亜矢子 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1975年4月号
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1. SFマガジン 1975年4月号

筆洗の水を替え、霧吹きを渡し、定規を持って来てやり り得るかも知れない まして今の社会では、あからさまな力を揮って襲いかかろうとす矢子は愉しそうに動きまわっている。 デザイナー達の中ではリーダー格の中山が、彼女をすっかり気に る敵など、減多にある筈もなく、穏やかな挨拶や、陽気な饒舌の中 に、お互いの本音を飾りたてて見えなくしてしま 0 ているのであ入 0 たらしく、何かと冗談を言うのが影響して、スタジオには亜矢 子を中心に、明るい空気がみなぎりはじめる。 る。 高条は、亜矢子がそのためにいじけていたことや、それまでの孤そんな中で、高条は昼ごろちょ 0 とした悪戯をはじめた。 独な精神状態が、なんとなく判るような気がした。だからいま亜矢 9 ジェ房へ電話をして欲しい ) 子が熱 0 ぼく語 0 た、その力を使 0 ても 0 と強く明るく生きて行き頭の中で一語一語、ゆ 0 くりと念するように考えると、さ 0 と寄 って来た亜矢子は、悪戯っぽい瞳で視線を交し、何気ない様子で電 たいという決意には、大いに賛成だった。 「それは良い事だ。君の能力はき 0 と役にたっし、自信を持っても話のほうへ行く。高条がデザイナ 1 達を驚かせてやろうと思った事 まで、読み取ったに違いない。 大丈夫だ。だが、とに角住む所と仕事を探さなくては」 ( 番号は 363 の 5213 。用件は今日十一時までに届けると言っ 高条は関係のある会社を、あれこれと思い泛べてみた。 た写植の催促だ。シャショクは写真植字 ) 「そうだな。秘書の仕事なんかが一番良いんだがなあ」 高条は仕事を続けながら、亜矢子の廻すダイアルの音を背中に聞 いていた。 4 「もしもし、フジェ房さん。高条アートスタジオです」亜矢子の声 亜矢子の身の振り方について、良い思案も泛ばぬ儘、高条は納期は必要以上に高く、部屋の隅々〈響いている。「ええ。十一時まで そう。 に届けるってお約束の写植がまだ届かないんですけど。 に追われたいつもの慌だしい仕事に戻って行った。 総勢六名という、若い者だけのこんな明日をも知れぬちつ。ほけなじゃ、そう伝えます。どうもー デザインスタジオには、助手など置くゆとりもなかったが、亜矢子高条は隣りにいる中山に顔を見つめられているのを意識したが、 知らぬふりをしていた。 は何かと気を使って、勿体ないくらいの助手ぶりを示していた。 「鋭さん」 「良く気がつく人だねえ」と、若いデザイナー達は、午前中の短い 「何だい」 時間に何度となく感嘆した。 亜矢子なら、そんなことくらい何の雑作もない筈である。頭の中「あの子にいっ頼んだの」 「何を」 の呟きを聞けるのだから、ロに出して命令されるのと同じように、 「写植の催促だよ」 彼等の欲している手助けが出来るのだ。 5 4

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も多いので、全く新しいアイデアを要求されるのは判り切ってい 「でもーー」 る。 と唇を噛んで頬を染めた。 たった今、いつものように柿崎から、広告について一席ぶたれた「何だい。嫌なのかい」 「とんでもない」 せいもあって、企画立案でどれ程うろうろさせられるかと思うと、 「じやどうしたの」 少々臆病になりはじめた。 重荷を感じながら、高条はポケットをまさぐって、ビースの函を ( 君みたいに人の考えは判らないんだ。