が天にしろしめさず、聖者と罪人とを見 は、必ず二つの表現様式が、その カ 継ぎ目もわからないほど巧みに絡み合わされているという事実に気分けてくれないとすれば、ーー神と同じくらい力強い権威が代 0 て づくはずである。ホメロス伝説の舞台は、二、三の怪獣の棲家を除その地位につかない限り文学の世界はま「たくその意味を失 0 てし 7 まう。かくして、新しい芸術の原理の探究がはじまりーー・それは必 いてはほとんど実在の場所が使われている。中世寓話の編纂者は、 その時代の年代記作者や地図製作者の著作物から自由に取材してい然的にクレアソンのいわゆる「十九世紀最大の迷妄・ーーリアリズム 0
月前、わたしが母の胎内に宿された時のことだった。それ以来彼したが、そのときの経験はわたしの仏教に対する信仰を放り出さ 2 0 は、決してむごい父親ではなかった。厳格で注文が多く、どんな人せ、同時に叙情詩集「クリシュナの笛」を書かせるところとなっ 2 の欠点についても許すことはなかったが、それでも決してむごい人た。それはその価値を正当に認められて、ビュリツップ 1 賞を受け 間ではなかった。彼はわたしにとって母のすべての役割りをつとめた。 てくれ、また兄弟でもあり、姉妹でもあった。彼はわたしが三年間その後学士号をとるためにアメリカに戻り、言語学をおさめた セント・ジョーンズ大学で過ごすことを許してくれた。そこが実際が、さらに数多くの賞を獲得した。 にはどんなに自由で楽しいところかということを彼は知らなかっ そのころ一台の宇宙船が火星に向かった。その船が「ニューメキ た。許してくれたのは多分、その名が聖者の名をとってつけられてシコ」基地に着いたとき、ある新しい言語をもたらした。それは幻 いたからなのである。 想的でエキゾチックな言葉であり、美学的にも圧倒的な美しさを備 しかしわたしは父という人間を知ることがなく終わった。そしてえていた。わたしはこれについて知りうる限りのことを研究し、そ 霊柩車の上の男はもう何も要求しなかった。わたしはもう神の言葉して本を書いた結果、この新しい分野で名をはせることになった。 を説いて歩かなくてもよくなったのだった。だが今度はわたしが違「いくんだ、ガリンジャ 1 。君の・ハケツで井戸を汲み上げ、火星の ったやり方でぜひそうしたいと思った。わたしは、父が生きていた飲み物を地球に持ってくるんだ。いって別な世界を知るんだ。だが あいだはぜったいにいうことのなかった言葉を、説いて歩きたいと距離は保っておけ。オーデンのように、そっとあの世界に触れるん った。 だ。そして詩のなかにあの世界の心を封じ込め、われわれに伝える 秋になっても、わたしは四年に進級するために学校に戻ろうとはんだ」 しなかった。わたしはちょっとした遺産を手にすることになってい こうしてわたしは来た。太陽がくすんだべニー貨のようにみえ、 たが、まだ十八歳未満だったために、それを自由にするには多少の風がむちのように激しく、二つの月がホット・ロッド・ゲーム ( 自動 車のエンジンを改造し、馬力を 面倒があった。だがわたしは何とかそれをやってのけた。 ふやしたもので行なうレース ) を演じているこの土地にやって来た。ここ そしてわたしはとうとうグリニッチ・ヴィレッジに落ち着いた。 ではいつも砂地獄が、それを眺める人に放火者の苛立ちを覚えさせ わたしは、好意をもってくれている教区民のだれにも新しい住所ている。 は教えず、毎日毎日、詩を書き、日本語とヒンズー語を独習する暮 らしをはじめた。ぼさ・ほさのひげを生やし、エスプレッソ・コーヒ わたしは寝床の上のもつれた夜具から抜け出すと、暗い船室を横 1 を飲み、チ = スをやることを覚えた。わたしは救世のためのほか切って舷窓のところに歩み寄った。砂漠はその下の何世紀もの堆積 の道を探したいと思っていた。 物によって盛りあがり、果てしないオレンジ色のカーベットとなっ それから「老人平和部隊」といっしょにインドにいって二年暮らて広がっていた。
