しる 彼の手兵は三千五百。まだ増援を受けぬ日本軍とほぼ同数だった。 胸にそ、長く記されん 嗚呼 ! 海軍一一等水兵、三浦虎次郎は今、護国の鬼と化したので本来ならば、今日までに彼が手にすべき増援軍は一千二百、野砲十 二門、さらに多量の弾薬があるはずであった。しかし、それらは、 あった。 こうしよう 四日前の七月二十五日。日本艦隊により輸送船高陞号もろとも、豊 なきがら 笙子は彼の亡骸をふたたび、そっと甲板に横たえた。その背後を、島沖に射ち沈められていた。旧式木造砲艦ただ一隻に護衛された輸 送船高陞号は、坪井航三少将のひきいる第一遊撃隊、巡洋艦吉野、 元とかもめが走った。 ( ッチへおどりこんだ一一人の目に、眼前の空間へ溶けこんで消え秋津洲、浪速などの精鋭の前にはあまりにも無力たった。日本艦隊 はこの無力な砲艦と輸送船をなぶり殺しの血祭りに上げ、それをも てゆく一個の人影が、淡い残像となって残った。 って清国との開戦の通告に代えたのたった。 卑劣な ! 猛将葉志超は、おのれの生命を賭しても、ここで日本軍の北上を くいとめなければならないと思った。 この年の夏は年来になく暑かった。 冬の極寒の用意に、どの家も窓は小さく、オンドル焚きの床の一一東学党の乱を静め、朝鮮半島の治安を回復するというロ実で、腐 重構造と厚い土の壁は、間もなく東の空も白もうという時刻である敗した李王朝を恫喝と籠絡で操りながら、日本帝国は朝鮮半島を併 にかかわらず、昨日の昼の暑さをなお室内に充満させていた。人々呑せんとし、さらには鴨緑江を越えて遼東半島をも手中に収めよう が身動きするたびに、汗とすえたような体臭が粘っくように渦巻いとする意図は、今や明々白々となった。ひとたび彼等のその野望を て動き、吸いこめるような空気など、もはやどこにもないような気許したならば、次には奉天、長春を中心とした清国東北地方すなわ ち盛京省全土を歯矛にかけようとするにちがいなかった。 がした。 清国北洋陸軍、矛山守備隊提督、上将葉志超は暗い洋燈の下にひ清国の憂慮は今や現実ののとなった。小国日本とはいえ、その ろげた地図にもう一度見入った。その彼のこめかみからほおをつた帝国主義政策に基く強力な陸海軍は、清国第一の精鋭である北洋水 った汗が濃いあごひげから地図の上に滴々としたたって幾つもの汚師、陸軍といえども、果してよくむかえ撃っことができるかどう か、濃い不安につつまれていた。近年の日本の台頭を見て、いっか 点を描いた。 この日の来ることを予感していた清国も、ようやく遅れていた軍隊 その汗の一滴が、彼が地図上に印した赤丸を薄紅ににじませた。 せいかん その場所こそ、彼が本営を置くこの成歓駅北方の高地だった。忠清の近代化に着手したとはいえ、最初から侵略を目的として一意育成 7 2 2 道牙山東北方二十キロメートル。矛山に在る三千の日本軍が、安城されてきた日本軍を相手にするには、その政策から根本的に検討し てゆかねばならなかった。それに、ふがいない李王朝をも援助しな から京城を衝くべく北上する公路を眼下に収める要衝の地だった。 ランプ
して突撃に入った。距離、わずか六百メートル。つるべ射ちに射ち合艦隊主力、三景艦の一隻、橋立だった。その後方では巡洋艦高千 まくる十一一センチ砲の砲弾は、ことごとく松島の船体に吸いこまれ穂が艦尾をすでに深く水面下に没していた。右舷遠く、海面をおお 2 う真黒な団雲は、先刻、主力の一隻、厳島が大爆発を起して沈没し 松島に坐乗している連合艦隊司令長官伊藤祐享中将は、倒れたマた跡だった。精鋭を誇る巡洋艦吉野も浪速も、姿を消していた。 ストをいそいで海中に投棄するように命じた。だが、艦長も副長樺山軍令部長の乗る西京丸と、砲艦赤城は、檣頭高く白旗をひる も、すでに鮮血に染って艦橋の床に横たわっていた。伊藤中将自身がえして停止していた。 あきっしま も、飛来した弾片によって重傷を負っていた。