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1. SFマガジン 1975年11月号

しは″騎士的″態度をとるようになる。 こうして、二つの性がふたたびいっしょになる頃には、人類が過『変革のとき』は、毎年アメリカ cng-4 作家協会が与えるネビュラ賞 5 去のあやまちをくりかえさないだろうという希望が生まれる。 を獲得した。が、それと同時に、一部の雑誌では酷評をうけ 一九七二年には、女性優位テーマの作品が、さらにもう二つ現わた。人柄のいい、好感のもてる女性が男性なしでりつばに暮らして れた。トマス・・ハ ージャーの『女の連隊』 "Regiment of Women" いける、という物語に脅威を感じる読者がいるのは、、 しささか奇妙 と、ジョアンナ・ラスの『変革のとき』である。 ージャーの長篇に思われてならない。人柄のし 、い、好感のもてる男性が、女性なし は、″役割逆転ものの一つである。ステレオタイプ化された両性でりつばに暮らしていくという物語は、 r.n;.æには山ほどあるのだか の役割の愚劣さをうまくついてはいるが ( たとえば、この小説の世ら。 界では、フットボールは男性には危険すぎるスポーツと考えられて における女性優位のテーマは興味深いものだが、これまでこ いる。生殖器を保護することがなずかしいからである ) 、本質的にのジャンルであまり大きな役割を占めたことがない。このテーマは はごく古い題材の巧妙な焼きなおしといったところだ。 両性がたがいに相争っており、一方が他方を支配しなければ平和は ラスの短篇は、支配的な女性のとりあげ方で類型を脱している。 ありえないのだという信念を、意識的にか無意識的にか、反映する ここに登場する女たちは、ホワイルアウェイという惑星で生き残っ傾きがあった。ほんとうに外挿的というよりも、むしろプロバガン た地球人の子孫だが、超アマゾン的な戦士でも、野蛮人でも、アリ ダ的であることが多かった。両性が平等の立場で、調和をたもちな に似た集団でもなく、分別のある正常な人間に描かれている。このがらいっしょに生活し、働いてゆけるという観念は、めったに考察 女たちは、科学的な器具の助けをかりて、単性生殖を可能にして いされたことがなく、今日でもまだ疑問の対象になっている。 た。探険隊がこの惑星へ着いてまもなく、男性全員が疫病で死亡し たのである。 4 探険隊の子孫が作りだした社会では、それそれの女性がおきまり の役割に縛られずに、自分にいちばん適した仕事につくことができ テク / ロジーの発達のすさまじいスビードは、われわれの対処能 る。そこでは同性間の結婚が行なわれ、文化は発展性を持ってい 力をすでに追い越してしまったらしいというのが、一般に広まった る。何世代かあとで地球から男たちがやってきたとき、この女たち考えである。慣習、倫理体系、社会構造のたえまない変化にもかか には彼らが異様な生き物に思える。ある登場人物の娘は、男に性欲わらず、概してわれわれはまだテクノロジーの道具を考えに入れな を感じるという観念を、滑稽だと笑いとばす。一方、男女平等へのい暮らし方をしたり、自然が過去においてそうしたように、テク / 信念を表明していた男たちは、女がこの惑星に生きのこっていたこ ロジーがわれわれを支配し、われわれの代りに決定を行なうのを、 とに実は驚きを感じ、まもなく彼女たちに対して″保護者的″ない そのまま許したりしている。

