Put up a fight ou believe to be right And someday the sun will shine through ともかくフリーには、雨みたいにセンチメンタリズムがっきまと う。 "Come together in the morning" ぐらい、甘くたって、誤解 された喚起の余地は残されていて Come together in the morning I can understand your mind Come together in the mornrng See the world the same asme と、これだけのことで聞きほれちゃうんだから世話はない。おセ ンチの転落点ーー許せないのは、こんな奴だ。 Oh my love for the first time in my life My eyes are wide open I see the wind, oh I see the trees Everything is clear in my heart なんのこっちゃ、これは。首の上センチまで呑みこまれちゃっ たノータリンのジョン・レノン。奴に比べて、ポール・マッカートニ イは、不良少年のイノセンスを、今も失ってはいない。マッカート ニイこそ、″感性″の名が似合う唯一人のビートルだと僕は思う。 ハリスンもすこし許すけどね。 センシビリティの ところで、人間だったら、ほんの少しでい かけらだけでも持っているにこしたことはない。おそらく言語を、 どこまでも迷路のように編みあげてきた人間達の原動力といった ら、そんな羞恥のなかにこそ秘んでいる。と僕は思った。 ところで、ついでに書いてしまいたいのは "Heartbreaker" の こと ハートプレーカーと言えば、グランドファンク・ライ・フの 傑作だけど、このフリーのも大傑作、そしてもうひとつ、ストーン ズの新しい "Goats Head Soup" で歌われる "l-leartbreaker ( D00 D00 D00 D00 D00 当もすばらしい The police in New York CitY They chased a bo right through the park ln the case of mistaken identity They put a bullet through his heart A ten year Old girl on a street corner Stichkin' needles in her arms She died in the dirt of Hollywood Her mother said she had no chance NO chance すぐ思いつく《ハ ート・フレーカー》と言えばこの三つだが、こう 傑作がそろうと、きっとこの題名の曲はみんなイイに違いない。ス ン ジ ン ア を イ ュ イス
り残されて輝いていることを望んでいる。サイキデリック時代に、 〈ニュー・ワールズ〉誌Ⅷ号 まるでパ・フルガムみたいな音をだした。ヒンク・フ尸イドーーでも、 8 ちっぽけなラジオのなかで生きていた彼等はステキだった。キンク スっていうのは僕の高一の頃のお気に入り、それにリヴァプール・ . 終の号 ファイ・フは中学生かな ? : : だから僕はもうキンクスなんて聞かな こ次 ただる し。だ力、パラードの作品だけは、とり出さずにはいられない。そ っんげ なれさとの巨大な不毛は、恐らくの背後を的確に照射するのだ。 とさはを たとえば、自分はフィクションであろう。唯一のアイデンティテ 転が休な イは孤立だけが錯覚させる。あなたに、ほんとうの僕を見てほしい ド辺定んだけれど、そんなものはないんだから、僕は、あなたに、僕を生 。 ~ ( ~ 第を第 - ラの誌産しつづけなくてはならないし、それがアイデンティティなんじゃ 、第第 ( 豊鰲ー ~ ( 洋バ着雑・か ないのかしら。 だいたい、ちょっとでもメッセージがきいてると手もなくいかれ ちゃう悪いクセは、昔から。