作家 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1973年4月号
62件見つかりました。

1. SFマガジン 1973年4月号

かなり珍らしい部類の作品だ。最近は映画も良質のに言葉もない。この古きよき時代のおおらかさに接する ものが、どんどん作られ安定してきたし、舞台でも楽しみがあるかぎり、・ほくの古書集めも、当分は続きそ 的作品がだいぶ見受けられるようになってきた。ここい うだ。 ( と、ここまでが前半。旧かな使いを読むのは、 らでどうだろう ? 誰かこの歌舞伎を上演してみようと戦後生まれのぼくたちにとっては、とてもくたびれるか いう人はいないだろうか。もし、あったら。連絡いただら、このへんで。一服しようではありませんか ) きたい。喜んで台本を提供しよう。ただし、興行が赤 字になっても、その責任は負いかねるのでそのつもりで囹幻の詩人・中山忠直 ところで、この作品の書かれた過程を紹介しておこ前半におとぎ歌舞伎などという珍妙な作品を紹介した う。これが作品同様おも ので、後半はふつうの古典で しろい。この作品は当時 は座がたもてそうもないから、 の東京市社会局が、関東 詩を読んでいただこう。もちろ 大震災という未曾有の天 ん、このコラムで扱う以上、日本 災を深く脳裡に刻みこみ、 作家による古典詩だが、ちょ 過去を追想し将来を戒し " 、誓うど今巻頭に海外作家による「現 代宇宙詩シリーズ」が連載されて めるために童謡か童話を 作って後世まで残そうと いるので、それらと比較しながら 考え、巌谷小波に作品を を一 . 読んでいただくのもおもしろいか 依頼したもの。ところが ・、第や義を ~ もしれない。 ( 一口に古典と 小波は読みものより観る いっても、単に小説だけでなく、 もののほうがいいだろう 歌舞伎もあれば詩もある。日本 といって、この「閻魔裁 の歴史には、まだまだミステリ 判 : : : 」の脚本を書いたという。この歌舞伎が、実際にアスな部分がいつばいだ ! ) 上演されたか否かは、脱稿までに調べがっかなかった 直 地球を弔ふ が、お役所が卒先して、こんな現在の社会情勢では考え 山 どれだけの時が 中をつかない笑い話みたいなことをやっているから傑作 詩 過ぎたのかしらーーー ? だ。 ( もっとも、現在こんなことをやったら、・ハ力とい われるだけだろうが : : : ) それを一流の新聞社がバ 幻 。よぎ時代という以外長いあひだ アップして単行本にまでする :