2. SFマガジン 1975年11月号

1973 の作者 ) 、ジョイ・チャント ( 『赤い月と黒い山』 "Red Moon 次の事項は、報告書に挿入すべきこと。 and Black Mountain" 1970 の作者 ) がいる。これらの女性と、こ 5 ゲセン人に接する場合、両性生物にあっては自然になされるこ こ数年のうちにデビューするだろう新人たちの中から、重要な と、つまり、相手に女性あるいは男性の役割を押しつけること、 すなわち同性あるいは異性間の類型化された、ないしは考えうる作家が何人か出現するかもしれない。彼女たちが新しい視野と新し 相互作用の期待に相呼応する役割を押しつけてはならないし、まい題材をこの分野にもちこむことは疑いがないし、また、それが、 は主として男性のものだという観念を一掃するのに役立つはず た不可能である。 ( 中略 ) 人間は人間としての価値によって弁別される。これはおどろくである。 ( 小尾芙佐訳 ) べき体験なり。 2 ゲンリー・アイは、努力のすえ、〈冬〉の住民の一人と親密な個 ここで、男性の作家がこれまで女性をどんなふうに扱ってき 人的関係を結ぶまでになる。小説の終わりで人類に再会した彼に は、自分の同胞がまるで異星人のように見え、異なった二つの種族たかをふりかえるのも、有益だろう。スエ 1 デンの作家であり評論 に分かれた彼らに、ほとんど嫌悪すら感じる。ル・グインは、〈冬〉家であるサム・・リュンドヴァルは、こういっている の世界をそこに示すことで、人類文化に対するいくらかの洞察カ ( 原注 3 ) における両性の役割は、宇宙船の外殻の金属のように強固 を、われわれに与えてくれるのだ。 だ。女性解放はまだ未知の言葉である。 一九七〇年代にはいると、新しい世代の女流作家たちが、最 聖なる叫びは、「女よ、汝の分をわきまえよ ! 」というものら 初の作品を発表しはじめた。ヴォンダ・ Z ・マッキンタイア、ルー しい。そして、宇宙船の中にも女性が乗りこんでいることは多い ーマン、チェルシー・クイン・ヤープロ、レイリン・ムー ッ けれども、ふつう彼女たちは一種の下等生物のような扱いをうけ ア、リサ・タトル、グラニア・ディヴィス、ジョ 1 ン ている。 ドリス ト、スーゼット・ハディン・エルジン、キャロル・カ フィリス・マ ビサーチア、リン・ニ 1 ルスン、マギー・ナドラー この状況のいくぶんかは、疑いもなく、アメリカ ( シリアス クレナン、スージー ・マッキー・チャーナスなどである。ファンタ な世界に対立するそれ ) がパルプ雑誌の出身であることに根ざ ジイを専門にしている作家には、フィリス・アイゼンシュタイン、 し力に科学的な装いをこらそうと、まず第一に キャサリン・カーツ ( ″ダーリニ″三部作 "De 「 yniRising" 197ff している。それは、、、 ( 原注 4 ) "Deryni Checkmate" 1972 、 "High Deryni" 1S3 の作者 ) 、サン男性と少年のための現実逃避文学を狙っているからだ。は、男 』 "Excalibur" 性が女性の干渉をうけずに、自由奔放な冒険や、科学的アイデアと ダース・アン・ロー・ヘンタール ( 『エクスカリ・ハ 1

3. SFマガジン 1975年11月号

家としてこの分野にはいる女性が激増したこと、そして一部の男性ければ、女性は依然として端役にとどまり、見慣れた役割と偏見が 作家の見解の変化にある。有名な作家であり編集者でもある ( ーラの大部分を占めるだろう。それでも危険をおかして、もっと有 意義な作品を提供しようとするのは、ごく少数の真摯な作家と出版 ン・エリスンは、こういっている 業者だけだろう。 : ・女性は、男性作家がとうてい書けないと思いこんでいた多この不慣れな方面の開拓をはじめ、科学的、未来学的な問題にし くのことを、げんに書いている。彼女たちはわれわれの前に、またしみ、そして、われわれがなんであるか、また、われわれがどう いうものになりたいかについて真剣な思考をこらすのが、作家とし ったく新しい領域を開きつつある。 われわれが不変だと思いこんでいた信条や合い言葉を、われわて、また読者としてのわれわれの責務である。 れに再検討させつつある。筋肉隆々の戦士の旅も、その一つだ。 原注 アーシュラ・ル・グイン、ジョアンナ・ラス、ケイト・ウイルへ ルム、ドリス・ピサーチアなどの女性などがやっているのは、そ 1 、モアーズはその評論の中で、『フランケンシュタイン』が、メアリ ・シェリーの妻として、母親としての経験を反映した出産の神話であ れをおそましくもばかばかしいものに見せることなのだ。 ることを、納得のいく論旨で述べている。 2 、そのすぐれた一例は、フィリップ・・ディックの『高い城の男』 しかし、このジャンルの真の変化は、読者の肩にもかかってい ( 一九六一 l) で、ここには日本とドイツが第一一次大戦に勝利をおさめ る。大半のは大衆文学であり、大半のはこれからもそうあ た世界が描かれている。 りつづけるだろう。はまず読者を満足させ、たのしませなくて 3 、『闇の左手』については、プルース・・ガレスビーの編集するオ ーストラリアの評論誌〈コメンタリー〉の誌上で、ミズ・ル・グ はならない。しかし、これはが単純明快であるべきだとか、現 インと有名なポーランドの作家スタニスワフ・レムのあいだに、 実逃避の面白い読物を望んでいる人びとだけに奉仕すべきた、とい 興味ある討論が展開された。まず、『失われた機会』と題する評論の ( また、シリアスな作品が面白くないという意味 う意味ではない。 中で、レムはつぎのような論評を加えた ではない。きわめてシリアスなすぐれたの中には、最高に面白 「ル・グインの人類学的な理解力はすばらしいが、その反面、心理的 い作品もある。 ) もし、より多くの女性がに、そしてそれに関 洞察力は未だしという感がする。ル・グインは、生物学的にもっとも らしく小説的に価値の高い世界を創造した。彼女が案出した″別の人 係した科学的で未来学的なアイデアに関心を持ちはじめれば、作家 類″は周期的に有性生物になるだけでなく ( そうした例は、両性具有 も出版業者も、そうしたアイデアをいままでと異なった視点から探 生物も含めて、従米のにもあった ) 、そのケメル期 ( 発情期 ) に 求した小説を書き、出版することに関心を持つようになるだろう。 は、男性にも女性にもなりうる。しかも、本人にとっても、前もって だが、もし作家も出版業者も旧来の類型を踏襲していたほうが売行 自分がどちらの性になるかはわからないのだ。 こうしたシステムの中に置かれた個人の運命の苛酷さを、作者は描 きがよく、読者がそれ以外のものを望んでいると信ずべき理由がな 3 6

