作品 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1975年1月号
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1. SFマガジン 1975年1月号

なっ子は、格子戸をしめて、ショールをはずした。男の声が聞え ふすまをあけると、 竜華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶「やあ。お邪魔しているよ」 なからいとうすい えて聞かざりき、有し意地をばそのままに封じ込めて、此処しば東京朝日新聞の小説記者である半井桃水が、白い額にかかる髪 らくの怪しの現象に我れを我れとも思はれす、唯何事も恥かしうを、片手でかき上けながら会釈した。 のみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入「いらっしゃい。 今、《文学界》の原稿を投函してきたところです」 れ置きし者の有けれ、誰れの仕事と知るよし無けれど、美登利は 「ほう。《たけくらべ》もいよいよ完結ですな。あれは、貴女の生 何ゅゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく涯で、そう幾つもできない傑作のひとつですよ」 清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信桃水は、、 しつものくせの、そんな誉めかたをした。 如が何がしの学牀に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。 「どうせ私はそう幾つも傑作は書けませんですのよ」 からかね なっ子は、つんと澄ましてみせ、唐銅火鉢のこちら側に座った。 なっ子は筆をおいた。前の方から、すっと読み直して、現象を現その火鉢は、前年、彦根中学の英語教師になって赴任していった馬 象と読んでくれるかどうか、気になったのでルビを振った。思った場孤蝶が、要らなくなってくれていったものだった。 より良いできばえたった。 「なっ子さん、いや一葉君」 まあ、こんなものだろう。 半井桃水が、あらたまった調子で、かたわらに膝をそろえている 原稿用紙をそろえ、右上すみに錐で穴をあけた。反古の和紙を細男を見返った。 かんより く裂いて、観世縒を作った。一作成しとげたあとの満足感と解放人前で桃水になっ子さんと呼ばれるのは閉ロたった。そうでなく 感は、このひとときにある。なっ子は、その観世縒でたんねんに原てさえ、世間は、なっ子と桃水の間を、できているとしている。 稿を綴じた。 「この人はね、畠芋之助君ですよ。一度、一葉女史にお会いしたい と頼まれていたものだから、今日連れてきました」 それを大判の封筒に収め、《文学界》の編集部あてに郵送する。 これは一月三十日発行の第三十七号に掲載されるはずたった。 なっ子も、畠芋之助の名は覚えていた。博文館の《太陽》や《文 芸倶楽部》に、時おり作品を載せている作家だった。作品は通俗を よみほん 帰ってくると、せまい玄関に見馴れた黒の短靴と、誰のものともねらったものであり、ややもすると講談読本調に流れるのが、なっ しれぬ草履がならべて脱いであった。 子の好みに合わなかった。実際、有力な小説記者連や、文壇の師匠 誰か連れてきたのかな ? 格の先輩作家が、かれを話題にとり上げたこともなかったし、なっ る。 幻 2

