「そちらのご婦人は」 「俺も 4 51 がいいな。そっちのお客とおんなじに」 私にからみつきはじめた。私の頭は過去に読んだ小説や、見た映「家内です」 画のデータを走査するのに大わらわであった。そして私なりに結論邦子がにこやかにノヤマへ顔を向ける・ をだした。 「どうそよろしく」 「 / ヤマ部長の健康を祝して」 「いや、こちらこそ」 ジャンごしに私はグラスをあげて見せた。 ジャンが言った。 「これはどうも」 「近頃よくお見えいただいているんだ。それも奥さまご同伴でな」 ノヤマは機先を制されて、硬い表情で会釈した。そういう態度に呆れたものだ、という言い方であった。ジャンもなかなか演技カ 出ろと、私の貧弱な生理的コンビューターが命じたのである。 があると思った。敵方の人間に客で来られて扱いに困っているとい バーテンダーが 4 51 を作ってノヤマの前へ置いた。 う風情であった。 「しかし、あなたにはホーセズ・ネックという名のカクテルのほう「危険ですよ。こういうところへあなたのような方が出入りなさる がお似合いですな」 時は、充分ご注意下さい」 私はなんとなくそうからかった。 「大丈夫ですよ」 私は笑って見せた。ノヤマは 4 51 を一気に飲みほし、 「ほう。竸馬好きだからという意味ですかな」 「では私はこれで」 しめたと思った。 と挨拶して帰って行った。ノヤマたちが姿を消すと、一度に店の 「外れ馬券のコレクションをなさっているそうで」 中に活気が戻った。 ノヤマは苦笑する。 「こう見えても血統を重んじるほうでしてね。ところで、どなたで「 Z ・体制というのがどんなものか知らないが、ここの人たちは 余り面白がらないようだね」 したかな。申しわけないが思い出せんのです」 「ヴォネガットのところでお会いしたはずですがね」 「人はさまざまさ」 ジャンは体の向きを変え、カウンターに倚りかかって客席を見渡 もちろん嘘っ八だ。しかし効果はあった。ノヤマはあわてて緋色 した。 の酒で満したグラスを口から離し、少しむせて咳き込んだ。 「しかし君もいい度胸だ」 「失礼」 「なに、へたに黙りこくっているよりは、ああしたほうがいいと思 ハンカチをだして口を拭った。 っただけさ。それに、ヴォネガットという名は知られていないんだ 「・のお知り合いでしたか」 ろう」 私はあいまいに微笑して相手をみつめた。 0
「ほう。笙子さんのお店のお客というと、誰かね ? ずいぶん早い 三宅はもどかしそうに、自分の体をおおっているビニールの垂れ ね」 幕をあごで指し示した。 笙子はほお笑んだ。 「これをですか ? ー 「ちょうどその方も、車を運転していて、平河町を通りかかったん 笙子は手をのばしかけて、思わず、はっと息を呑んだ。つめたい ですって」 戦慄が背筋を電撃のようにつらぬいた。 「ほう、そうかね」 目の前の、薄いビニールの垂れ幕は、笙子の身じろぎにともうわ 「無理をなさらないようになさいませ。もうお若くないんですかずかな空気の乱れにも、重さを持たぬもののように小さくゆらめい ら」 ていたが、今見るそれは、空間をさえぎる物質的な境界ではなかっ 「ああ、わかっとるよ」 た。三宅貞造の横たわったべッドを容れる空間は、笙子の立ってい 三宅は苦く笑った。 る空間とはあきらかに、その時空的特質を異にしていた。その内部 「そうだ。笙子さん。実はあなたにプレゼントしようと思ってな。をみたした光は、室内の照明とは異なり、その空間の属性であっ 実は事故を起したときは、それを買いに行ったところだったんだ。 た。こちら側の空間と接する面が、光のわすかな干渉を起して、ビ 平賀くんにも見てもらった」 ニール幕の表面のように見えているだけだった。 「私にプレゼントをくださるんですか ? 」 「どうした ? さ、手を出しなさい」 「これまで、いろいろとおせわになったからね。何かお礼をと思っ 三宅は笑みをふくんで笙子をうながした。 ていたら、知っている宝石店で、すばらしいダイヤモンドの原石が「笙子さん。この重傷にあえぐ老人の切なる願いを聞いてくれんの 手に入ったという。それをあなたにプレゼントしようと思う」 かね。私も、もうふたたび元気になれるかどうかわからん。