彼は信号係の兵曹清国艦隊はなお抵抗をつづける松島や巡洋艦秋津洲、比叡、ほか に、その作業の指揮を命じた。兵曹は、大きくかたむいている艦橋数隻の水雷艇に向って、とどめの砲火を集中していた。 けいえん 間もなく秋津洲が爆沈した。清国海軍の巡洋艦経遠は、猛虎のよ からとび出していったが、この惨憺たる艦上で、どうやって人手を 集め、百トンからあるマストを持ち上げ、海面に投棄することがでうに突進してその鋭い衝角で、必死に逃げ回る水雷艇の横腹を突き きるのか、伊藤中将自身でさえ疑問だった。短艇揚収用のクレーン刺した。清国海軍の水雷艇の放った魚雷が比叡を命中の水柱でつつ んだ時、黄海の海戦は終った。 も、倒れたマストを支柱にしているのだった。 「右舷の十二センチ砲は何をしておるのか ! あの敵艦を射ちまく 一八九四年。明治一一十七年九月十七日。 帝国連合艦隊は、黄海奥深く大孤山沖で、三隻の輸送船を護衛中 伊藤裕卒中将は、指揮棒がわりの竹刀をふり回してさけんだ。 の清国北洋艦隊を発見した。 「砲術長 ! 砲術長はどこへ行った ! 」 九月十五日未明に開始された総攻撃によって、平壊は十六日、つ 先任士官がかけ寄って、伊藤中将の腕にとりすがった。 「長官 ! 砲術長の柳川大尉は戦死されました。右舷十二センチ砲いに陥落し、朝鮮半島を北へ進攻する日本軍は、いよいよ朝鮮と清 は完全に破壊されています。長官。本艦は問もなく沈没します。ど国の国境である鴨緑江を目指す態勢を取った。戦略的優位に立った とよ 。いいながら、東京の大本営は秘かに憂色につつまれていた。 うか損傷を受けていない艦に移乗なさってください」 それは名将丁如昌提督のひきいる清国北洋水師の精鋭が、一向に 「貴様 ! 何を言うか ! 臆病風に吹かれたな ! 」 伊藤中将は先任士官を、手にした竹刀で打ちすえようとして荒れ姿をあらわさないことであった。、帝国の連合艦隊は、黄海の制海権 狂った。連合艦隊司令長官、伊藤裕享中将は完全にどうてんしていを完全に握ることを作戦の主眠においていた。それというのも、清 国北洋水師司令部は、その艦隊を、制海権の獲得に使用せず、専ら 陸軍部隊を朝鮮半島に輸送する輸送船の護衛に当てていた。そし 左舷に近く、完全に停止したまま猛煙を吹き上げているのは、連て、日本の艦隊と接触することを努めて避け、戦力の温存を図ると こ 0 こ 0
ともに、極力戦火の拡大することを防いでいた。それに対し、連合主力の三景艦に搭載した三十センチ砲は、その小さな船体には巨 艦隊司令長官伊藤祐享中将は、しきりに巡洋艦隊を黄海奥深く索動大すぎ、一発、射っと、その動揺が三十分も止らず、約六時間にわ 2 たる黄海の海戦で、実際に発射した弾数は、三隻総計わずか五発、 させ、偵察と敵主力の誘出に当らせていた。大本営が焦慮している のは、清国が日本陸軍の側面を衝いて大兵力の陸兵を朝鮮半島の西一説には十三発といわれている。連合艦隊は、その過大な兵装を背 岸に揚陸させはしないか、ということだった。当時、朝鮮半島にあ負ったための重大な欠陥について知っていた。その故もあって、こ った日本陸軍は第一軍主力は歩兵一万三千、騎兵三百五十、その他の新式十二センチ速射砲に絶大な信頼をおいていた。そしてそれが とうてい朝鮮半島西岸を守りきれ北洋水師に対する戦術的優位を確信させる結果ともなった。 合計しても一万五千に足りない。 ミリの O 0 メ るものではない。日本陸軍はあげて前線にあり、その背後に上陸さ今でこそ十二・七センチ砲で一分間八十発、七六 れ、補給路を断たれてはひとたまりもない。なんとかして清国北洋ララなどは三百六十度の全周を三秒でふり回しながら一分間に百二 水師を黄海中央部に引きずり出し、そこで乾坤一擲の決戦をおこな十発もぶっ放すのだから、隔世の感はあるというものの、あえて原 って、黄海の制海権の帰趨を決したいと念願していた。 