たころだ。もう一度眠りこもうとしたが、カーナハンも目をさまし ケイシーの存在がおれ自身にとり、どれだけの意味を持っていたか を知った。かれが身近かにいて、やりかえしてくれれば、白マスクているのに気づいた。 「どこか、この近くにケイシーがいる」と、カーナハンは小声で言 たちがいかにおれを死人扱いにしようと平気でいられた。かれがい ないと、おれはもう死んだも同様だった。やたらと重患扱いする死 9 た。 あたりを見まわした。「おれには見え 「どこだ」と、おれは問い、 神おばさんまで、妙に好ましくなったくらいである。 その朝、メリーは中指にダイヤの指輪をはめ、目にはそれ以上のないが」 「おれは感じる」と、カーナハンは言った。「やつはこの近くにい 輝きを映して出勤して来た。小さなダイヤではあったが、カーリー の埋め合わせのる」 ・ワルドーの贈りものであり、スロップ・チュート 他の連中も目をさまして、あたりをうかがい始めた。ケイシーと ようなものであった。 スロップ・チュート が死んだ晩と同じようだった。そのとき、なに ケイシーもここにいて、これを見てくれたら、とおれは思った。 かれはきっといつものようにメリーの周囲を踊りまわり、彼女にやかが日光浴室の中で動いた : ケイシーだった。 さしくキスするだろう。ケイシーはメリーを愛していた。 かれはゆっくりと、恥じらうようにして病室へ入って来た。あっ その日が土曜日であることはおれにもわかった。死神おばさんが 入「て来て、おれたちの何人かに、もし希望があれば、明朝、朝食ちこ「ち〈首を突き出し、目を大きく見開き、まるでおれたちが物 前に車椅子で教会の特別ミサに出席できる、と告げたから。おれたを投げつけるとでも思 0 ているかのようにおびえた顔をしている。 ちは、結構です、と答えた。だが、ケイシーのいない土曜日なんかれは病室の中央で止 0 た。 ! 」と、カーナハンが低いが、はっきりした声で て、まったくひどいものだった。シャ 1 キー・・フラウンがおれたち「やあ、ケイシー 「ケイシーがいっちまったんで、ここは言った。 一同の気持を代弁した ケイシーは鋭く、そちらを見かえした。 また死体置場になっちまったなあ」 「こっちへ来 ! 」と、おれたちは一斉に言った。 「やあ、ケイシー カーナハンでさえもケイシーを呼び出すことはできなかった。 「ときどき、おれはあいつが動きまわる気配を感じるんだが、次のいよ、この毛むくじゃら野郎 ! 」 ケイシーは頭上で両手をにぎり合わせ、お得意のダンスを始め 瞬間、すぐに確信もてなくなってしまうんだ」と、カーナ ( ンは言 た。そして、にやりと笑った : : : おれは神かけて誓うーーーそれは : った。「一体全体、あいつはどこへ行ってしまったんだろう」」 : ケイシーが浮かべたのは、スロップ・チュートの、あの場違いな その晩、眠るときのおれたちは、すでに死んだも同然の身であり 大笑いの表情だった。 ながら、死んでゆくような気分だった。 かすかに聞こえる音楽がおれを目ざめさせたのは、外が白みかけ生れて始めて、おれは悲鳴をあげたくな 0 た。 幻 4
やがる。髪は散切りで、頗かむりもいけねえとこうだ。こんなべらめてくれと宇之が依頼されたことを、宗春はおおよそ知 0 ているら ぼうな話はねえと思ったんだが : : : 黒衣ものが相手じや強請もうましかった。 くいかねえ。殺されねえようにするのが精いつばいだわさ : : : 」 滝沢みちが頼み人だったのか。 「もうひとっききてえことがあるんだが」宇之は宗春の粘 0 こい饒確かに笑い話というしかなか 0 た。滝沢みちの死になにかいわく 舌を遮った。 があるのではないかと疑ったからこそ、宇之はこの件にこうして関 「むしのいい野郎た」宗春は顎をひいた。「他人にさんざん喋らせわりあうことにな 0 たのである。滝沢みちの死因が虎狼痢に過ぎな やがって : : : 」 いのだとしたら、宇之のしたことは単に藪をつついて蛇を出したた 「滝沢みちという名前を知ってるかい ? 」 けということになる。