受け取 「まあ、私にダイヤを ? 」 ってもらいた、。な、笙子さん」 「原石だから、あなたの好きなようにカットするといし 。その店で 三宅の目には、うっすらとなみだが光っているようだった。 させるから」 「でも、私」 三宅は枕元をさぐって、ビロードの小箱をとり出した。ふたを開「遠慮などしてくれるな。私は悲しくなってきたよ。こんなもの くと、光の結晶のような光輝がほとばしった。たしかに時価にしてで、あなたの心を引きつけようなどという若者めいたこの心情を、 億をくだらないと思われるダイヤモンドの原石だった。 あわれんでくれんか」 「すてき ! これはすばらしいものですわね ! でも、私、このよ「困りました。私」 うな高価なものを戴くわけにはまいりませんわ」 「私は引込みがっかなくなったら、・ とうしたらよいのかね」 「いいんだ。いいんだ。ありていに言えば、私はその店の経営者で 三宅は老人らしく、執拗でしかも効果的な攻めを発した。 もあるのだよ。遠慮はいらないから、受け取ってくれたまえ。先ず受け取らないためには、脱兎の如くここを逃げ出すしかない。笙 持ってみたまえよ。私はちょっと腕がのびないのでね、そのビニー 子がそんなみつともないことをするはすがないことを知っている三 ル幕の下をそっと持ち上げて手を入れてくれんか」 宅だった。 224
「でもそうすれば、すくなくとも、・フラインについてもうすこし何くのは、ちゃんと礼儀作法を教わってからにしろ ! 」 ・フラインは気味が悪いほどしずかな声で言った。「わたしにそん 7 かわかるでしよう。どう見ても、これは簡単に脅かせるような男じ なことを教える必要があると思われるなら、いつでもお好きな場所 ゃない」 「だが行動の順序で、お望みの武器を持ってお会いしますよーー」 「そう、たしかにそうだ」とアーウイは認めた。 としてわれわれはそういうふうに選んでしまったのだから仕方がな「わたしとか。わたしとおまえが会うというのか」十字軍戦士は信 じられないといった顔で問い返した。 「わたしの位階なら、それは許されるでしよう」 二人はそのまま、どこまでもあとをつけて行く。群集はさっと割 れて道をあけ、・フラインはそのあいだを、左右に目を向けようとも「おまえの位階 ? おまえはわたしより五等級も下の人間じゃない いいかげんに黙らんと、家来の者を か、この単細胞の低能めー せず真っすぐどんどん歩きつづける。と、やがてそのことが起った 家来といったって、おまえより位は上の者どもを・ーーさしつか のである。 ・フラインは注意を己れの内部に向けていたため、血色のいい顔をわし、礼儀作法を教えさせるそ。おまえの顔はしつかり憶えておこ したでぶの男とぶつかってしまったのだ。男は襟の折り返しに、一う。若僧。さあ、道をあけろ ! 」 それだけ言うと、十字軍戦士は・フラインを押しのけるようにし 等十字軍戦士の紫と銀の目もまばゆい大メダルをつけていた。 て、大威張りで歩み去った。 「気をつけて歩けんのか、間抜け ! 」十字軍戦士はわめいた。 「臆病者 ! 」・フラインは顔を赤く、まだらにそめて言った。声は低 ・フラインは相手の階級を認めると、ぐっと声をのみ、つぶやくよかったが、見物の平民たちには聞こえていた。・フラインはステッキ がわりの鞭を両手でぎゅっと握り、見物人たちのほうに向きなおっ うに言った。「失礼いたしました」 た。群集はみんな、愉快そうな笑顔を見せながら、散っていった。 十字軍戦士はしかし、そう簡単には怒りをおさめなかった。 ビーティは言った。「ここでは、決闘が許されているんですね ? 」 上の人間に衝突する癖でもあるのか、貴様 ! 」 アーウィま・良、こ。 。含しナ「合法的な先例としては、一八〇四年に、ア 「そんなことはありません」・フラインは顔を真っ赤にしながら言っ 、ミレトノ リグザンダー ーを決闘で た。こちらは怒りをおさえようと懸命になっている。まわりには、 政治家 ) が = アロン・ はやくもヤジウ「の平民たちが人垣をつく 0 ていた。彼らはきらび殺している。 ( 実際の歴史では やかな服装をした二人を取り巻き、にやにやしながら、顔を見合わ「どうやら仕事にかかったほうがよさそうですな」とビーティは言 った。「だが、できれば、もうすこし装備がほしいところだ」 せたり、こづき合ったりしていた。 「それなら気をつけて歩いたらどうだ ! 」太った十字軍戦士は咆え「持ってこられるだけのものは持ってきている。これでいくより仕 た。「夢遊病者みたいに通りをふらふら歩きまわるのはよせ。出歩方あるまい」 「目