4. SFマガジン 1975年11月号

こうとしなかったか、描きえなかったか、あるいは描き方を知らなか った。ル・グインは、とりとめなく展開される幾つかの章の中で若干 のヒントを与えてはいるが、この人類学的な題材を個人の生活形態に まで消化していない。 しかし、かりにわれわれがこの小説の中の人びとの立場にあると想 像してみよう。すると、基本的な生活様式に関する二つの疑問が、い やでも生まれてくる つぎのケメル期に自分は何者になるのかーー・男性か女性か ? すでにだれもがよく知っているわれわれの生活のノーマルな不確定性 は、すべての類型的な意見と逆に、この性的な非決定論で苦しみ多い ものに拡大されるだろう。われわれは、来月自分が相手を妊娠させる か、それとも逆に妊娠するか、というささいな問題に頭を悩ますだけ でなく、性的二者択一の両極でわれわれを待ちうけている役割に関し て、まったく新しい一群の問題に立ちむかうことになるのだ。 ②つぎのケメル期の自分は、それまでまったく無関心だった人び との中のいったいだれに、性的に惹きつけられるのだろうか ? ここ しばらくのあいだは、ほかのみんなもやはり中性なので、われわれに は自分の生物学的未来にまったく見当がっかない。変化の激しい性的 関係のパターンは、既知の環境の中での新しい、そしてつねに疑わし い変化となって、われわれを驚かせつづける : ・ しかし、ここで運命の残酷な皮肉を考えてほしい。かりにある人物 が、ケメル期に男性となり、ほかのだれかを女性として愛したとす る。そしてそれから何カ月か後に、両者とも″女″あるいは″男″に なったとしよう。さて、その場合、この両者とも生物学的に妥当な ( 異性の ) 。ハートナーをさっさと探しにいくーー・と、こんなことが信 じられるだろうか ? もし、この質問に「イエス」と答えれば、それ はたわごとであるばかりか、まっかな嘘をついたことにもなりかねな い。な・せなら、文化的・心理学的条件づけが、どれほど生物学的本能 を無視して人びとの内的生活を形づくるかを、われわれはよく知って いるからだ。 したがって、〈冬〉の住民は、多くの不幸と悲しみだけでなく、多 くの″倒錯行為をも経験しなくてはならない。″過去の″男性が、 いま内分泌腺の命ずるままに女性の役割をつとめようとしている人び おそらくい とよりも、いっそう強く″過去の″女性のパ まは中性か男性であろうーーに惹かれるからだ。これは小説家にとっ て、なんという残酷で、怪奇で、そして凄惨ですらある可能性だろう か ! これらの可能性の中には、われわれがあからさまに忌わしく計 画的だと感じるような、悪意の根が隠されている : ・ この小説から、わたしは自分に関する ( すなわち、全人類に関す る ) ・一つの真理を発見したーーわれわれの性的生活がどれほど苦痛な ものであっても、性が不動だという制約は恩恵であって、不幸ではな いのだ、と。もちろん、ゲセン人の考えはわれわれとまったくちがう はずであり、ル・グインが正しく指摘しているように、われわれを異 常だと考えるにちがいない : ・ さて、小説にもどろう。文体的には、この小説はみごとに書かれて いる。また、異星文明の風俗習慣のゆたかさ、多様性もよく出ている が、完全に首尾一貫しているとはいいがたい。作者がいかに力説しょ うと、彼女が描いたのは ( 性的な意味ではなく、社会的な意味で ) 女 性の一人もいない、男性だけの惑星である。なぜなら、ゲセン人の衣 服も、話し方も、風俗も、行動も、男性的だからだ。社会的な領域で は、男性的要素が依然として女性的要素を圧しているのである」 この雑誌のあとの号で、ル・グインはレムの批評に答えた 「スタニスワフ・レムが仮想した小説は : : : 魅力的で、ポルへスの ″物語のためのヒント″とおなじように興味をかきたてる。できれ ば、レムにそれを書いてほしい。わたしには書けない。その理由の一 つは、″わたし″のゲセン人の生理機能が、レムの読みとったような 劇と呼んだものは、一組のペアの ものではないからである。レムが悲」 うちで後のもの、つまり遅れてケメル期にはいったほうが、つねに先 のものとは反対の性になるという″分化″のメカニズムで予防されて いる : ・ : ・。わたしの見るところ、悲劇の入口は、むしろ二人の長期間 の愛人どうしが、しだいに同調からはずれてゆく可能性にある。つま り、性の潜伏日活動の周期が、一年のあいだに何時間かずれてくる可 4 6

