サイエンス・フィクション - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1974年3月号
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1. SFマガジン 1974年3月号

のです。三十年代に印刷された本や雑誌を読んだり見たりした人な なフィクションとは言えません。そこでわたしが書きはじめたので らだれでも、わたしの言う意味がわかると思いますが : : : それは驚す」 異で一杯なわけです、世界で一番大きな橋とか、一番早いなにと か、最長のなになにといった具合 : : : 科学とテクノロジーの驚異で スウェ 1 デンの雑誌〈フォーラム〉からイギリスのファンジ じようきよう ふくれあがっている。この頃書かれたサイエンス・フィクション ンの再録されたパラ】ドのインタビュー これが時代というも は、みんな、科学が世界を " 改造。してゆくといったこの手のオプのだ。もう一年もすれば、ぼくらは七十年代の後半へ向かって落っ チミズムから出発しています。ですが、ヒロシマとアウシュビッツ こちる。 の時代がやってきて、科学のイメージは根本的に変化しました。人 人は科学に不信を抱きはじめたのです。しかし、は変わらなか蓋然性という暗黙のルールをすてされば、ほど " 物語。であ 「た。あなたはまだ、 ( インラインアシモフ日クラーク・タイ。フる文芸はあり得ない。そして、科学に疎外されたサイ = ンス・フィ の、科学の可能性を信じた楽天的な文学にお目にかかっているでしクションの子供たちにとって、もはや物語ることだけが残されてい ようが、これは完全な誤りです。五十年代、水爆実験の最中、あな たわけだ。前回までにも幾度か触れた五十年代を頂点とするアメリ マジック たはきっと、科学が、なにか呪術に近いものになりつつあると感しカ・サイエンス・フィクションの優性は、そうして正に、科学によ たと思います。ところで、サイエンス・フィクションもまた、外的る逆疎外によって発生しただろう。そして、・・パラード 宇宙に関わるものと考えられていました。ほとんどの人々が持 0 てこの、もうひとりの正確に、正確にの子供でありつづけた作家 いたサイエンス・フィクションのイメージは、大かれ少なかれそう にとってもやはり、は物語るものとしてだけ存在したのであ だったでしよう。スペース・シップやエ ーリアン・プラネット。しかる。そして、・ハラードの悲劇が始った。 しこれらは、わたしにとって何の意味もありませんでした。わたし 三年前、雑誌《 Z ー》に書いた『バラードはどこへ行く にはそれらが、わたしが一番重要だと感じている = リア、即ち七年か』という原稿で、前半を費したのは、このの子供としての・ ( 前 ( この発言は六八年 ) にはじめてわたしが名付けた言葉ですがー ラードの側面分析だった。もう一度やるのは疲れるから、いくつか イ十 . ー・ス・ヘース ー精神の内的世界と現実と外的世界とが出合うエリア〈内宇宙〉を抜き書きするのを許してほしい。 イナー・ス・・ヘース 全く顧みていないように思われたのです。内宇宙というのは、マ ・〈サイエンス・フィクション〉によって育てられた世代 ックス . ・エルンストやダリ、タンギイ、キリコなどのシュルレアリ は、その既に確立されたもうひとつの〈世界ⅱ現実〉をこそ出発 イナー・ス・ヘース スムの絵画に見つけることができます。彼等は内宇宙の画家で点とするであろう。現在の若い作家達は、最早や自己の小説 す。そして、わたしは、サイエンス・フィクションこそが、このエ 世界の正統性 ( 前出の蓋然性のコト ) にほとんど注意を向けない リアを探るべきだと思ったのです。そこは、精神が外的世界と衝突ように見える。彼等にとって、世界は初めから無限の〈有り様〉 しあう地帯であり、ファンタジイではちょっと扱いきれません。こ をもって開かれていたのである。 , れが五十年代初期ののまずい点でした。それがファンタジイに ハラードの「プリマ・べラドンナ」は、こうした新しい世 なってしまったんです。それはもう、シリアスでリアリスティック代の小説作法の極く自然な貫徹であると言えるだろ・う。 7 9-