「と思うよ。たぶん、いまにもね」 「まだ決めてないわ」 わたしはコーヒーを飲みおわり、カップをゆすいだ。 「マスコミに発表するために聞いたんじゃない。自分のために聞い 「わかったらすぐに知らせてちょうだい」 たのさ」 「ほんとに、まだ決めてないのよ。どうしようかと : : : 」 「了解。どうもごちそうさま」 ロティはまだ事務をつづけており、わたしが横を通りぬけても、 「わかった、いちおうチェックしたまでさ。決まったら教えてく 目も上げなかった。 れ」 わたしはコーヒーを飲んだ。 いっ階上へもどる。さっき上昇させたアイは、もう十分な高度に達し しばらくして、彼女はいった。「土曜日にタ食をいかが ? ていた。わたしはそいつを垂直に立たせ、遠くの展望を送らせた。 ものように ? 」 「うん、いし 羊毛の塊に似た雲の群れが、聖ステパノのむこうで煮えたぎり、泡 、ね」 立っている。山脈がまるで防波堤か、ダムか、荒磯のよう。そのむ 「そのときに話すわ」 こうは大時化なのだ。 「よし・ー・ー最高だ」 もう一つのアイも、あとすこしで位置につくところだった。わた 彼女がコーヒ 1 に目をおとしたとき、わたしは池の面をのそきこ んでいる少女をそこに見いだした。波紋のおさまるのを待って水鏡しがタ・ハコ半本だけ待ったところで、画が送られてきた を見ようとしているのか、池の底をのぞこうとしているのか、それ野原の端から端まで張りめぐらされた、グレー一色の濡れた貫通 ともたぶんその両方かもしれない少女の姿を。 不能のカーテンーーーそれがわたしの見たものだった。 : しかも、そいつが前進してくる。 最後に見たものがなんであったにせよ、彼女はそれにほほえみを わたしはエリナーに電話した。 うかべた。 「大雨は近いぞよ、子どもたち」 「大あらしですって ? 」と、これはわたしに。 「砂袋の必要なぐらいの ? 」 「さよう。なんとなく節ぶしがうずくね」 「おそらく」 「あっちへ行け、といってみたら ? 」 「じゃあ、準備をはじめたほうがいいわね。わかったわ。ありがと 「いってはみたさ。だが、頑として行ってくれない」 う」 「じゃあ、ハッチに当て木をしたほうがよさそうね」 わたしは監視にもどった。 「損にはなるまい。得にはなっても」 ティエラ・デル・シグナス、白鳥の国ーーーこころよい名まえ。そ 「あと半時間で、気象衛星が真上にくるけど。その前に、あなたの れはこの惑星と、たった一つしかない大陸との、両方を指してい ほうでなにかわかりそう ? 」 8 4
いないんだ」 いった。、「まず疲労のせいで」二本目の指を立てて「次に高度がわ 「だからどうだっていうんだ ? 千年前ならアメリカってものにつ れわれの循環系に影響を及ぼし、その結果脳に影響を及・ほしたか ら」三本立てて「感情的な刺戟のせいで」四本立ててそれにわれわ いて、君は多分いまと同じことをいっただろうさ」 れは幾らか酸素に酔っていたから」 「あるいはいったかも知れん。だが、あの神経科医は君の脳波につ いて、・ほくに得心がゆくように説明してくれたよ。視神経への衝撃 「ちょうどもう指がなくなったろう、もう一方の手を暫く尻の下に : 。だからまあ聞けよ」わたしはいった。「そいつだ。一体なんでわざわざ他処へそれてエキゾチックな解釈なんても しくとすりや : はおれに飛びかかった。おれはそいつに向かって。ヒッケルを振り回のをでっち上げるんだ ? 単純なやつのほうが一般的にいって結果 したが、そいつはおれを気絶させ、おれのゴーグルを壊した。目をはいいんだ。君は幻覚を見てよろめいたのさ」 「オーケー」わたしはいった。「いつも君と議論する時には、たい さますと、そいつはいなくなっていて、おれは岩棚の上に倒れてい た。