2. SFマガジン 1973年4月号

ば「宇宙は本質的には住み易い世界であるとか、個人でも歴史のコ いる。サイボーグは外科手術によって膏髄と首と両手首とにソケッ 1 スに影響を与えうるとか、知性は、天才の場合でさえ、本質的に 6 トを備えていて、その神経組織は文字通り機械に直結しているの こ失望したのた。 直線的な働きかたをするものだ」とかいった仮説冫 ート。ヒ彼が無条件で尊敬する作家は、あのエキセントリックで何をや 彼以外の作家ならば、こうしたアイデアからは、完全なユ りだすかわからないシオドア・スタージョンである。スタージョン ートビア小説を作りあげていたか ア小説をーーあるいはアンチ・ユ ホモ・ゲシュタルト は、『人間以上』という、人間進化のつぎの段階である集団人間の もしれない。だがディレーニイの場合はそれは小説の背景のデテー ーマンポートレ 1 トを描いた作品によって最もよく知られている作家であ ルに過ぎなくなってしまう。彼のサイボーグは技術的スー。 ( でもなければ労働奴隷でもない。プラグを引きぬいたときは、サイる。作家以外では、彼は、アルチ = ール・ランポー、マルセル ポーグは完全に普通の人間にもどってしまう。そして。フラグを人れ・。フルースト、ジャン・ジ、ネなどをあげている。 一九六八年から彼は二十七万五千語を越す大作にとりかかってい れば、彼は完全労働者となり、その使う道具と仕事と一体になるの だ。こうしたイメージがごくさりげなく取り入れられているためるが、彼自身はこの作品を〈スベキ = レーティヴ・フィクション〉 に、読者の心の中には、これが、一般になんとなく受け入れられてあるいはポーダーライン・と説明している。しかし彼は、こう した漠然とした言葉ですら、不必要に限定的だと考えているのだ。 いる考え方ーーっまり、あらゆる技術革新娯不可避的に人間を、 一九七〇年十二月、ディレーニイは、一九六一年に結婚した妻 生産プロセスの中心的な位置から追い払ってしまうという考え方に 女流詩人のマリリン・ハッカーとともに、〈コーク日スベキュレ 対する挑戦と感じとれるのだ。 ・、ツクの 1 ティヴ・フィクション . クオータリー〉というべ ディレーニイはかって、よくでぎたサイエンス・フィクション は、「全く異なる技術的なものと、向う見ずに人間的なもの」とを書評誌を出しはじめた。第二号の巻頭言で、彼は「小説はすべてス いいかえれば、太陽物理学とイカルス神話とを結合させようと。〈キ = レーティヴである」と述べている。この雑誌の寄稿者の多く は従来界でよく名前を知られた人々だが、〈コーク〉に発表され する作家にとって、もっとも理想的な小説形式である、といってい た作品には、従来のの常識的。ハターンは見うけられない。ただ / ラードと同じように、 た。しかしこの二、三年ディレーニイは、・、 の常識的アイデアが、しばしば〈ナイ 1 ヴ〉で〈よい作品を書不幸にして、〈 0 ーク〉は予想ほど成績があがらず、そのため出版 ー・ハック・ライ・フラリーは、四号で同誌を廃刊にした。 こうと心がける作家にとっては減我的な効果しか持たない〉場合が元のペー ハイ・ハースペース 多いと考え始めたようだ。現在では彼はもう、超空間をワー。フす る恒星宇宙船が、現代の神話を物語るに相応しい乗物だとは考えな ・ウェーヴ〉の退潮とともに、旧勢力 くなっている。そして彼は典型的なサイエンス・フィクションの背〈コーク〉の廃刊と〈ニー っミュニティ 後にある、しかし、しばしばよく調・ヘられていない仮説ーー・たとえと新勢力のあいだの論争の多くは、社会の中では収まってし

3. SFマガジン 1973年4月号

・・ディレー = イで、一九四二年 ( ーレムに生まれ、一九六〇年へのジャンプである。 ( 岡部宏之訳 ) ・フロンクス科学高校を出て、のち、一一、三年のあいだ大学に間欠的 に出席し、一九六二年最初の長編を出した。それ以来、数冊の また別の作品では、標準型の冒険式プロットを抛棄せず、それ 長編とほぼ同数の中編、十篇の短編を書いているが、これは、このを、彼一流の目的に沿 0 てつくりなおす。いま、学者仲間では、ポ 分野の標準からいえばかなりの寡作である。彼の、仲間の作家たちビラー・アート形式の〈神話学的下部構造〉について語るのが流 〈の影響力の大半はーー大学の講師としての名声についてはいうま行しつつある。古い西部劇に旅から旅のガンファイタ 1 が登場する でもないがーー彼が、その作品を非常に長い時間をかけて磨きあげように、初期のスペース・オペラには光線一挺を腰に銀河宇宙を るという事実に基いている。彼の最もよく知られた長編『パベル 股にかけて飛びまわる宇宙船船長が登場し、いっしかの主人公 』 ( 一九六六 ) "The Einstein lntersection" ( 1967 ) "Nova" の原型的な地位を獲得した。初期の批評家たちは、こうした宇宙大 エスケー・ヒ・スム ( 一 9 ) などは、空想的な未来世界として、稀にみるすばらしい 冒険を、子供っぽい逃避趣味の象徴として退けたが、これが再び、 出来栄えの見本で、きわめて高い知的想像力と同時に、美学的欲求聖杯を求め、竜を殺し、世界を危難から救うというような衣をつけ をも満足させるものを持 0 ている。すくなくとも、ディレー = イはて最登場しはじめたのだ。そしてディレー = イのの、超現実的 自ら望んで必要な危険を冒しているーーその結果、不可避的な欠点な主人公たちは、こうしたすべてのことをやってのける。たとえ は持っているものの これらの作品は、すべて、刺戟的な魅力ば、危胎に瀕した全太陽系の運命を賭けて活躍する。両者の間にあ と、楽しさと、そして伝染性を持つ自信の強さとを兼ねそなえている相違は、古いス。〈ース・オペラの作家たちが、彼らのインスビレ る。 ーションの隠れた源泉に全く気づいていなかったのに対して、ディ ランニング・コメンタリー ある意味で、ディレー = イは、饐えかかっていた因襲的なのレ】ニイがこれに気づき、彼独得の〈実況放送〉をやってみせ アフォリズム 中に、普通ではちょっと考えっかないような隠喩を用いて、新しるところにある。『アインシタイン・インターセクション』 ( 一 い生命を注ぎこんだのだ。 ( この作品は、同年のアメリカ作家九六七年ネビ = ラ賞 ) では、事件は、人類が全く未知の理由で姿を クラブのネビ = ラ賞を受賞した ) たとえば『パベルー』にはこん消してしまい、その代りに棲みついた異星生物が、あらゆる犠牲を な一節がある 払って人類文明を再建しようとしている世界で起る。だが、この小 説の真のテーマは、ディレーニイがくりかえし明白にしているよ 濃い油の中に宝石を落す。まばゆい黄色の縞がゆっくりと琥珀うに、人間には時代と環境の変化に応じた新しい神話が必要だ、と ′イ・ハースティシス 色になり、最後に赤くなって、消える。これが超静止空間へのジ いうことなのだ。この小説の主人公ロビーは、柄から切先まで中空 マチェト ャンプである : いつばい入った宝石箱に、一粒の宝石を投げこ になった山刀を持っていて、打ちふれば音楽を奏でることができ む。これが、超静止空間からアームセッジ星の同盟兵器廠の領域る。小説の冒頭で、彼がオルフ = ウスであり異星生物にとっては過 ー 74 ー