はっきり言ってごらん ) 取り出したが、蓋をひらくと、もう一本も入っていなかった。舌打「良いんです。行きます」 ちをして机の抽斗をあけるが、そこにも煙草はない。つかっかと近「頼んだよ」 寄った亜矢子が、 亜矢子は「ハイ」と言って高条の傍を離れた。その時の少し淋し 「買って来ます」 そうな横顔で、彼は亜矢子が時候はずれの冬物に、ひけ目を感した と笑いながら左手をつき出した。考え込んでその笑いにも答えよのではないかと思った。 うとせず、黙って百円硬貨を渡しかけた高条は、急にそれをひっこ転がりこんだ、といういきさつから、給料も曖昧にして置いたが、 めて言った。 若い娘の身では、あの冬物で人前に出るのは恥かしかろう 「そうた、君がいる」 「良いんです、私」 ( 仕事を手伝って欲しい ) 亜矢子は振り向いて、高条の考えを打ち消すように言った。 ( やつばりそうか。僕が迂濶だったよ。行く時は社用た。服は買っ ( 僕と」緒にスポンサーの担当に逢おう。亜矢ちゃんがそいつのイてあげるから、きちんとして行ってもらう ) メージを探るんだ。できるんだろう ) 亜矢子は戻って来て、はた目には明らかな片道会話をかくすよう に、小声で言った。 亜矢子はうなすく。 「悪すぎます。そんなにしてもらっては」 ( それを教えて僕が絵を作る ) 「うまくいけば良いじゃないか。そのかわり、がっちりイメージを 小声で 掴んでくれよ」 「うまく行くかしら」 「済みません」 と首をすくめて悪戯つぼく笑った。 ( いちいち遠慮するのはよせよ。あんまりうるさく遠慮してると、 「やってみよう。うまくいったら君はウチの営業マンだ。こいつは 僕の嫁さんにしちまうそ ) テストケースだそ」 高条は亜矢子に気兼ねさせぬよう冗談を言ったつもりだったが、 すると亜矢子は急に言い澱んだ口調になって、 4 5

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亜矢子は耳まで真っ赤にして、憤ったような表情を作った。瞳が少高条は思わず口に出した。 「有難うございました」 し、うるんでいるように見えた。 ( お礼はとにかく、凄いよ ) 「きちんと着て外を歩くまで心配だったんですけど、今朝ここへ来 中央紡績と広告代理店の連絡が少し手間どって、高条が中央紡へ るまでに自信が持てました」 行く日は四五日後のことになった。 どうすれば美しく見られるか、自分で判るようになったという亜「そうだろう」 矢子を尊重して、高条は彼女が身なりをととのえるのを、金だけ渡 ( 道を歩いても、駅でも、さそかし大勢の男達に振り返られたこと だろう ) して手伝わなかった。 「みんな高条さんのお蔭ですわ」 いよいよ今日の午後先方へ行くという日、高条は亜矢子がどんな センスで買物をしたか、楽しみにスタジオへ出掛けた。亜矢子が素「素質だよ」 お世辞でなく言うと、亜矢子は謎めいた微笑を泛べる。 晴らしい美人に生まれ変るのではないかという期待があったのだ。 その時高条の背後のドアで、素っ頓狂な叫びを上げた者がいる。 そして、その期待は充分に満たされた。いや、それ以上だった。 ドアをあけ、一番奥の机に灰皿を置いていた亜矢子が、振り返っ中山ともう一人、若いデザイナーの井沢である。 て「お早うございます」と言 0 た時、高条は思わず赤くな 0 てドギ「誰だいこれ。亜矢ちゃんかい。凄いねこれはまた。信じられねえ マギした。 突然、高条の胸に言いようのない誇らしさがこみあげて来た。 亜矢子の変貌ぶりは、それほど激しかったのだ。 長い髪を切 0 て、肩すれすれのセミロングにし、柔かそうな内ま ( 亜矢子は俺が作 0 たんだ。こんな美人にしたんだ ) 語りかけるでもなく、自然に湧き上った頭の中の呟きに、亜矢子 きにしてあった。