な世俗的意味合いにおいて濫用するのはしの把え方の違いから生じて来るもののよう かしこの両者間に根源的差異はないと信ずにも思える。 るからであるし、この「終末論」ぐらい個「始めあれば終りあり」こんな言葉を中国 的なるものと集団的、社会的なるものとの古典かなにかで読んだような記憶がある が、これがはたして自明の理であるかどう 逆説的絆りを示すものはないと信じるから である。 か、古来意見の一致はなかったのではある ましカ 始めがあり、終りがあるということは時 今日終末論というときそれはむしろ終末 いや終末感と書いたほうがよさそうで 間が前者から後者に向って直線的に流れる ことを前提とするものであるが、このため ・、、この語 (ESCHATOLOGY) が元 来はギリシャ語のエスカトス ( 終 ) とロゴ にはまず時の起源なるものが前提であり、 さらに時間が始まるためには、その以前 ス「論理」の合成語であることからも明ら かのように終りの学、特に人間の終り、つ ( この前後ということ自体時間を尺度とす ・や、亠・を一をトえ まり死とその後、あるいはその後の世界に る以上その尺度がない時 ( ? ) だが場にお いてその以前とはなにを意味し得るのか ) ついての考察の意である以上、その成立は 人類文化の起源そのものにまで溯ろう。 にはなにが在ったのか、いやなにがなかっ 名を代えたのは記憶に新らしい ヒトを他の動物から絶対的に区別するも たのかと訴ねるべきであろうか。 もっとも「終末」ではなく「から」がっ のはその文化でも生物学的諸特徴でもな 時間という概念が生じ、それが過去から いているのはヘーデルからキルケゴール、 く、ただに死後に対する数々の思いめぐら現在、未来に向って行く不溯行性のものと シチルネルを経サルトルに至る多かれ少な ・ニヒリズムのしである。 ( これは今日の唯物論者のよう されたとき人は自己の理性なり思考力のそ かれ弁証法的なヨーロッパ 伝統にのっとったものであり、すべてを無に死後を否定するものも例外ではない。動してその存在自体のいかんともし難い有限 と観じたぎりぎりのところからかえって物ならばそのような否定そのものを必要と性を感じ、かかる有限性のアンチテーゼと してのみ無限性を想い、それを海とか空と 「生」への意志を再確認しようとする野坂しないのである ) かいった一見果しなく拡がる空間に類推的 事実およそ文明と名の付くものは・ハビロ 昭如らによく現れている「焼跡派」的発想 ン、エジプトから古代中国、インド、日本に適用し、無限を見たような錯覚に陥入る であるが、どうもその「からーも落ちてし のである。 まったというのが今日の支配的「気分ーの ( 常世国を想起せよ ) 、アメリカのそれ迄 古来神とか仏とかいわれて来たものはか なんらかの死後観を持っていたのである ようである。 が、それらの問に見られる、ときとして越かる錯覚と有機的というべき絆りを有して 元来純粋に個人的かっ哲学的な意味合い え難いとさえ思える差異はまずは主に時間 来たのである ( だからといって超越的存在 において使用された気分をあえてこのよう 、、 0 2 8
たのである。 のではないか。将来に暗い予想がなりたっ閉ざされる。これが神々の黄昏とよばれる この他にも世界にはいろいろな形での終 6 北欧神話の結末なのである。 のはむしろ当然であろう。 それではここで考えてみよう。人間にと これは見方によると、甚だ現代的な神話末説話がある。また、このような伝説、神 って終末の予想というものは、どんな意味だといえる。神々の力がオールマイティで話は宗教の中にも取り入れられており、キ リスト教では最後の審判として、仏教では をもっているのかを。歴史的に、あるいはないところなどもそうだ。神々はよく巨人 人類学的にみて、終末伝説の存在は決して族に敗れるし、最後は宇宙の終りと共に亡末法思想として教義の中に位置づけられて 珍しいものではない。それそれの時代、そんでしまうのである。この辺りに、神も仏 れそれの民族が固有の終末予想を伝説、伝も信じていない現代人のセンスにふさわし だから、人間にとって、いっか人類も亡 いところがある。