5. SFマガジン 1975年11月号

っこない なにしろ、すべての女を知っているわけではないのでは、ハインラインはこのヒロインをまるで未成年のドリス・ディ ですから : : だい一、グループぜんたいに対する意見をまとめるのように描く。彼女は自分の頭のよさを隠し、″女の手くだ″を使 のに十分なパーセンテージの女性をさえ、あなたは知らないではって、たえず男性と変愛ごっこにふけるのだ。まもなくボディは、 ありませんか ! 子供を育てることや小児科医になることが、彼女の最初の目標だっ た宇宙船の船長になることよりも、ずっとすばらしいと考えるよう ハインラインはまた、女性の権利に対しても、公けの席で好意的になる。『大宇宙の少年』 ( 一九五七 ) のヒロインは無知でも浅は な発言をしてきた。最近のインタビューでは、こういっている かでもないが、それはおそらく彼女が年のいかない少女で、まだ社 会的な条件づけを受けていないせいだろう。『宇宙獣ラモックス』 ( 一九五四 ) には、両親と縁を切って、ユ 1 ス・ホステルで暮らし これは個人的な意見だが : : : 女性が宇宙計画に参加しなかった のは、規則を作った連中が偏見を持っていたためだ。だれか資格ている若い女性が登場する。 のある女性が、一九六四年の公民権法をよりどころにを ハインラインの態度は、それ以前の多くのに比べれば、一つ 叩いてほしかったと思う。女性も宇宙へ行く権利がある。税金のの前進といえるかもしれない。すくなくとも彼は、女性が勇気ある 半分を払っているんだからね。あの計画は男性だけでなく、女性行動や知的行動をなしうるという事実を、認めている。しかし彼 のものでもあるんだ。いったいどうしてが、人類の半分は、どこかの点で男性に従属しない女性とは、明らかに肌が合わな いらしい。どれほど有能であり、すぐれた知性や勇気を持っていよ は女性であることに気づかなかったのか、わたしにはさつばりわ からん。 うと、女性の最大の関心は、たくましくりつばな男性の子を産むこ とにあるらしいのだ。 ハインラインはしばしば、この世界とまったく違う基礎の上に立 しかし、ハインラインの描く女性たちは、それほど才能に恵まれ った社会を描くが、両性の役割そのものには変化はない。たとえば た人間にしては不可解な行動をとる。『空のトンネル』 "TunneIin the Sky" ( 一九五五 ) は、若い読者向きのよくできた楽しい小説『ポディの宇宙旅行』では、女性は若いうちに子供を生み、新生児 だが、ヒーローの姉は軍隊の一員なのに、彼女の唯一の望みは、とは冷凍睡眠に入れられる。父母が職業上の地位を固め、時間的余裕 を持ったあとで、赤んぼうは冬眠から″解凍″され、そして両親に にかくどんな男とでもいいから早く結婚して ( この未来世界では、 女の数が男のそれを上まわっている ) 、家庭におちつき、子供を育育てられる。この発展一つだけでも家族構造が変わると思われるの てることなのだ。『銀河市民』 ( 一九五七 ) で若いヒーローの出会 に、依然として女性がおもに育児をうけもっている。『月は無慈悲 う娘は、数学の才能があるのに、彼の関心をひくため無知を装う。 な夜の女王』 ( 一九六六 ) に登場する月の住民は、地球からこの流 十代の少女を主人公にした長篇『ポディの宇宙旅行』 ( 一九六三 ) 刑植民地へ追われた犯罪者たちの子孫だ。ハインラインは、男が女