たとえば前回にちょっと書いたユー丿 われわれに反対し、われわれのことをまったくでたらめであると ・オレーシャの短篇、『鎖』 ( ″チェーン″と訳すのが正しいんだ か、なにもかもまちが 0 ているというなら、それはいっそうよいこと思うよ、自転車の話なんだから ) のラストはすばらしい とであり、われわれが敵とはっきりと一線を画していることを証明 いまわたしはとりのこされている、わたしがとりのこされて しているばかりでなく、われわれの仕事がひじように成績をあげて るさまを見たまえ、わたしはチョコチョコ歩いている : : : 短い脚 いることを証明している」 これは神話だ。 にのつかった太っちよなのだ : : : 見たまえ、わたしにとって走る 〈新しい波〉は、きやっかん的に、時代の崩落現象として決定的に ことがどんなに困難であるか、けれども、わたしは走る、たとえ あったから、それは正に闘われることたけが唯一の意義であったは 息を切らし、たとえ足がぬかってでも : : : わたしは世紀の轟く嵐 ずだ。「帝国主義が全面的な崩壊にむかい、社会主義が全世界的勝の彼方に走るのだ ! ( 品文社刊『愛』所収 ) 利にむかう時代」 ( 林彪 ) にあって、それは、状況こそが〈新しい こうした言語の喚起性こそは、全ての趣味主張ーー・イモヅル嗜好 波〉に否応なく正解の烙印をおしてくれていたはずなのだ。正義はを統御する。重大だ ! 今頃にな「て大好きだとさわいでるフリ 正しく人民のものだったのだけれど。〈新しい波〉とは、そうした それも新メン・ ( ーの "Heartbreaker" は、ちょっぴりャル気が違 ものだ。それ以外のなにものでもありはしない。そうした時代にあってる。 "Wishing って、作品は、ただ単に″書かれる。ことで自らを支えきったろ Throw down your gun, う。それは状況の海で泳ぐ魚みたいなもので、つかみだされると死 You might shoot yourself んでしまう。数多くの〈新しい波〉てき作品たちは、そのようにと 0 月 is that what ) 「 ou e trying ( 0 do
と止揚して、死んだ。とっても美しい少女を見つけたのはこの時ー のだ。こうして今、分析は意味を喪ったはずだった。 ( ラードが断罪するのはだ。だがおそらくはその背後をバラー赤い = ートの十歳位の女の子で、針金みたいに細い身体が、まだ 完璧に ードは裁いた。そうした時代だったのだけれど、それはとりもなお真黒に陽焼けしているけれど、カールしたショートカット、 美しい容貌は、側に立っ母親のなかにもかくれていて、僕はもう絵 さす、。ハラード自身の自己批判に他ならなかった。前出『パラード を見るのをよしちゃった。「植民地のマネキン人形」の前で、じっ はどこへ行くか』のもうひとつの結論、 : ・大谷圭二氏は、これら作品群 ( に対する反動形成的と彼女に見いっていると、知らぬげな少女は母親の袖をひくと この人、顔がかけなくなっちゃったのね 作品群、といっても非常にすぐれている、念のため ) が「を マンネリズムに陥しいれてきた大道具に対する偶像破壊的な意図とささやくところだった。というのはウソだけど。 をもって書かれた」と指摘しているが、それはそうした意図を越 えて、 ( ラードにと 0 ては自分の腰かけている木の枝を切り『終着の浜辺』以降の作品を、これまで本稿で試みてきたような方 落とす作業に他ならない。そうした的現実の検討を経て、始法で語るのは意味がない。なせなら、それらは的確に《風景》とし めて、、 ( ラ 1 ドは〈現実〉という地表に到達した ( あるいは転落してあるからだ。 ぼくは、風景とは空間と時間の定型化であり、外なる風景は た ) のである。 ああ、恥ずかしい。力「クラ〈、キリ = を観に行 0 たのは寒い土曜精神という内なる状態を直接映し出すものだと考えている。じ 0 さいには、何らかの意味を持っ外的風景だけが、もしあなたが望 日。ぼくはわりかし絵が好きだけれど、展覧会にはいつもある種の 覚悟が必要だ。どうしても、あの " 芸術家。たちになれることがでむなら〈中枢神経系〉の内にとい 0 てもよいが、その直接のアナ ログによって反映されるものなんだ。