2. SFマガジン 1975年1月号

日本の作家は何所へいったのだろう ? ものか ? 両方 ? これが最近僕を悩ます問題である。 狂い十周年という記念すべきお便りがポッ 芸術といえるものなのか ? 文学 ( 直木賞選考 8 になり、以来ンンカ月ムクレておりました。他の日本の作家 ? いるじゃないか、小松委員の意味するのとは別の ) であるのか ? 娯楽 本ならいざ知らず、の手ほどきをしてくれた・星・筒井・光瀬・半村 : : : 。そうだろうか ? 小説引僕にはまるつきり見当がっかない。本来 2 : いまだに信彼らは作家なのだろうか ? あのがイジワルするなんて・ : 結論づける問題ではない、といってしまえば終り いんなあとりつ ・じられません。 " てれぽーと。に初めてお便りし星氏のシ = ート・シ , ート だが、誰か意見のある人、それを聞かせてくれ ! たのが十三の時。それが十年ぶりにお便りしたとぶ誌に載っているのを見るとすごく通俗的。 話かわってーー・・十一月号。 小松氏の日本沈没ーーあれは小説だ。 いうのに : : : 冷たいそ。年増は嫌いだなンてゼイ ナンセンス特集ーー馬鹿らしかったーーナ タクです。もうこうなったら五〇周年記念にも投半村氏の中間小説誌に目白押しの作品群ーー・伝ンセンスだからこう感じるのが正しいフ 田中光 書などするものかと、かたく心に誓いました。奇作家。 二氏の作品は何もわからないままに終ったらよか は創刊号以来のシンパをまたひとり失ったの何故かひどく物足らないし、淋しい。初期の作ったのに。もうひとりの田中氏は何故これが佳作 品の熱ぼさ、いかにも、した所が抜けてなの ? 入選作よりずっといいと思うがなあ。ひ 冗談はさておき、十二月号の森田賢さんへ。一きている。それは、作家が成長し各自の得意なジよっとしてこの田中さんは荒巻義雄氏の偽名で 部のの文章がわかりにくいのは、アレ日本語ャンルをものにしたからで、喜ばしいことかもしは ? モチーフが似ている気がする。結論ーー今 じゃないからですョ。文学とは認めかねるなどとれない。でも、僕は不満である。豊田有恒氏の古月号で良かったのは『夏の旅人』とスキャナーと 言われる理由のひとつでしようね。ヒドイ人はト代小説からまるつきり味が失せたこと、平井川又氏のエッセイ : : : と、″てれぼーと″ コトンヒドイ。文章が練れていません。子供に道氏の殺人地帯のように重くのしかかってくる文章話はまたかわって、の内味がどうなろう をたずねたようなものです。描写が不正確なうえがアダルト・シリーズみたいに軽くなってきたこと角田さんの表紙絵が続くかぎり買うのだ、ウン。 に舌足らず。ロの中にはアメ玉まで入ってます。と。中間小説誌でないと、小松・筒井・星・半村 , ーー小生、高校生主体、初心者ばかり、万 ( ワッー ョダレ ) こんな作品に出会った読者は・平井各氏の作品が読めないことなどが。 年金欠、会員十名足らずの微小ファングルー。フを 被害者。自分の脳ミソが足りないのではなかろう外国の作家から受けるいかにも的な感覚がやっております。いや最近作りました。興味のあ か、などと悩む必要はありません。 何故日本作家から受けないのだろう。 ( 『果しなきる人は手紙でも出してください。女性大歓迎、男 ただ、漢字を制限しろという御意見には賛成で流れの果に』『たそがれに還る』などでは感じた性不承不承、中性お断わり。 きないのです。漢字がジャマになる場合の多くがが ) 欧米に対するコンプレックスーーそうかもし最後に、色々と勝手なことを書いて諸作家の方 ・作者の言語能力に欠陥のあるところに生じるようれぬーーそうであ 0 たほうがよい。が、も「と独方ゴメンナサ・・・ = ・なにも謝ることはないのだ , ・ = = です。だからといってへタッ。ヒイな作者から漢字断的なことを言わせてもらえば、欧米の作家はでも、ゴメンナサイ。 まで取り上げてしまったら公害になります。幼児をとして書いているが、日本の場合は小説 ( 神戸市北区鈴蘭台東町 7 の 9 の四古沢通 ) のおしゃべりをひらがなでロ述筆記するようなもの手段として的技巧を持ってきているのでは おわび のでしよ。それを読まされるなんてオソロシィー 。と、ここまで書きたい放題書いてきたが、 先月十一一月号てれぼーと欄、最初のお便り ですから読者としては日本語のローマ字化に悪やたらにらしさとか味とかいうのが出て の松岡秀樹さんとなっているのは、東京都杉 くこだわった明治のヒトの真似などなさらずに、 きている。はたして、味とは、らしさとは、 並区荻窪 1 のの幻和田倫明さんのまちが 作者が漢字をごく自然に使える程度には日本語にまたとはなんだろうか ? いでした。おふたりに大変御迷惑をおかけし 習熟してくれるようにシッタゲキレイしようでは はサイエンス・フィクションの略か ? フ ましたことをおわびいたします。 ありませんか。 アンタジィーも入るのか、スベキュレイティヴ・ フィクション、ハード、ジュビナイル、ナンセ 以上ヒドイ日本語の例です。 ( 藤沢市藤が岡 1 のの幻の齠渡辺品子 ) ンス、それともそれらの総称的名詞なのか ? 現てれ。ほーと欄に掲載された方にハヤカワシ 実からの逃避の手段か ? 逆の現実認識のためのリーズ最新刊を進呈いたします。