だが、現代的だといえ び去るだろう、世界にも終りがくるだろう 承の形で、神話、説話の形でもっている。 その中でも、もっとも壮大な終末説話を物ば、なによりも最後のシーンである。現という予想は、珍しいことでも、驚くべき 在、米ソ両国が互いに保有する原水爆千数ことでもない。むしろ、そのような予想と 語っているのは「エッダ」にのべられた北 欧神話であろう。この神話は神々と巨人族百発は、それそれが人類をくりかえし何回一緒にいつも生活していたのだ、という方 が正しかろう。むしろ例外的なのはヨーロ の絶え間のない戦争の物語りである。双方も絶減させるのに十分だという。しかも米 の力はほ・ほ匹敵しているが、しかも巨人族ソだけでなく、イギリス、フランス、中ッパ近代の方である。ヨーロッパ近代だけ が、この人間と共に古い終末伝承を迷信で の方が神々を打ち負かすこともしばしばで国、インドと、人間はまだまだ原水爆をほ しがり続けている状態である。もし現在ああると捨て去ってしまった。終末の代わり ある。やがて最後の決戦の時がやってく る原水爆の何パーセントかを使って戦争をにもち出したのが進歩の観念である。そう る。互いに広大な戦場に、相手を殺し合い 始めたとすれば、それに生ずる情景は「エ して宗教を信ずる代りに科学を信じ、神を 血は滝のように流れ、劫火が各地に上る。 その戦いの最中、大地の底から天にも達すツダ」が神々の黄昏として描いた通りのもあがめる代りに機械を崇拝することとし た。逆にいうと、進歩というものを信じて るような大火柱がまい上り、海は煮えたぎのとなるだろう。古代人は、その逞ましい いる人間こそ近代人だといえる。 って荒れ狂い、大地をけずり取っては呑み想像力を神話の形に表現して、世界の終り このような進歩の観念は大体ヨーロッパ こんでゆく。空からは星が火花のように燃を物語っていた。だが、現代人にとってそ 十八世紀から始まっている。もっとも進歩 のような光景を描くのに大した想像力はい えて乱れおち、天は暗黒になり、時間さえ といっても一体なにが進歩すると考えたの も止る。この破局の中で戦い続けてきた神らない。原水爆の存在は現実のものだから である。歴史上はじめて、現代人のみが神か。当然それは政治も、社会も、人間の精 神も巨人族も共に、ことごとく亡び去るの である。こうして天地は闇黒の死の世界に話を現実のものとする可能性を手中に握っ神も知性も、ということになるのだが、こ
ほど平気で、しかもよろこんで自然を近代 いえるかもしれない。ちょうど個人にとっ になる可能性も当然分っていたはずだ。し 的に破壊し、国土を近代的にコンクリート ては必ず死という終末があるように、社会かし多くの人が単なる気晴しのため、ささ 7 2 で固め、この上さらに列島全体に近代化を的にもあらゆる時代は終る時がくる。いかやかなレジャーのため、争ってマイ・カー おし進めようとしている人間は他にいな なる権力も崩れる時があろうし、いかなるを買いこんだのである。・もとより車がなけ 。それを高度成長とよ・ほうと、産業開発富も無に帰する時がき、またいかなる制れば生活がなりたたないような人は別問題 といおうと、近代化、工業化、名前はどう度、団体も改変の時を迎えることになる。 である。車を運転する限り、いつの日か事 でもよい。要するに近代的なものを信じてこのことは人生の単純な事実なのだが、単故をおこすだろうことを予想しないドライ いるのだ。その中で人間は機械化される。 純なだけにしばしば忘れ去られている事実 ・ハーは、多数党の権力がいつの日か崩れる だが作られた機械はまた捨てられることに である。とりわけ若さと健康を誇る若者に時がくるだろうことを予想しない為政者と もなるのだ。子供を作る、作らないといっ死を考えるゆとりがないように、強大な権同じ発想をしていることになるだろう。 ている女性が、その言葉の背後に、ヨーロカを握り、厖大な富を集中し、この世の栄 こうして終末感覚をもたない人間は、あ ッパから日本にわたる近代的なものの考え光を身にうけている為政者や金持ち、特権る一点において怖るべき非人間的感覚を身 方の大きな流れをもっていることなそ勿論層は、自己の特権的な地位にいっか終りが につけることになる。