そいつは一種のエネルギー生物だったと思う。君はおれの脳波てい弾薬が必要になるんだ。ちょっと待ってろよ」 を見たろう。それは正常じゃなかった。そいつはおれに触れた時わたしは自分の押入のところへ行って、一番上の棚からそれをつ かみ降ろした。それをベッドの上に置いて、前にくるんでおいた毛 に、おれの神経系にショックを与えたんだと思うね」 「君は自分の頭を岩にぶつけたんで気絶したのさーーー」 布を解き始めた。 「おれはそいつに向かってビッケルを振り降ろしたといったろう」 「そいつのおかげでおれが後ろへ倒れて岩にぶつかったのさ ! 」 「その点は同意するよ。岩は現実だからな。だが、宇宙のどこにだわたしはいった。「そう、おれはそいつに触れた・ーー気を失う一瞬協 っていまだかって″エネルギー生物″なんてものを見つけたやつは前にな。見ろよ ! 」 を 4 まい、 ` 44 0 一 2 洋
プリンス・チャールズ・コーヒー店に入ると、・フラインはず 0 とささやくのをは 0 きり耳にしたのだ。だが二十フ 奥のほうのテー・フルに席を取った。手がぶるぶる震えている。彼はろには誰もいなか 0 た。 懸命にそれを抑えようとした。あのシラミたかりの一等十字軍戦士「プライン ! 」 め ! くそっ、でかい口をききおって ! 決闘に応じる気がはたし「何だ ? 」ブラインは低い声で、不本意ながら返事をした。「誰 ? もちろん、あるものか。地位の保証する特権の後だ、話しかけているのは ? 」 てあるのかい 「お前は神経を苛立てているよ、・フライン、抑制を失おうとしてい ろに隠れないじゃいられないにきまっている。 ・フラインの胸には、黒い不吉な怒りがこみ上げていた。あんなやるよ。休息が必要だ、休暇が、転地が必要だ」 。フラインは日焼けした顔を真っ青にして、コーヒー店のなかを見 つ、殺してしまうべきだった。結果がどうなろうと、くそくらえ なにもかも、くそくらえだ ! あんなふうに、おれを踏みつまわした。店内はほとんどからっ・ほだった。表ちかくに年取った婦 人が三人いた。あとは、その向こうに、何か熱心に話し合っている けにすることは誰にも許せん : いや、もうよそう、と彼は自分に言い聞かせた。どうしようもな男二人の姿が見えるだけだった。 ( クスターのことと、大事な会「家に帰って、すこし休養をとりなさい、・フライン。すこしでも休 いことなのだ。それより彼はべン・ 見のことを考えなければならなかった。時計に目をやった彼はもうめるあいだに休んでおきなさい」 「重要な用事で、人と会う約束があるんだ」ブラインは言ったが、 十一時に近いことを知った。あと二時間半後には・ハクスターのオフ 声はふるえていた。 イスに行って、そこでいよいよ 「正気を取り戻すよりまず用事か」と、からかうように指摘する声 「ご注文は ? 」とウェイターが彼に説いた。 がした。 「ホット・チョコレートに、トーストと落し卵だ」 「誰なんだ、話しかけているのは ? 」 「フランス式揚げポテトは ? 「フランス式揚げポテトがほしけりや、こっちから言う ! 」と・フラ「話しかけられていると思うのは、なぜなのだ ? 」その声は物柔ら かに訊いた。 インはどなった。 「わたしがひとりごとを言っているというのか」 ウェイターは青くなり、ぐっと声を呑むようにしてから、「は 「わかっていそうなものだ」 、あの、すみません」と言って、早々に退散した。 いや、どうかしているそ、平民相手にどなり声を出すなんて。と「卵でございます、お客さま」とウ = イターが言った。 「何だと ? 」プラインはわめくような声を出した。。 ブラインは思った。抑えるのだーー・・己れを抑えなけりやいかん。 ウェイターはあわててあとにさがり、ホット・チョコレートを受 7 「ネッド・プライン ! 」 ? 」彼は声をふるわせた。 ・フラインははっとして、ぐるりを見まわした。誰かが自分の名をけ皿にこ・ほした。「はい、あの ィート以内のとこ