爆を持ち出すまでもなく、この百年間における殺人道具の発達はま ことにすさまじいものがある。 大孤山沖に北洋水師あらわる。の報に、連合艦隊は勇躍した。 あらわれ出でた北洋水師は、旗艦定遠、姉妹艦鎮遠以下十四隻。 さて、この九月十七日。 排水量総計四万トン 一隻で四万トンの船といっても現代では″煙も見えず雲もなく、風も起らず波立たず、鏡のような黄海は : ″というまことにすばらしい秋晴れだった。 そう大きなものではないが、なにしろ一八九四年のことだーーーー・戦 連合艦隊は坪井司令官のひきいる第ャ遊撃隊、巡洋艦吉野、高千 艦定遠、鎮遠は三十センチの主砲を四門すっ備え、それを中心に、 穂、秋津洲「浪速を前衛に配し、伊藤連合艦隊司令長官直率の主 艦隊の大口径砲は合計二十一門。各艦の装甲は強大であった。 それに対して、帝国連合艦隊は、主力松島、橋立、厳島の三十セカ、三景艦に配するに千代田、比叡、扶桑の直衛。さらに左舷非敵 ンチ砲一門すつ。排水量総計こそ四万トンと、清国側のそれよりも側に、状況視察の樺山軍令部長坐乗の仮装巡洋艦西京丸。砲艦赤城 大きかったが、巡洋艦以下の小艦が多かった。したがって十二センを置き、檣頭高く戦闘旗をひるがえして、全軍第一戦速。 チ砲や七・六センチ砲クラスの小砲は、清国側の六門に対し、六十これに対し、精鋭北洋水師、また後翼単梯陣。先頭を承るのは、 へんぼん 七門と圧倒的に多かった。この英国製十二センチ砲というのが、三檣頭に翩翻たる牙龍の一旗。これそ名将丁如昌提督坐乗ましますの 十センチ砲や二十センチ砲に比べて当然威力は小さいが、当時ようしるし。旗艦、定遠。その左舷斜め後方には鎮遠。定遠の右方には やく実用化されたばかりの、最新式の速射砲であり、一分間に二十快速巡洋艦斎遠、来遠、致遠、経遠、さらに揚威、広甲、超勇を直 発も射てるという当時驚異的な新兵器だった。 衛に配し、全軍ひた押しに押し進んだ。
華麗な軍服はみるみる鮮血に彩られていった。大青龍刀が旋転する たびに、彼の黒髯と手首の朱房が颯々と血風になびいた。彼を十重「 二十重に取り囲んだ日本兵の銃剣の槍ぶすまも、彼が動くたびに前葉志超の怪鳥のようなさけびが、日本兵たちの耳を打ち、その心 へ後へ、右へ左へ、絶えず移動した。丘の頂きは今や彼が倒した日気を奪った。彼は追いすがる日本兵を右に左に斬り払いながら、一 本兵の死体で足の踏み場もなかった。 歩、一歩、後退した。そこはすでに丘の端だった。ゆるやかな斜面 新しい銃声が暁の大気を震わせた。公路に面して丘のふもとに布を、細い道がふもとに向っている。丘稜の西の谷には、まだ完全に 陣していた清国兵が、ようやくこの台地にかけ上ってきたのだ。い明けきらぬ早暁の闇が残っていた。今なら逃げのびることもできょ たる所で肉弾相搏っ白兵戦が展開された。鋼の打ち合う響、肉体にう。葉志超は、群狼のように喰いさがってくる日本兵を追い散らし 打撃を加える音、悲鳴、怒声、絶叫、乱れる軍靴の音、うめき声、ておいて、すかさずその道をかけくだろうとした。 おりから、血のような朝焼けがこの丘の稜線を染めた。両軍の兵士そのときだった。 たちは半顔を朝焼に染め、全身に血しぶきを浴びて獣のようにつか「待てい ! 大将軍ともあろう者が、敵に後を見せるのか ! 見れ み合い、なぐり合い、切り合った。 ばまことに天晴れな腕前。敵ながら惜しいやつじゃ。惜しくはある 奮戦につづく奮戦で、さすがの猛将葉志超の鉄のような体も、鉛が、その素っ首もらった」 のような疲労に、思うように手足が動かなくなってきた。彼の周囲割れ鐘のような大音声が、猛将葉志超の足をびたりと止めた。 にはすでに清国兵の姿は一人もなかった。もはやこれまでだった。 ふりかえると、日本兵の銃剣の槍ぶすまの後から、一人の八字髯 今はわが身ひとつ。敵の重囲を破って逃れるしかなかった。 