3. SFマガジン 1975年1月号

スレスレだ じめてアート部門が加わり、さらに作 ったみなさ らしさ″からの脱出を真鍋博家の台頭でマスコミへの力も得てきたの んへ で、これからはアーチストの登場がさ かんにはじまるし、グラフィック中心のイ 野田昌宏星新一、小松左京、筒井康隆をはじめと する作家の社会的進出で、は文学ラストの領域をさらに大きくひろげる力に もなるだろう。 望月勝美としての市民権を完全に獲得した。しか ~ 、物 ( さん、中島し、アートはイラストとしての市民権今回入賞した作品は、いずれも高度な技 ~ ■一淳さん、森をまだ得ていない。今年の「年鑑イラスト術をもった作品だが、描かれたモチーフ 本辰史さん、平沢卓さんーーこんなにも技レーション」にも画はほとんど収録さは、惑星や宇宙人やサイボーグといった Ⅷ術がしつかりしているのに、なぜ、かくもれていないのだ。というのは、人物やファ画に必ず登場するいわゆる″画″調 ッション、乗物やイラストマップ、理科美が多い。佳作になったが、畠山弥生さんの ) 的に乾燥無味な、ーー描きつくされ、だ れでも描く、つまらない画を描くんでしょ術や建築パースの視覚表現とちがって、作品は、調でない人の顔や花を描いて 画は″一枚のドラマ〃であり、ストーリュニークだった。 う ? 惜しいなア といえば即宇宙世界でなく、地球内 福井一夫さん、潮田保子さん、一杉治美ーをイラストレーター自らがつくって描い イラストの部、いや人間内部の世界のフィクションで さん、あなたにとってがどんなものなていかねばならないという なかでも難作業中の最たる仕事であるかあり、ファンタジーである。・ほくは自分の のか・ほくにはよくわからないのですが : らだ。しか未来的イラストと対照的によく民話を読む それでも、これからなにか出てきそうな気「 ' 一「第 , も、 (f) と が、民話のもっ超次元や超発想にしばしば 。がして、とくに福井さんの忠則ばりのイヤ一 ~ 一を一 ~ 、 いう四次元を感じることがある。 ったらしさはたのしみです。一杉さん早 ( 「 : 画の領域は、もっともっとはてしな 世界を印刷 血く真鍋さんを越えてください。 いはすだ。そしてさしえという視的説明を 手段という : 久本康雄さん、谷崎正人さん、田中洋子 二次元の手脱皮して、さらに小説を超えドラマを超拡 一さん、町田昌之さん、わかるんだな , 、あ なたの頭の中にもやもやしているものが : 第一 ( 物 ~ 段におきか散するようなアートを次回の 0 テストで ・ : 。なんとかもうひといき、基本的な画の ない。だから、いままでこの分野でイラス t 技術を身につけて欲しいものです。但し、 その結果がアメリカ本の表紙のコ。ヒー ト界の一翼をになうようなイラストレータ 叫にならぬことを願っています。 ーの作家群が登場しにくかったし、仕事の 領域もせまかった。 しかし、早川のコンテストに今回は 9 8

4. SFマガジン 1975年1月号

雑誌「新青年ーを中心に活躍していた人だ。 ばりわからないだろうから、短篇集の腰巻きに載った 三冊の短篇集はその「新青年」に昭和二十三年ごろか〈評〉を読んでいただくことにしよう。 ら連載された〈まぼろし部落〉を中心に編集した作品集 だが、このシリーズは発表当時大きな話題を呼び、二十この「不思議小説」には諷刺もあり、ユーモアもあ 四年と二十六年の二度、直木賞候補になっている。惜く り、また多少のニヒリズムもまじっている。ボウとか、 も受賞にはいたらなかったが、三橋一夫の名前は戦後ホフマンなどを連想させるが、むろん、そういったもの 「新青年が生んだ唯一のファンタジイ作家」として記憶の亜流ではなく、独自の個性をもっている。この作者の しておきたい。 個性は、ボウなどには見られぬ一種の飄逸の味をもって さて、その作品だが、この紹介が大変にむずかしい。 ファンタジイ作家というのはほとんど誰でもそうだが、 また、この作者は不思議な才能に恵まれている。むろ ストーリイよりもムード、フィ ーリングが勝負だから、 ん、これまでこの種の才能が登場しなかったのではな 間に中継者が入ってはどうも、作者の心が伝わらない。 。残念なことに怪奇小説やユーモア小説などに流され したがって、「招く不思議な木」「ばおばぶの森の彼方」ていってしまうのが常であった。そういう伝統に抵抗す 「鏡のなかの人生」「空袋男」といったタイトルだけのほるならば、文壇小説に新しい窓を開くことは疑いのない うが、むしろ感覚的にわかっていたたけるのではなかろところだ。 うか。むろん、作品をそのまま引用すればいいに決まっ 〈サンデー毎日〉 ているのだが、。 ヘージ数の都合上、それもできない。し ーー、物ー、、し、これ 三橋君の不思議小説は決してただのナンセンス物語で はない。高級なる哲学と素質の所産であり、かの妖怪ア 《 ( 物・僞たけでは、 マデイウス・ホフマンの塁に迫る質量を内に蔵して螢然 せつかく、 ぼくが三橋と輝くであろうことを、ここに予言して散てはばから 一夫というぬ。 埋もれた作 〈林房雄〉 家の名前を だしてきて生きる苦しさと悲しさの中から、譬えようもなく美し も読者にはく楽しいよろこびと、あらゆる人の胸にしみとおる希望 しノし の泪を描き出してくれる。これほど人間に「生きる力と 簽どんな作家夢」を与えてくれる小説は稀であろう。 ・なのかさっ 〈山本周五郎〉 「不思議小説第ニ集鬼の末裔」表紙 こ 209 ・ :

