笙子 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1974年8月号
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1. SFマガジン 1974年8月号

・ほうぜんと立ちすくな葛屋重三郎と歌麿の耳に、廊下のはずれあ . なに ? 笙子が目でたずねた。 いいんだ」 たりで、男の絶叫がはしり、それが中断すると急にしいんとなり、 「いやね。感じわるい」 それきりもう何の物音も聞えてこなかった。 「いや。別にどうということはないんだが。いや、あるかな」 「元さんらしくないこと。はっきりなさいな」 葛屋重三郎も歌麿も、この日のできごとについては生涯、人「それじゃ聞くけど、笙子ちゃん、歌麿にさ、ほんとうにその、や に語ることがなかった。ただ、重三郎の日記には《備前岡山の一竿られたのかい ? 」 「あら。そんなこと、どうだっていいじゃない」 堂なる人物。不明にしてはばかる事多し》とのみ記されている。 笙子の首筋にうっすらと血が上った。それを見た元の目が兇悪に 写楽落款の異色の一枚絵は、ついに百四十八種をもって終った。 常盤津君春を描いた未完の版下絵は、東京の某氏の所蔵するとこなった。 笙子がなにげなく顔をそらせて、テ 1 ブルの上のアイネペールに・ ろとなっていたが、昭和二十年三月、戦災によって失われた。 手をのばした。 4 「笙子ちゃん ! 」 「ねえ。あなたがたもよく気をつけてちょうだいよ。歴史的な事件のり出した元のひざを、かもめの手がいやというほどっねり上げ に手を加えるとか、時間を逆行させるなどというような大きな活動た。元は顔をしかめてしりそいた・ はすぐ気がつくからいいけれども、時間密行者がむかしの品物を現 よいの銀座の騒音が、汐騒いのようにこの画廊の奥まった一室に 代に運んで、ひともうけしようなんていうのはなかなか発見しにく もったわってきていた。 いからね」 笙子は支えた水割りのグラスに目を当てながら言った。元もかも めも身をちぢめた。一竿堂喜衛門と名のっていた時間密行者が、た またま元の店にあらわれなかったら、元は気づかなかったところだ 「お姉さん。たいへんだったわね」 かもめがいたわるように言った。 「それで、その : ・ 元が言いかけて口ごもった。 4

2. SFマガジン 1974年8月号

「三宅さんが新発見の写楽を一堂に集めて展示しようというのよー 「どこで ? 」 「ここで」 「それは呼物になるな」 これは画廊にとっても、たいへんな宣伝になる。 「三宅のおじいさん、よっぽどお姉さんに気があるのねえ。そうい う展覧会って町の画廊でやるものじゃないものね」 かもめが首をすくめた。保険料や出品者への謝礼など三宅の出費 さな目、一文字に結んだ薄いくちびる、ゆがんだ顔などは様式化さ はたいへんなものだろう。三宅には一文のとくもない。ただ世の愛 れた美しさとはまるで裏腹でむしろチンケではあるのだが、それが すなわち写楽の受けた印象なのだ。その顔が生きた人問の顔であ好者のためと、笙子の画廊のためという二つの動機しかない。 り、声をふりしぼり、舞台を踏み鳴らしている役者そのものの顔な「泣かせるう ! 」 のだ。 「かもめちゃん ! 」 だがこの写楽の似顔絵は、とろりとした美しいだけの似顔絵を求笙子が綺麗な目でかもめをきゅっとにらんた。 める当時の大衆には当然のことながら好まれなかった。役者たちは 「それで何か問題があるのか ? 」 元が笙子にたずねた。 写楽の絵にはげしい反発を感じ、中には評判を落そうとしてこのよ うな絵を描いたのだろうと言い出す役者さえいた。一部では熱狂的「あなたがたにわざわざ来てもらったのは、そんな展示会のことじ はんもとったや な支持者もいたが、板元の葛屋重三郎が出版をためらうにおよんでやないの。実はあたしが気にしているのは、な。せ近頃、これまで未 ? ・としうことな 写楽は急激に制作意欲を失ったらしく、一「三の駄作ともいうべき発見だった写楽の絵があちこちから出てくるのか のよ」 役者絵を最後に永久に江戸の画壇から姿を消してしまった。 美人画の歌麿とならんで、 . 役者絵の写楽といわれ、浮世絵の神髄・笙子の声が翳った。 「なるほど」 を最高度に高めたこの写楽の絵が現代で再認識されたのは残念なが ら日本ではなくてフランスやドイツ、アメリカが先だった。その印「事務所の小島くんに調べてもらったのよ。そうしたら、新発見の 象主義的表現はフランスやアメリカの画家たちに強い影響を与えて写楽は全部、同じ人から出ていることがわかったの」 いる。 「誰です ? 」 「台東区の仲御徒町に住む関根という人よ。でも、この人、絵とも 古美術ともまるで縁のない人なの」 「誰かほかの人にたのまれたのではないかな ? 」 いえ。写楽の絵なんていうものはね、名刀と同じで、これまで 知られていないものなんてないのよ。絵は知られていなくとも、な んらかの記録は残っているものなの。それに小島くんの調査では、 この人から先は全くつかめないの。まるで、この人の手元に湧き出 したような感じなのよ 小島青年の調査能力は信頼できる。 5