おそらく健康である 知ってはいない。だから、幼児をコインロ くることなそ、考えようともしないのだ。 ことは人生最大の幸福であり、美点であ ッカーに捨てる時、実はそれが最初の作る高度成長期の日本にあてはめていえば、戦る。誰しも健康と病身を選ぶとすれば、健 という考え方の中に始まっていたことに気後ほとんど永久政権の観がある与党、保守康であることを選ぶ。たた、余りにも健康 であることにはたった一つの欠点がある。 づくこともないだろう。しかし、もし気が党関係者はそうだったろうし、大企業経営 つく時、それはより大きく近代的なものの者も同様だったろう。したがって彼らの支それは病者に対する思いやりや、優しさを 考え方から脱出しなければならないという配する日本も全体としては、同しような雰欠く点だ。同じことは権力と地位と富をあ ことを知る時なのである。 囲気にひたっていた。この点では庶民とい つめた特権階級の人にもいえる。彼にとっ えども、余り例外ではない。例えば、車の ては、多くの人が抱える生活の悩み、苦し 激増による交通公害はもとより、交通戦争みをそもそも理解できないし、気づくこと とまでいわれた交通事故の激発は早くから もないのだ。実はこの鈍感さが結局はあら こうして考えてくると、人間にとっては 知られていた。交通事故の被害者には多くゆる特権を終らせる根因になる。フランス 終末感覚や破減への予感をもっている方が リー・ア の子供や老人など、弱い立場の人が含まれ革命の直前、ルイ十六世の王妃マ 普通であり、またその方がいいのだとさえており、また車を運転する限りその加害者ントアネットはパリ市内を馬車で走って、
はー ( 月当円。ー 人い 共同作業だったという。とすれば、・ほくた終末論にせよ、・ほくたち人類は本能的に終でしかなかったことを、確認するだろう。 ち地上の生物が呼吸できる酸素の量は、現末を不可避なものと捉えていることだけは前述したフラマリオンの奇著を、一九二三 在地球に存在する石炭をぜんぶ燃やしつく まちがいない。しかし、その終末論が決定年に改造社から高瀬毅訳で出た珍しい邦訳 という結論に的であればあるだけ、それにつづいて「終本を通じて、もしも読んでおられるあなた せるだけの分量でしかない、 なるわけだ。つまりマンロは、現代機械文末のあとの再生」が信仰として強力に浮か なら、地球破減の第一部につづいて、精霊 明がいまの燃料消費ペースで活動を継続さびあがってくるのも当然だろう。・ほくたちと美が支配する一千万年後の世界のエンジ はこれから、世界の終末を描いたいくつか せていくかぎり、あと四百年で酸素は使い エリックな第二部が併載されていたことを 果たされると主張する。 の幻想小説をながめていきながら、どのよ思いだしてくださるだろう。 そういうわけで、フラマリオンの古典的 うな終末幻想も実際には「輪廻日再生」論 さて、・ほくの大好きな短篇のなかに、プ な終末論にせよ、マンロ風の因果律めいたをいろどり豊かにするエピソードのひとっ ランダー・マシューズという人が書いた 『時間のキネスコー。フ』なる作品がある。 どういう物語かというと、ある魔法使いが 不思議な光景の見えるレンズの付いたのそ きカラクリを作るはなしで、この装置に目 をあてると、歴吏的な事実ばかりか伝説上 い挿の事件までがちゃんと見える仕掛けになっ を・はの ている。ヘロデ王の前でエロティックな妖 世部 のニ舞をひろうするサロメや、アキレスとヘク こ第 ド 1 ルの死闘が、まるで劇映画のように目 の前で再現されるのだ。物語の主人公は、 このおどろくべき装置をのそいて、いくっ ~ , オる " マてかの歴史劇を見つめたあと、魔法つかいか ら「あんたの未来を見せてあげてもいいん だよ」と、それとない商売をもちこまれる・ のだが、主人公は賢明にもその申し出を辞 退する。そして、この小さなファンタシイ がぼくを喜ばせた理由も、その賢明さにあ ったのだと思う。な・せなら、不思議なのそ きカラクリにもう一度目をあてて、未来を