5. SFマガジン 1975年1月号

スキャナーに萩尾望都さまの『ポーの一族』がまなければいけない。今読んでいるのは半村良氏ないものがまだまだたくさんあるのではないか。 シリーズの今のペースではとても追いっき とりあげられたのデスモ / 。風見潤さま、アリガの短編集『およね平吉時穴道行』驚いたことに、 。私、オモーサマの大ファン。一目見たときか僕が半村氏の本を読むのはこれが初めてである。そうもない。新シリーズの編集方針としては、 ら魅了されてしまったのデス。あのファンタジッにもしよっちゅう顔を出しているので名前界以外の作家の作品でも新しい文学の可能性を クな絵、そしてあの構成、伏線のおき方、主人公はもう前から知っていたのだが、作品を読むのは持った作品ならどんどん収録していってほしい の魅力 : : : 。私が少女マンガの第一人者であこれが初めて。おそらく以前の僕にはこの種の作海外文学とを売りものにしている早川書房だ ると思っているオモーサマをでは問題にし品を受け入れる体制が整っていなかったのだろからこそ。 ( 大阪市東住吉区田辺本町 8 の 2 桑野正治 ) ていないのかと嘆いていたのデス。 ( それほど目う。的設定が時には異和感を与えるものもあ のない人ばかりなのかと ) でも、でも、どこを間るが、豊かな人生経験をつんでこられただけに風 いつもなら二六日に手に入るべきが、一 違えたのでしよう。「エディ」とは何ですか。主俗描写は抜群。『収穫』以後のしばらくの沈黙は 人公は「エドガー」なのデス。「エディ」では魅決してむだではなかったようですね。今回も直木日半も遅れて二七日の夕方になってようやく手に 力が半減するではありませんか。「エドガー」そ賞を無事に落選されて本当におめでとうございま入ったのです。いつもきちんと一一六日には店頭へ 出す早川さんが、と思ったのですが、読んでみて して「アラン」がいて「ポーの一族」なんですす。 よ。わかります ? 「エドガー・アラン・ポー」 今年の夏は、早川書房がやっと重版を出してくすぐわかりました。これはきっと『ザ・ビッグ・ 私、このようにオモーサマ & エドガーに狂ってれたので・フラッドベリの『火星年代記』と『刺青ス。ヘース・ファック』が載ったせいだ。そうに違 いる ( モチロンにも ) 高二の女の子です。の男』を読むことができて、とっても嬉しかっ しかし、まあこの「なんせんす特集」はす との出会いは小三の時、ジュニアの『すばた。数年前『ウは宇宙船のウ』で初めてプラッド らしき超能力時代』『時をかける少女』『黒の放べリに接した時ほどの感激はもうなかったければらしく読みごたえがありましたね。馬鹿々々し 射線』『などの転校生』何度読み返したでしよど、それでも『ロケット』などの話には相変らずくて、くだらなくて、しかも面白いときてるか ら、カッパェビせんみたい。 ( やめられない、と う。すごく刺激的たったんですよ。その頃小学生涙しそうになった。 向きので、特に日本の作家のものはあまりな ところで近頃に書評欄を作れという意見まらない ) 長島さん、いえ長島編集長殿、これか くて、私の病は潜伏期の状態となり、中学でが出てるようだけど、これには賛成。今のでてくらもこういった特集をどんどん組んでください。 また、日本こてん古典も二十回をむかえ、 の存在を知り、書店で売っているとは思わたあ欄だけでは狭すぎて十分な論評が行われてい ず、「読んでみたい、読んでみたい」と思いながない。ひどい時には間名だけ紹介して終っている昭和のに入ってきました。僕、は海野等に興味 ら高校に入り、高一にしてやっと発見したのデシのもある。だいたい、一般の新聞や雑誌でもを持っているので、こちらのほうも楽しみです。 タ。それから毎月買っているのですが、一カ月でが書評に扱われるのに専門誌のにないのは・これは十月号を買った時のことである。 は読みきれないことが多くて、てれ。ほーとを読むおかしい。評者は作家や評論家、翻訳家などいろある書店で「マガジンください」と言ったの・ たびに、自分のルーズさを感じているのです。こんな人に分担してやってもらえばいいし、キネ旬である。店番のお・ハアちゃんが「アッ、そこにあ るでしよ」というので捜したが、どこにもないの のような私、だれかお手紙くださいナ。 のように読者による書評欄もあればいいと思う。 ( 東京都北区東十条 5 のの相沢寿子 ) それから、何カ月か前に現代全集の予告があで「どこにあるの」と言ったらおアちゃんが、 ったけれど、これには期待してる。早川アナクロどっこらしよと立ちあがって本を取ってきてくれ ファンならたいていそうではないのかと思文庫の大量生産ももちろん結構だけど、現代の先たのです。ところが、とはにても似つかぬ うのだが、ろくに読みもしなくてもついつい本を端をゆく作品ももっと紹介してほしい。『アインであったのです。最近はこんな本が色々出 ・買ってしまうものである。僕もそうで、最近ちょ シタイン交点』や『ュービック』『ノヴァ・エまわっているのですね。びつくりしました。 ( で 7 7 っと読むのをさ・まったら、いつの間にか川冊近くクスプレス』『強制収容』『チャンビオンたちのも、その本をもらってきちゃった ) ( 東京都文京区本郷 5 のの 2 総州館内 もたま 0 てしまていた。おまけにやその朝食』『衝突』『危険なヴィジ , ン』など、スキ 中村武彦 ) ・他の雑誌もまだ残っている。これからせっせと読ャナーその他で紹介されながらも一向に邦訳の出