ほっそりと、しなやかな肢体をつつんでいるの の眠が、熱っぽく何度もうなずいていた。 は、淡い茶に焦茶の細いたて縞のスーツである。・フラウスなしの、 やや深く鋭角的にえぐれた胸許は、見慣れた野暮ったい冬服では、 想像もできない香わしさが漂っている。少し濃い目のストッキング をつけた脚は、誰それのようにと、引き合いに出す名前が思いつけ ぬくらい素晴らしい。シンプルなデザインの、少し高めのハイヒー ルでそうして立たれると、ただすっと立っているだけなのに、誇ら し気に、挑むように、胸を張って立っているように感じられた。 「これは驚いた」 5 5

4. SFマガジン 1975年4月号

事態である。 るのが、羨ましくて仕方がないんです」 「そうでしよう。それなのに、高条さんはみんな良いお友達だと思 5 「あいつもそうすれば良い。力はあるんだから」 い込んでいるんです。他人なんて、みんなインチキで汚ならしいん 「あの人は、自分は縛られている、と思っています」 ですから、もっと良く気をつけた方がーーー」 「会社にかい」 高条は急に暗い気分につき落されて、むつつりと歩き出す。それ しいえ。女の人にです。伊丹志津子さんにです」 長い間、婚約とも同棲ともっかない関係を続けている柿崎と志津を追うように、亜矢子は喋り続けた。 子のことを、遠まわりして来るでしか知らない高条は、び 0 くり「今まで、人の考えていることがは 0 きり判るようにな 0 てから、 私って、身勝手ないやらしい人としか逢ったことがなかったので して説ね返した。 す。だから、誰にもこんなこと、言ったことありません。私を判っ 「そんなことまで判るのか」 「あの人、ず 0 とそのことを考えていました。伊丹志津子さんと暮てくれたのは、高条さんがはじめてです。それで、私はあなたにど すのに、あの人はお金が掛りすぎるんです。そう反省していましうしても味方したいんです。私に判ることは何でも高条さんに教え た。足りないお金は、会社から出るお金と、それを高条さんに支払てあげたいんです、 高条は憮然として答えた。 うときの差額で埋まっているんです」 ゴルフだ麻雀だと、広告業界の派手なっき合いに、柿崎が柄にも「その気持は有難い。でもね君。人の考えが判らない僕にとって、 しや、世の中とはそれで良いんだ、と思っている。頭の なくはまり込んでいるのは、以前から気づいていることである。あ人生とは、、 中で考えてるぶんには、誰にも判らないと思うから、めいめい勝手 り得るケースだった。だが、それも許せると思った。 自分の警告に動じない高条を、亜矢子はじれったそうに見つめなことを考えるんだ。でも僕には連中が表面に示したことでしか判 断できない。それで良いんじゃないかな。君が言ったようなことが 「高条さんはみんなに騙されているんです。中山さんは今日の午若し本当なら、も 0 とず 0 と後にな 0 て彼等は表面にあらわし、そ 後、どこかの靴屋さん〈行く予定にして、そればかり気にしてましれで僕が気づく。その時までに、向うが考えを変えることだ「てあ をしくらもあるんだ り得る。する気もないのに本気で考えることま、、 た。あのスタジオを辞めて、靴屋さんの専属になるつもりです」 から」 ( イタリアン靴店だ ) 亜矢子は落胆した様子だった。 そう思った高条は唇を噛んだ。靴の専門店としては超大物のその 店は、高条が独力で手に入れた、愛着のあるスポンサーである。そ「役に立ちませんか」 とにかく君 れに中山という男は、今高条が最も信頼している部下であり、亜矢「いや。役には立つ。立ちすぎるのかも知れない。 は、自分が他人の考えを声で聞くように知ることができるのだ、と 子の言う通りだとすると、残念とも口惜しいとも、言いようのない