これが・フラックホールと呼ばれる星の墓のはむしろ当然である。 宙はただそこに在ったといった禅問答じみ だがこの種の終末論はアステカやホルビ た話になって来ているが、では始めがなか場でその側を通り過ぎる天体を吸いこんで しまうともいわれる。 ガー流のそれと異り、あくまで論にとどま ったら終りもないのかというとどうもそう 太陽もいっかはこんな運命をたどるであり実感と緊張感をともなう真の意味での終 でもないらしい 大体空間的にも宇宙は無限か有限なのかろう以上地球の消失はすでに決定ずけられ末論感とはなり得ない。 ているといえる。 我々が実感をもって考え得る時間や距離 もはっきりはしない。無限ではないが端は そしてこれまた理論物理との関連で打ちなどはせいぜい千とか万の単位までであ あるとか、現在の一瞬においては端はある り、天文学独特の億単位が持ち出されては が常に膨張を続けているのだからやはり無 マイトレーヤ致来可能性よりもっと当にな 限であるとか : らず平安末期の貴族ではないが五色の糸な だが終末論が本来人間との関連において らずもいわば手で触れられるようなものが のみ成立するのである以上宇宙そのものが 欲しくなる。 どうのこうのということはそれほど問題に 終末論が終末感をともなう時間の限界は しなくてもよさそうである。 我々の屍が例え骨片という形でも残存して とりあえずこの地球とかその附近にあ いる間ではないだろうか。その骨片さえも る、地球崩壊の際に移住可能な天体につい が元素だか原子だかに分解、還元されたと てみるならば、それらも早晩 ( といっても きには世界そのものが消減しようとしまい マイトレーヤ式の話であるが ) 消失する運 とそれが決定的意味を持ち得るとは私には 命にあることは疑いが無さそうだ。 思えない。 最近の十数年において星雲、特にかに星 存在論的に見たとき終末論ⅱ感は個とし 雲の観察と研究が急速に進歩をとげた結 ての我々の生の絶対的有限性のアリ・ハイで 果、星雲とは核融合反応を続ける天体が段 あり、その必然的結果たる個としての終末 段と鉄のように質量の重い星に変質して行 死の呼ぶいかんともし難い虚無感に対す き、ついには自らの重量に堪えられす爆発出されているのが反物質説で、これはすべ て物質にはそれに対応する一的なものがある救済であると私は信ずる。 した残骸であるという見解が支配的になっ それはただ単に先述のドストウェフスキ ている。この際中世子星なるものが生する りこれが物質日十と合うと十一 " 〇となっ ー流の主体的世界破減への意志のみに拠る ことが多いらしいがそれも短命であるし、 て消減するというわけであり、アインシュ また場合によっては完全に自重に負け崩壊タイン以降の物理、天文学は数式で裏打ちものではない。集団性、そこから出て来る 9 し去り、その後に宇宙に開いた穴の様なも された新らたな神話に他ならず、そこから帰属志向はヒトの生物学的、文化的特色で 8 のが生しる。 出て来る終末論が古代神話に類似して来るあるが、死は否応なしに我々を個、孤立無援
は終末テーマの一大傑作を生んだ。作者は中学生で も知っている、あの「田園の憂欝」の佐藤春夫だ。タイ トルは「のんしやらん記録」。 時代は今から千年ほど未来。世界 ( ある一地域なの か、地球全体なのかは不明 ) は驚くべき階級社会になっ ていた。巨大な居住区は地上数十階から地下三百メート ルのなん十階とも知れぬ最下層階に分けられ、その社会 に生活する人々の社会的ステイタスはその居住階数に等 しいという、イソド人もビックリの恐怖のースト社会 だ。主人公は最下層の、高さ・長さが一メートル、幅が 三分の二メートルの箱のような居住区に住む少年。もち ろん、月光も地上の空気も知らず、女性の姿を見たこと かない。水すらも味わったことがなく、ただ飲料ガスの みを吸って生活しているのだ。 ひょんなきっかけで、上層社会から追放され地上近く してスペース・オペラ風に展開する。その間にもガララ スは着々と地球征服計画を実行し、冷殺光線で次々と地の秘密の地下窟に穏れ住んでいる老科学者と生活するよ うになった少年は、しばらくの間、老科学者が細工して 球の都市を破壊していく。 ・ : というところで、前盗みとる水や食用ガスでつかの間の楽しみを味わう。し さて、地球の運命やいかにい・ 篇「地球減亡の巻」は終り。