6. SFマガジン 1975年1月号

い中日の記事でいつばいに埋った紙面を見たことはな壮士が竜の背中にまたがって月世界へ旅する「政海之破 い。ほんとうにうれしかったなあ。中日ファンであるが裂」、中国の八仙人が竜王一族と大戦争を展開する「東 ために、周囲の「巨人・大鵬・タマゴ焼きー連中にバカに遊記」などがあったが、この二冊はすでに紹介ずみで、 このほかには未紹介のドラゴン古典は見当らなかっ され、嘲笑され、ひたすら歯をくいしばって耐え続けるこ ジャイアンツ と二十年。ようやくお天道さまの下を大手を振って歩けた。巨人テーマのは押川春浪の「怪人鉄塔」など ジ る日がやってきた。ばんじゃ ーい。・ここに巨人は倒れ、 たくさんあるのに、ドラゴンテーマが少ないという 大鵬はすでに引退し、残りはタマゴ焼きのみとなった。来のはどういうわけだ。実にケシカランではないかー 年こそは最後のタマゴ焼きを必ずや撃ち倒し「中日・増 くやしいけれども、作品がなくては紹介のしようがな 位山・トコロ天」の輝ける新時代を築こうではないか。 いので、ここで百歩譲って野球テーマの ()n を探してみ まあ、こんな涙なくしては語れないような事情で、今た。ところが、これまた日本古典には皆無。翻訳作品で 回はの誌面を編集部の許可なしに勝手に借用しも、 しいから、なにかないかと部屋をかきまわしてみた て、ささやかながら「中日ドラゴンズ優勝記念版、日本ら、純 ;.r«ではないが風刺ファンタジーにダグラス・ワ こてん古典」を軽く一発ぶちかますことにした。。フロツ。フという作家の野球小説「くたばれャンキース」と ロ野球の嫌いな人。中日ドラゴンズの嫌いな人。そし いう作品があった。昭和三十四年の作品だから、・ほくの て、巨人の大好きな人も今回はがまんして読もうー 基準では古典というほどではないが、せつかくだから荒 そこで、日本古典の中に中日ドラゴンズをテーマ筋だけでも紹介しておこう。この作品も、今はもうなっ ( ここで、月日の流れ にした作品はないかと思って探してみたのだが、残念なかしい思い出になってしまった。 ・がらどういうの早さをしみじみと感じる ) わけか一冊も ・ポイドは中年の不動産会社の外交員で、野球 繆・見当らなかっ が飯より好きたった。ある夜、見知らぬ男に大リーグの 、な ~ を . た。 ( あたり 、 ( 第まえだね ) ししかも、彼の大好きなセネタースの選手にしてやるとい かたがないのわれ、一も二もなくこの男と契約を結んだ。すると、不 第で、中日はあ思議な魔力に操られ、ジョーはたくましい野球選手に早 を【第 ~ きらめ、竜テ変わりして、盛んにホームランをか 0 飛ばした。見知ら ーマすなわちぬ男は実は悪魔でジョーは魂を売ったのだ。一躍人気者 になって美人に愛されるが、こうなると魂を売ったこと 第 , ( をま . = ( ( ( 、 ~ ~ を 0 ドラゴンテ マを探しを後悔して : ・ ( 土たところ、一 ニ 26