もいかめしい男がのつしのつしと進み出てきた。 ようやく動きが鈍ったとみたか、彼を取り囲む日本兵の輪が急激丸軍帽に肋骨縫い取ったる黒軍服、白脚絆に斑入りの皮足袋。草 んじ に縮まってきた。 鞋の紐を足首に喰いこむほどに固く縛り、威風、あたりを払って仁 王立ちになった。 「それ ! 今だ。やつつけろ ! 」 「芋刺しにしてしまえ ! 」 「それなるは清国北洋陸軍朝鮮派遣軍都督にて矛山守備隊総司令、 どっと、なだれのように襲いかかってきた。その銃剣の槍ぶすま葉志超上将と覚えたり。われこそは、日本陸軍大島旅団歩兵第一連 が、彼の体を貫通しようとする一瞬、朱房の大青龍刀が水車のよう隊第三大隊にて、鬼と異名を取ったる帝国陸軍歩兵特務曹長、室井 に回った。数本の銃剣が葦の葉を切り飛ばすように前後左右に折れ弥七衛門なるぞ ! 汝を、わが家に伝わる天下の名刀、この備前長 飛んだ。猛将葉志超、すかさず、包囲の円陣の一角へ飛鳥の如く躍舟のさびにしてくれるわ ! いでや ! 」 りこむ。村田銃を握ったままの腕が血けむりを曳いて飛び、たたき皮帯にぶつこんだ長いやつをギラリと引き抜いた。 割られた洋剣が、持ち主の首といっしょに舞い上った。 上将葉志超、実は清日関係の雲行きが危くなると、ひそかに日本 わら 230
に比し、あまりにも広すぎた。邪山、京城公路を見おろすこの丘陵だ ! 」 地帯に兵を配置するので手一杯だったのだ。 猛将葉志超は、じゃまになる腰の洋剣をむしり取ると、壁につる 「鳴呼 ! 天、我に与せず乎 ! 」 しておいた葉家伝来の明初の刀工齎寧孫のきたえた長さ四尺におよ 葉志超上将は天をあおいで慨嘆した。 ぶ大青龍刀をむずとっかんだ。朱房の打紐手首に巻き、皮鞘を払う すでに本営内は騒然と浮き足立っていた。 と白虹一閃、ほの暗い洋燈の光も、たちまち明皓々たる月光に変ず そのとき、とっぜん、ごく近い所で小銃の一斉射撃が起った。手るが如くであった。 投爆薬の爆発するらしい轟音がつづけざまに大地をゆり動かした。 とっぜん、黒風の如く一団の日本兵が躍りこんできた。 「敵だ ! 」 「来い ! 東洋鬼 ! 」 「みんな出ろ ! 」 猛将葉志超の大青龍刀が、風を切って旋転した。黒い飛沫が高く 「たいへんだ ! 」 跳ね、なだれこんできた日本兵はどっと後ずさった。 「聞け ! われこそは北洋水師提督の下にあって、朝鮮派遣清国陸 にわかに蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 「落着け ! ここでくい止めるのだ。銃声を聞いて、間もなく味方軍総帥にて牙山守備を承る清国陸軍上将葉志超なるそ ! この成歓 しびと の兵がやって来る」 の駅を通れるものなら通ってみよ。死人の山を築いてくれるわ。 葉志超上将は、生色を失ってうろたえ騒ぐ部下の将校達を叱咜しでや ! 」 葉志超上将は、屋外へ走り出ると、大青龍刀をりゅうりゅうとふ 防ぐといっても、本営のこととて銃を持っているのは、ごくわずか り回し、ひしめく日本兵を、はったとにらみつけた。 の警備の兵士だけだった。あとは副官の短銃と腰につるした洋剣だ。 「なにをこしやくな ! 」 それでも警備の兵士達がパチパチと射ち出した。たちまち、それ「捕えろ ! 捕えろ ! 青龍刀なんそ払い落してふん縛ってしま を圧倒する銃声が湧き起り、、土壁に命中する弾丸の音が、鞭で壁をえ ! 」 めったやたらに打ちたたくように聞えた。 日本軍の将校が小馬鹿にしたように背後から部下を指図した。 金丁迫が扉に身をかくして短銃を射ちまくっている姿が、発射焔「おのれ ! 」 の光に明減した。 葉志超の怒りは心頭に発した。とっぜん、足を縮めると、七尺の 怒声と絶叫が家の周囲に迫ってきたかと思うと、家の裏口の扉が巨体は風をまいてちゅうを飛んだ。真黒に丘の頂きを埋める日本兵 打ち破られる物音がした。黒煙が渦巻き、火のはぜる音がびびい の真只中に、音もなく足をおろした葉志超上将は、おどろきうろた 9 こ 0 える日本兵を、左右にばったばったと切り倒した。その姿はまさに 「諸君の生命をわしにくれ。日本人どもにひと泡ふかせてやるの鬼か魔物のようだった。血しぶきが高く上るたびに、葉志超上将の こ 0 サー・ヘル トンヤンキ ラシザ サー・ヘル