黒衣衆という名の、それ以上もなく恐ろしい 「滝沢 ? : : : ああ、なるほど、あの一件を知りてえんだな。滝沢馬蛇を : せがれ 琴の息子の嫁が死んた時、その家の周囲を黒衣の奴らがうろついて 「これぐれえでいいだろう」宗春は野放図な欠伸をもらした。「ち いたという件たろ ? あれはなんでもねえんだ : : : 」 いと眠くなったわ。今晩はこれでおひらきにしてくれ」 「なんでもねえ ? 」 「ああ : : : 」宇之はうなずくしかなかった。内心では、将軍のお宝 「い 0 てみりゃあ笑い話みてえなもんさ。馬琴の南総里見八大伝ーという奇怪な玉を今晩のうちにも見たいと思 0 ていたのだが、あま いちどき ー話のなかに不思議な玉は出てくるわ、そのおかげで里見家は再興 り一時にことを進めようとするのは利ロなやり方ではないようだっ こ 0 されるわで、どことなく徳川家の玉の話に似ちゃいねえか。 大伝を書き終えて、すぐに死んじま 0 た馬琴はいいわな。迷惑だ 0 「誰にも手出しはさせねえ。安心して、村を出て 0 てくれていし たのは、八大伝を口伝に書いたみちの方よ。滝沢馬琴はなにか徳川 ぜ」と、宗春が立ちあがりかけたのに、 家の秘密のことを知 0 ていたんじゃねえのか、 0 て老中たちに勘繰「成延はどうした ? 」ふと思いだして宇之はきいた。「もう帰 0 た られちまった : : : 岡っ引には床下に潜られるわ、黒衣衆にはせめらのか」 れるわで、とうとう婆さん生きてるのが厭になっちま 0 た。それで「成延 ? : : : ああ、あの若いのか」宗春は不審そうな表情をしてい 誰かに殺してもらえるよう、手配を済ましたところが、虎狼痢でポる。「あいつがどうかしたのか ? 今夜は、最初からあいつなんか ックリよ・ : ・ : 」 村に来てはいないぜ」 「滝沢みちは本当に虎狼痢で死んだのか」 「おれは成延の名で呼びだされたんだぜ」宇之は自分の顔が強張る 「そうよ。変に気をまわした奴もいるらしいけどな」宗春の眼にはのを感じた。「するとなにか ? 親分がやつの名を使「ておれを呼 皮肉な笑いが浮かんでいる。ーーー江戸いちばんの早耳屋、乞胸仁太びだしたのか」 夫を配下に持 0 ているだけあ「て、地本問屋中村庄兵衛にみちを殺「そんなけちな真似をおれがするか」宗春の顔にムッとしたような くちづて まわり 8 6
軅を強張らせて、庄兵衛は天井を凝視め続けていた。 た、と考えてもよさそうだった。 だいぶたって、下女がタ飼の支度ができたと報せにくるまで、庄結局、一人の老女が虎狼痢で死んだだけのことではなかったの といき 兵衛は天井の殺し屋が立ち去ったことを信じきれないでいた。吐息か。 いや、そうじゃあるまい。 をついて、庄兵衛は畳のうえにへたりこんだ。 宇之は頭のなかでかぶりを振った。あの晩、闇のなかにみなぎつ ほうじよういけ ていた尾行者の殺気を、宇之はいまもまざまざと感じることができ 宇之は放生池の縁に立っていた。 池の面は暗い闇の底に沈んで、時おり錆びたような光を放つ以外た。 は、なにひとつ見えなかった。蓮や葭や蒲などの陰で鳴く蛙の声草を踏む音が聞こえてきた。 が、とぎれることなく続いていた。 振り返った宇之の眼を、無地の弓張提灯の明かりが灼いた。 「どけてくれねえか」宇之は落ち着いた声でいった。「ひとの顔を 放生池は鮫河橋の近くにあり、その池畔には同じ名の庵もある。 滝沢みちの死んだ様子を、信濃殿界隈の商家などに説いて歩き、な照らすのはやめねえ」 んの収穫も得られぬまま、鮫河橋にさしかかり、ふと宇之はこの池「そいつはおおきにすまなかったな」含み笑いとともに提灯が脇に に寄ってみようかと思いついたのだった。池畔の涼しい風に吹かれ寄り、小柄な中年男の姿がポンヤリと浮かび上がった。 小作りながら、手足はゴッゴッと太く、それでいてどこかに敏捷 れば、なにか考えがまとまるかもしれないと思ったのだが : しりはしより 「分らねえ」宇之はもうさっきから同じ言葉を繰り返していた。 さを感じさせる男だった。