7. SFマガジン 1975年1月号

ズの執筆を考えているそうなので、ぜひとも復活してほ 三橋一夫しいものた。それにしても、今読み直してもほとんど古 このファンタ「ジイ作品群を本の入手 という人はさを感しさせない、 不思議な才が不可能に近く読者に読んでいたたけないのは、なんと 能をもったもはがゆいことだ。なにか妙案はないものだろうか。 いったところで、そろそろお別れの時がきた。そ 作家であ うとうにこじつけの激しい「中日ドラゴンズ優勝記念 る。怪奇な 、一幻想の中に版」になったが、ともかく「ゴジラ」「星雲」「三橋一 恐怖の世界夫」を紹介したのだから、われながら立派なものた。 の美しさと ( 自分でいっ 生 いうものをてるんたから 示してくれ図々しいね ) これらの・作品 - はいわゆる怪談とはいささか趣きが違なにはとも っていて、研ぎすましたような作者の理智がキラキラとあれ、今月は 許してくださ 浮いている。 中日が二 〈横溝正史〉 一 1 十年ぶりに優 これら 1 各氏の短評で、はたしてどの程度三橋一夫を勝したのです 一を 。やがて彼は「新青年」の廃から : : : 。来 理解していただげたか・ : 上テ ン 刊で、予定した〈まぼろし部落〉シリーズ百篇の計画を月はロッテオ リオンズ 表絵断念し、サンデー毎日の評で懸念されていた = ーモア小 説へ転向してしまい、い っしか埋もれてしまうことになというのを紹 人ラ る特異な才能を各方面から高く評価されていただけ介しようか - ・ゴ 生る な。もし 1 そ に 1 きわめて短い期間 , で消えてしまったのは残念という す 聞集哮 ほかはなく、界に . とっても大きな損 . 失だった。ちなんな古典作品 第三咆 があればの話 みに小説をやめてからは 1 強健術や武術の指導を始め、 . 〕説き 小肚身心法学研究所を創立。その方面での著書も数多く、明だけれども。 第能治四十一年生まれという高齢にもかかわらす、現在も元 不射 「放気活動を続けている。今でも〈まばろし部落〉シリー