「あのかたがあなたとのお約東があるとおっしやったので、あたく ・ハクスターは自嘲するような徴笑いを浮かべた。・フラインを非難 し、どうそお入りください、と申し上げましたの。するとあのかたすることはできないが、せめて話し合うぐらいはしてくれてもよか はそこにつっ立ったまま、眉をひそめて、とても妙な顔でじっとあったんじゃないか。いや、たぶん、そうではあるまい。おそらく、 たくしを見ていらっしやるんです。取り乱して、なんだか怒ってらこれがいちばんよかったのかもしれない。 っしやるみたいでしたわ。あたくし、もう一度、お入りくださるよ だが、それにしても、どうしてかれに知れてしまったんだろう ? うに言いました。そしたら、あのかたはこうおっしやるんですーーー・」 ハクスターの産業帝国にうろが出来、土台が朽ちて崩れかけている 「一語一語、かれの言ったとおりにたのむ、ミス・キャシイディ」という情報を、いったい誰があの男にもらしたのか。 「はい。こう、おっしゃいました、『気が変わりました。約東は取あと一日、いや、あと何時間か、この情報がもれずにいてくれさ り消します。・ハクスタ 1 さんにお詫びしといてください なにもえしたら ! そしたら彼はプライン相手に、契約書に署名していた かも、申し訳なかったと』って」 のだ。新しい投機がパクスターの持株に新鮮な血を注入することに 「それだけかね、かれが言ったのは ? 」 なったのだ。そして世間が気がついたときには、彼はもう一度ま 「それだけです、・ハクスターさん」 た、事業を展開するしつかりした基盤を築いていただろう。 「で、それからどうした ? 」 ・フラインはしかし、事実を知り、びつくりして逃げてしまった。 「くるっと背を向けると、急いで階段を下りていらっしゃいました」それはつまり、だれもが知っているということた。 「階段を ? 」 もはや結東をつづけることは不可能だ。狼どもがいっせいにとび 「そうですの、・ハクスターさん。エレベーターを待っこともなさい かかってくるだろう。友人たち、妻、社員たち、彼によりかかって ませんでした」 いるありとあらゆるつまらない連中が : 「なるほど」 そうだ、こうした万一の場合はどうするか、それはもう、何年も 「ほかに何か、・ハクスターさん ? 」 前から心に決めていた。 「いや、何もない、 ミス・キャシディ。ありがとう」 ・ハクスターはためらう色もなく机の抽斗を開け、小さな壜を取り べン・・ ( クスターはインターカムのスイッチを切ると、机の向こ出した。そして白い錠剤を二錠、抜き取った。 うでぐったり椅子の背にもたれた。 彼はつねに自分で決めたルールに従って生きてきた。今は、その すると、・フラインは知っていたんだー ル 1 ルに従って死ぬべきときだ。 それしか説明のしようがない。どこかで、どうしてか、 - がもれ : ハクスターは錠剤をぼんと口に放り込んだ。二分後には、 てしまったのだ、きっと。すくなくともあと一日は、かくしておけ彼は机に突っ伏していた。 ると思っていたのに。やはり秘密はもれてしまったにちがいない。 彼の死は、一九五九年の株の大暴落を招いた。 8 2
かいくぐり、ポリネシア人の腹に肘突きをくらわした。相手は呻 ない。仕事だって放っておいてもひとりでに片付いていっている。 今彼がすべてを投げ出してその船に乗り、陽の光の中でこれから一き、一瞬、手の力をゆるめた。・フラインは身をふりほどいた。 彼は手の甲で上から短く切りつけるように、ポリネシア人の咽喉 年を過そうとしたからといって、何がそれを妨げるだろう ? 何ひとっ妨げるものはないと気づいたとたん、彼の心は興奮に掻の太い神経に一撃を加えた。男は息をあえぎ、地面に倒れる。その き立てられた。彼は思うままに行動する自由な人間なのだ、決意を瞬間、髪をくしやくしやにした男がふたたび襲い、金属片をはめた かためた強い人間なのだ。仕事の面で成功する、闘志のある人間な拳で、めったやたらに打ちかかってきた。 ら、 ブラインは反撃のパンチをくりだしたが、やり損じ、逆に痛烈な いつぼうでまた、仕事を離れ、すべてを放り出して保養に出か 一撃をみずおちにくらった。彼は空気をもとめてあえいだ。暗黒が ける、それだけの勇気だってあるはすだ。 「・ハクスターなんそくたばっちまえ ! 」彼は自分に向かってそう言視野のふちからじわじわと蚕食しはじめた。