めくら縞の単衣を尻端折にして、浅黄の 「まったく、分らねえ」 短い羽織を着ている。 みちの死にはなんの不審もなさそうだった。急な発病で、その日「おらあ武井屋の久六つて者だが」男は懐から十手を取り出した。 のうちに死んでしまったというのも、死因が虎狼痢であってみれ「御用のすじで、ちょっとおめえに訊きてえことがあるんだ」 ・ : 」宇之は返事をしようとしない。 ば、むしろ自然なぐらいだった。死に様が虎狼痢そっくりに見える「 : すまい 毒の存在を、宇之も知らないわけではなかったが、しかしそこまで「まずおめえの名前と住居を聞かせてもらおうか」かまわず久六は いった。「それにどうして、滝沢みちの死に様を尋ねて回るのか、 疑うときりがなかった。 むしろ宇之に分らないのは、どうしてこれほどまでにみちの死がそれも聞かせてもらいてえ」 気にかかるのかということだった。庄兵衛が二人の人間に仕事を頼宇之はやはり黙している。 んだというのであれば、確かに定法のうえからも、宇之がみちの死「どうした」久六の語気が荒くなった。「おれの言葉が聞こえねえ を見過ごしにすることはできなかったろう。しかし今日の庄兵衛ののか」 様子からすると、少なくとも仕事を依頼されたのは宇之独りだつ「親分、池へとびこみねえトふいに、宇之がいった。 よしかま 5 2
ってきた。 「私が他の人間にも仕事を頼んだというのか」咽喉になにかからん 「いつもながら、妻い腕だね。あれなら誰が見ても、みちさんは病だような声で、庄兵衛はようやくそれだけをいった。 死だ」庄兵衛は太 0 腹らしくうなずいた。「今、店の方からを取「もし、そうだとすると : ・・ = 」天井の声は落ち着いていた。「失礼 ってくるからね。後金を受けとっておくれ」 ですが、庄兵衛さんはこの稼業の約東事をお破んなすったというこ そういって、いまにも立ち上がりかけた庄兵衛を、天井からの声とに : が押し止めた。 「なんで 「ちがう、ちがう」庄兵衛は懸命に顔の前で手を振った。 「あれは、私の仕事じゃない」 私がそんな莫迦なことをするものか。みちさんが死んだのが、あん 「え ? 」 たの仕事じゃないというのなら、本当に虎狼痢で死んだんだろう 「私は仕事をしなかった」 庄兵衛の膝の前に、ポトリと切餅が落ちてきた。その包みが破れ「 : : : 」天井の声は沈黙した。 て、黄金色の輝きが畳のうえに拡がる。 庄兵衛は驅を伸びあがらせるようにして、天井を凝視めている。 「これは、どういうわけだ」庄兵衛の酒やけした赭ら顔が強張っ自分では気がついていないらしいが、彼の額は汗でグッショリと濡 た。 れていた。 「お預かりした前金です」 「分りました」やがて、天井の声がいった。「それじゃ、もうひと 「前金って : : : みちさんは死んだじゃないか」 つだけ : : : あの仕事の頼み人の名前を教えてもらえませんか」 「だから、あれは私の仕事じゃない。本当に虎狼痢で死んだのか、 「そいつはいうわけこよ 冫冫いかない」庄兵衛は首を振った。 とにかく、私の仕事じゃ それとも誰か他の人間の仕事なのか、 冫をしかないのは、庄兵衛さんが直接の頼み人だからじ 「いうわけこよ、 ない」 ゃないんですか」 「なにしろ、いうわけにはいかない」ほとんど逃げ腰のようになり その殺したような声音に、庄兵衛の貌が紙のように白くなった。 庄兵衛はいま自分が話している男が、どこの誰だか知らないでい ながら、庄兵衛は必死に首を振り続けた。「おまえさんだって、こ る。殺しを依頼したい時には、店の軒先に赤い紙縒をたらしておくの稼業の定法を心得ているはずじゃないか」 ひにち 「なるほど」天井の声は嗤いを含んでいた。「こいつは私が間違っ のである。そうすると今夜のように、日日をおかず天井から合図の 木の葉が落ちてくるのだった。 : : : 庄兵衛にしてみれば、裏の稼業ていたようだ」 再び、天井の声は沈黙した。 も、表の地本問屋と同じように、三年前に死んだ先代から受け継い だだけの話で、それだけに声だけしか知らない殺し屋をひどく無気庄兵衛は次の言葉を待っていた。 天井からはコトリとも音がしなかった。 味に感じていた。 4 2