残念ながら・ほくは続篇を所かし、盗みが発見されて二人は捕まり、少年は喉をつぶ され釈放される。 持していないので、その後のストーリーがどう進んでい くのかはまったく不明。「此の世は何如にして終るか」 やがて、老科学者は国家が下層民対策のために考案し などと比べるのも恥しいような紙芝居的小説だが、侵略た植物人間の生体実験にされてしまい、少年もまた自ら による減亡テーマの日本作品はこの時期には非常に珍ら望んで植物人間に変身してしまう。ところが、生体実験 しい。出来ぐあいはさておき、このテーマに取り組んだ がこの社会を減亡させる原因になった。老科学者は、な 説 意欲だけはかっておきたい。 ぜか、他の人々のようにふつうの植物人間には変身せ : 科 ず、巨大な吸血植物となり、移動する能力を持った吸血 葉に変身した人々とともに、人類に復讐を開始しはじめ 著囹 ( 佐藤春夫の傑作「のんしやらん記録」 = 雄 るのだった。 短かった大正が終って昭和が始まる。昭和三年、日本物語はここで終っているが、最後の部分ははっきりと
ことにしようと決めてしまった。勿論、宗る。終りがあることを知っている人間と知 教といっても、千差万別で、中には迷信まが らない人間、あるいは認めようとしない人 7 2 いの、それこそない方が良いものもあるの 間の二種類である。日本人全体が今、よう だが、実はそれ以前に日本人のもっていたやく後者のタイプから前者のタイプに移り ものは人と自然に対する優しさを中心にし変ろうとしている。だが、あらゆることに た宗教的心情だったのである。それをあた終りがあるということを知るだけで、果し かも迷信であるかのように抛り捨てて以てそれがエゴイズムを抑え、他人への思い 来、日本人は高度経済成長をなしとげる資やりをもっことにストレートにつながるの 格と地盤を築いた。なぜなら、それは他人だろうか。事情はもちろんそれほど簡単で の運命には一切おかまいなく、弱い者はは はない。私には現在の終末・フーム、破減ム ねのけ、邪魔なものは踏みつぶしていちず 1 ドはどこかヤクザ映画の大当りと似てい に経済成長に邁進すること、もっと率直に るような気がする。先に私は経済成長を看 いえば金もうけに専念すること、そうして板にした社会は「強い者、つまり金銭と財 人生に金銭はすべてであるという哲学を身力をもった者いあらゆる事柄を支配する につけることだからである。そこでは他人社会たとのべた。また強くない者も強い者 に対する思いやり自体が、弱さの証拠だとをみならう社会だとのべた。しかしこん みなされるようになる。強い者とは、終る なことは当り前なのである。いくら正義だ ことを知らない経済成長を信ずる者のこと から、真理だからといって、それを上役の だった。強くないものだって強い者の真似前で、権威や権力の前でふりまわしていた い出したことだと思う。なぜなら、彼らはをした方が有利だし、カッコ好いから、国のでは昇進もできなければ、身ももたない 宗教というと無意識にキリスト教を思い浮中を公害だらけにして、高度成長に邁進し だろう。同僚や後輩にさえ、煙たがられ、 かべているからで、その枠でとらえきれなたのである。 敬遠されることになる。江戸時代の狂歌に いものは存在しないものだと断定しがちだ 「世の中は左様でござる、ごもっとも、な からである。しかも明治以降の日本人、と にごとなるかしかと存ぜず」というのがあ りわけインテリは西洋人の言葉を無闇に有 る。これは狂歌中の名作だと思う。江戸時 難がるから、それでは宗教をもっていない 世の中には二種類の人間があるといえ代になると侍も強固な管理体制の中で、か ー ' をも簽 - 少な . ナ一 蕚第ィいッ : ′ーら齊す評ドンすヂ、 を石イイツ