そこでもう一度殴ら れ、倒れながらも、彼は必死で意識にすがりついていた。そのと 精神の正常が何よりも大事だ、と彼は思った。今すぐあの船に乗き、相手が誤りをおかした。 髪をくしやくしやにした男は足蹴りで止どめを刺そうとしたが、 って、同業者たちには海の上から電報を打ち、こうったえよう 蹴り方を知らなかった。・フラインは蹴ってきた足をとっさにつか ひとけ 人気のない通りを彼のほうへ、二人の男が歩いてきた。その一人み、ぐいと引いた。相手はパランスを失って舗道に倒れ、したたか は金褐色のポリネシア人風の顔をしていて、彼はすぐに、あいつだに頭を打った。 ブラインははげしく息を切らせながら、よろよろと立ち上がっ と気がついた。 た。ポリネシア人は顔を紫色にして、ながながと道路に身を横た 「プラインさんですね ? 」と、くしやくしゃの茶色い髪をしたもう え、腕と脚を弱々しく、泳ぐように動かしている。もう一人の男は 一人の細っこいほうが問いかけた。 「そうだが ? ーとプラインは答える。 びくりとも動かずに横たわったまま、髪の間からゆっくりと血を滲 み出させていた。 警告もなく、いきなりポリネシア人が彼の体に両腕を巻きつけ、 この事件は警察に報らせるべきだと・フラインは思った。だが髪を 動きを封じた。同時に、くしやくしゃの髪をした男が金色にきらめ くしやくしやにした男を殺してしまっていたらどうする ? 彼はす く拳をふるい、殴りつけてきた ! ・フラインの緊張した神経は破壊的な速度で反応した。彼は第二次くなくとも殺人の嫌疑で拘留されるだろう。そしてあの貴族警部補 世界大聖戦のときには、″怒れる騎士団″の一員たった。それからは、殺人のもう一つ前の彼の無分別な振舞いを報告せずにはいない 何年もたった今もまた、反射神経は衰えを見せず、おなじパターンだろう。 で反応した。彼はくしやくしゃの髪をした男の拳をふるう腕の下を彼はあたりを見まわした。事件を目撃した者は一人もいないよう ロ 6
より高くなったが、なお前進を続けた。だが、いまや這って登る個わたしはある休み場所を見つけ、手足を伸ばし、手提げの標識灯 を消した。 所やザイルを使う個所が幾つもあり、身体を支えながら空気。ヒスト その晩やってきたのは奇妙な夢だった。 ルを使って岩を吹き飛ばし、足がかりを作る個所も幾つかあった ただそ それは紅色に燃える火で、頭上の斜面に人間のように ( むろん首をかしげるような場合には使わない。もしもチムニーの 中でビストルを使おうとしたなら、鼓膜を破ったり、肋骨や腕を折れより大きかったがーーー立っていた。それはどう考えてもあり得な いような位置に立っていたので、わたしは自分が夢を見ているに違 ったり、とどのつまりは首を折ったりしたに違いない ) 。 日没近く、どこまでもどこまでも登って行くような、高い楽な巻いないことを知った。だが、わたしの生命の反対側の端で何かが動 いて、一瞬苦いような思いとともに、それが審判天使であることを き道にぶつかった。わたしは慎重なほうの自分と議論した。一週間 ほど留守にするという伝言を残してきてあるのだ。それは三日目の確信した。ただ、それは右の手にラツ。 ( ではなく火の剣を持ってい 終わりだった。わたしはできる限り高く登って、五日目には帰路にるように見えた。それはそこにいつまでも立っており、その刃の先 はわたしの胸のほうを指していた。その刃を通して星の姿を見るこ っこうと思っていた。もしも頭上に続く岩の道を、それの許す限り たどって【行ったなら、多分四万フィ 約一新一」千 ) を越えるだろとができた。それは喋るように見えた。 それはいった。 - 「帰レ」 う。それから、状況によるが、五分五分の可能性で、帰路につく前 だが、わたしは答えることができなかった。というのは、舌が上 に十マイル約一万六千 ) 地点近くに達するかも知れない。そうすれ ば、それより上の状況をつかむもっとずっといい写真が撮れること顎に張りついていたからである。そしてそれはもう一度いい、さら に三度目をいった。「帰レ」と : ・こ「つ、つ 0 「明日になったら」とわたしは夢の中で思い、そしてそれが天使を 慎重なほうのわたしは三対ゼロで負けてしまって、気違いジャッ 満足させたようだった。