二、私書箱四九三」 マーチンが再び口をはさんだ。 「三人とも死んだというのか。確かか、管制室。救急車に運んだ時 は、女はまだ息をしていたが」 「そのまま待ってくれ、五六号車。確認する」 第イ 。ヒッツ・ハーグ管制室からすぐに返事が戻ってきた。 「そのとおりだ、五六号車。女は一七四五時に死んだ。それから新 しい情報だ。当て逃げ車と型式と色が符合する自動車が、今朝デラ ウ = ア州ウイルミントンでおきた、武装強盗大量殺人事件と関係あ引 ると信じられている。フィラデルフィア管制室では、他の詳細を調
宇之の表情は変わらなかった。変わらなかったが、しかし内心で ーー・ー滝沢みちの殺しを依頼したのが、地本問屋書楽堂の庄兵衛 ・ : 読み本を商うのが野郎の商売だ。とすると、他に頼み人がいた は愕然としていた。自分が殺しを頼まれて、とうとう殺す気にはな け れなかった老婆が、三日後の今日にはもう死んでいるというのだ。 わけじゃなくて、庄兵衛自身がみちを殺したかったのかもしれねえ 驚くなという方が無理だった。 わけ 本当に虎狼痢で死んだのか。 庄兵衛が直接の頼み人だったとしても、またどんな理由があって 宇之の胸には疑惑が生じている。もしかして庄兵衛が二人の人間庄兵衛がみちを殺そうとしたのかも、宇之の知ったことではなかっ に殺しを依頼したということはないだろうか。そうだとすると、あた。ただそのために、庄兵衛が二人の人間に仕事を依頼したのだと の夜、おれをつけてきたのは : ・ したら、これは宇之の許せることではなかった。殺し屋に仕事を頼 「その滝沢みちって人は、どんなお人だったんだ ? おめえのようむのにも、それなりの定法があるのだった。 な人気者までが弔いに出かけたというんじゃ、ただの婆さんじゃあ 今日にでも庄兵衛に会ってみるか。 るめえ」宇之はなにげない貌できいた。 大老井伊直弼が、二人の老中筆頭を罷免したために、いま江戸城 「いや、ただの婆さんさね。ただの婆さんには違いないが、ほれ、 は上へ下への大騒ぎだ、という町の噂を谷斎が話し出したのを聞き あの馬琴の息子の嫁だったお人さ : : : 」 流しながら、宇之はそう考えていた。 「馬琴 ? あの読み本の : ・ 「おおさ。南総里見八大伝、椿説弓張月の滝沢馬琴だよ。死んでか路地でしきりに騒いでいた子供たちの声が、いつのまにか聞こえ ら、もう十年ちかくにもなるが : : : その馬琴に宗伯って息子がいてなくなっていた。 な。みちさんは宗伯の嫁だったのさ。気の毒に、みちさんが嫁にき机の前に坐り、上顧客へ贈ることになっている好色本を読みふけ てから八年たらずで、宗伯が去っちまって : : : それからというも っていた庄兵衛は、ふと顔を上げて、もうこんな時刻か、と驚いた そと よっめがき の、みちさんは苦労のし続けさね。気むずかし屋でけちの舅の馬琴ようにつぶやいた。戸外には暮色がたちこめ、四目垣に囲まれた庭 に泣かされ続けてよ。そのうえ、爺さん死ぬまえには眼がまったくも薄闇のなかに沈みこんでいた。 見えなくなっていたらしいや。八犬伝なんかも、みちさんが筆記し蚊遣りをたこうと、庄兵衛が立ち上がりかけた時、その眼の前に ていたんだぜ」 ヒラヒラと一枚の木の葉が落ちてきた。少しの間、庄兵衛は畳のう 「ふーん、そうかい」 えの木の葉を見つめていたが、 と生返事をしながら、宇之は茶をすすっている。殺される人間が「いるのかい」 どんな人間なのか、一切きいてはいけないのが殺し屋の掟になって やがて、天井に向かってそう声をかけた。 いた。だから滝沢みちの素姓も、いま始めて宇之は知ったのである。 「伺いたいことがありましてね」低く、くぐもった声が天井から返 せがれ 3 2