2. SFマガジン 1974年3月号

新連載評論 、、夢の言葉・言葉の夢ミ、 幻想小説の方へ 文千秋 "Still と ive AncIY1' 「 ell" と言ったらなんて訳すのかなーー僕の感 じでは〈どうにかやってます〉ってな程度だと思うこのアル・ ( ムは ジョニー・ウインター : なんとも悲しいのです。リック・デリン ジャーの筆になる表題作や、とりわけて "Cheap TequiIa" という のは名前からして ( 昔の ) 僕好みですね。 ・・ / ラード Break up and be happy Live just for today インタビュ】アーはジャニック・ストーム、 D 当 ow ロ in cheap tequila 「あなたの言われるサイエンス・フィクションと古いサイエンス・ An d flush yours elf away フィクションの違い : : : それは、・ とんなものですか ? 」 Flush yourself away ・ハラードが答える、 もうゴメンナサイ、という位ステキですけど、僕はこないだの誕「四十年代、五十年代のモダン・アメリカン・サイ = ンスフィクシ 生日、遂に決心してお酒を止めるのはよしたけど、減らしはじめて = ンは、テクノジイを扱 0 た大衆文芸です。それは、 = 一十年代に て、着々と成功をおさめつつあるのです。だから今月は客観的な醒刊行された、たとえば〈ポビ = ラ ー・メカニクス〉のような、当時 めたまなざしで、あのアル中作家・・・ ( ラードにとりくんで見をふり返ればわかると思いますが、科学とテクノジイについての ようと思うのです。グビリ。 オプチミズムに満ちあふれた、アメリカのマス雑誌から出てきたも 6 オー・ノオー カット☆宮崎茂、 ~

3. SFマガジン 1974年3月号

そして、初期短篇を分析してみて到着した結論というのは か、生活は定量化され、ランダムな出来事の全的な流れとして発 初期・ハラードを特徴づけるものは、その″書き手″としての生している。 秀逸さの裏側にあるまぎれもない〈サイエンス・フィクション〉 と述べている。では、こうした営為は、どこへ向いているんだろ 的無自覚性であり、無責任性であると言えはしまいか。 う ? それはリアリティ・こ。・、 ノラードが語る全ての技法とは、リア ということになったのである。個々の作品についての評価は、もち リテイへの、驚くべきことに、そこへの方法論だけなのである。考え ろん、かなり著しく老いてきているけれど、基本的な。ハラードの位置てみれば、・、 / ラードは、ただの一度も、なぜ書くか、を言ったこと は、僕のなかで変わっていない。・ハ ラードは余りにもの子供な がない、本当の意味で。大昔、僕の書いた・ハラード論を読んでくれ のである。その彼がそのに た誰かが、ファンジンに感想文を載せて こそ基本的な疑問をぶつけ始め いて、僕 2 ハラード論は「なぜ、今・ハラ るのが六十年代に入ってから : 1 ドなのか、を完全に欠落させている」 : ちょっと考えれば、ぼくらが といった事を書いていると聞いたことが 無感覚に受け入れてしまってい あるけれど、なぜ ! はもうさんざん書 る″における日常ほど不 いたから許してもらうとして、今度はこ 条理なものはない。そして、そ 一つちが質問する番なんだ。あの頃は許す の子供であるバラード がそれを ヾよ、でも、今こうなっちまうと、あのリ こそ撃ち返し始めれば、そこか アリテイへの求心は、一体どうしめくく らの作品展開は、正に鋭い自己 られるべきなんだろう ? 批判として展開せざるを得ない。 フラグレントに書きとめられるリアリ ティーー・それはむしろ、 (--4> の画面にペ ここでちょっと、まんざら関 タリ。へタリと貼付されるリアリティなの 係なくもない休憩。・ハラ 1 ドに で、僕等は、いま、もうそれを見ないの ついては、その昔、わりと書い だが、それがサイエンス・フィクション たり言ったりしたので、とても = に対する反動形成としてあり得た時代を 疲れてしまうのだ。と思ったけど休憩はやめた。 遠く離れてしまえば、僕にはどうしていいのかわからない。それら 《 ZE ー》誌 6 号は、野口幸夫氏訳の・ ( ラードとマクベスの対は余りにも所謂《風景》でしかない。 『ソイレント・グリーン』と 談をのせている。これは面白い ・ ( ラードは、断章化した最近の作いう映画を御覧になったろうか。あのキヨーフの結末は、少くとも 品を説明して、 僕の今を代表している。 非線型の技法が要求されると・ほくが考える理由は、今日のわ Soylent Green is people 一 れわれの生活が線型に形づけられてはいないことだ。それどころ と主人公が絶叫する。だが Peop 】 e 以外に食べるものなんかない 8 9