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高条は思わず = ャリとした。それまでにも、奇妙な気の効き方で分が、ひどく迂濶だ 0 たような気がしたのだ。 充分驚かされていた中山は、かえ 0 て薄気味悪そうな表情で亜矢子昨夜、喫茶店で亜矢子が髪を掻きあげた時、これは異常な出来事 4 を眺めている。 だそと感じたその感じ方が、まだまだ足りなかったのに気づいた。 「冗談じゃないな。いくら気がつくと言 0 ても程度がある。怪物だ「テレバシーが使えるならミ = ータントだ」 よ、あの人は」 アート研究会というグループに入っている、マニアの井 ( もっと驚かしてやらないか ) 沢は、至極当然な顔で言った。無論高条にその飛躍は認め難かった 高条は絵筆を擱くと亜矢子に考えを送 0 た。亜矢子は電話器のそが、テレバシーの一語は大きく彼にひっかか 0 て、亜矢子を新しい ばにぶらさがっている番号表を取りあげると、どこかを探しなが眼で見直させる事になった。 ら、レタリングのうまい井沢というデザイナーに、「お食事、何を「テレバシーって、何ですの」 頼みますか」と訊ねた。 亜矢子は瞳を輝かせて井沢に訊ねる。昨夜あの夜路で見せた真剣 どちらかと言えば、すぐ調子に乗るほうの井沢は、奇妙な声を発さが覗いていた。井沢は得々として精神感応についての微細な説明 して絵筆を放り出した。黄色いポスターカラーのついた筆が、床にをはじめた。 。へタリとしみを作った。 その時、きちっと着こなした茶の背広の襟に広告代理店の・ ( ッジ 「高条さん。俺嫌だよ。掻ゆい所をどんどん掻かれちまうー を光らせ、髪を短く刈り込んだ柿崎次郎が、「よう。出来たかい」 昼に近く、仕事の区切りも良い頃なので、若い男達は一斉に手をと現れた。愛川製薬のポスターは、今日が締切りの約束だった。 休めて、亜矢子の気のつき方が良すぎると言い出した。 仕上ったばかりの、丁寧にパネル貼りした絵を壁際に立てかけた 高条はさして隠すつもりもなかったが、亜矢子が嫌がるかも知れ柿崎は、二三歩退って眼を細めた。 ないと思ったので、電話のことは朝の内に頼んであったのだと、弁「良いな。この線だよ」 解した。 高条は柿崎と並んで自分の仕事を改めて眺めながら、ひとり言の 「だろうなあ。でなければ彼女はテレバシ 1 でも使えるってことに ように一一 = ロう。 なるよ。なあ井沢」 「今度はスムースに行ったな」 中山がそう言った。 「珍しいよ、全く。スポンサーが俺達の狙いを一発でのみ込んでく 「テレバシー。まさか」 れるなんて、百回に一度あるかなしの割合いだからな」 高条は慌てて、強く否定した。、ー・・空想科学小説など、身を入れ「柿崎のところの仕事で、プレゼンティションがそのまますらすら て読んだこともないのだが、テレバシーという単語を持ち出されて行 0 たのは、これがはじめてじゃなか 0 たろうか」 みると、日常茶飯、凡々とした世界から湯浅亜矢子を眺めていた自「ああ、はじめてさ。ところで、これはこれで良いとして、スムー

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いうことを、当分秘密にしておいたほうが良さそうだな。今僕が君イラストだ、コ。ヒーだ、写真だと、騒々しい広告業界の裏側は、 の言うことを聞いて、どんな気持になっていたか、判っただろう」工場のように機械のうなりこそしないが、それに似た慌だしさを感 その時高条は、柿崎や中山の裏面の行動に関して、亜矢子が発しじさせる。そして、その慌だしさこそ、高条アートスタジオの一日 た警告を偽りであるとは、少しも思っていなかった。指摘されてみを支配するリズムなのである。 