「あれも一度は嫁いだのだが、二年前に亭主が死におってな : : : 子 密御用というものがいかに刻時を選んでいられない仕事であるか、 よく心得ているらしかった。 供もできなかったことだし、こちらに帰ってきているのさ」織部は 「おいでなさいませ」うのは頭をさげた。「気がっきませぬで、ど美味そうに茶をすすった。 うも不調法をいたしました」 卑劣な男だ。・ 宇之は黙している。黙して、彼女を見つめている。 それまで軽蔑の念しか抱いていなかった織部に対して、宇之はい 涼し気な藍染の上布に紫の単へ帯が、うののきりりと引き緊ったまはっきりと憤りを覚えていた。この席で、うのと対面させること 弾力のある姿態をよく際立たせている。が、自分の記憶のなかにあ が、宇之にとってどれほどの衝撃であるか、そしてそのことが、自 る彼女よりも、いくらか痩せているように宇之には思えた。 分が有利に話を進めていくうえでどれほどの効力があるか、織部は 「そんな格好をしているので分らぬとみえるな」上機嫌で織部がい 総てを計算しつくしているらしい。織部にとっては、実の妹さえ己 った。「うの、功刀哲太郎ではないか」 の道具でしかないのだろうか。 「うのが茶を持ってくるまえに、話を決めてしまおう」織部がいっ はつ、と女は顔を上げた。賢しげな大きな眸子に、始めて驚きの 色が浮かんだ。 た。「確か、訓きたいことがあるといっていたな」 「哲太郎さま : : : 」うのは呆然としている。 「滝沢みちの件だ」宇之の声は低かった。 宇之は一礼した。「しばらくでした」 「 : : : 滝沢みち ? 」 「お久しゅうございます」うのもそう答えたが、しかし頭を下げよ「わけあって、おれは滝沢みちの死に不審を抱いた。だから、近所 うとはしなかった。宇之の顔を一直線に見つめている。 でみちの死に様を尋ねて回ったのだ。そのおれに、おぬしたち御庭 ・ : なあ、織部、御庭番はみちの死に 「哲太郎はな」織部がいった。「哲太郎はいま宇之と名のっている番が気がついたということは : そうだ」 なにか関わりがあったのか」 ・ : 」うのは眼を瞠った。 「ない : ・ : 」織部は首を振った。「ないと断言できる。ただ : : : 」 「哲太郎に茶をもて」織部がうのを促した。「おれたちには ( まだ「ただ ? 」 少し話が残っているー 「ただ、黒衣衆のひとりがみちを殺めた、という話は聞いたことが 「はい・」 ある。 ・ : 黒衣衆ともあろう者が、な・せ罪もない老女を殺めねばな うのはようやく落ち着きをとり戻したようだった。宇之に向かつらなかったのか。我々はそれが知りたかった」 「だから、信濃坂の辺りを嗅ぎまわっていたというのか」 て軽く一礼すると、 ・ : そして、おぬしと、おぬしの後を踉けている岡っ引 「ごゆるりと」 「そうだ。・ 静かに座敷を出ていった。 を見かけたのさ」 ひとみ 3 っ )
減んでくれねば迷惑たわ。それに、殿もな。権現さまだけは喉かまは微塵に砕け散りましたそ」 ら手が出るほど欲しがっておられる。我が殿の手に権現さまがあら「なんともうす」頭巾の男は愕然として立ちあがった。その手がわ せられれば、それこそ鬼に金棒ーー・・殿の権勢に逆らう者、天下にひなわなと震えている。 とりもいなくなるわ」 宇之の背後にひっそりと人影が立った。 「御意」織部は媚びるように頭を畳にこすりつけた。「黒衣ノ者と「お逃げください。哲太郎さま」その声はうのであった。「こんな 哲太郎、そろそろ決着のついている頃でございます。もう夜も明けこともあろうかと、兄はこの屋敷を御庭番総出でかためさせていま とき ます刻ゆえ、拙者の手の者がおつつけ仔細を報せにまいるはす : ・す : ・ : こ 「うの : : : 」驚天して織部は声をあげたが、やがてその形相をきり 「非人村でやりおうているということであったな。ことのついでに りと歪ませると、 河内山 : : : あやつも死ん千くれればいうことはないのだが : : ふ「出合え、出合え、くせものであるそ」声をかぎりに叫んだ。 ふ、これはちと欲深に過ぎるかの」 庭にわらわらととびだしてきた御庭番たちには、ちらりと一瞥を 頭巾の男がそうにんまりと笑った時、 なげたきりで、 「黒衣衆も減び、河内山も死んた」突然に障子のむこうから声がか「うのどの、あなたはこのからくりを知っておられたのか。それ かった。