「わしらには関係のないことだ、考えるのは暇人のすることだ」議を申したてる者もいた。 「難しすぎて、とても手にはおえない」などと。 と、柱説に加担する者が、話の輪の中に加わって、「他の柱は、 まるで大人たちは、そういいすてて、この素朴な疑問を忘れてし本当はあるのだが、我々には遠すぎてみえないのだ」というのであ まうことが、大人になった証拠であるようないい方さえしたのであった。「柱は、他に二本も三本も、いやことによるとそれ以上、沢 る。本当は、好奇心が薄れてしまい、自分をとりまいている様々な山あるのかもしれない」 事柄を、疑いもせず当然として受けいれていただけなのだが。 すると、他の者が賛成の意を表明しながら、「きっと、この柱の が、もうそろそろ大人になりかけているのに、ポーディは、なか数だけ、″世界″があるのだ」とつけ加えるのである。「そうした なかこの疑問から抜けきれないのである。 " 世界〃にそれそれ、きっと一本ずつの柱が割りあてられているの だろう。そして、すべての″世界″に共通している天を支えている いまもこの羊飼は、この巨大な樹木のことを考えていた。いや、 考えているというよりは、夢想しているといった方がよいかもしれのだ」 ない。このおだやかな大地の起伏、その広さ、そして青い天を支えむろん、別な説をとなえる者もいなくはない。 ているようなアカニシュタの樹、そうしたこの土地の景観は、ポー 「いや、″世界″はひとっきりなのだ。きっと、あの″世界樹 ディが生まれて以来、ずっと見慣れているものだから、やがて大人は、我々のみえない天の上の方で、四方へ枝を張っているのだ」 たちのように彼自身不思議とおもわぬようになるかもしれない : 「いや、そんなことは不可能だ。とても一本では支えきれるはずは ない」 でも、何かわけがある。子供の素朴な疑問、というよりは、子供こうして今度は、柱説を支持する者同志で喧嘩がはじまるのであ だけが持っている直観がかぎつけることのできる、″世界〃の秘密った。 が、そこに隠されている : 。その答えが、ポーディには、なんだ多くの場合、こうした議論を ま、村の共同浴場でおこなわれてい かのど元まで出ているのにつかえて出ないのであった。 た。居あわせた者たちは、それそれの考え方にきき耳をたててい 勿論、村の知恵者といわれる者たちの間で、いく通りかの説明がる。なかに議論のうまい者がいて、お互い自説を主張しあって、尽 なされていることは事実である。 きるということがないのだった。 「アカニシュタの樹は、天を支えている世界の柱なのだ」 「いや、わたしはちゃんとためしてみた。ほらね」と、くだんの一 この説明は、、一番、納得がいきやすい。村人たちの大部分も、そ本柱説をとなえる論客は、わざわざ模型までもちだしてきて主張す れで満足しているのだった。 るのだった。「柱が一本だって、下の方が樹木のように根を張って むろん、「では、なぜ一本なのだろうか。柱であるならば、四 いれば、十分、支えられるのだ」 本、すくなくとも三本あって当然ではないだろうか」といって、異「いや、たとえ柱がたとえ建ったとしても、一本では、天の重みに 9
ビフテキ、トースト、サラダといった食物だけでなをうけて殺され、気がつくと、見お・ほえのないこの種族に属する異分子が、何パーセントか混入してい く、タバコ、ウイスキー、ガムなどの嗜好品から、ロ士地に生きかえっていた、と語る。手首に新しい容ること。これらのパターンが明らかになるにつれ 紅、ライターまではいっているという親切さ。櫛が器が結びつけられていることも、最初の復活のときて、なにか人間を超えた存在が、彼らをこの世界へ その中に含まれているところを見ると、いずれ髪のとおなじ。ただ生き返る場所は、その都度ちがうら移し変えて巨大な実験を試みているのではないかと 毛も生えてくるのだろう。ただ、その容器の蓋は、しい。だが、その理由はわからない。 いう疑いが、ますます強まってくる。 持ちぬしの手でなければ絶対に開かないことがわかさて、一つ所にじっとしていられないのが探険家出発後四百日あまり、すでに船は約四万キロ、赤 る。つまり、他人の容器を奪っても役に立たない というもの。この川の流域をさぐってみたくなった道を一周する距離を遡ったというのに、大河はどこ し、自分の容器をなくすのは自殺に等しいのだ。 ートンは、仲間に協力を求めて帆船の建造にとりまでも果てしなくつづいている。そして、陸のほう 人びとがこの世界の生活に慣れていくにつれて、かかる。そして二カ月後、めでたく帆船ハジ号は完では新しい社会形態が生まれたのが、彼らの目を引 女の奪いあいや縄張り争いが始まる 。