4. SFマガジン 1974年3月号

トーンズの『山羊頭のスープ』は、『スティッキー・フィンガー』とどうもおかしい。い ろんなことを混同しているらしい。 並ぶくらいの気に入りかただけど、この pa 面の一曲目 "Silver Tra- なにより・ハラードが観察的であることに注意しなくてはならな 2 一 n ごは、前出の "S ( ill Alive And ′ Mell" でもジョニー・ウインターが バラードの言う《内宇宙》とは、彼が《外部》を咀嚼する地帯 歌ってて、どっちかと言うとウインターの方がスゴイ。例えば Ho- であるらしいこと。そしてそこは、物語る人としての。 ( ラ 1 ドを一 ney なんていう単語を、ジョニーは、 ミックよりも下品に「ハンネ方の極とした均衡点にちがいない。だが、幾度も書いたように、全 ~ 」とまるでだらしなく発音するんだけど、おまけにギターがギンてをひっくるめて、世界は内部だ。書き手にとっても、受け手にと ギラしてて、とっても感じをだしているのです。結局、言葉だけっても、この関係は一方的だ。ここで問題は円環する。 が、一等美しい バラードが便宜的に名付けた《外的宇宙》に属するものとしての トがふり返ったリアリティとは、結局のところ、 tn にと古いサイエンス・フィクションーーーそして《内的宇宙》のものであ ってのリアリティではなかったのか。が、物語るものとして欠る作品たち。結論は単純だ。「なぜ、今、パラードなのか」だった 如させてきた背後こそは、奇妙にパラードの風景によって暗示されはずだ。だから、今はもうそうではない、それだけだ。 ラー。トよ、 る。そんな荒廃を、確かには孕んでいるだろう。 どうもイケナイ。昔の話はヤ・ハイので、ぜんぜん面白くない。や その作品展開をと敵対的に押し進めることによって背後へと転つばり次回からは、楽しい話のついでに、少しずっときほぐしてい 落したけれど、そこでにとっての不毛こそが、また自己のアイきたいものですネ。はずれちゃったものについて書いていると、い デンティティの決定的欠如を物語ることを発見しないわけこよ、 たわりが先立って、ダメおやじの心境なのダ。コルシテ。少し酔っ なかった。彼の《風景》は、余りにも正しいリアリティであって、 ばらってしまったみたいです。 それを超えない。完全に喫起性を奪われたコト・ハの群ーー本来的に 言語こそが夢想すべきアイデンティティを、・ ( ラードはコト。 ( の貼次第に、現実すら自分で作りあげなくてはならないので、これほ 付によって獲得しようとするのだが、それはリアリティに、当然のど気楽な毎日はありようがない。「幻狩」という同人誌が時々ばく ことながら呑みこまれて漂白されるだろう。自我なんてものは、創の所に送られてきて、その総体としてのすさまじさははるかにバラ りでもしないかぎり、特にそんな余地のない僕等にとってあるはす も ートのそれを起えている。これがリアリティと言うものだ。 。、ないのて、バラード が遂に辿りついた《風景》が、チャネルにようどうしようもない表現としての表現ーーほとんど植物にとっての 「て断章化され、実際に何も起こりようもないフ = イスである外部だけを表現するのは、今も 0 ともイノセントで敏感なこの部分 のは、極めて重要な悲劇だ。・・バラードのコンデンスト・ノ たち。だから次、オモシロオカシク : : : オモシロオカシク創りあげ ヴェルはテレヴィジョンであろう。 るのは、アイデンティティであるはずだ。コトく ′力やはり一番に 美しい 想像力の問題だ。結局、もう見つけることはなんにもならないよ ( 以下次号 ) うな気がするよ、というだけの、とんでもない遠まわりだ。と言い ながら、なんと全ては僕の内部だし、あなたの内部なのだ。これは