3. SFマガジン 1974年8月号

て、ふつう同業者にでもくわしく話すことはしない。ましてそれが店につるしてある古い柱時計が九時を打った。 たいへんな掘出物ともなればなおさらのことだ。どんなことで商売「明日、国立博物館に包平を持っていって鑑定をたのんでくるよー に水をさされるかわからない。 テレビが時代劇をはじめた。かもめがつい、と立ち上った。 それで、友達の徳さんは元のたずねることにこころよく答えてく「あたし、おぶに行ってくる」 れた。新宿で彫美堂という店を開いている徳さんは、一週間ほどそのとき電話が鳴った。 《目 、建武の頃のこれも名刀、義弘を、店にやってきた男から手に入 3 れたという。この義弘はこれまで銘の確実なものはなく、義弘と判 断されるもののすべてが銘を磨上げて無銘となっている。徳さんが電話を受けとった元とかもめが銀座の画廊『青竜堂』をのそいて あるじ 手に入れたものはあきらかに義弘の作風でしかも銘が入っているとみると、奥の応接室のソフアに女主人の笙子が一人身を沈めてい いう。元はまだ見せられていないが、さびひとつなく、無条件に二た。入っていった二人を見ると目で椅子を指して 千万円の値がつくという。元が声をひそめて、備前包平を手に入れ「おすわりよ」 たことを言うと、徳さんはうらやましそうだったが、わがことのよ と言った。それきりまたあごを着物のえりに埋めた。軽くひざを うに喜んでくれた。 組み、袖口に両手をさしこんで胸の上に置いた姿勢のままじっと何 「元さんよ。これはどこかの愛刀家がそっとコレクションを放出しか考えこんでいる。ふだんからすきとおるようなほほが気のせいか すいしんし ているんじゃねえかな。府中の方の刀剣屋でもよ、水心子を手に入蒼い。無雑作に束ね上けた髪から首すじに垂れたおくれ毛が、窓か れたやつがいるんだと。これも一千万円以上の品らしい。だけど元ら入る風にかすかにゆれていた。 さんよ、おれはこの商売をもう三十年もやっているが、国宝包平が 元がセプンスターに火をつけ、かもめが爪先にひっかけたサンダ ルシューズで何かのリズムをとりはじめた。元のたばこが灰にな もう一本あったなんてことも、在銘義弘があったなんてことも知ら なかったよなあ。世の中はひろいもんだ」 り、かもめが小さなあくびをかみ殺して手の甲でロをぼんぼんとた 徳さんの所へ義弘を売りに行った男は、あきらかに元の店にあらたいたとき、ようやく笙子が顔を上げた。 われた男と同一人物だった。府中の刀剣屋へ水心子を持っていった 「ごめんね。どうも考えがまとまらなかったものだから」 男も、おそらくかれであろう。 二人ともその点は馴れたものだった。いったん笙子が考えごとを 「食べないならしまうわよ ! 」 はじめたらはたで何を言っても耳に入らないのだ。 また、かもめがのそいて形のいい眉を釣り上げた。元はしかたな「今日、三宅さんが来たのよ」 くのそりと立ち上った。 笙子は袖口から両手をぬくと上体を起した。 「熱心だこと。そのようすじゃお姉さん、だいぶ心を動かされたよ 2 2

4. SFマガジン 1974年8月号

歌麿さま参る ーーー笙子夜噺 光瀬育己画 = 石井三春 名刀ー備箭国包平、幻の浮世絵師ー写楽 それらを始めとして国宝・重文級の作品が 次々と古道具屋の店先に持ち込まれ始めた 異常を察して時翔る時問局員一そして真相は ? よばなし を一こ 了ロ