いつだったかダリが〈精 かならず一人か きない。とにかく、絵をやってる奴等のなかには、 一一人、と 0 ても偉そうな顔した貧ポ 1 学生がいて、彼等に、顔を見神〉とは〈風景〉の一つの状態たと言 0 たと思うのだが、・ほくよ これらはまったく真実だと考える。 ただけで打ちまかされてしまうのがひとつ。それで逆に、他の奴等 前出の対談で、バラードが答える。それをいかにリアルのまま促 はというと、耐えがたいアジャパーが女の子なんかに絵の講義をし : だが、時代はこんなにして変わってしまった。・ハ えつくすか : てたりして、それでとっても許してほしくなってしまうのである。 1 ドが描きだした《風景》の意味については後述しよう。それより だいたい俺は、デザイナーと称するは絶対、信用しないのだ。畜 もまず、なぜバラードであり〈新しい波〉だったのか。ーーー基本的 生 ! ( これはひとりごと ) それでキコリを見て歩きながら、アッ、 に、そんな時代の神話として、ぼくが好きなのは、毛沢東のこんな この人の絵はとても弁証法的な発展過程を辿っているな、と気がっ 「われわれにとって、ある人、ある党、ある軍隊、ある き、ついでに絵画ってのは結局レイアウト感覚なんだな、と思いつ事葉だ いて、頻出する緑の空が暮れなずむ様子にふと、それに少しばかり学校が、もしも敵に反対されないなら、それはよいことではなく、 の色彩感と一人合点した。キリコは、「不安げなミ = 1 ズたち」前きっと敵と野合しているのであゑとわたしは考える。もしも敵に 9 9 後を頂点に、悪しき発展と同時に、晩年には狂気を獲得しながら反対されるなら、それはよいことであり、われわれが敵とはっきり ( 最近は正気みたいですね ) 歪んだ暗合の群をうねるような太陽へ一線を画していることを証明している。もしも敵がやっきになって
そして、初期短篇を分析してみて到着した結論というのは か、生活は定量化され、ランダムな出来事の全的な流れとして発 初期・ハラードを特徴づけるものは、その″書き手″としての生している。 秀逸さの裏側にあるまぎれもない〈サイエンス・フィクション〉 と述べている。では、こうした営為は、どこへ向いているんだろ 的無自覚性であり、無責任性であると言えはしまいか。 う ? それはリアリティ・こ。・、 ノラードが語る全ての技法とは、リア ということになったのである。個々の作品についての評価は、もち リテイへの、驚くべきことに、そこへの方法論だけなのである。考え ろん、かなり著しく老いてきているけれど、基本的な。ハラードの位置てみれば、・、 / ラードは、ただの一度も、なぜ書くか、を言ったこと は、僕のなかで変わっていない。・ハ ラードは余りにもの子供な がない、本当の意味で。大昔、僕の書いた・ハラード論を読んでくれ のである。その彼がそのに た誰かが、ファンジンに感想文を載せて こそ基本的な疑問をぶつけ始め いて、僕 2 ハラード論は「なぜ、今・ハラ るのが六十年代に入ってから : 1 ドなのか、を完全に欠落させている」 : ちょっと考えれば、ぼくらが といった事を書いていると聞いたことが 無感覚に受け入れてしまってい あるけれど、なぜ ! はもうさんざん書 る″における日常ほど不 いたから許してもらうとして、今度はこ 条理なものはない。そして、そ 一つちが質問する番なんだ。あの頃は許す の子供であるバラード がそれを ヾよ、でも、今こうなっちまうと、あのリ こそ撃ち返し始めれば、そこか アリテイへの求心は、一体どうしめくく らの作品展開は、正に鋭い自己 られるべきなんだろう ? 批判として展開せざるを得ない。 フラグレントに書きとめられるリアリ ティーー・それはむしろ、 (--4> の画面にペ ここでちょっと、まんざら関 タリ。へタリと貼付されるリアリティなの 係なくもない休憩。・ハラ 1 ドに で、僕等は、いま、もうそれを見ないの ついては、その昔、わりと書い だが、それがサイエンス・フィクション たり言ったりしたので、とても = に対する反動形成としてあり得た時代を 疲れてしまうのだ。と思ったけど休憩はやめた。 