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セントが女性、ということもめずらしくない。 これは、と科学的・技術的な予測との関係、科学とテク / ロ ジーが男性の領分だと一般に認められてきた事実、などと考え合わ における女性の歴史は、作家たちの新しく見いだした展望にせると、必ずしも意外ではない。従来から女性は、理科を志望して 裏づけられた作品がそくそくと出現することを、明らかに暗示しても、さまざまな論法で断念させられることが多かった。いわく、女 にはその適性がない。女は本来、理性的というよりも直感的であ いるようだ。この新しい展望は、いうまでもなくすぐれたの一 要素であり、これまでにもすぐれたの中には、つねにある程度る。女はこまごましたことや " 今この場のこと″にしか関心がな のそれが存在した。また、この展望は、文化ぜんたいの新しい社会く、生まれつきいかなる種類の知的探求にも敵意を持っている。女 はもともと保守的であゑなどなど。実際問題としても、女性が科 的・未来学的関心の中にも見られる。 過去、女性は、作家としても、またの中の登場人物として学研究に必要な時間と労力を投資したあげくに、主婦兼母親の役割 も、間欠的にしかと関わりあわなか 0 た。最近の二十年間にに追いやられるのでは、間尺に合わないように思えたにちがいな 。それでもなおかっ科学とテクノロジーの部門に進んだ女性は、 は、より多くの女性がこの分野に進出した。あるものはまず男性作 家を模倣し、彼らと同程度あるいはそれ以上にうまく書けることを男性の場を奪うにたる正当性を要求されたし、今日でもまだそうし たことがないとはいえない。この問題はほかの知的職業の分野でも 実証して、ようやく受け入れられた。別のものは、男性作家とおな じ題材をとりあげながら、異な 0 た観点からアプ。ーチした。そししばしば起こるが、美術、文学、社会科学などの研究では、女性が て現在では、女性作家も男性作家もともに新しい題材にアタックしあまり長期間それに没頭しないかぎり、よりよい母親になるために はじめ、これまでこの分野を支配していた通念に疑問を示しはじめとか、夫が退屈しないような知的な話し相手になるためにとか、趣 た徴候が見てとれる。しかし、ぜんたいは、まだそれをとりま味をもっためにとかの、都合のいい口実がある。しかし、われわれ の社会が科学者に要求する努力と長期間の献身は、女性の演じるべ く社会を反映している。 と見なされているのだ。 これまでのの大半は男性の手で書かれており、今日でもやはき役割とは相容れない、 はじめて科学に興味をもったきっかけが、少年の頃に読んだ り作家の過半数は男性に占められている。女性は、作家の総数の十 ないし十五。 ( ーセントにすぎない。読者も圧倒的に男性が多く、そにあるとする科学者は多い。作家はほとんど男性であり、また の大部分が青少年で、彼らは年をとるにつれてから遠のいてゆ読者の大半が男性なのを知っているので、当然その読者にアッビー く。これについて正確な数字をつかむのは困難だが、これまで折にルするように書く。その結果、少女たちはの中になんの面白味 ふれていろいろな雑誌が発表したところによると、定期講読者も見いださない、ということになりがちだ。少女たちの多くは、す でにテクノロジーへの興味を挫かれているため、小説の中でも男性 のほとんどが男性だという。読者の九十パーセントが男性で十パー 9