4. SFマガジン 1973年4月号

犠第 ( 一第三回おとぎ歌舞伎と詩 てくる、と昔から相場は決まっている。 そこで、今回は地震の話から紹介する。 ( なんとま 囹閻魔裁判鯰髯抜 あ、ありふれたイントロであることよ ) もう、二年ほど前のことになるが「関東大地震襲来児童文学あるいは童話に興味を持っている人なら、厳 説」というコワイ話題が、新聞・雑誌などマスコミ界を谷小波 ( 一八七〇 ~ 一九三一一 l) という、明治ー大正期に 、ようの活躍した童話作家を知っているはずだ。日本古来の昔噺 にぎわしたことがある。気ちがい沙汰としかいし ・伝説を統一保存すると同時に、歴史的名作「黄金丸」 ないパンダ・プームほどではないが、結構大騒ぎして、 あちらこちらのテレビ局や雑誌が特集を組んでいた。そをはじめとする言文一致体の創作童話を数多く残し、児 の後、冬季オリン。ヒックがあったり、赤軍派のリンチ事童文学界の祖といわれている人だ。尾崎紅葉らと硯友社 を作ったメン・ハーでもあり、紅葉の名作「金色夜又」の 件があったり、横井さんが恥かしながら帰ってきたり、 いろんなことがあったものだから、マスコミ関係もいっ主人公間貫一のモデルとしても有名だ。 えんまさい やってくるかわからない地震を記事にするよりは、現実この巌谷小波が残した数多くの作品のなかに「閻魔裁 ばんなまずのひげぬき に起こっている事件を扱ったほうがもうかる、というわ判艙髯抜」という一篇がある。大正一三年九月一日、 けで、最近はまるつきり知らん顔をしているが、本当はちょうどあの悪夢のような関東大震災のあった一年後 に、読売新聞社から五〇ページほどの小冊子単行本とし こういう時が一番コワイのだ。天災は忘れたころにやっ q02 蟲疆