れば、あの二人には、そうした行動をとるべき理由は充分すぎる程高条自身は、デザイナーとして、よく働く部類に入れてよいだろ あるのだし、たとえば高条が中山だったとして、やはり独立の機会う。人並みに、意欲的な時とそうでない時と、仕事に対する気持の 波は持っているのだが、決して豊かだったとは言えない生い立ち を掴むためには、最大の努力を払っただろう。 しかし、それは高条が物判りの良い人間として、好意的に眺めてと、仕事を求めて這いまわっていた時期を過去に持っ彼は、意欲の やっての話である。そういう行為をされた側の人間にとって、裏切ない時でも、持ち込まれた仕事をことわれないのである。律気でや っているのでもなければ、信念があってそうするのでもない。仕事 られたような忿懣を感じるのは当然である。 と同時に、高条は人の心を見すかす亜矢子にも、本能的な嫌悪をと生活を全く同一視しているのだ。時々、柿崎やその他の友人か 感じた。それは何のためらいもなく他人の日記を読み漁る、厚顔さら、私生活の貧しさを、いろいろな言い方で指摘されるが、酒や女 や車やそのほかの仕事以外の趣味が、それ程人生に重要なものだと えの顰蹙に似ていた。 は思えなかった。 亜矢子は暫く黙って考えていたが、不意に高条の視線をまともに 三こころあたり 亜矢子は毎日スタジオで元気に働いている。二、 捉えて言った。 「判りました。これからは人に知られないようにします。今までだを当ってみたが、柿崎に言われて案じた通り、思わしい返事はひと ってそうして来たのですから。でも、高条さんにだけは隠しませつも得られぬまま、彼女の就職はもう諦めてしまっている。 ん。良いでしよう」 亜矢子はそんな状態をむしろ喜んでいる様子で、助手とも小使い 言うだけ言うと、亜矢子は晴ればれとした表情でさきに立って歩ともっかない役を、たのしそうにやっている。スタジオは見違える ように小綺麗になったし、デザイナー達の雰囲気もすっかり明るく きはじめた。 そのうしろ姿を眺めた高条は、自分の負うべき荷がひとっ増えてなり、高条自身、たまたま彼女が使いに行って留守の時など、不便 を感じるしまつである。 しまったような気がして、苦笑していた。 初日の失敗があって、次の日から亜矢子は高条のアパートに寝と まりしている。かわりに高条が例の旅館から通うようにしたが、そ れも三日ほどの間だった。亜矢子の恐縮のしかたが余りひどいの で、彼女が居辛くなるのを惧れた高条は、思い切って今までのより 高条アートスタジオには、何の変てつもない日が続いている。 5

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度最高栄誉を与えられた高条を世間は放っておかず、続く一年間とる。 いうもの、数々の賞牌が彼の手に納まった。 若しかすると、、棄てられた小大に餌をやった時のように、絶対的 註文に追いまくられ、稼ぎまくった高条が遂に自分のグルー。フをに信頼され、慕われて、以後の生活の下駄を預けられてしまったの 主宰して、高条アートスタジオを発足させた日、何年ぶりかで二人ではないか、というような気もしてくる。 の男は顔を合わせた。その時、高条はそれまで抱き続けていたうらその亜矢子が不意に真面目な表情になって言い出した。 み、つらみの数々が、嘘のように消え去ってしまっているのを知っ「柿崎さんという人、本当に良い人ですか」 「何でまたそんな。まあ、それ程悪党じゃないのは確かだな。小才 高給とはいえ、所詮サラリーマンの給料と、小なりとはいえ会社のきく、まがいもののエゴイストってところか。ひと皮むけば浪花 の経営者の収入とでは、その額に雲泥の差がある。それはライバル節も良いとこさ」 で親友という、二人の男の人生のシーソーゲームだった。 