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あげている。この種の物語の傑出した一例は、フリツツ・ライ・ハー 『消失』 "The Disappearance" ( 一九五一 ) に見られる。この小説 の『妻は魔女』 "Con 」 ure Wife" ( 一九四 = l) である。ここでは、 では、二つの性がおたがいに謎の消失をとげ、男と女はそれそれ自 女性たちが事実魔女で、呪文や魔法によって夫の生活を守り、導い分の同性しかいない世界に住むことになる。男性と女性がふたたび ている。ヒロインの夫は、妻の″迷信″に懐疑的で、実は妻が彼を いっしょになれたのは、それから四年後だった。そのあいだに、ど 危害から守ってくれていたとは知らず、むりやりに魔よけや護符をちらの性も、これまでに異性に対して持っていた複雑な感情を分析 捨てさせる。小説の舞台は、ニュー ・イングランドの小さなカレッ しはじめる。その一人、ポーラ・ゴーントはいう ジで、学部間の政治工作がリアルに描かれている。 ジェームズ・ガンの『女嫌い』 ( 一九五一 l) にも、このテーマの 彼らはわたしを学校へやり、勉強させ、いい点をとることがす べてを意味すると教えた : : : わたしは大学へ行った。勉強した。 ヴァリエーションが見いだされる。この短篇は、女性が実はほかの 世界からきた異星人たという仮説を、押しすすめたものである。作学位をとった。結婚した。そして、それから ? こんどは家事や 中の男性の一人はその証拠として、女房たちが亭主のなくし物を簡育児について、まるきり新しいことをいつばい勉強しなくてはな らなかった。 単に見つけだせること、女がいろいろの役に立たない品物で家の中 わたしたちはたえず、女も平等だと教えられてきたーーそして を飾ること、女が夜べッドの中に冷たくて湿っぽい足をもちこむこ と、女がスポーツや知的な事柄などに関心のないこと、などを列挙永久に平等からは隔てられていた。わたしたちは自分を独立した する。これら″異星の″女類が、実はすべてをぎゅうじっているの存在と思いこむように育てられーーそれから従属状態へ追いやら だ。この女類は、努力家で独創的で冒険好きな男性をこき使う以外れたのだった。 に大して能のない寄生虫である。この愛憎並存的な短篇は、どうや ら一部の読者の共鳴を得たらしく、最近では一九七四年にいたるま ポーラの夫のビル・ゴ 1 ントも、男性だけの世界で熟考する時間 で、何度もアンソロジイに収録されている。 を持っ ポール・アンダースンは、『処女惑星』 ( 一九五九 ) で、ある惑 星を舞台に諷刺的な物語を書いている。この世界では、地球植民地 女を卑しめることで、男は自分自身を卑しめたのだ。騎士道 の女性たけが生きのこっていた。一人の男がそこに着陸し、そして や、母親崇拝は、男の永久的で卑劣な罪を隠す口実にすぎない。 この女たちが彼のペニスに非常な好奇心をいだいていることを知もしほかの獣が、ひそかな嫌悪をいだきながら連れ合いと暮らし る。この女たちは、以前から男性の一団が彼女たちに加わることを ていたら、われわれはどういうだろう ? クモが交合のあとで連 祈っていたのだった。 れ合いを食べてしまうのを見て、われわれはどう感じるだろう ? 7 ィップ・ワイリ 1 の このテーマのもっとシリアスな考察は、フリ その言葉を、人類にも浴びせるべきだ !

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能性である。この難点をわたしは恥知らずにも回避して、そうした潜 在的危険に対する解決策があったとしてもふしぎはないように、ゲセ ン人に進歩した医薬と高度に発達した肉体制御法を与えるだけにした のだった。 ゲセン人のすべて、あるいは九〇。ハーセントが男性であると非難し たのは、レムが最初ではない。しかし、レムでもいい、だれでもい エストラーベン ( ゲセン人の主要登場人物 ) の行動や言葉の中 に、たとえ一カ所でも男性でなければできないような、あるいはしな いような、あるいはいわないような点があれば、どうかそう指摘して もらえないだろうか ? わたしたちがエストラーベンをはじめとするゲセン人を男性だと主 張したがるのは、ひょっとすると大半のわたしたちが、策略にたけた 首相や、酷寒の雪原でのそりの曳き手などを女性として想像したがら ないか、あるいは想像できないためではなかろうか ? 男性代名詞の使用が、読者の想像力におそらく決定的な影響をおよ ・ : 。アレクセイ・・ハンシンほかの ・ほすことは、わたしも知っている : 人びとは、中性代名詞を発明すべきだったと批判した。事実、わたし もそれは慎重に考慮したが、結局そうしないことに決めたのである。 この実験はすでにリンゼイの『アークトウルスへの旅』で試みられて いるが、すくなくともわたしの耳には、それが不適切な試み、鼻持ち ならない気どりにひびく。三百べージもそれがつづいたのでは、とて も耐えられないだろう。媒体の非妥協性は、つまるところ、また楽し みでもあるのだ。おそらくこれまでの芸術家が使ったどの言語より も、英語は融通のきく言語だろうけれども、やはりそれでしたい放題 のことができるわけではない : : ・あなたは彼らの衣服を男性的と評した。極寒の気候の中で、人 びとはどんなものを着るだろうか ? わたしはエスキモーをモデルに 仰いだ。彼らはーーー男も女もーーチュニックとズボンをはいている。 いうまでもないことだ。あなたは零下十度の積雪と風の中で、スカー トをーーロングにせよ、ショートにせよー・ーーはいた経験がおありだろ わたしが観察者兼語り手に、″ノーマル″な地球人の男性をえらん だのは、読者が感情的にゲセン人と一体化しにくいだろうと考えたか らだ。それどころか、多くの人びと、特に男性は、ゲセン人に嫌悪を 感じるのではないか、とさえ考えたほどである。これはわたしの考え ちがいだったし、もっと勇気を持っ・ヘきだったと、いまにして思う。 にもかかわらず、やはりわたしはこう信じているーーたんにメッセー ジを伝えるのではないかぎり、直接的よりも間接的のほうが多くのこ とを伝えられるのだ、と。わたしは小説家であって、電報局ではない 。わたしがゲセン人について述べたことの意図は、読者の想像力 を奐起するためなのだ : : : 」 4 、がどこの国でも均質というわけではないことを、忘れてはなら ない。にもすべての小説とおなじように、ビンからキリまでの段 階がある。これはわかりきったことだが、それを忘れる人が多いの 5 、ウエルズの作品の中の興味ある女性の一人は、時間旅行者が旅の途 中で出会うウィーナである。ウィーナは無力で弱々しいが、それは男 も女も含めて、彼女の種族のみんなにいえることだ。彼らは人類の遠 い未来の子孫にあたる、エロイという子供っぽい種族である。 6 、ミズ・フレンドは、の中で性の問題を追求した先駆者といえる 二人の作家、フィリップ・ホセ・ファーマーとシオドア・スタージョ ンについても、興味あるコメントを述べている。とくに注目をひくの は、単性生物の文化とそれに対する地球人の反応を扱った、スタージ ョンの『ヴィーナス・プラス』 "Venus Plus X" ( 一九六〇 ) で ある。 7 、キャルヴィン博士は人間よりもロポットが好きだが、これには論理 的な理由がある。アシモフの倫理的で愛すべきロポットは、事実人間 よりもすぐれているのだ。この″ロポットもの″は、その後『われは ロポット』 ( 一九五〇 ) と『ロポットの時代』 ( 一九六四 ) の二冊に まとめられている。 8 、ロ・ ハート・ハインラインは、作品の中の女性描写で、多くの評論 家から手厳しい批評をうけている。サム・・リュンドヴァルは、ハ インラインが″いまなお女性はハレムにしか向かないと信じこんでい 6 ると述べた。別の評論家は、ハインラインのヒロインの多くが、科