に立ち上り、怒りと燃えるような無念さをこめて、笙子をにらみすいる客や店の女たちからは、そこはわずかに死角になっていた。 えた。ソフアに身を埋めたままの笙子の、大きな目が、その平賀の気を失って倒れているじゅん子と若杉を発見した底の女たちが悲 視線をちゅうで受け止めた。そのひとみが氷の湖のように平賀の心鳴をあげ、客たちがどっとそこへかけ集ってきたときには、もはや を凍てつかせた。 何の異常を察知することもできなかった。 平賀は身をひるがえして、スチールのドアへ向って走った。 誰かが一一九番へ電話をかけ、時ならぬ救急車の警笛が、銀座の じゅん子の手によって、小さな鍵が今、鍵穴へさしこまれようと裏通りの夜気をいたずらに震わせるのみだった。 していた。 平賀は、じゅん子を押しのけてその手から小さな鍵を奪い、強く 2 回した。 薄明の空間がそこに開いた。 間断なく高い水柱が立ち、一瞬、それが崩れて、滝のように海水 何とも知れぬ異様な機械や装置が、生き物のように回転し、小さが落ちてきた。 空気が絶えず震動し、灼熱の鉄片が厚い甲鈑を紙のようにぶちぬ な光の点滴を生み出し、かすかなうなりを上げていた。 き、周囲一面にすさまじい火花をまき散らした。塗料が燃え、索具 平賀の姿は、その中に消えた。 いつの間に移動してきたのか、平賀のあとを追って、笙子がすべが燃え、短艇が燃えていた。 りこんだ。 黒煙と水しぶきにおおわれた虚空を、肉眼でもそれとわかる巨大 な砲弾の黒い影が、飛跡を曳いて落下し、天地もくつがえるような かもめと元が、二匹のいるかのように、跳躍した。二人の体が、 衝撃とともに、視野は火焔でおおわれた。 洞くつのような薄暗い空間に吸い込まれるのとほとんど同時に、ド アの部分の壁全体が、急速に色と形を失っていった。あかるい照明根元から折られたマストが、巨大な円弧を描いてななめに海面に ファイティ / グ・トツ・フ が、もやにつつまれたように、淡く翳った。氷のような冷気が、量突込んだ。檣頭の戦闘楼から、小砲とともに、そこへたてこも 感をともなって周囲を押しつつんだ。 っていた数名の水兵たちが、人形のように空中へほうり出された。 色と形を失った壁が、ふたたび実質をともなってそこに姿をあら長大な橋のように、ななめに水面へ倒れたマストが、満身創痍の わしたとき、それは、汚れたコンクリートと・フロック、それにペン海防艦、松島の動きを完全に封じた。猛火に包まれ、気息えんえ キの色もはげ落ちた粗末な木製のドアに変っていた。 ん、わずか三ノットの微速で、戦場から離脱をはかろうとしていた それを見つめるじゅん子と若杉の顔がしだいに弛緩し、やがてゆ松島は、海中に突込んだマストの抵抗で、大きく円を描いて変針し つくりと床に崩れ落ちた。 はじめた。 この変化に気がついた客は誰もいなかった。ひろ子をとり囲んで それを見た清国海軍の巡洋艦、超勇が、十二センチ砲をふりかざ 2 幻