高条はそう答えたが、自分の下した分析が急におかしく感じられ 高条は友人が見せた微笑の中に、これまでのいきさつから、苦いて、声をたてて笑う。 自嘲があったのを読み取っていた。 「あの人、少し恐れていました」 「仕方ないな、それじゃ。まあ何とかなるだろう。飯でも食いに行「何をだい」 「あなたや自分の会社の人をです」 こう」 「なぜ」 「高条さんは騙されています。お仕事のお金を途中で柿崎さんに使 われているんです」 食事を終えて柿崎に別れた亜矢子と高条は、風のない暖かな青山高条は足を停め、亜矢子を睨むように見つめた。彼女の言う通り 通りを、ゆっくりと歩いていた。 の事実があるのかないのか判らないが、事実であろうとなかろう 卑屈だったこれまでの気持を棄て、自分の能力を精一杯使って生と、触れるべきでないものに、亜矢子が触れてしまった感じがして きてゆく決心をしたのだという亜矢子は、昨夜まで本当に自分を卑いる。 下していたのかと疑いたくなる程、屈託のない様子である。 亜矢子は自分を非難しかけている高条に反抗するように、鋭い語 自分のささやかな助言と、気まぐれな善意が、一人の娘にこれ程調になった。 力を与えてやれたのだと思うと、 いくらか嬉しくもあったが、いく「柿崎さんはあなたを憎んでいます」 ら能力を精一杯使ってと言っても、今夜の宿、次の食事にも困る筈「憎まれる覚えなどない」 の亜矢子が、なぜそんなに楽天的でいられるのか、不思議でもあ ( 〔 - 「あなたの立場を羨んでいるのです。自由な立場でお仕事をしてい こ 0 9 4

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自分でも今までよりいくらか綺麗になった筈だと思ってます」 はいくらかましな青山のマンションを借りた。 亜矢子は気候が暖かくなって来たので、少し厚ぼったい感じのし 5 マンションと言っても名ばかりで、何のことはない鉄筋の古アパ はじめた冬服を、モデルがするように引っ張って見せた。 ートだが、少くとも亜矢子の気持はそれで落ちついたようである。 「これ一着しかありませんから、おしゃれはできませんけど、どう 新しい世帯道具一式を、亜矢子は女らしいきめの細かいショッ。ヒ ングで買い揃え、日に一度はそこへ立ち寄って、掃除や洗い物をしすれば他の人達が私を綺麗だと思ってくれるか、判って来たので てゆく。二十日もたっと高条のほうでもその生活に慣れ、当然のこす。顔や姿は変えようがありませんけど、喋り方やしぐさや歩き方 なんか、ちょっと変えるだけで随分違うんです。それに「私に話し とのように、亜矢子に物を言いつけたりした。 かける人は、私の返事の半分以上を、頭の中で考えていてくれま だが、亜矢子はどんどん変ってゆく。 住み込み女店員の、どことなくお手伝いさんめいた感じが消え、す。高条さんが私のことを賢くなったとおっしやったのは、その利 マスコミの世界によく見かける、しやっきりした男まさりタイプに用のし方を私がマスターしはじめたせいですわ」 亜矢子の説明は、高条を考え込ませてしまった。 変身してゆくようだ。人との応対、電話のかけ方などもテキ。 ( キし 他人の思考を読めることが、この若い女にこれ程有利な武器とな て、語尾が消えてしまうような消極的な喋りかたはしなくなった。 るなら、高条とは言わず、もっと人生経験豊かな男にそれが与えら そして美しくなった。賢くもなったようである。 ある日何気なく高条がそう言うと、亜矢子は複雑な微笑を見せてれたら、日本はおろか世界を制することも不可能ではないような気 がした。 「みんな高条さんのおかげですわーと答えた。 ひと 考えてみれば、言葉というものは何と不完全なものか。 