バートンたち成、一行を乗せ、上流さして出発する。 強者が弱者を働かせ、そしてそれそれの容器に の仮小屋にも、それを奪いとろうとする一団がおそときどき船を岸づけして、食糧を補給するほか与えられる毎日の食糧の中から、嗜好品だけを供出 ってくるが、なにしろこちらは猛者揃い、たちまちは、平穏な航行がつづく。約二キロお のうちに撃退されてしまう。ここで、それまで腕カ ~ きに並んだキノコ形の岩は、食糧源で とはあまり縁のなかったビ 1 ター・フリゲートが、 ) あると同時に、里程標としても役立っ 襲撃者の中に昔の仇敵がいるのを見つけ、その鼻づ一てくれるありがたい存在だ。こうして ーいくつかの事 らに鉄挙をたたきこむ、という一幕も挿入される。一日が経っていくうちこ、 その男シャーコこそ、かって作家としてデビュー当実がわかってくる。 時の彼から四千ドルを騙りとった憎い相手だった。陸上には一びきの動物もいないが、 ファーマーとしては、二十年ぶりに小説の中で当時川の中には百種類もの魚が棲んでいる の鬱憤を晴らしたわけ。 こと。人口密度はかなり高いが、新し こうした小ぜりあいで時には死人も出る。死後のく生まれてくる子供がないので飢え、 世界の死人はどこへ行くのか ? その疑問は、二十一の心配はないこと。そして川の両岸に 日目に解ける。朝食をとりに行ったバートンがキノは、時代と種族別に分類された人びと コ岩のそばに、生きかえったばかりらしい、つるつが、上流から年代順に配置されている る頭の男を発見したのだ。男は十四世紀生まれのイらしいこと。ただし、それぞれの種族 ギリス人、復活十九日目に対岸のモンゴル人の襲撃一の中には、つねにほかの時代、ほかの 。 00 を PlliIiD JOS8 冊。 鬮 NI 旧 圄Ⅲ 、ン m 聞贈 cosmos 、
の誰かのやはりお前同様に夢の中の存在なのかもしない。い や、こ夢を観るのであった。夢の中で彼は、光の迷路のような道をとおっ の現実が、何者かの夢の世界たったとしよう。が、その者が、目覚て、鏡の中の国へいくのだった。他にも、アルセロナという名の石 めた場所が、また、夢であることもありうるわけだ。そんなふうの街や、浅海に浮かぶ白い街をかい間みたりする。夢の中で、時空 に、夢また夢。そのまた夢、夢の夢と無限につづいていくこともあの彼方へ、そしてありえないような、様々なその他の街へよく旅す りうるかもしれない。 とするならば、こうして現象している″世るのであった。彼は、それが、長者の家の壁画の中の世界だという 界″とよ、、 。しったい何なのだろうか。 ことに薄々と気づいている。 「むずかしくてわかりませんよ。先生」 が、なぜ、そうした夢をひんばんにみるのだろうか。意識が睡眠 ポーディは、とうとう音をあげてしまった。 状態に入ったとき、何か、忘れていた部分がよみがえってくるのだ ろうか。 「ごめん、ごめん」と、アルハットはいった。しかし、その瞳は、 深く沈みこんでいた。 それにしても、あの少年や自分の夢に、共通した部分があるのは なぜだろうか。いや、ちよくちよく村の者たちと夢の話をするが それから二人は、並んで、帰途についた。道々も、アルハットは 話しつづけていた。彼と別かれて、ポーディは、小屋へもどる。 おもいがけなく一致している部分があって、驚くのであった。 臥床にもぐりこんでからも、その話が耳に残っていた。 すると、村人たち全員に共通している何か、ある過去の記憶があ アルハットは「この世がだれかの夢にちがいない」というのだつるのかもしれない。が、この村人たち全体に類型的な記憶の正体と た。「そうしなければ、この世界の色々な不思議な事柄が説明できは、何なのであろうか。 ぬ」といテのである。 色々と考えてみるがわからない。そして、不意に、ふっと、だ、 たとえばい″世界″がそうなのだ。なぜあのようなものが、天たい生物が、覚醒状態にあること自体が、異常なことなのかもしれ ない、などとおもったりしていた。 高くそびえているのだろうか。また、長者の家の壁画の意味がわか ドつよ、 0. むしろ意識とは、睡っている状態の方こそ自然なのかもしれな 。現に、胎児はむろんのこと、生まれたばかりの赤ん坊は、睡っ そうした様々な世界の不思議も、もしこの世が何者かの夢の世界 てばかりいるではないか。この睡っている状態の方が、生物にとっ であるとすれば、容易に説明できる。 ては正常なので、生物にとっては、醒めている状態の方が、特異な でも、しかし、いったいその者とはだれなのであろうか。 むろん考えたところでわかるはすはない。 : ホ 1 ディは、知らぬう場合といえるのかもしれない。 ちに眠っていた。 とするならば、意識の目覚めとよ、、 しったい何を意味しているの だろう。第一、意識とはいったい、どこに目醒めたのであろう。 同じころ ( アルハットも臥床に身を横たえていた。彼自身もよく意識は、その大いなる何者かの大いなる夢の中に目醒めたのだろ 4