彼は暴風のような酒気を吐いた。相手の四尺余の青龍刀が、少し 「えやおう ! 」 やらじとばかり弥七衛門が躍りこむ。ふり向きざま、葉志超は大もおそろしくなくなった。 青龍刀を水平に薙いだ。弥七衛門の胴体が上半身と下半身に真二つ彼の備前長舟は一閃して葉志超の上体にはしった。 に分れた。と思ったのは葉志超だけだった。、弥七衛門は平ぐものよ 「いたわ ! あそこに ! 」 うに地面に這いつくばった。その頭上二寸のところを突風のように 笙子が低くさけんだ。元とかもめの目が笙子の視線を追った。 白刃が飛び過ぎた。 十重、二十重におり重なった日本兵の黒服の背に、這りつくよう に一人の男の姿があった。 二人は暴風のように息を吐いて向い哈った。たがいに青眼。淋漓 「ジャパン・スチール・アンド・シップビルディングの社長の平賀 たる汗は二人の視力をほとんど奪っていた。つぎに激突した瞬間 いいこと。こんどこそ逃さないでとらえるのよ」 が、二人のうち、どちらかの生命が失われることは明らかだった。 笙子は元とかもめに目配せし、彼らを右と左に回らせた。 二人の決闘を見守る日本兵たちは、粛然として声もなかった。 笙子はゆっくりと近づいた。 どちらも、おそろしく腕の立っ剣客だった。二人の技量はまさに あと数メートルの距離まで近づいたとき、彼は身に迫るものの気 五分五分であり、今やおのれの生命を自ら棄てた葉志超と、背後の 配を感じたのか、さっとふり向いた。 味方を意識する室井弥七衛門と、どちらがその闘志をかき立てられ 彫の深い端正な彼の顔に、おどろきと苦痛の色がみなぎった。 るかが、勝負の分れ目だった。 斎寧孫と備前長舟はふたたびじりじりと間合いをつめた。 彼はくちびるをゆがめて何かさけぶと、人垣の背から跳び離れ、 室井弥七衛門は自分の勝利を信じて疑わなかった。日本陸軍三千 やにわに、そこに落ちていた洋剣をひろって身構えた。切先がびた の将兵の目が、ことごとく自分に集中しているというのが、この上 りと笙子の胸元をねらった。はげしい動揺が平賀の顔から消えてゆ なく彼を満足させ、有頂天にさせていた。晴れがましい心でいつば くと、じよじょに妻まじい殺気と執念がその面貌を変えていった。 いだった。このような晴れの舞台は、これまで彼の生涯にたたの一 「ハトロール・マン。よく追ってきた。だがここで終りだ ! 」 度もないことだった。ここでこの清国大将軍を見事、討ち果せば、金 彼は青眼にかまえた洋剣を、せきれいの尾のようにこきざみには 鵄勲章は確実だった。特務曹長から一躍、中尉か大尉に昇進できる ね上げながら、じりじりと笙子に迫った。 かも亠れない。そうなれば好きな酒の一升や二升はもう不自由する おろち こともない。そうた ! 酒だ ! 室井弥七衛門は大蛇の如く舌なめ朝風が笙子の髪を吹き乱し、袂をひるがえした。笙子はすばやく かんざし ずりをした。すでに二升の酒が胃の腑におさまったような気がした。髪にさした簪を抜くと半身に構えた。左手で軽く、ひるがえる袂 をおさえると、露わになった白い腕に、朝の光が映えた。〈以下次号〉 「ううい ! 」 よ。 サー・ヘル サーベル 232
やがて一人の兵士が、部屋へかつぎこまれてきた。ひどい血の匂 ければならなかった。 いがした。 えんせいがい 北洋水師提督、李鴻章大元帥は彼の腹臣である袁世凱を朝鮮にお「しつかりしろ ! 葉提督の御前だ」 兵士は両側から体を支えられながら直立不動の姿勢をとろうと ける清国代表である朝鮮総理交渉通商事宜に任命し、また葉志超上 し、ふたたびずるずるとくずれおれた。 将をして在朝鮮清国陸軍提督に据え、この危急を打開しようとした。 「そのままでよい。休め。白露台に日本軍があらわれたと ? 」 葉志超上将は、この偉大な先輩でもあり上司でもある李鴻章大元 兵士はふいごのように喘いだ。 帥の信頼に応え、祖国の危機に身を挺しようとしていた。 「南 : : : 南第四哨所が襲われ : : : 哨長以下全員・ : ・ : 戦死しました : ・ 洋燈の光が洩れるのを防ぐために、垂幕をおろした入口から、一 ・ : 敵は、敵は大部隊です。尾根づたいに、やがて、ここへ : 人の将校が走りこんできた。 「提督 ! 南第四哨所より伝令であります。敵が白露台方面にあら 兵士ののどが糸車の回るような音を発すると、その体はゆっくり われ、急速南下中であります ! 」 と床に横たわり、そのまま動かなくなった。 