「なぜだい」 「今までの私って、本当に何をしてたのかしら。馬鹿だったんですつのイメージを具象化する高条の仕事にとって、スポンサーの意図 するところが掴めぬ程困ることはない。 ねえ」 スポンサーの課長から担当課員。広告代理店の営業マンから制作 そう言うので高条が重ねて訓ねると、亜矢子はその意味を気づか 部員。制作部員から高条へと、そういう経路を辿ることの多いイメ ない彼が意外だったらしく、呆れたような表情を見せた。 1 ジの伝達は、高条の処へ至るまでに言葉によって減茶減茶に損わ 「人間って、誰でもいつも何か考えてます。私はそれを聞き取って 勉強するのです。耳学問みたいなものですけど、その気にさえなれれ、五枚、十枚というラフスケッチでお伺いをたてねばならぬのが ば、随分勉強できます。私は中学までしか行かせてもらえなかった常識になっている。 また、直接スポンサーの担当者に会っても、絵ごころ、字ごころ けれど、その分をとり返すのに一生懸命勉強してます。スタジオで 皆さんのお手伝いをしている間だけでも、ザインや広告の用語はのある人物がいつも配置されているとは限らない。むしろその逆の 大体判るようになりました。でも、それだけじゃありません。私は場合の方が多く、宣伝部という当今の企業で陽の当る部署には、サ

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僕があそこへ泊れば良かったんだ」 姉妹もなく、幼い頃から身近に若い女の日常生活を観察する機会 昨夜高条が彼女を紹介した旅館は、青山のはずれ、原宿の一角にのなかった高条は、若い男として異性を眺めるしかなかった。その あるとは言え、艶名高い千駄ヶ谷地区の延長なのである。仕事で遅為かどうか、彼は女に対して憧憬を持ちすぎる傾向があった。 くなったデザイナー達の常宿とはいうものの、三組や四組のアベッ美術学校時代の、殆んど初恋とも言える交渉の相手ーーー伊丹志津 クが門をくぐらぬ日はない筈である。 子が、互いの愛情を深めつつあった最中、突然柿崎次郎の腕にとび 声をひそめこそすれ、互いの思考を読めぬ普通の男女が発するあ込んで行った出来事は、女というものの不可解さを、高条の心に深 たりはばからぬ思考の波は、亜矢子にどんな淫らな内容を伝えた く刻みつけた。 か、判ったものではない。 高条は自分の迂濶さを慙じるばかり彼の口から出る「愛」という言葉ひとつにさえ耳を染め、いだき ・こっこ 0 寄せて唇を求めると、意外な程のカで抱き返して来た女が、な・せ急 と同時に、嘘のように思えていた不思議な娘の存在と自分との関に柿崎に寄り添って、凍ったような表情で彼を眺めるようになって 係が、昨夜以上に現実の生活にしつかりと嵌りこんで、頒ち持ったしまったのか、高条にはいまだに解けぬ謎である。 異常なものが、亜矢子とのつながりをひどく親密なものに感じさせ無論、彼はその後幾人かの女を識った。貧しい面、愚かな面を彼 女等から学んでも、憧憬は消えず、謎は解けないのだ。それどころ か、逆に彼の内での女に対する期待は、一層大きく育って行った。 「気にしないで下さい。聞えるほうがいけないんですもの」 高条についてビルのエレベーターへ向いながら、亜矢子はそんな不可解さは魅力となり、憧憬につながったのである。ただ、謎を感 じない女には興味を持てず、自然ひところの頻繁な女でいりから遠 ふうに言った。彼は振り返って亜矢子を見たが、ゆうべのように、 ざかっていた。 自己の能力を恥じている卑屈な様子はなかった。 余りにも鮮かな女の印象の変り方に、思わず過ぎた日の傷を想い 四階のスタジオのドアをあけると、高条には見慣れた乱雑さが、 出していた高条は、亜矢子がお茶の葉のありかを訊ねる声に、我に 二人の前にひらけた。 