5. SFマガジン 1973年4月号

アゲアンギャルド イクションがついに前衛的文学の一種として受け入れられたとい プンビ・ ( レノッ うことなのか、それとも、バラードの作品が、すでに真のサイエン 1 の上でた 二律背反【彼女は静かに横向きに寝て彼の手がジッパ めらう、スケルツオの最後の一小節に耳をすます。この見知らぬス・フィクションと無関係なものになってしまったことの証拠なの 男。その・フルックナーへのーー核酸、ミンコフスキーの時空、そか、オーソドックスなファンダムの中ではまだ議論されている。論 / ラードがーー・そして彼 の他神のみそ知るあれやこれやヘの無限の抑圧。宇宙医学のある点をいっそうまぎらわしくしているのは、く と傾向を同じくする他の作家たちが、六十年代後半にレギュラー・ 会議で拾ってきてから、二人は一語も言葉を交していなかった。 ・ワールズは第 メイハーとして登場した雑誌の運命である。ニュー 正気なのだろうか ? 時たま彼は、何か途方もないジクソウ・ 二次世界大戦の直後にイギリスのファンのグルー。フの手で創刊 ズルの中から、彼自身を拾い集めようとしているかのようだっ た。彼女は寝返りをうって、六インチと離れないところから自分された。・ 0 ・クラークもその一員だった。一九六四年編集者陣 アヴァンギャルド の顔を見つめている黒眼鏡と、それを通して星さながらに燃えるの交替があってから、この雑誌はしだいに前衛的〈スベキ、レー ティヴ・フィクション〉のきわめて直截な専門誌となっていった。 一一つの目とを見ーー・愕然とした。 一九六七年には、イギリス文化芸術会議から経済的援助を受けてい オプシー / 短頭】彼らは半ば塗った電波望遠鏡のパラボラ型アンテナる。一九七〇年二月、出版部数の激減と、〈猥褻〉とこきおろされ の下で立ち止った。鈍い金属の耳が軌道を回転しながら空をまさた内容についての、政府出先機関や広告スポンサーとの猛烈な論争 ・ワールズはそれ以来何回もの再生 ぐると、彼は両手をあげて頭蓋にあて、まだ開いている縫合線をののち、一時休刊した。ニ = ー が・・・・ー小綺麗にボマ 1 ドをつけた = を経たが、しかし六十年代後半の当時の活力は , ーーそれは美学的 探った。彼の傍でクレイトン プレイクスルー ダ・・ーー三台のリムジンの待っている遠い垣の方にむけて手を振っ技術突破のためには危険を冒すことを辞さないという意欲だったー た。「もしよければ、百台だって使える。完璧な自動車隊ができー雲散霧消してしまった。 もしイギリス界のこの騒動に似た動きが過去十年間のアメリ る」クレイトンを無視して、彼は飛行服のポケットから石英の一 片をとりだし芝生の上に置いた。たちまち、準星の記号音楽がそ力にもあったとすれば、それはいわゆる〈新しい波〉の是非をめぐ っての激しい議論であろう。〈新しい波〉は若い作家たちのや れから奔りでた。 や漠然とした集団をさすが、このグループに属する作家たちは、しば しま、事実上しば、従来ではタ・フーとされていた主題、たとえば麻薬とかセック の伝統のあらゆる痕跡を脱皮したバラードは、、 スを扱い、未来について一般に非常に悲観的な見方をして、古い作 実験小説一般と見分けのつかない叙述スタイルに向かって移行しつ つあるように思われる。彼の作品は大西洋の南岸のさまざまの〈リ家たちゃ編集者、ファンたちにショックを与えたのだ。〈新しい トル・マガジン〉に掲載されている。このことが、サイエンス・フ波〉の作家たちのうち最も大きな影響力を持っているのはサミエル クエーナー ニュー・ウェーヴ