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しつける。たいていの場合、女性はこの要求に同意する。そして、 た。そんなところは、いかにも彼女らしい。おおかたの女性とお 同意しなかったものも、小説の進行につれて、彼女たちの″自然 なじように、彼女は人間関係に温かい感情をふりむけるだけで、 な役目に満足を見いだすことになる。この種のは、一つの門 抽象的な問題は夫にまかせているのだ。彼女がラスタムにやって 題を提出している。両性の役割は、結局、わたしたちが置かれた環きたのは、その主義のためというより、むしろ彼のためだったの ( 原注川 ) 境によって決定されることが多い。にもかかわらず、ふしぎなこと かもしれない。 ( 浅倉久志訳 ) に、開拓者たちはもっと異った社会構造を実験してみようとせず、 また、この拘束的な役割に押しこめられた女性に対して、あまり同 多くの場合、ほかの惑星に植民する理由は、十九世紀にもてはや ( 原注 9 ) アメリカの拡張政 ) の思想とあまり変わらない 情も示さないのだ。ときおり、開拓者たちが、できるだけ多くの遺された " 明白な運命。 ( 策 伝子の組合わせを作ったほうが健全だという考えから、一夫一婦制仮説にもとづいている。人類がもし生存と繁栄を望むなら、新しい を捨てることもある。これはたしかに真実かもしれないが、女性は フロンティアを持たなくてはならない。自然はわれわれをきわめて やはり繁殖用の雌馬の地位に置かれたままだ。 繁殖力の強い生物に作り上げた。その目的をくじくことはできな なぜ女性がわざわざ地球を離れてまで、こうした限定的な役割を 。したがって、われわれは新しい世界を見つけ、それを開拓しな うけいれるのかと、疑問が生まれるかもしれない。実をいうと、ふ くてはない。これらの通念には、過去にも一部の作家が異議を つう彼女たちの地球での生活は、それ以上とはいわなくても、それ申し立ててきたし、また、いまもそうしつづけている。 とおなじほど拘東の多いものに描かれているのである。彼女たちが しかし、この古い文化通念は、の中で女性がどう見なされて 後にする地球は、退廃しきっているか、全体主義的か、人口過剰きたかを、雄弁に物語っている。男性はつねに積極的で、外への探 か、退屈か、あるいはこれら・せんぶを合わせたよりもっと悪いもの険に駆りたてられている。女性は、その影にいる衛星のように、た なのだ。ときには″夫になれる人材〃の不足もあるし、またしばしえず男性につきしたがい、めったに自発的行動を起こすことがな ば、夫を見つけることが女の第一の欲求であるように、臆断される い。これらには当然もう一つの選択が考えられるだろう。必ずしも こともある。また、ほかの小説では、地球が、戦争かなにかの天災地球が、そこからわれわれが出ていかなければならないほど、破壊 のために、人間が住めなくなってしまっている。また、ときには、 されるとはかぎらない。かりに、たまたまわれわれがある世界の住 女がたんに男のあとへついて行くこともある。ポ 1 ル・アンダース民より強力だとしても、その世界をわれわれのものと見なすにはお ンは、才能に恵まれた多作家だが、『無限軌道』 ( 一九六一 ) と、 しよばない。男性と女性がいっしょに別世界を探険し、そして彼らに う長篇の中で、そうした女性の一人を描いている ついてだけでなく、われわれについてももっと多くを学ぶことは、 可能なはずだ。 ジュディスは、まだ彼にその計画の内容をたずねていなかっ 5 5