遠く離れてしまえば、僕にはどうしていいのかわからない。それら 《 ZE ー》誌 6 号は、野口幸夫氏訳の・ ( ラードとマクベスの対は余りにも所謂《風景》でしかない。 『ソイレント・グリーン』と 談をのせている。これは面白い ・ ( ラードは、断章化した最近の作いう映画を御覧になったろうか。あのキヨーフの結末は、少くとも 品を説明して、 僕の今を代表している。 非線型の技法が要求されると・ほくが考える理由は、今日のわ Soylent Green is people 一 れわれの生活が線型に形づけられてはいないことだ。それどころ と主人公が絶叫する。だが Peop 】 e 以外に食べるものなんかない 8 9
のです。三十年代に印刷された本や雑誌を読んだり見たりした人な なフィクションとは言えません。そこでわたしが書きはじめたので らだれでも、わたしの言う意味がわかると思いますが : : : それは驚す」 異で一杯なわけです、世界で一番大きな橋とか、一番早いなにと か、最長のなになにといった具合 : : : 科学とテクノロジーの驚異で スウェ 1 デンの雑誌〈フォーラム〉からイギリスのファンジ じようきよう ふくれあがっている。この頃書かれたサイエンス・フィクション ンの再録されたパラ】ドのインタビュー これが時代というも は、みんな、科学が世界を " 改造。してゆくといったこの手のオプのだ。もう一年もすれば、ぼくらは七十年代の後半へ向かって落っ チミズムから出発しています。ですが、ヒロシマとアウシュビッツ こちる。 の時代がやってきて、科学のイメージは根本的に変化しました。人 人は科学に不信を抱きはじめたのです。しかし、は変わらなか蓋然性という暗黙のルールをすてされば、ほど " 物語。であ 「た。あなたはまだ、 ( インラインアシモフ日クラーク・タイ。フる文芸はあり得ない。そして、科学に疎外されたサイ = ンス・フィ の、科学の可能性を信じた楽天的な文学にお目にかかっているでしクションの子供たちにとって、もはや物語ることだけが残されてい ようが、これは完全な誤りです。五十年代、水爆実験の最中、あな たわけだ。前回までにも幾度か触れた五十年代を頂点とするアメリ マジック たはきっと、科学が、なにか呪術に近いものになりつつあると感しカ・サイエンス・フィクションの優性は、そうして正に、科学によ たと思います。ところで、サイエンス・フィクションもまた、外的る逆疎外によって発生しただろう。そして、・・パラード 宇宙に関わるものと考えられていました。ほとんどの人々が持 0 てこの、もうひとりの正確に、正確にの子供でありつづけた作家 いたサイエンス・フィクションのイメージは、大かれ少なかれそう にとってもやはり、は物語るものとしてだけ存在したのであ だったでしよう。スペース・シップやエ ーリアン・プラネット。しかる。そして、・ハラードの悲劇が始った。 しこれらは、わたしにとって何の意味もありませんでした。わたし 三年前、雑誌《 Z ー》に書いた『バラードはどこへ行く にはそれらが、わたしが一番重要だと感じている = リア、即ち七年か』という原稿で、前半を費したのは、このの子供としての・ ( 前 ( この発言は六八年 ) にはじめてわたしが名付けた言葉ですがー ラードの側面分析だった。もう一度やるのは疲れるから、いくつか イ十 . ー・ス・ヘース ー精神の内的世界と現実と外的世界とが出合うエリア〈内宇宙〉を抜き書きするのを許してほしい。 イナー・ス・・ヘース 全く顧みていないように思われたのです。内宇宙というのは、マ ・〈サイエンス・フィクション〉によって育てられた世代 ックス . ・エルンストやダリ、タンギイ、キリコなどのシュルレアリ は、その既に確立されたもうひとつの〈世界ⅱ現実〉をこそ出発 イナー・ス・ヘース スムの絵画に見つけることができます。彼等は内宇宙の画家で点とするであろう。現在の若い作家達は、最早や自己の小説 す。そして、わたしは、サイエンス・フィクションこそが、このエ 世界の正統性 ( 前出の蓋然性のコト ) にほとんど注意を向けない リアを探るべきだと思ったのです。そこは、精神が外的世界と衝突ように見える。彼等にとって、世界は初めから無限の〈有り様〉 しあう地帯であり、ファンタジイではちょっと扱いきれません。こ をもって開かれていたのである。 , れが五十年代初期ののまずい点でした。それがファンタジイに ハラードの「プリマ・べラドンナ」は、こうした新しい世 なってしまったんです。それはもう、シリアスでリアリスティック代の小説作法の極く自然な貫徹であると言えるだろ・う。 7 9-