6. SFマガジン 1973年4月号

を折りあるごとに長電話で教えてくれた。 それは、作品も発表せず、会合にも出席し兼ねている私に対す る、彼の暖かい思いやりであった。おかげで私は界と絶縁しか けた危い一時期をぶじにのりこえたし、クラ・フ員の消息について も、知識をもちつづけることができた。 彼の死は一月の二十七日夜であったという。とすれば、それは私 が神魂神社で耳鳴りを感じはじめた数時間後のことで、耳鳴りは、 会合を報らせる彼の長電話のベルであったのかもしれない。 告別式の帰り、私はふと、流石の大伴昌司も自分の葬式には出席 できなかったのだな : : : と思い、すぐに、いや招集したのはいつも 通りやはり彼だったじゃよ、、、 オし力と考え直した。 だが、この次の会合はどうする。その次は、その次の次は・ : : ・そ して欠者に対するあの思いやりの長電話は。 やつばりトモさんは死んでしまったのだ。 大伴さんの思い出 星新一 大伴昌司さんと最初に会ったのは、昭和三三年ごろだった。乱歩 先生編集の「宝石」に私の作品がのりはじめ、作家訪問といった企 画が誌上でなされた時である。編集部の大坪直行さんの依頼を受 け、インタビーアーとしてわが家にやってきたのが彼だった。 それ以来のつき合いだから、ずいぶん長いことになる。マガ ジンの創刊が三五年二月号。やがて作家クラブなるものがで き、福島正実さんにたのまれ、私が彼の入会推薦者となった。その 時私は彼に冗談半分で言ったものだった。 「あなたを推薦して会に入れたのは、帰りに私を送らせるためだ ぜ」 彼の家は、第二京浜で私のところより先にあるのである。会の帰 りなど、彼はいつもそれをくやしがっていた。そのためか、よく 「横浜へ行こう」と連れ出された。その帰りには、彼を途中でおろ し、私がタクシー代を払うということになるのだった。 作家クラブでは、大いに事務的能力を発揮してくれた。人数 はふえれど、ほかの連中がどれも無能だったせいもある。定期的な 会合も、彼がいなかったら開けなかっただろう。ちょうど他殺クラ ・フが、ある時期、佐賀潜さんの世話やきのおかげで、会合ができた のと似ている。 旅行の企画立て、みなで何回か出かけたこともあった。万博の 時には、彼のおかげで名所を案内してもらった者も大ぜいいる。 大伴さんは多才な人だった。ナポレオン、・ソロの軽妙な ' ハロディ を書くかと思うと、恐怖小説研究の同人誌を自分で出したりした。 また、少年週刊誌のグラビアの構成は、それはみごとなものだっ た。この分野の開拓者である。少年週刊誌の今日あるのは、彼の功 績におうところが大きい。映画やスライドなど映像関係のみなら ず、音楽の方面にもじつにくわしかった。しかし、どれも正当な評 価のされにくい分野のため、彼の名はあまり知られず、孤独な先駟 といった形で、いま思うと気の毒でならない。 なくなられた円谷英二さんとも親しく、テレビが怪獣プームを作 りあげたのも、彼の存在あればこそである。「怪獣図鑑」というべ ストセラーを出した。子供だましと思う人もあろうが、よく読むと じつに入念なもので、子供の興味と関心の所在を的確にとらえてい る。前例のない、大げさにいえば史上はじめての本といっていい。 イマジネーションに形を与えるという独特な才能を持っていた。 国際シンポジウムが開催され、諸外国から作家を招いたこと があった。国や財界の援助なしにである。小松左京委員長と、大伴 事務局長の二人がいなかったら、成功裡に終ったかどうか疑わし い 9 彼はその会期中、事務所のホテルの一室にとまりこみで、めん どうな運営な事務を手ぎわよく片づけた。 時にはごたごたを発生させることもあったが、発生しているごた ごたを、いつのまにか収拾してしまう人でもあった。ふしぎな怪人 物である。みながこれだけつき合っていながら、彼の経歴や家庭に ついて、最後までだれも知らなかった。いつも話題をそらされ、な にか触れられたくない点があるのかと、そのうちだれも聞かなくな 8