5. SFマガジン 1974年3月号

り残されて輝いていることを望んでいる。サイキデリック時代に、 〈ニュー・ワールズ〉誌Ⅷ号 まるでパ・フルガムみたいな音をだした。ヒンク・フ尸イドーーでも、 8 ちっぽけなラジオのなかで生きていた彼等はステキだった。キンク スっていうのは僕の高一の頃のお気に入り、それにリヴァプール・ . 終の号 ファイ・フは中学生かな ? : : だから僕はもうキンクスなんて聞かな こ次 ただる し。だ力、パラードの作品だけは、とり出さずにはいられない。そ っんげ なれさとの巨大な不毛は、恐らくの背後を的確に照射するのだ。 とさはを たとえば、自分はフィクションであろう。唯一のアイデンティテ 転が休な イは孤立だけが錯覚させる。あなたに、ほんとうの僕を見てほしい ド辺定んだけれど、そんなものはないんだから、僕は、あなたに、僕を生 。 ~ ( ~ 第を第 - ラの誌産しつづけなくてはならないし、それがアイデンティティなんじゃ 、第第 ( 豊鰲ー ~ ( 洋バ着雑・か ないのかしら。 だいたい、ちょっとでもメッセージがきいてると手もなくいかれ ちゃう悪いクセは、昔から。たとえば前回にちょっと書いたユー丿 われわれに反対し、われわれのことをまったくでたらめであると ・オレーシャの短篇、『鎖』 ( ″チェーン″と訳すのが正しいんだ か、なにもかもまちが 0 ているというなら、それはいっそうよいこと思うよ、自転車の話なんだから ) のラストはすばらしい とであり、われわれが敵とはっきりと一線を画していることを証明 いまわたしはとりのこされている、わたしがとりのこされて しているばかりでなく、われわれの仕事がひじように成績をあげて るさまを見たまえ、わたしはチョコチョコ歩いている : : : 短い脚 いることを証明している」 これは神話だ。 にのつかった太っちよなのだ : : : 見たまえ、わたしにとって走る 〈新しい波〉は、きやっかん的に、時代の崩落現象として決定的に ことがどんなに困難であるか、けれども、わたしは走る、たとえ あったから、それは正に闘われることたけが唯一の意義であったは 息を切らし、たとえ足がぬかってでも : : : わたしは世紀の轟く嵐 ずだ。「帝国主義が全面的な崩壊にむかい、社会主義が全世界的勝の彼方に走るのだ ! ( 品文社刊『愛』所収 ) 利にむかう時代」 ( 林彪 ) にあって、それは、状況こそが〈新しい こうした言語の喚起性こそは、全ての趣味主張ーー・イモヅル嗜好 波〉に否応なく正解の烙印をおしてくれていたはずなのだ。正義はを統御する。重大だ ! 今頃にな「て大好きだとさわいでるフリ 正しく人民のものだったのだけれど。〈新しい波〉とは、そうした それも新メン・ ( ーの "Heartbreaker" は、ちょっぴりャル気が違 ものだ。それ以外のなにものでもありはしない。そうした時代にあってる。 "Wishing って、作品は、ただ単に″書かれる。ことで自らを支えきったろ Throw down your gun, う。それは状況の海で泳ぐ魚みたいなもので、つかみだされると死 You might shoot yourself んでしまう。数多くの〈新しい波〉てき作品たちは、そのようにと 0 月 is that what ) 「 ou e trying ( 0 do