新連載評論 、、夢の言葉・言葉の夢ミ、 幻想小説の方へ 文千秋 "Still と ive AncIY1' 「 ell" と言ったらなんて訳すのかなーー僕の感 じでは〈どうにかやってます〉ってな程度だと思うこのアル・ ( ムは ジョニー・ウインター : なんとも悲しいのです。リック・デリン ジャーの筆になる表題作や、とりわけて "Cheap TequiIa" という のは名前からして ( 昔の ) 僕好みですね。 ・・ / ラード Break up and be happy Live just for today インタビュ】アーはジャニック・ストーム、 D 当 ow ロ in cheap tequila 「あなたの言われるサイエンス・フィクションと古いサイエンス・ An d flush yours elf away フィクションの違い : : : それは、・ とんなものですか ? 」 Flush yourself away ・ハラードが答える、 もうゴメンナサイ、という位ステキですけど、僕はこないだの誕「四十年代、五十年代のモダン・アメリカン・サイ = ンスフィクシ 生日、遂に決心してお酒を止めるのはよしたけど、減らしはじめて = ンは、テクノジイを扱 0 た大衆文芸です。それは、 = 一十年代に て、着々と成功をおさめつつあるのです。だから今月は客観的な醒刊行された、たとえば〈ポビ = ラ ー・メカニクス〉のような、当時 めたまなざしで、あのアル中作家・・・ ( ラードにとりくんで見をふり返ればわかると思いますが、科学とテクノジイについての ようと思うのです。グビリ。 オプチミズムに満ちあふれた、アメリカのマス雑誌から出てきたも 6 オー・ノオー カット☆宮崎茂、 ~
す自分の目で確かめねばならない。なんとか、現物に当典作品ではないが、特筆すべき新版西遊記を紹介しょ う。これは、ジュヴナイルの分野で活躍している石川英 って、おもしろかったら機会をみて紹介でもすることに 輔氏が、同人誌「宇宙塵」に連載中の「西遊記」。 しよう。 る 「西遊記」を科学的 ? 的に解釈した作品で、 平凡社の「西遊記」にはさまれている中国古典文学全ファンであり西遊記ファンである・ほくの夢をそのまま活 ( 尊集の月報の浜一衛氏の「西遊記劇のことども」による字にしてくれた楽しさにあふれる傑作小説だ。「西遊記」 と、京劇の劇目表の中に「孫悟空」ものは三十余種もあに興味のない人でも、の好きな人なら絶対に楽しめ り、それには「猴王遊月宮」とか、「五百年後孫悟空」る。先の陳舜臣氏の「新・西遊記」とともに完結の日が などという題名のものがあるそうだ。題名から推察する期待される。 かぎり、元祖「西遊記」よりも、さらにファンタスティ ほんの今しがた友人から、明治時代にも「後西遊記」 ックな香りがするのだが、機会があったら一度見たいも という作品が刊行されているらしいが、ここに紹介した のだ。 ものとは、また内容がちがうらしい、という情報を得 また、中国の文化大革命などで「西遊記」なんかはど う評価されているのか気にしていたら、つい最近の新聞た。 ( また、探す楽しみが一つ増えたそ ! ) に「中国のアニメーションを見る会」とかの広告がでて いて、その中に「孫悟空」というのが入っていた。他国 〈おねがい〉 のこととよ をいいながら、中国は共産主義国家になって ・ほくが、汚らしい古い本を、やや狂的に集めているこ も、わが孫 とはごそんじのことと思いますが、どなたか改造社が昭 悟空は不減 ・ ( なん和四 ~ 五年に刊行した「世界大衆文学全集」のうち、 三八巻「水滸伝」五八巻「千一夜物語」六七巻「西遊 ・′、一 . 00 【 , ~. のことだろ 記」六八巻「八犬伝ーをおゆずりくださるかたはおいで . - うね、こ , 羅 . れ。自分でではございませんでしようか。なるべく、カ・ ( 1 付がほ しいのですが 1 この際ですからぜいたくは申しません代 もよくわか らないや ) 金はご相談のうえ決めたいと思いますが、なるべく安い : 、。ほくはうれしいです。 ほんとうに ぼくの棲み家は、 安心した。 〒一五二東京都目黒区緑が丘 1 の四のです。 : を 8 灣ィネ 最後に古 5 9