8. SFマガジン 1975年1月号

ポルへスの『不死の人』白水社版 しかし、東京って言うか日本というか、渋谷とか、そういうところ はやたらと狭い。どこへ行っても、みんな誰かの友達だったり知人 8 だったりするんだから、うつかり口はきけないよ。こんな文章、誰 も読んでないようで、読んでる人が意外と居るから、こわい。でも 〈弁慶〉のお紫乃さんは絶対に読んでないだろうなあ。こないだち よっと不眠症、どうも元気がでない。 以前、ディスク・プリーナーが乾いてしまったので、水割りの飲 み残し、溶けた氷水を流しこんでやった。おかげで今だに〈はちみ つばい〉の『せんちめんたる通り』には、・面ともウイスキイ のしみが浮きでている。すべてが、書いてある。 ポルへスもまた、健康を代表する作家の一人である。今頃、アン ディ・ウオホールという六十年代のクリエーター、アメリカの精神 。、ーほどにセ ~ 病を吸血鬼のように吸い上げた、まるでアリス・クー ールスマンの顔をした男の作品をどこかで見ることができるのだ。 アイディアは状況的だ。だから、今のように状況が消減すれば、残 るのはウォーホル ( あたり前だ、彼は昔の状況のなかでのアイディ ア・マンだったんだから ) ではないはずだ。そして状況とは不健康 から、差別 ( 区別 ) 語しかないようなものだ。だって区別できない の証しみたいなものなのである。ポルへスは、そのことを書いてい ような言葉は、言葉として機能しないんだもの。机とイスが同じ言 る。最も単純な世界、人間は生まれて死ぬ、と。 葉だったら、どっちに腰を下ろしていいのかわかりやしない。そこ ポルへスは同じアルゼンチンの作家マセドニオ・フェルナンデス で、テッテ的に差別語を告発していけば、そのうち新聞という新 について、こんな風に言っている。 聞、週刊誌という週刊誌 ( 習慣誌というのはどうかしら ) 、たとえ ( 彼は ) 真実は言語を絶している、伝達不可能だという神秘 ばマガジンなんかも ( ファンなんて差別語は割と早目にな 的な信念を抱いていた。後に私もそれに近い考えを抱いた。言葉 くなるであろう ) みんな基本的な指示語「これーとか「あれ」しか : だが、マセドニオ・フェ はいつも共有の経験を前提とする。 使えなくなってしまうのではないだろうか。 ( この辺の観点につい ルナンデスの文体は私に悪い影響を与えたと思う。彼の偏執的な てこの連載は始められたはずだったね ) こりやいいや、と思ったも 特徴がね。彼は〈人生〉についてではなくて〈生きること〉につ のだ。 いて、〈夢〉についてではなくて、〈夢見ること〉について語ろう そこで、懐しの〈乱魔堂〉から一曲、と思ったけど止めた。こな いだ渋谷の〈ギャルソン〉で〈はちみつばい〉の本多信介クンを見としたし、意味のない新語を作ろうとしていた。 ( = リイカ誌 ポルへス特集号『ポルへスの惓怠あるいは転台について』より ) かけたけど、噂通り髪の毛を肩の辺まで切っちゃって面白かった。

9. SFマガジン 1975年1月号

香山滋作「怪獣ゴジラ」表紙 ていたようで、製作期間中は「作品」と称して他社に後、戦前の小栗虫太郎や橘外男らの系列に属する幻想・ 漏れないよう非常に気をつかっていたといえ、ほくは映秘境怪奇小説作家として「宝石」を中心に活躍、現在も なお健在である。著書には探検家人見十吉を主人公とし 画にあまり強くなく、このへんの事情は詳しく - わからな いので、詳しい事情は、今度「フォーカスオン」の大た風探検小説「秘境の女」 ( 三十三年、小壺天書房 ) 空翠氏か酒井敏夫氏に聞いてみることにしよう。余談に「美しき山猫」 ( 三十九年、春陽堂 ) 小説「地球喪 なるが、同じ一一十九年には・プラッドベリの原作にな失」 ( 一一一十二年、講談社 ) 「遊星人」 ( 三十一年、春 る「原子怪獣現わる」 ( チ = スター・ディッツ。フロ二十陽堂 ) など数十冊がある。五年ほど前、桃源社より代表 八年製作 ) が日本で、「ゴジラ」よりびと足先に公開さ的名作選集「海鰻荘奇談」がリバイ、ハル刊行されてい れている。この作品の公開のすぐ後で「ゴジラ」が大ヒる。 ットしたため、影がやや薄くなってしまったが、水爆実「ゴジラ」のストーリイは、小笠原沖の海底で眠ってい 験のシ毆ックで北極の氷の中に眠っていた前世紀の恐竜た前世紀の陸獣ゴジラが水爆実験で眠りから覚め、放射 が出異ニ三ーヨ 1 クで暴れ回わる。怪獣の血に放射能能体質になって日本に上陸。さんざん暴れ回ったすえ、 が含まれ、血に触れると原子病で死んでしまうというア天才科学者の発明した矛キシジ土ント・デストロイヤー イデアが、うまく使われた世界最初の完全な原子怪獣テなる劇薬で海底に消えるというもので、最後はゴジラの 肉が溶けて骨になる。後の怪獣映画と比べると的飛 1 々の映画として高く評価されている。 「ゴジラ」の原作者は香山滋。明治四十二年東京生ま躍の少ない、比較的おとなしいストーリイの作品だが、 れ、法政大学経済学部を卒業後、大蔵省の官吏として勤全篇に反戦、核実験反対の思想がみなぎり、観客対象も 務。昭和大人で、その出来はきわめてすばらしい。故大伴昌司氏 二十二年はこの作品を「ヨジラが現われるまでの不安な状態、異 探偵小説常なパ = ックの描写が優れ、特撮シーンと本篇 ( 劇の部 雑誌「宝分 ) との調子が分裂せすに融和している唯一の作品であ 、物 = 、 , 右」の懸る。脚本にぎようぎようしいセリフが多いのが気になる 賞小説募が、核丘 ( 器反対というテ 1 マを、つけ足しでばなく正面 ・集に応じに堂々と打出して製作しているなど、映画史上にも残る 「オラン傑作で、このあと現われた数々の怪獣映画は結局この作 ・。ヘンデ品の蛇足にすぎないーと絶賛しているが、ぼくもまった 、クの復く異論よよ、。 言。オこの映画をはじめて見たのは、まだ小学 、 1 ~ 一当讐」が入生の時だ 0 たが、その強烈な印象が頭からはなれす、し 第霧」第第第い第」一一一をを第第 ( ( 第一い第第第第第い驫選。そのばらくの間恐怖むにかられていたのを憶えている。後に 7 ・ : 203 ー