葉志超上将は長靴のかかとを打ち合わせると、そろえた右手の指 葉志超上将が問い質す前に、副官の金丁迫が金切声でさけんだ。 「なに ? 白露台に敵が ? 馬鹿な ! そんなことがあるはずがなを軍帽のひさしにかざし、うやうやしい挙手の礼を、息絶えた兵士 。うろたえるな ! 」 に送った。それにならう副官達の長靴の音が、ざっといっせいに湧 き上った。 「副官殿。南第四哨所より緊急伝令であります」 「たからうろたえるなと言っておるのだ ! 南第四哨所は第七連第「この兵士を丁重に葬ってやれ。そのひまがあればよいが。金副 二大隊第一中隊の所管であろう。なぜ当該各所管を通して来んの官 ! 全軍に通報 ! 敵は背後だ ! 」 か ! 直接、提督本営へかけ込んで来るおろか者がいるか ! 」 「提督。お言葉をかえすようですが、南第四哨所が襲われたとして 「まて ! 金副官」 も、それは敵の斥候隊によるものではないでしようか ? 敵の主力 卓をたたいて立ち上ったのは葉志超上将だった。 はこの台地の正面に在ると思いますが」 「その伝令をここへ呼んでくれ ! 」 副官の一人が金丁迫の後からのび上った。 「しかし提督」 「ちがう。日本軍の総兵力は我軍とほぼ同じだ。同じ兵力で攻勢を 「呼べ ! 」 取ろうとするならば奇襲しかない。白露台とは正によい所へ目をつ 葉志超上将の目が、猛虎のようにギラリと光った。 けたものだ。そうだ。白露台なのだ。あそこからならば尾根伝いに 金丁迫副官は電撃に打たれたように硬直し、それからあわてて外この高地へ押し寄せて来ることができる。葉志超上将がもっともけ へ走り出ていった。 ねんしていたのはそれたった。だが、彼が守るべき前線はその兵力 ラン・フ 228
「新青年」創刊号 , 大正 9 年 1 月刊 特に綿るだろうが、当人にとっては大変な騒ぎだ。・・ほくは腹を たてた。 さらに、ぼくの腹だたしさを倍増させたのは、その電 ( 、激性の気力ミソリがアメリカ製であり、その日が十二月八日で 鶯強い匂あ 0 たことだー これはいったい、なにを意味している , もいに敏のか ? ほとんどの人はわからないにちがいない。しか 感に反し、ぼくみたいにいつでも被害妄想にとらわれている人 間は、この事件のウラにかくされた秘密がすぐにわかる 。 ~ 2 、 ~ 時に・はのだ。これは明らかに〇国のスパイが暗躍している。〇 〕。空気の国は三十三年前のハワイ真珠湾のかたきを、・ほくの鼻の 」み第温度差下で討 0 たのだ。これは許せない、絶対に許せないー 程度のなぜ、ぼくだけが真珠湾のかたきを討たれなければなら も発作を起こす。 国産の電気力ミソリを使っていなかったぼくも悪いに 諸君 ! そこで・ほくがその病気のある調子の悪い鼻には悪い。だが、もし日本が大東亜戦争で負けてさえいな ″ヒゲの粉″を吸いこんだら、どうなると思われるかリ ければこんなことにはならなかったにちがいない。〇国 そう、あなたの予想どおりの結果が起こったのだ。自慢のスパイが暗躍するなんてことはあり得なかったはずだ じゃないけど、・ほくはクシャミを十五発ぐらい連発し、 し、日本は現在よりももっと豊かな国になり、科学技術 顔をもう涙と鼻水でグショグショにしてしまった。そのもどんどん発達して、外国製なんか足元にもおよばない 時に使ったクリネックスティシューは、ゆうに五十枚をくらい使いごこちのいい国産電気力ミソリを開発してい たであろうから、こんな奇襲を受けることはなかったは 越えただろう。でも、それだけならいつもの発作のひど い時とたいして変わらないから、まだがまんもできた。 ずだ。グジャジィー ところが、この日のできごとで・ほくがどうしてもがまん ・ : なんて、支離減裂なことを書くと、毎回このペー できなかったのは、クシャミをするたびに鼻から″ヒゲジを読んで感が鋭くなっている読者は、また、・ほくがな の粉″がプファーととびだし、とうとう朝から晩まで一 にか悪たくみをして、「中日優勝記念版日本こて 日中続いてしまったことだ。