7. SFマガジン 1973年4月号

ック・ロマンスはついに、現代の散文形式として、具象的小説の後像もできないほど熱心な読者層を獲得した。それらの読者は、科学 継者に対して深刻な打撃を加える挑戦者の役を果すことはなかっと技術を娯楽として、啓蒙的な読物としてーーときには救いとさえ た。ウエルズ流の科学は、所詮、機械を相手にするにとどまり、文みる人々から構成されていた。これらの新しい読者のために書く作 学にとって機械は文化の敵だったからである。一方の伝統的なファ家は、例外なく、英文法の知識よりも科学的知識の心得がなければ ンタジーは、子供か詩人のものにすぎなかった。そして一九〇〇年ならず、登場人物の個性の面白さよりも、面白い小道具ーーガーン 以後は、ウ = ルズ自身がサイ = ンティフィック・ロマンスを放擲しズックが『ラルフ一二四 o 四一十』の中で描写してみせたテレビ て、当時のイギリスの社会生活を描くより常識的な小説に鞍替えし電話のようなものーーを書きこむことが、より重要であることを知 てしまった。『キップス』 ( 一九〇五 ) 『トーノ ( ・くノゲイ』 ( 一らされた。。フロットなどは問題ではなかった。そんなものは、ほか 九〇九 ) 『ポリー氏の履歴』 ( 一九一〇 ) などがそれである。そしの大衆小説のどこからでも、いくらでも借りてきてかまわなかっ て、予想されたように、これらの作品は批評家たちから彼の最高傑た。ストーリーは たとえば、身持ちのよい型通りの美女が怪物 作として大いに賞讃を受けたのである。 に襲われ、頭からあんぐり呑みこまれると、勇敢な男が現われて、 伝統的なものにしろ新しいものにしろ、ファンタジーに対する批怪物を二つに引き裂いて女を救い、男と女が結ばれる : : : といった 評家の態度は、二十世紀初頭のアメリカでも、ほぼ似たような雰囲調子だった。 気を持っていた。そして、一九二〇年代に専門のパルプ雑誌が もちろん、ガーンズ・ハックはウエルズの作品はすべて知っていた 創刊されても、まったく事情は改善されなかった。世界最初のし、アメージングの初期の号には、彼の短編を幾つか再録もした。 専門誌アメージング・ストーリーズは、一九二六年四月に、店頭にしかし、一九三〇年代のはじめ頃までに、アメリカのサイ = ンス・ 出た。アメージングを主宰していたのは、電気技師のヒューゴー フィクションは、一般の人々の目にーー - ーそして、よりいっそう重要 ガーンズ。 ( ックだった。彼は、それより以前に出版していた一群のなことには、シリアスなものを書く作家たちの目に、三流の大衆小 ポ。ヒュラー・サイエンスの雑誌のページを賑やかにするため掲載し説とうつるようになってしまったのである。 た、新発明や未来の技術を扱ったお粗末な小説冫 こ〈サイエンティフ 「おそらく、これが、アメリカに、・・ウエルズの後継者が生 イクション〉という新語を冠していた。 ( ガーンズ・ハック自身も、 まれなかった最大の理由であろう」とクレアソンは書いている。 こうした小説の一つを書いている。最も初期の、幼稚な、しかしあ「イギリスでは、パルプ雑誌のマーケットは、ついにさほど大きく まりにも有名な『ラルフ一二四 O 四一十・一一六六〇年のロマンス』ならなかった、だからこそ ( ックスリーやオーウエル、 o ・・リ がそれで一九一一年のモダン・エレクトリックス誌に掲載された ) ュイスやオラフ・ステープルドンのような、ウエルズやフォースタ こうした小説を毎号多数掲載したため、アメージングと、その後ーと全く同じ系譜に属する作家たちに、主流文学の東縛の中では、 これを模倣して出版された多くのイミテーションは、たちまち、想決して正しく表現できないようなさまざまなことを語らせることが ◆◆ー 79

8. SFマガジン 1973年4月号

去の人類の事実と伝説とを区別することが困難だったためにーー・同に対する技術の衝撃といった点への考慮が、れいの神話学的下部構 時に「辛き一日の夜の終り」に「泣き叫ぶ女たちの手で八つ裂き造への関心と同程度に払われている。一九六五年に書かれた『星の に」されたビートル・リンゴであることが明らかにされる。冒険の穴』という短編の前提には、宇宙の果 , ーー現実の性質そのものが失 旅を重ねるあいだに、ロビ 1 は、フェードラという名の「古代のコわれている宇宙のはすれへの旅に、最後まで生きぬいていけるの ンビ = ーター」に遭遇するが、これが、地球上にまだ本物の人間のは、本当の狂人たけだというアイデアを使っている。また別の短篇 いた時代のことを記憶している。ロビ 1 とその種族の、人類百万年『アイとゴモラ』 ( 一九六六 ) では、大気圏外で、長期間放射線に のファンタジーを生き返らせようという努力も、彼女にはなんの感曝されると、人間の生殖腺が破壊されるというアイデアが前提とな 「あなたがたは、本質的にそう生まれついていない っている。つまり、幼い子供たちは、他の惑星で働くに適するよう 動も与えない。 メイズ のよ」と彼女はいう。「でも、新しい迷宮の中に迷いこむには古いに、外科的に去勢されなければならないというわけである。この二 迷宮を壊してしまわなければならないわね」読者がこのところを読つの作品のいずれでも、ディレーニイは、彼の創造したワラ人形的 み落さないための用心だろう『アインシュタイン・インターセクシ人物を揶揄したり、あるいは到達するゴールが、払った犠牲に引き ョン』の十三章は、以下のさまざまの著作から引用した三十足らす合うだけの価値を持つかどうかについて、安易な判断を下したりす に陥ることを避けている。『星の穴』の精神病の宇宙飛行士 の碑文で飾られている。それらはーーー。ヘール・ラーゲルクヴィスト る誘惑 現代スエーデンの作家。ノ ニコロ・マキアヴェッリ、ジェームズ は、疑惑の的であると同時に、羨望の的でもある。『アイとゴモラ』 ベル文学賞受賞。一八九一 ジョイス、ジャン・ジュネ、ジャン・ポール・サルトル、ポプ・テの中に登場する去勢された〈宇宙人〉たちは、 frelk と呼ばれる性 イラノ現代アメリカのフ、 オーク・シンガー ) サッフォ、ジョン・ラスキン、ヨン・キア的変質者たちの新しい種族から、崇拝されている。 ( 若い女のフレ ルディ、 ルクは、イスタン・フールの街頭で拾ったかっての男の宇宙人に向か アメリカの作家。映画 ) 、サ = ラスムス、ジ = 1 ムズ・ = イジー ( 評 っていう「私の愛は愛の恐れから始まる。あなたに私を求める能力 ・ディキンス ( メ ド侯爵、プロティノス ( 一一 6 ~ 二七〇 の女流詩人一 マ イエーツ、アンドリュー . ウィリアム・・ハトラー、 がないからこそ、私はあなたが欲しい。それこそ快楽というもの 八三 0 ~ 八六 トーマス・チよ」 ) 『ノヴァ』は、イルリリオンと呼ばれる、稀有な宝を探して 1 ヴ = ル ( イリ = の詩人・治 ) 、ジ = 1 ムズ一世聖書、 コルソ、ホセ・オルテ全銀河を渡り歩く話だが、この作品の中でディレーニイは、人間と ャタートノイギリ = の詩人。 ) 、グレゴリー・ ガ・イ・ガセットである。 機械とのあいだに、現代のオ】トメ 1 ション理論のはるかに先を行 それらしい題名にもかかわらず、この小説には、著名な科学者のく共生関係を仮定している。ディレー = イの架空の未来では、労働 はすべて機械がやってしまう。だが、それそれの仕事そのものは 著書からの引用も、科学記事のたぐいの引用もない。だがディレー 5 . シャヴェロ 恒星宇宙船を操縦することにしろ、あるいはパワー ニイは、彼のいわゆる〈科学に対するアマチュアとしての強い関 ルを運転することにしろーーサイボーグの直接の管理下におかれて 心〉を持っていて、その作品のほとんどどれにも、人間のしきたり シン・ハイオシス