アウト 上げつつある。題名は『丘の彼方の世界』で、夫妻はこの中であらと〈外〉とを除いて、行くべき場所がなくなるに至ったのだ。 ミメティク ゆる文学を大きく二つのカテゴリーにわけている。模倣文学と非模 パンシン夫妻にとって、サイエンス・フィクションにおける科学 倣文学の二つである。模倣文学における原発的衝動は、人生の真実は、実際の科学ではない。そこに登場する「宇宙船も、はるかなか を、「本質的にあるがまま」に描くことによって表現しようという なたの惑星も、奇妙な発明の数々も」すべて技術の謳歌でもなけれ ことである。このカテゴリーには、現代の散文のほとんどが含まれば、また未来予測でもなく、「無限の隠喩の時空」をーー・「われ る。それ以外のあらゆる文学が非模倣文学で、この中には、たとえわれの知っている日常経験の現実世界」から切り離された、神話造 りのための舞台を、つくりだすためのものなのだ。何の用に立つの ば『オデッセイ』『ペーウォルフ』から『パルジファル』 ( の歌劇。 一八八二 ) 『神曲』『妖精の女王』『テンベスト』『失楽園』を経てか、その根拠は何かなどということは全く問題ではない。アメリカ 現代のサイエンス・フィクションまでーーー / 、 。、ノシン夫妻の好む言葉の作家たちは、過去四十年間に、こうした新しいシンポルの欠 点を除去するためによい仕事をしてきた。いまや準備は完了し、 でいえば、スベキュレーティヴ・ファンタジー までが入る。 旨「はついに、われわれの生活を変えるため必要な材料を与えら 模倣文学は大きな社会的騒乱の時代にしばしば花開く。その機育 パンシンはさらにこうつづける。「あらゆる が、個人を、社会のなかに統合することだからである。またこれれる位置についた」 が、な・せ過去二百年間、模倣文学がかくも栄えてきたかという理由芸術活動は、モデルづくりの作業である。それは、複雑な宇宙を、 特別なアイデアや感情の中にはめこむという知覚運動をたすけてく になるだろうとパンシン夫妻はいう。 一方、非模倣文学は、もっと複雑な役割りを持つ。それは「精神れる。人間が、従来どおりの生きかた、耐えかたで、今後も生きな 的に統合性を持つ」文学で、つまりパンシンに従えば、一方で「個がらえていくことのできないのはあまりにも明らかだ。人間はい 人個人に自らを納得させるのを助ける」作用をする反面で「個人個ま、新しい統合を、新しい合成をーー新しい宗教をさえ求めている のだ。 人を全宇宙の中に適合させる」のを助ける作用をする。 非模倣文学の武器は神話・伝説とシンポルである。 もちろん、 g-v 作家たちは、いまでもなおふるいパル。フ雑誌時代 過去一世紀前後のあいだに、「非模倣文学は、その伝統的な領域の習慣を捨てきれずにいる。作家たちは、自分たち自身の重要 ー・ハレ・ビレジ から、世界のシステマティックな探検と、〈地球村〉の建設の結性を認識していない。だが、私は、これから十年のあいだに が、ちょうどマーロウとシェークスビアの時代にエリザベス王朝演 果として、完全に追放されてしまった」その間に、古いシンポル は、あらゆる意味を絞りとられ、神話が活動するに相応しい舞台は劇が百花繚乱の開花期を迎えたように、大きく花咲くであろうこと を信じて疑わない」 全く存在しなくなってしまった。地球そのものが「人に理まり」 8 たとえば・ハ ーミュダは、かってのお伽話の島ではなく、人の混みあ パンシン夫妻は、こうした見解を詳しく説明した一文を、最近ト アツ・フ うイギリス植民地にな 0 てしま 0 たーーっいに非模倣文学は、〈上〉。ントで行なわれたサイ = ンス・フ→クシ ' ン研究協会の大会で発・一 ティク ノ / ミメ