途端に亜矢子は「あらあら・ーー」と、まるで年上の女が呆れてみ戻った。 せるような調子で言い、古・ほけたオー ーを脱いで、さっさと部屋久しく掃除をしない室内は、見違える程綺麗に整頓され、湯沸場 の中の掃除をはじめる。 のドアから、白い湯気が覗いていた。茶筒の場所を教えて、部屋の 手伝う気もなくて、くわえ煙草でそれを眺めている高条は、テキ中央の応接用のソファーに腰をおろした高条の前へ、茶の道具を盆 パキと立ち働くお手伝いさん然とした亜矢子と、彼女が昨夜見せたにのせて持って来た亜矢子は、乾いた葉の音を茶筒の蓋にさせなが 妖精ぶりとを思い合わせて、女の不可解さがまたひとっ増えたようら、訳知り気な微笑を泛べた。 な気がしていた。 「志津子さんて方、お綺麗なんでしよう」 3 4

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柿崎の言う大変とは、亜矢子の身の上ではなくて、高条の立場を スついでに次のやつをすんなり行かしてもらいたいんだ」 指しているらしい。 ポケットからメモを出した柿崎次郎は、今まで高条が坐っていた 椅子にかけると、それを高条に手渡した。メモには、次の註文の仕 ~ 「何とかならないかね」 様や要望事項が、乱暴な走り書きで記されている。出掛けに書き撲 ( 「馬鹿言え。今は三月だ。まともな勤めロは半年も前に決ってしま っているし、第一若い娘の就職に、親も家もございませんなんて無 ったものに違いな、。 そのメモの終りに書いてある制作費予算を読んだ高条は、ふと亜責任な紹介ができると思うのか。と言って、安直に水商売にとび込 のひと間なり、貸し与えてやれないものだろうかとめるようなタイプにも見えないし」 矢子にアパート それもそうだ、と高条は思った。 考えた。 「それより、ここで使ってやれば良い。良さそうな子じゃないか」 「そうだ。なあ柿崎、どこかに就職ぐちはないかね」 「無理だよー 「誰の」 「無理じゃないさ。お前の所は今、あげ潮じゃないか。受註がどん 「あの子だよ。君、ちょっとここへいらっしゃい」 高条に呼ばれて、亜矢子は井沢達とにぎやかに話していたのをやどん増えてるのは、俺が一番良く知ってる」 柿崎は自嘲めいた笑顔で言った。高条アートスタジオの最大の顧 め、二人の所へやって来た。 「柿崎君だ。顔のひろい男だから、どこか良い勤め口を知 0 ている客は、今のところ柿崎のいる広告代理店だ 0 た。というよりは、制 作部次長という肩書きを持っ柿崎次郎が、その職権を用いて半ば強 かも知れない」 引に仕事を運んで来てくれているのである。 「湯浅亜矢子です。よろしくお願いします」 亜矢子は丁寧に頭をさげる。柿崎は高条と亜矢子の顔を見較べ美術学校の同窓生の内、独立してスタジオを持つ者、サラリーマ ンになる者、テレビ局にはいる者など、商業デザイナーの進む道は て、暫く黙っていた。 多様だが、いずれは広いようで狭いマスコミの世界で生活するの 「お茶を入れて来ますわ」 亜矢子は如才ない笑顔を見せると、素早く二人の傍を離れた。 卒業する前年の暮、志を持つ者なら誰でも一度は夢みる商業美術 「誰なんだ、彼女」 柿崎は幾分揶揄い気味に言 0 たが、高条の様子から、それが的外展の新人賞を受け、女と夢を一度に失 0 た高条に、長い一匹狼の期 間を持たせる原因を与えた柿崎は、その実績によって、卒業と同時 れだったのを覚って、表情を元に戻した。 「妙なことで識り合 0 たんだが、実はひとりぼ「ちで、住む所も仕に広告代理店〈高給で迎えられた。 柿崎次郎を目標に、絵筆一本で広告業界を渡り歩いた高条の努力 事もないらしいんだ」 は、やがて同じ美術展の商業美術大賞受賞となって酬われたが、一 「それは大変だな」 8 4