あわれにもぼくは〈怪奇鼻ん古典」みたいにとんでもないこじつけをやるのではな グショ″ヒゲ粉″ふきとばし人間〉になってしまったの いかと、陰謀めいたものを感じるにちがいない。 こんな・ハカ・ハ力しいことがあっていいものだろう しかし、・ほくだって男だー いつもそんなインチキな 、わけがない ! 第三者は笑って読んでいられ手を使うようなことはしない。だから、今回はきっと日
するかどうかは、単に趣味の問題でね」 がなかったら、こうまで計画をスムーズに推進できたかどうか 大企業は、自由競争の末路が、資本逓減をくい止める、ただそれ「どうやら、まだよく理解していないようだな」リーダー格の男が 「いいかね。俺たちと巨大電子頭脳は、国 だけのために持てる力をふりし・ほる、という形になるだろうことをとどめのように言った。 充分承知していた。そして、軍需産業が結局は資本の自殺にすぎな家を否定して、人間の普遍的価値に基く世界を建設しようとしてい るんだぜ いことも、・ヘトナム戦争からよく学んでいた。 それだけの土壌が用意されていれば、マキャベリストになりきろ俺たちが反体制なんだ」 ・ほくは愕然と息を呑んだ。 うと決心した科学者たちにとって、自由競争を完全ゲ 1 ム化するに は、充分すぎるほどだった。うまいぐあいに、社会主義国家にして人間には、どうしても受け入れ難いことがある。そいつを受け入 も、政経分離は自明の理になっていた。ソ連や中国の科学者たちが、れて消化することが、そのまま、その人間の精神の死を意味するよ どれほど巧妙に立ち回ったか、まったく涙ぐましいほどだったよ」うなことが 「それだけは言わせない ! 」・ほくは全身をふりし・ほって叫んだ。 ・ほくは吐き棄てるように言った。「なるほど、既定事実をつくっ た訳だな。世界産業体制をコン。ヒ = ーターのカで大きく変質させ「それを言うことは、断じて許さんそ ! 」 咽喉が裂けんばかりに叫んだ・ほくの声は、吸音壁に吸収されて、 て、そしてーー」 「そして、産業体制の変質は、世界貿易に大きなウ = イトを置く国まったく無力に消えていった。・ほくは・せいぜいと咳こんだ。 スイッチングボードで、テレタイプがカタカタと単調に鳴ってい 際政治体制の変質をも、必然的に引ぎ起こした」リーダー格の男が なにか遠い眼つきで、ぼくの言葉を引き継いだ。「三年間で、我々た。 はここまでやってきた。後二十年ーー・いや十年で、人間が変質して「梶山も君と同じだった」リーダー格の男が静かに言った。「反 いくだろう。新しい世紀が始まる。人間の普遍的価値を根底に置く逆、革命、反抗、どんな言葉を使ってもいいが、それだけは、コン 。ヒューターに奪われてはならない。人間が人間であり続けたいな ュート。ヒアーーー」 「すばらしき新世界か」ばくは精いつばいに皮肉った。それが虚勢ら、それだけは擱んでいるべきだ・ーー彼が俺たちに言った最後の言 にすぎないことは、誰よりもよく自分が承知していた。「分ってい葉だった。そして、梶山は、俺たちから離れていった。優れた男だ ったが、あまりに感傷的にすぎた」 るのか ? あんたたちは・ハンパイヤなんだぜ」 「・ ( ン。 ( イヤのどこが悪い ? 」爪を眺めるのに退屈したらしく、寡「俺には分る」・ほくは繰り返した。「俺には奴の気持がよく分る」 「いいだろう」リーダ 1 格の男は眼を床に落として、ひどく疲れた 黙だった男が、熱のない口ぶりで言った。 「キリストさえ気にしなければ、不死という事実に、なんの変わり声でつぶやいた。「とにかくこれで話は終りだ。俺たちには仕事が もない」彼は、フツ、フッと声をだして笑った。「キリストを気にあるんでね。これ以上お相手はできない。お引きとり願おうか」