というのは、燃える火が静まって消えてし クが前進を続けた。 星々はあまりにも大きく、また燃えるように輝いていたので、わまい、暗闇がわたしの周りを包んだからである。 たしはそれが噛みつくのではないかと恐れた。風は全然問題にはな らなかった。それだけの高さになると、ソョとの風もなかった。登次の日わたしは、何年もこれほどは登らなかったというくらい登 山服の温度調整装置は次々に上げてゆかねばならなかったが、もしった。遅い昼食ごろには四万八千フィートに達していた。下のほう こを埋めつくした雲のとばりが切れていて、眼下に横たわるものをも も呼吸装置越しに唾を吐くことができたなら、唾は地面に届く前冫 う一度眺めることができた。地面は暗いところと明るいところのつ 凍るだろうという感じがした。 わたしは自分で思っていたよりもさらに上昇を続け、その夜四万ぎはぎ細工だった。頭上の星々は消えていなかった。 前進はきっかったが、気分は上々だった。わたしは十マイル地点 二千を突破した。 7
「ネッド・・フラインです」 力は、どうなるのか。 「・フライン、・フライン」高級船員はリストを調べた。「どうも、そ 8 彼は足をとめ、そこに停舶している大きな船の舳を見た。「テシ の、見つからんようー - ・ーーあっ、ありました、ここにありました。そ ウス号」と船名が書かれてあった。 う、ミスタ・・フライン。デッキの 3 号船室です。楽しい旅をなさ 彼はインドと青い空と、輝く日の光と酒と娯楽を心にえがいた それらはしかし、水久に彼のものとはならないだろう。仕事、気違いますようにー いじみた努力、それが彼の選んだ人生だった。そのためにたとえあ「ありがとう」・フラインは言って、ちらと時計を見た。一時十五分 の二人といない美しい女性を失うことになろうとも、彼はニューヨ 「ところで」と彼は高級船員に言った。「出帆は何時ですか」 1 クの鉄天色の空の下で孜々として仕事にはげみつづけるだろう。 だがなぜなのだ、と彼は、ポケットのセーム皮の袋にさわりなが「四時三十分きっかりです」 ら、自分に問うた。暮し向きはけっして悪くない。仕事だって、放「四時三十分 ? 確かですか」 っておいてもひとりで片付いていっている。今、彼がすべておつ。ほ「確かですとも、・フラインさん」 り出してその船に乗り、陽の光の中でこれから一年を過そうとした「しかし、わたしは、出帆は一時だと聞きましたがね」 「それはもとの時間です。出帆時間が先へ延ばされることはしじゅ からといって、何がそれを妨げるだろう ? 何ひとっ妨げるものはないと気づいたとたん、彼の心は興奮に掻うでしてね。その程度の遅れは、海に出てから簡単に取り戻してし き立てられた。彼は思うままに行動する自由な人間なのだ。決意をまいますよ」 固めた強い人間なのだ。仕事の面で成功する、闘志のある人間な 四時三十分か ! よし、それなら時間はじゅうぶんにある ! 今 ハクスターに会い、それからまた戻ってきても、 ら、いつぼうでまた、仕事を離れ、すべてを放り出して恋を追う、すぐ行ってべン・ 船の出帆には間に合う ! 問題は両方とも解決だ ! 不思議で狐に それだけの勇気だってあるはすだ。 「・ハクスターなんそくたばっちまえ ! 」彼は自分に向かってそう言でもつままれたような気持だが、慈悲深い運命に、祝福の言葉をつ った。あの娘の安全が何よりも大事だ、と彼は思った。今すぐあのぶやきながら、・フラインはくるりと向き直ると、渡り板をかけ下り た。運よく、タクシーはすぐにつかまった。 船に乗って、同業者たちには海の上から電報を打ち、こうったえよ ・ハクスターは背こそ低いが、牡牛のように胸の厚いがっし 決定は下された。彼はくるりと向き直ると渡り板のほうに進み、 そして決然とそれを登っていった。 りした体の男だった。頭はすっかり禿げ上がり、目は鼻眠鏡の後ろ 甲板にいた高級船員がにつこり笑って、言った。「お名前を、どで表情を欠いている。背広は地味なのを着て、襟の折り返しに″ウ オールの卑しきしもべ″のルビーに真珠をちりばめた小さな記章を うそ ? 」