9. SFマガジン 1973年4月号

大伴さんの仕事場へ行った者も少ない。私は二回ほど入れてもら えた。立派な独立家屋で、内部には大量な資料が、きちんと整理さ れてあった。「ここで生活しているのか」と聞いたら「いやあ」 と、またもはぐらかされた。 そして、あの悲劇的な死である。「身よりがいないのじゃない か。われわれでお葬式を出してあげなければならないのでは」と の友人たちがお通夜にかけつけてみて、だれもが、あっと驚い 仕事場のとなりの家にご両親が健在で、大伴さんが上流階級の資 産家の子息だったことが、はじめてわかったのである。彼の父上と 私の亡父とが友人だったことも、その時に知った。 地味な服装をし、こまめに動きまわっていた大伴さんの印象と、 そのこととのずれを、私たちはどう理解したものか、それそれ呆然 と持てあました。 時にはどなりあったり、苦言を呈しあったりした経験者ばかりで ある。彼の家庭を知っていたら、ある距離を意識した交際となって いたことだろう。大伴さんはそれをきらって、最後までかくしつづ 一けてきたのだろうなと、いまになって思い当るのである。恥ず・ヘき ためでなく、よすぎるがために、かくすという演技をしつづけた。 告別式の日、小松左京は葬儀委員長なり、各誌の締切りをほうり 出し、二日がかりで弔辞を書いた。心のこもった文章で、私もこみ あげる涙を押さえきれなかった。 彼について語りたいことは、山のようにある。今後、作家が 会えば、必ず彼が話題に出てくるだろう。いつまでも。彼と交友の あった者が生き残っている限りは、思い出がくりかえし語られるに ちがいない。そのさきにおいても、伝説の人となって残るのではな かろうか。子供らには空想力と夢があり、巨大な生物へのあこがれ がある。そのなかのだれかが、ふと「こんなの、だれが作ったの」 と思う時、答えられるおとながいなくても、そのたびに大伴さんは どこかで満足した笑いを浮かべることだろう。 こ 0 筒井康隆 最初皆は、彼のことをャカモチと呼んでいた。それがいつのまに かトモさんになった。 ぼくが彼とはじめて親しく話したのは、彼が大阪へやってきて、 ・ほくのやっていたスタジオへふらりとあらわれた時だった。話しな がら、世の中には変った人もいるものだなあと思ったりした。 作家には喜劇的人物が多い。彼も喜劇的人物であったが、他 の人のように、モデルとして類型化することはどうしてもできなか った。それだけ特異で、複雑な人物でもあったわけだ。 笑い顔、笑い声も独特だった。 ・ほくが何かつまらない冗談をいう。 一秒か一一秒、彼は黙っている。その間彼はぼくの言った冗談と結 びつく、自分の内部のもっとも笑いを誘う事象を模索しているの だ。そして突然笑い出す。口を大きくあけ、あまり大きくない押し 殺した声で、本当に面白そうに笑うのだ。たいへん高度なユ 1 モリ ストであったと思う。 彼への親しみが次第に深まった。 最近は疎遠だったが、思い出せばいつでもまざまざと瞼に浮かぶ 人物だった。 トモさんにはもう会えないのだろうか。おそらくもう会えないの だろうが、そうだとしたらたいへん淋しい だが、トモさんのした仕事の中のいくつかの傑作は、ぼくの胸に 残っている。四歳になる・ほくの息子の心にさえ、傑作「セラファ ン」三部作として残っている。スト 1 リイを暗記してしまっている のだ。 まだまだ楽しく、面白おかしく交際したい人物だったが、広瀬正 がタイム・マシンに乗って去っていった直後、彼も怪獣の背中に乗 ってどこかへ行ってしまった。もう戻ってこないのだ。・ほくが歳を とってから見るであろう、作家馬鹿話時代の夢の中にしか戻っ トモさんの思い出 9