10. SFマガジン 1975年1月号

も、つげの最近作〈終末から〉 2 号に載った『懐しいひと』はむしようとしている。ここにも『バベル』の思想は顔をだす。例えば、 本そのものもまた変わっている。フィクションの作品はただ ろ島尾に近づいた表現をとっていたようだったが。 一つの筋に基づいており、それが考え得るかぎりの順列を展開す っげ義春は、運命が優しいものであれば、と夢想する。だが、そ んな夢想する″わたしを含みこんだ画面は、彼の夢想とは別の運る。自然哲学の作品は、きまってテーゼとアンチ・テーゼ、一つ の理論の厳密な賛否両論を含んでいる。反面、あるいは「対 命へと回ってゆく。これらは彼の生活が紡いだものだ。ポルへス ブック は、まあ言ってみれば観念的だ。そして今となっては、このどちら本」をもたない本は不完全と考えられている。 をとるのか、という問題が、ひどく微妙で、しかも重大なこととなのである。 る。個人的なところでだがね。 のどがいたくて死にそうなのに、また煙草に火をつける。来月号もし、ポルへスについて正確に語ろうとするなら、我々は何も言 で、一応の最終回とする心算なので、書きたいことは、なるべくそわなくて良いだろう。彼は恐らく、幻想的な作家ではないばかり っちにとっておこう、とムダ話ばかり、それなら今月で止めてしまか、作家ですらないかもしれない。彼はひとりの老人である。この えばいいのだが、どうゆうわけか、こうなった。ポルへスへと、こ先我々が退化してゆく時に出会う石のようなものだ。 単純な書物とか単純な言葉とかいったものは、この地上には んな風になって行きっこうとは、思ってもみなかった。やつばり毎 っさいのものが、複雑さをそのも 一つとして存在しないのだ。い 月書くのはきびしいなあ、と思った。 っとも顕著な特質とする宇宙を志向しているから : ・ 僕はある会社につとめていて、一日の大半をそこに奪われてしま うから、結局つなぎとめておける部分といったら、肌に近い所だけ なのだ。そうしていると、猛烈に、が読みたくなる。少し読、 む、あるいは一冊、数冊と読んでみる。するとある類型にそれらはヴ 吸収されて見えなくなってゆくのである。 スペルの図書館』 ( 集英社刊・世界文学全集収録の『伝奇集』中 ~ 、 しつも我々のいる地帯なのだ。このあまりにも有名な の一篇 ) は、、 短篇ーー・アルフ , べ , トの組み合わせによ 0 てあり得る全ての書物籘 ~ 一 ( 《 ~ , / ・ を所蔵する図書館というイメ 1 ジは、ひどく意気を阻喪させるか、 あるいはまるつきり逆の効果をもたらす装置として重要である。ポ ルへスはこのようにして始めたのだ。 、 1 ル、オルビ 同じく『伝奇集』のなかの一篇『トレーン、ウク / ス・テルテイウス』、 〈シェイクスビアの一行をくり返すすべて の男は、ウィリアム・シェイクスビアその人である〉との注を持っ この短篇は、全く架空の歴史を創りあげようとする人々を倉りあげ第を第を第第ーグ、】象 0 第 ( ・ー第に カウンダー・ ポルへスの『プロディーの報告書』白水社版