「絵本西遊記」插絵 を妓し鉄棒を打ち振り打ち振り、一一十万の天兵をはや半ない。こんな小説、ぼくででもなければ紹介する人も永 ばまで打ち殺せば、天兵色を失い四方へ逃れ崩れける。久にないにちがいないと思ってとりあげてみたが、読者 大聖はなおも鉄棒をひっさげ、退りそかんとする趙馬二諸兄姉の感想はいかがだろう。 将を目がけただ一打ちと撃ってかかるにぞ、二将逃がる る路もなければ、ぜひなく刀を抜きて防ぎ戦う。二将勇ところで「東遊記」という題名の小説は日本にもある なりといえども、いかで大聖の神勇 , 、を ( 「」ということをごそんじだろうか。 に敵すべき。 このめざましい悟空の活躍によっ 4 : = 、て、もう一冊同名の長篇小説があ て、天兵軍の二副将軍の命も風前の るのだ。しかも、これは一年法師 というお坊さんが、カエル、モグ 灯となった時、太上老君が如来と駈 ラ、トカゲの化身を連れて天竺な けつけ、八仙と竜王との仲裁に入第に黐 らぬ地竺へ経を求めて旅する話 る。さらに雲に乗 0 て疾走してきた ~ ~ 一第》。 ) 、【 ~ 物 。、た。明らかに「西遊記」のパロテ のが観音。三者は双方のいいぶんを イ版だ。作者は「富士に立っ影」 聞くが、どうしても是非の判定が下 いや「祖国は何処へ」などの大河小 せない。観音の提案により双方は玉 帝の前で正否を論ずることに決定。矗。 ' 説でおなじみの白井喬二。戦前の 玉帝は天兵を傷つけられ、大いに怒・、 ) 。を一 一少年少女雑誌「譚海」に連載され 一を . 。、たものだ。 0 い三 ~ 四年前、学芸 っていたものの、八仙の話によ「て、一、。、第 0 露、 書林から刊行された白井喬一一全集 竜王が悪いことも認め、観音のとり の最後のほうに収録される予定に なしによ 0 て双方の和解が成立す。 4 売第 【一なっていたので、未見の・ほくとし る。海上、地上、天上にわたって争 〔。ては大いに期待していたのだが、 われた戦いもようやく終結、斎天大 聖も鉄棒をおさめて、世界はふたた、 ' 」「白井喬一一全集」が途中で中止に び平和をとりもどす。めでたし、めでたしというわけなってしまったために、残念ながらいまだに現物にお 目にかかっていない。小松左京氏は「わりあいにおもし ごらんとおり、ただただ戦闘場面の連続で「東遊記」ろかった」といわれていたし、浅倉久志氏は「ストーリ イをぜん・せん憶えていないから、さほどおもしろくなか の題名にはいささか似つかわしくない内容の小説だが、 ったのではないか」といわれていた。こうなると、ます これもまた、ほとんどの人は知らなかった小説にちがい 、こ第 ~ 4 9
悟空 , 八戒 , 沙悟浄 さて、八仙のほうも、天兵が再来襲することは陽を見 。、、、山よ死んだものと思 竜宮城をとり返した四竜王カ / イを これまた宴席を催していると、八仙は今度はそれそるより明らかなので、いつでも迎え撃っことができるよ れ一個ずつの大山を東洋に投げこんで、海を埋めようとう、ふだんから交遊のある諸仙に応援を頼んだ。その中 行動を開始。それにしても、宴会が好きだねえ。攻守はに、かの斎天聖孫悟空もいた。 ( やっと、でてきたそ ) 二転三転して、またもや竜王連合 斎天大聖笑っていわく、諸友 軍は敗走。ふたたび南海にもどっ 〉こよ、かならず憂いたもうな。われ た四竜王は、ことここにいたって、 ~ 不才なりといえども、一方を引き はせんかたなしと、天界の玉帝へ 第 ~ ( 受け、天兵来たらば、われ昔のて 告訴状を届けた。 なみをいだし、片甲をも返さず皆 訴状を読んだ玉帝は八仙を怒 ( ・殺しにすべしという。 、天将趙元帥を八仙征討に向か わす。