おける神の勝利を説くいわゆる啓示文学が 平安末期の年代記『扶桑記』の永承七年然ふたつの両極が考えられる。来世だから 栄え、ヨハネの黙示録もその最も完成度が ( 一〇五二年 ) 正月の項には「本年をもっ こそ仏法の精神にのっとって地上に極楽を 高いものであるが、これらはすべて痛烈なて末法の世に入る」の記述がみられるが、 再来させるべくすべての努力を傾けよとい 体制批判の書である。 仏教、というより中国を経た日本仏教の特う日蓮の仏教革命思想がその一であり、か ここから啓示文学や黙示録のごとき終末に法華経に拠る浄土宗系と日蓮宗には仏陀かる呼び掛けは個々の人間の自由意志を前 論は時代の大きな転機を示すものであるとの入減後千年は正法、つまり仏の教えが提とするものであり、『立正安国論』をも する史家たちの説が有力となるのであるが尊ばれそれに即した修行が行こなわれる って自力救済、自力本願の典型的なものと これ迄幾度となく生じた文明の終りにあた する由縁であろう。 って常にこの種の全的破減を説く終末論が 『立正安国論』はエレミア書を始めとした 現れたわけではない。 ユダヤの諸預言書に通じるものを多く持っ またこれを神政制のヘブライと民主制の , ・ ( ー」仏教書には珍しい痛烈な体制批判の書では ギリシャという政治制度の違いから説明し あるがそこにはしかし終末不可避論が展開 ようとするのも皮相のそしりを免れ得ぬこ されているわけではない。むしろ個個の努 とはヘブライ以上の神政制国であったエジ 」カの重ね合いによ 0 て地上につまり現世に 。フト王朝に黙示録が欠けていたことを考え 仏法王国が到来し得ることを説いた点にお れば明らかである。 いて、究極的には現世の生をすべて無と観 では終末論はふたつの必須条件、つまり - じた原始仏教とは根本的に異るまことに日 時間を連続的、直線的で不溯性のものとみ 本的なユニークな主張といえる。 ること、大災厄を神との契約とその侵犯か これに対し同じくいかにも日本的でこれ ら来る懲罰とみること、この両者が揃うと また原始仏教から大きく外れたものに源信 き自然と現れて来る現象なのであろうか。 の『往生要集』に端を発する浄土信仰の絶 もしそうだとすればそれは古代へ・フライ 対他カ本願がある。ここでは個々の人間の のユダヤ教に端を発し、キリスト教に受け が、千年経ると像法、つまり法が形だけ尊ば努力は所詮全く無力であり、世は自動的に 継がれる、ヨーロツ。 ( のみの特殊現象なのれる時代となり、さらに千年後には最早な末世に入った以上ひたすらに念仏を唱え阿 であろうか。 にも無い末法の時代、つまり末世に入ると弥陀にすがって極楽に転生するしかないと 上述のふたつの条件のいずれも満たさなする考えがあった。これが平安末期の古代される。 い我々日本人は古来「末法」という名のま王朝制の完全崩壊期に力を得たのはむしろ この浄土宗流末法観の特色はユダヤ教の ぎれもない終末論日観の持主であったので当然すぎるぐらい当然であったのである。 それが選ばれた民が神を裏切った結果であ 、、 0 では末世ならばどうしたらよいのか。当るのに対し、仏陀の入減後一定期間を経る 与壑三
見るとき、世界そのものがユダヤ・キリスばれ、闇の神の化身たるジャガーを駆って文明から文明へと移りながらその最良のも のを継承して行くといった弁証法独特の楽 ト教的世界観におけるようにしつかりした地上の人間を一人残さず喰い殺さしたので 天主義はまったく姿を見せない。 大地に根ざしておらず、世界の東西南北にある。 古代北欧神話も善の神々が火の巨人スル は主神フナ・フ・ク 1 が配したところの四柱 第二の世界「風の四」は魔法の嵐で人間 トによって減されることによって終ってい の兄弟神・ハカ・フがあり、これらが柱代りにを一人残さず猿に変えてしまったという。 なって天を支えているのである以上まさに 第三の世界「雨の四」は火の雨を降らせるが、そこでも一組の男女が最後迄生き残 り今日の人々を生み出したとあり終末は真 またも人間を減した。 いっ崩壊しても一向におかしくはない。 第四は「水の四」であり五十二年もの長に終末といえないのに対しアステカでは終 そして凶鳥モアンを従える災厄、特に大 末は少くとも各文明の構成員にとってはま 洪水の女神イシュ・チェルがその手にしたきにわたる洪水によって全員を減したが、 さしく終末であり、長年にわたる人々の血 一組の男女だけが糸杉の幹に逃れて助かっ 壺を傾けるとき ( ヨハネの黙示録では神は のにじむような努力はすべて無意味に虚無 聖なる怒りを盛った杯を傾け地上に大災厄たものの神の命に背いて犬の姿に変えさせ の内に霧散しつくしてしまうのだ。 