10. SFマガジン 1975年11月号

工学的なガジェットの相互作用を経験できる、そんな世界を提供し役とか、主人公の知りあいの役に女性を配して、恋愛の色どりにす た。おは、少年たちが女の子ぬきで ( あるいは両親ぬきか、一般る程度だった。ヴ = ルヌは生前から非常に人気のある作家だった の近視眼的な文化ぬきで ) 寄り集ることのできる、近所のクラ・フハ し、その原作にもとづいた映画 ( 『海底二万哩』『地底旅行』『八 ウスになった。どのみち、女の子ははた迷惑だ。クラ・フハウスにこ十日間世界一周』 ) は、今日もなおわれわれを楽しませてくれる。 られては、じゃまになる。決められた領分の中でおとなしくしてい しかし、それ以上に重要なのは、新発見のもたらす社会的変化に対 ないかきり、ストーリ ーの展開にもじゃまだ。 するシリアスな考察よりも、冒険と機械仕掛に大きく依存するたぐ 女性は、その限られた役割の中で、作家のために実用的な機能を いのに、ヴェルヌの影響がまだ残っていることである。ヴェル 果たした。物語の中で、作家が登場人物のだれかのロをかりて、あヌの作中人物は、わくわくする冒険や、ふしぎな新発明や、新しい る装置のしくみや、一つの科学的原理を、無知な少女や婦人にむか世界の発見にでくわしても、本質的にはなんら変化のない十九世紀 ってーーひいてはその延長としての読者にむかってーー・説明するとの男性だった。この前例を踏襲する現代作家は、なんら変化のない いう手である。女性はまた、なんらかの英雄的行為の報賞としての二十世紀の男性と、二十世紀の両性の役割を提出している。ときお 役も果たしたし、危険から救い出される対象でもあったし、ときにりヴァラエティをつけるために、ヒーローが一人または数人の女性 はヒーロ 1 がうち , 負かさなくてはならない危険な ( あるいは狡猾とべッドを共にしたりする。この場合の″解放された女性″とは、 な ) 敵にもなったし、雑誌の表紙の飾りにもなった。そこには、露ほとんど、あるいはまったく挑発をうけなくても、ヒーローといっ 出度の多い、非実用的な衣服をまとった美女が描かれるのがつねだしょに寝る女のことなのである。 十九世紀後半に的な作品の大半を書いた・・ウエルズ しかし、の父と呼ばれるヒ 1 ゴー・ガーンズ・ ( ックが、一は、変化をシリアスに考察するの先駆者といえる。社会問題に 九二六年に。 ( ルプ雑誌〈アメージング〉を創刊する以前から、女性深くかかわりあっていたウエルズは、なかんずく女性の権利に大き はの中で無視されていた。十九世紀のにおける最大の存在な関心を持っていた。しかし、この関心が、ウエルズのには欠 であり、その後のに大きな影響を与えた二人の作家、ジ = ール落している。ウエルズの小説の主人公は男性であり、そしてそこに ・ヴェルヌと・・ウエルズも、ほとんど女性に関心を払わなか現われる女性は、通常予想されるものとたいして違わない。ウエル っこ 0 ズの女性に対する関心は、もつばらでない作品のほうに表われ メアリ・シェリーも、前述したように、女性の主要人物を省いたている。 ことで、この基礎工事にいくぶんか手を貸したといえる。ジ = 1 ル ウエルズは、いまなお第一級の作家と見なされている。『タ ・ヴェルヌの冒険にみちた楽しい読物は、女性の登場人物をまったイム・マシン』や『透明人間』や『宇宙戦争』は、最良のの見 く欠いているか、でなければ、危難におちてヒーローに救出される本である。もし、ウエルズがもっと女性の扱いに重きをおいていた 5