10. SFマガジン 1973年4月号

大伴昌司くん 私は、葬儀委員長としてよりも、 君と長らく親しんできた一友人として、 わかれの言葉を君におくりたい。 だから、この弔辞のはじまりは、 君の本名、四至本豊治君ではなく、 もっとも大勢の友人、知人、ファンたちに 親しまれてきた この名前で、まずよびかけたいと思う。 大伴昌司くん それにしても君は、何という意外な 突然の死をむかえたのだ。 一・月二十七日夜八時すぎ、 君が推理作家協会の会合の最中 別室で突然不帰の人となったという電話をうけ 大伴昌司氏の死を悼む 一九七三年一月二十七日午後八時二分、東京・新橋の新橋亭で開かれた日本 推理作家協会の新年会席上、同協会員で日本作家クラブの事務局長をも動 める大伴昌司氏が、持病の気管支ぜん息による心臓発作のため急逝された。享 年三十六歳。 告別式は二月一日午後二時から、自宅に近い東京・池上の大坊本行寺におい て、生前氏の関係深かった出版各社、日本作家クラブ員はじめ関係者約一一 五〇人が参列して、しめやかに取りおこなわれた。 氏は一九三六年東京に生まれ、慶応大学を卒業後、出版・映画・テレビ番 組・などの企画・構成・編集にその多彩な才能を発揮するかたわら、日本 作家クラブ事務局長として、国際シンポジウムの開催などに才能をふ るい、わが国プロダムを支える陰の中心的存在として活躍した。編訳著に 「軽獣ウルトラ図鑑」「世界名作集」「セラファン三部作」ほか多数。本 誌では、インタビュー ・ルポ「を創る人々」、映画テレビ紹介欄「トータ ル・スコープ」などの連載がある。 大風が吹いて冷えこんだあの夜 小松左京 愛宕警察署のわびしい死体安置所で た時、 動かなくなった君の遺体と対面した時、その時 私は言下に「うそだ ! 」とどなりかえしていた。 でさえ私はまだ、 な・せなら、その時からわずか四、五時間前 君の死を信じられなかった。 私は君と電話で話し、 君の顔は、心なしかかすかに笑っているように 君のいつもとかわらぬ いや、いつもより元見えた。 気そうな声をきいたからだ。 そして今にも、 そして、君の訃報をうけた時刻から、わずか三 「いやあ、冗談ですよ」といって、 十分後に、君とおちあう約東をかわしていたか いつものように、にぎやかに笑いながら起き上 らだ。 ってくるような気がしてならなかった。 その上君は、 君の若い命をうばう事になった持病について、 いまこうして、君の葬儀の場で、 友人の誰にもうちあけておらず、 弔辞を読んでいる時でさえ 君自身はまだ、三十六歳の若さで 私にはまだ、 大きな仕事を、精力的にこなしつづけていたか君の突然の死が信じられない。 らだ。 それほど君は私にとって、 私たちみんなにとって、 4-