6. SFマガジン 1974年3月号

】「ポーランド一のーーというよりも社会主義展望できるあり得る未来を、彼流に設定したワ文庫・二三 0 円 ) などが出た。 ・・・一圏一の作家スタ = フラフ・レムのがということになるが、その未来 , ーー五世紀の異色のノンフィクションとして、コナン・ ドイルの晩年の心霊学的著述『神秘の人』 久々に出た。一九六七年度作品の『宇宙創世ちの二五二七年ーー・は、コン・ヒ = , ータ 1 ・が 記ロポットの旅』 "Cyberiada" ( 吉上昭三・極度の発達をとげてすべての人々が〈快楽の "The Age of the Unknown" ・き ( 小泉 - オ・一村牛義治訳・集英社・五八 0 円 ) である。レ友〉という末端器を持ち歩くことによってあ純訳・大陸書房・九五〇円 ) があげられる。 コナ・ン・ドイルが、晩年心霊術に傾倒し、精 イ・一ムの作品はシリアス・タイ・フの『ソラリスのらゆる情報や通信、物質転送などのサ : ビス - ・、・ - 一陽の下に』や『星からの帰還』と、『泰平ョを受けられ、死者は完全な蘇生医学によって力的にその普及を計って世界中を講演旅行し ・ - ・一ンの航海日誌』のコミック・タイプとがわが向度でも生き返り、さらに未来を望むものはて歩いたことは知られているが ( 『マラコッ ト海淵』の後編や『霧の国』ではかっての科 - - 一国には紹介されているが、本書は後者に属す冷凍処理によって何百年でも冬眠していける 学主義者ドイルは完全に神秘主義者に変貌し ◆ . ・る寓話。陽気でエネルギッシ = で万能のという世界である。そこへ送りこまれた現代 ている ) 本書は没年に出版された遺作で、著 了◆ , ◆二人の宙道士・ーーじつはサイ・ハネティクスの人が、五世紀のタイムラグにまごっきなが 名な奇術師フーディニや超能力者ダニエル・ が、広大無辺な大ら、ついにはシリウス宇宙人や反機械運動者 〉・◆・◆・◆粋をつくしたロポット ホームをはじめ、さまざまの超能力者の数多 〉・◆・◆・◆宇宙を旅しながら、さまざまな星の種族に出の反乱にまきこまれていく・ : くの事実を集め、心霊の存在を立証しようと 〉・◆・◆・◆会、 し、いろいろな冒険に巻きこまれながら、 このほか、文庫ではジャック・ヴァンスのしたもの。 ルース・ムーアの『地球の探求』 "The 了◆・◆・◆人々が正義と平和を築く手伝いをするというアダム・ ) ー ーズ『冒険の惑星Ⅱ』 了◆・◆・◆物語が、レム一流のウィットとユーモアと、そ "Servants 。「 The Wankh ・ : 69 ( 中村能三 Earth We ・ 0 on" ・ 71 ( 竹内均訳・日本 9 9 3 して借物でない。ポ , ト工学の知識に裏づけ訳・創元推理文庫・一九 0 円 ) ーー・・地球から一一放送出版協会・上下各七五〇円 ) は、最近数 3 られた諷刺とを、ふんだんに盛りながら展開〇〇光年余はなれた惑星チャイに孤立したリ多く出版されているこの種の解説書の中で も、とくに出色のものといってよく、われわ ・・・一される。『泰平ョン』より後期の作品だけースが地球へ帰還するため宇宙船建造の目的 れの生きるこの地球が、過去から現在にいた に、寓話との部分の融合もより巧みで、 で未知の国へ挑むーーアンドレ・ノートンの るまで、人々によってどのように見られ、探 『猫と狐と洗い熊』 "Catseye't ・ 61 ( 井上一 ・ - ・一ユーモア短篇としてもすぐれている。 究され、そしてその姿を現わしてきたかが、 - フレデリック・ポールの『臆病者の未来』夫訳・創元推理文庫・一九〇円 ) ・ーー大宇宙を 歴史的、人物本位 ・ - "The Age of the Puss 0 。 t ・ : 69 ( 中尾明二分する二大勢力の冷戦下のリゾート惑星コ な書き方によって 実 ・ - ・一訳・ハヤカワ・・シリーズ・四二〇円 ) ーウォーで、動物とのテレバシー交信のでき ぎわめて明快にわ - ・・ - 一は、この作家のよく描く未来小説の一つだる主人公が宇宙の謀略と戦いながら地下世界 正 かってくる。一種 ョ マール & ダールトンのローダン・シリ ◆・◆・◆か、かなり自信があるらしく、序文にも「へ の地球科学的発見 - - - ・一をまともに読まない人々に、・せひ本書を読 ーズ『核戦争回避せよ ! 』 "Der Atomk ・物語である。 ◆・◆・◆んでもらいたい」と書き、さらに後記までつ rieg Findet Nicht Statt Thoras Flucht" 読者にとっては、 >- ◆・◆・◆けて、この作品が「根も葉もない作り話とし・ 6 ス松谷健二訳・ ( ャカワ文庫・二六〇地球観の変遷その 当 ◆・◆・◆て書いたところのほとんどない」小説である円 ) およびノーヴェル・・ペイジのヒものが、的発 海 日一 ◆・◆・◆所以を説明している。この後記によると彼ロイック・ファンタジー『炎の塔の剣士』想の源泉となるか は、現在の科学・技術をよくのみこんだ上で "Flame Winds ・ :38 ( 関口幸男訳・ハヤ力もしれない。 ー 20