られてしまった。 を呼ぶのだ ) 天を支える・ハカ・フは恐れをな これと良く類似したものに、十世紀から して逃げ出し世界は当然のこと減びる。し 従って現在の人々は大洪水の子孫ではな かもこのような大災厄は四度にわたって繰 、翼蛇ケツアルコアトルが地獄から死骸十三世紀頃にかけて成立したと思われる古 返されたという。 を盗み出しおのれの血液を注いでくれたお 四という数字は東西南北の四、従って天かげで生を得たのだが、そんな現世自体 のシンポルとしての四とつながりを持つも 「地震の四」、という記号で表されることで のと考えられ、古代へプライ人に顕著であも明らかのように「いずれ大地震で崩壊す った数の信仰は古代人に共通のことであっ る運命にあった。その時、宇宙の僻地の西 たのかも知れないし、かかる信仰の伝承者方界に出没する骸骨のようにやせ細った怪 である現代の宗教的や魔術的思考の持主に・物たち、ツィッイミメ族が冥界から現われ も同様の現象が見られるのも興味深い ( 例て人類を減亡させてしまうだろう。この最す えばアリステア・クロリーは十一に魔術的終的破局は一瞬にして起こるだろうと考え 力があるとしている ) られていた」 ( ジャック・スーステル著、 それはさておき終末論といってもアステ狩野千秋訳白水社刊『アステカ文明』よ カ人のそれのように徹底したものは少い。 なにしろ彼らの存在に先立ち四つの世界、 ここではノアの箱舟のようにほんの一部 四つの太陽が現れまた減びたというのだ。 の人間にしろ生き残るということがない。 第一の世界の太陽は「ジャガーの四」と呼ヘーゲル的な否定の否定により世界精神が 7 8
V 日ーⅢレポート【破減 一神仏、ヒットラー、公害 思想史に見る終末 伊東守男 常に地平にそび立ちながらも永遠に行き象ではなく、ヒ、ーマニズム否定のナチズ気分、「シテイムンク」という語を用い また心の高い調子がかかる高所の思考に対 着くことのできない城。 ムを追討する官軍ならぬ連合軍の砲爆撃に カフカのこの『城』をめぐっては様々な燃え、崩れ去るはかない互礫の山に過ぎな応するものであるとも述べているが、すべ ての思考はひとつの気分の大海の内にあっ 解釈がなされているらしいが、とにかくそ て螢火のように明減しつつ沈んでいった難 こでは「求める」「入るー「受け入れられ だが今の私はむしろかかる業火の世界に る」といった肯定的な意図、といって悪か 一種の親近感、ノスタルジア、そしておそ破船の漂木のほんの一部分を拾い集め、一 ったら「正」の方向の気分がまずあり、そらくは安堵感とでもいえそうなものを憶え応形を整えたぐらいのものである。 今日「月は血のごとく紅に塗り、空は羊 るのである。 れが阻止され、目的に達し得ないところか 他方そこにはドストウエスキー流の「私皮紙のごとく縮み」 ( 黙示録 ) その下にあ ら「挫折」とか「疎外」とかいった言葉が 出て来るのが普通のようである。 の終りがそのまま世界の終焉たらんことをつて思想の大洋は荒れに荒れ、人影の絶え そして「疎外ーという言葉があるところ念ずるーといった、冥土の道連れは多いほた岸辺にあがる流木はすべて「破減」とか 「終末ーといった大時代なものの残骸であ どよい式の倒立した権力への意志、悲劇へ 必すや「人間らしさーとか「人間性」とか いった言葉が持ち出される。つまりこの の期待感が時として無気味な姿をかいまみる。 時代精神は今大きく転換したのだ。ヒュ せるが、それさえも多分に気分的なもので 『城』はいかに遠ざかろうと常にヒューマ ーマニズムとその附属物ともいうべき疎外 ニズムの世界の内にあるのである。 あることには変りない。 というよりもおよそ人間的現象で気分的論はすっかり色あせて来ている。このよう だがセリーヌの主人公は妻と猫をともな って「北」の「城から城へと」戦火を避けでないものなどはあるまい。ニーチ土がそな思想史の転回を先取りしたものでもあろ て逃げまどう。『城』は行き着くことのでの思索の究極の終着点であった「永久回う。吾国の代表的知性を・ハックとした某誌 8 が「人間として」から「終末から」へと誌 きない、それ故に久遠のノスタルジアの対帰」の啓示について語るとも彼はしばしば