またまた、天兵対八仙の大 、農一なんとも心強い味方を得た八仙 戦闘が開始される。これを見た竜 , が、いまや遅しと天兵軍を待って 王軍も天兵に加勢して両軍入り乱第を れての大戦争となる。もはや、こ ・ . , 、いると、いよいよ二将軍が兵をひ れまでかと思われた八仙だが、チ . 。 . 。き連れてやってきた。両軍、ふた ーム・ワ 1 クのよさは・ハッグン。 言、三言話しあうが結局、話はっ かず、またも戦闘が開始される。 ついに趙元帥のひきいる天兵軍ま で撃ち破った。玉帝は、これを聞 ー、第ここで、・ほくの大好きな孫悟空の いて八仙あなどりがたしとみるや 活躍があるので、原訳文を見るこ とにしよう。 親交のある仏界の如来のところに 赴き、兵を借りると天兵軍四十万 と合わせて温・関の二将軍に渡し、 折りからたちまち、八仙が陣中 断じて八仙を討伐せよと命を下し箋 ' 、 より一員の大将鉄棒を持ち、物を もいわず天兵の中へ駈入り縦横無 話はどんどんエスカレートして、なんともメチャクチ礙に撃ち散らすその様、剛猛無敵にして人ともいわず馬 ヤになっていく。まるで、スペース・オペラなみだ。まともいわず打倒し打倒し奮戦するほどに、天兵その勇カ に辟易し、ひらきなびきて敗走す。人々驚きてその人を ったくのところ、これで科学的な兵器でもでてくれば、 見れば、これ斎天大聖孫悟空なり。斎天大聖ますます勇 大星間戦争の物語にでもなりそうだ。 、を : 釜ミ : : : : 93 ・
「絵本西遊記全伝」ロ絵三蔵法師 だした。最には引きさがれず、弟息子を迎撃にやった。ところが、 後の藍菜和これまた八仙にメタメタにやつつけられ斬り殺されてし という仙人まった。 が玉板 ( ど今度は反対に、二人の息子を殺された竜王が、もうど 第物んな板だろうしようもないほど怒った。竜王は東海全軍をあげて八 う ) に乗っ仙に挑む。だが、八仙の実力もなみたいていのものでは 第て波乗りをない。次々と仙力をもって海を焼きはらう。 ~ ・・・を ( はじめよう とした時、 海の水、見る見るまっ赤に変じ、煙霧天に昇ること、 東海竜王の いと凄じく、浩々たる東洋の大海たちまち一片の白地と 息子が、海そなりにける。 上に八つの 怪しい光が飛ぶのを発見。調べてみると八仙とわかった ついに竜王も八仙の攻撃に耐えきれず、妻子を連れて が、これから出発しようとしている菜和の玉板を見る南海竜王のもとへ避難した。東海竜王から事情を聞いた と、なにがなんでもそれを手に入れたくなり、兵に命じ南海竜王、「いくら、玉板をうばったとはいえ、息子を て菜和ごと海中に引きずりこんでしまった。 二人も殺し、海を焼きはらうなどとは許せない」と、ま さあ、怒ったのは七人の仙人。さっそく、引き返し たまた八仙に逆うらみ。西海竜王、北海竜王に使いをた て、菜和と玉板を返さなければ仙力で海を焼き尽すと宣して応援を頼み、水のなくなった竜宮城で祝宴をあげて 言。竜王も太子も、これを拒否したため、ここに八仙対いる八仙を急襲した。 竜王軍の戦闘の火ぶたが切って落とされた。しかし、八 さあ、さすがの八仙も今度ばかしは、これまでのよう 仙の仙力は強い。あっという間に海上は火の海と変わにうまくことが運ばない。四竜王の大軍が、水のなくな る。あわてふためいた竜王は菜和を七仙に送り返した。 った低地に水を流しこんだから、みんな溺れかかる。幸 七人は「よかった、よかった」と喜んだが、助けられた い一人水に強い仙人がいたので、命は助かるがダメージ 当人の菜和は、さめざめと泣いている。玉板はとられたは大きい。ようやく、陸地に逃げ返った。 ままたというのだ。 孫悟空はなかなかでてこないけど、かなりスケールの 仙人にしては気の短い八人、もう頭にきたとばかり、大きな物語だ。「東遊記」という題名は「西遊記」に対 ふたたび竜王に対して宣戦を布告。今度は竜王の太子してのこじつけみたいだが、八仙が海を焼きはらった り、四竜王が海を奪回したり、まさに波乱万丈た。中国 が、これを迎え撃ったが、あえなく戦死。こうなると、 竜王ももとは自分のほうが悪いとはいえ、そうかんたんの古典は、これだからこたえれらない。 2 0 ・