5. SFマガジン 1974年8月号

「大丈夫だ。禄造はほんものの盗つ人だし、蔦屋でも、盗賊に混つく一箱というところかねえ」 「それは日用之品加不足帳というやつを見れば手がかりはつかめる 3 て、そうでないやつがいたとは気づいてはいない。それにしても、 かもしれないが、かんじんの写楽の名が葛屋私家名鑑に戴っていな 禄造のやつは、役に立たないなかまを引込んだものさ」 いとなると、ちょっとあぶないな」 汗に濡れた元の背中を、かもめがぬぐってやる。折鶴模様の糊の はやり きいたゆかたが、近頃、江戸で流行のおさふねとよばれるつぶし島笙子が体を起してすわりなおした。 田によく似合って、見違えるような町娘になっている。 「いいわ。葛屋に出入りしている絵師の中に、写楽という人物はい ない、ということがはっきりしただけでも成功よ」 「それで、結果はどうだった ? 」 「それがどうも妙なんだ。蔦屋の帳場の書類棚の中から、私家絵師「それじゃ、第二段階だ」 葛屋の帳簿をひそかに調べるという作業は、葛屋に押し入ること 名鑑という帳簿を発見した。葛屋に所属している絵師の名簿だよ。 画風や人気の程度なども書いてある。だが喜多川歌麿や勝川春潮、を計画していた盗賊の禄造という人物の存在を察知して、かれに接 鳥文斉栄之などの名前はあるんだが、東州斉写楽の名は見あたらな近することによって成功したが、そのようなめぐまれた条件はいっ いんだ」 もあるとはかぎらない。 「ほかに帳簿はなかったの ? 」 何におどろいたか、背後の山で、眠りをさまされた蝉がひと声高 かもめがたずねた。 ~ 、、チィーツと、こ。 「私家絵師名鑑というのは一冊きりだった。葛屋はかなり大きな地 本問屋だが、おかかえ絵師はそう多くはない。二冊にわたることは根津権現下の宮永町。作右衛門店の傾いた棟割のいちばん奥が植 木屋の手伝い職人、五郎吉の住いだった。 ないだろう」 「写楽は葛屋にはずいぶん世話になっているのだし、当然、葛屋所そこへこの二、三日、ほれ・ほれするような年増と器量よしの娘が ころがりこんでいる。時おり、その二人をたずねて若い男もやって 属の絵師として登録されているはずよ」 くる。五郎吉の話では、女二人は出入りしている大きな植木屋にゆ 流れてきた蛟やりのけむりを、うちわで軽く散らしながら笙子が わけ かりのある人で、なんでもたいそうな事情ありで、ちょっと身をか 首をひねった。藍染の薄い単衣が白い肩からずり落ちそうなのが、 元の目にまぶしい くすというような按配であずかっているのだそうだ。 五郎吉というのが、植木屋の職人なかまでは実直で通っていて、 「あとは大福帳に、写楽に払った謝礼の分の記入があるはずだが、 とっ これは現金で払っていない場合もあるから、あまりあてにならな長屋でも信用されているから、差配の吉兵衛爺さんも気にしていな い。二人は引込んだきり、あまり姿をあらわさないが、愛嬌はい 。五郎吉は、上りつばなの板敷で寝起きして、たったひとつの六 「写楽のもらう謝礼というと、品物だとすると反物二反か、ろうそ だな

6. SFマガジン 1974年8月号

「こいつはちょっと気になるぜ」 「いや。おつもりだ」 「でしよう ? 」 八ッ半にここへ来て、ししやもで飲み、それから奥の座敷へ移っ 2 「これはこの頃、あちこちでこれまで知られていなかった名刀が売て、かねてお目当の、この店のおしなという女と二つやり、また、 りに出されていることと、何か関係がありそうだ。笙子ちゃん。おこの風通しのよい縁台に移って飲みなおしていたのだった。 れの所へ包平を売りにきた男は、もしかしたらその関根という男と ここへ来て気散じするつもりが、かえって妙にしこりが残った。 同一人物かもしれないそ」 気になることだけが、あとに残った感じだった。 「行ってみましようか ? 」 上州無宿、禄造、世間では日本橋本石町糸屋仁助で通っているか いけのはたしの 「ああ」 れが、下谷池端忍が岡に店を構える地本問屋、葛屋を襲うことを 三人は頭を見合わせると立上った。 計画してから、もう三カ月もたっていた。その間に、葛屋の下女か ら、家人や住込んでいる職人たちの寝部屋の位置や勝手口のよう 事務室では小島が一人、机に向って週刊誌を読んでいた。笙子はす、人の動き、などを聞き出していたし、出入りの大工や左官など 小島に何かこまごました用を言いつけたあと、事務室の奥のドアをからそれとなく聞き出した話をもとに、家の見取図も作ってあっ 開いた。三人がドアのむこうに吸いこまれると、ドアはびたりととた。 ざされた。 もともと人の出入りの多い、はでな商売の地本問屋だから、夜が ふけてもそう警戒はきびしくないだろうというのが禄造の目算だっ 壹押込み忍が岡 こ 0 しのばずのいけ 「それにしてもな : : : 」 不忍池を一面におおった蓮の葉が、大きくゆれ動き、いっせいに 白い葉裏をひるがえすと、やがてさわやかな風がこちらへ吹きわた 禄造はこの道に入って古いだけに、事にあたってはおく病なほど・ ってくる。朱を溶いたようなタ焼けに、本郷、小石川辺の山が、影慎重だった。 絵のようにくつきりと浮かび上っている。 「ああ、遊んだ。姐さん。今、なんどきだえ ? 」 禄造のつぶやきに、女は上体を動かし、小首をかしけてつづく言 水茶屋『若鶴』の、軒端近く寄せて据えた縁台で、禄造は大きく葉を聞きとろうとした。だが、女はそれが自分に向けられたもので 背をのばした。 ないと知ると、もとのようにひかえた。 「さっき寛永寺が六ツを打ちましたよ」 禄造はこんどの仕事に、四人の手下を按配していた。家の中に踏 禄造はうなずいて、まだ残っていた徳利の酒を盃にあけた。 みこむのは禄造と、佐吉、加十の三人。耕助はすぐ二階を押さえ 「あら。お酒、換えましよ」 る。新七は裏へ回って、逃れ出るやつをくい止めると同時に、退き・