「おぬしたちだけ無事というのでは義理がたつまいなあ」で、あたしに江戸を出ろといわれたのか」宇之が静かにいった。 「何奴つ」織部が刀を取って、頭巾の男を守るように片膝を立て「はい」うのはうなずいた。 「いかに徳川家のおんためとはいえ、 あまりに汚い仕様 : : : うのは兄に逆きましたーーー」 障子が左右に大きく開かれた。暗く、闇の底に沈んだような庭を「なにをいうか、うの」織部は逆上して我を失 0 ている。「そこを 背にして、宇之が縁側に立っていた。 のかぬか。危いではないか。うの、そこをたちのけつ」 「哲太郎 ! 」と織部が絶句するのに眼をくれす、 いまや、座敷といわず、庭といわず、御庭番がびっしりとつめ 「井伊家さまご家来長野主膳どのとおみうけする」宇之は頭巾の男て、夥しい刀身、槍ぶすまが宇之をとりかこんでいた。 に声をかけた。「さすがは知恵者で知られる掃部頭さま、拙者その 「うのどの、そこにおられい」宇之が懐から赤い鞭をとりだした。 策にほとほと感服つかまった。 : 、 カ賢しゅうして牛を売り損うの「徳川が減ぶその道連れに、御庭番にはたんと死んで貰わねばなら は、どうやら女だけではないようでござるな」 ぬ。そうでなければ、黒衣衆に義理がたたぬのでな。 : : : 徳川家は 「ひかえい、無礼者ー織部が吼えた。 あなたにとっていわば夫も同然、そこでご自分の夫が減んでゆくの 「牛は死にもうした」宇之は平然と言葉を続けた。「いや、あれがをとくと見物されるがよかろう」 一体なんであったのか、拙者にはとうとう分らなかったが、権現さ「はい」うのの声にはりんとした響きが含まれていた。「私の夫が
「知ってどうする ? 」 「黒衣衆という名を聞いたことがあるな」 「おう : : : 」暗い火影に宗春の眸がギラリと光った。 いのち 座敷にひとつだけ燃えている燭台は、油煙をあげて暗く、向かい 「どうやら、その黒衣衆と生命のやりとりをしなければならなくな 合って座している二人の男を影のように見せていた。ひとりは宇った。 ・ : それは一向にかまわねえが、おれには奴らの正体がもう 之、もうひとりは穢多弾左衛門 いや、宇之の言葉を信じるならひとっめねえんだ。正体のよく分らねえ相手と斬り合いをするの ば、二昔以上も前に死んたはすの河内山宗春であった。 は気持ちが悪い」 くもいにまごううえののはつはな 河内山宗春 , ーー後に黙阿弥の「天衣粉上野初花」によって、「練「おめえ独りで、あいつらとやりあおうというのか」 塀小路にかくれのねえ、お数寄屋坊主の宗俊が : : : 」と知られるこ ゆすり とになったこの男は、囲い者をしている女犯僧を強請にかけるのを「恨みでもあるのか」 なりわい その生業にしていた。それが、ヤミの宝くじでひと儲けをたくらん「ない」 だというので、相手もあろうに水戸徳川家から五百両をまきあげて「ない ? 」 しまったのである。この一件で宗春は捕えられ、水戸家の名前が出「強いていえば、思う存分うでを試してみたいというところかな : るのを嫌った奉行によって、牢内で毒殺されたという。 それが文政六年のことで、宗春その時四十一歳。青山高徳寺には「ふうん : : : 」宗春は感心したように顎をなでて、「おめえも得体 ぐどうじよノみ、しんじ 「求道浄欣信士」と著された墓さえ残っている。 の知れねえ男だ。せ」 その河内山宗春が生きている ? 生きていれば、もう齢七十六に宇之は苦笑した。ーー。穢多弾左衛門を名のってはいるが、その実 なるはずだが : とっくに死んだはずの河内山宗春 : : : そんな人物から得体の知れな 「確かにおれは宗春よ」どぶろくをあおりながら、僧頭の老人は笑い男と呼ばれたのを、誇るべきか悲しむべきか。尤もかっての公儀 い声をあげた。「よく見破 0 たと誉めてやりてえところだが、おれ御庭番で、現在は殺し屋、時と場合とによって武士にも市井の無頼 の正体を知っている人間はこの江戸だけでもごまんといる。別に珍漢にもなる宇之という男、そうとうに得体の知れない、い や、江戸 しくはねえが、おめえの度胸が気にいったぜ。・ : ・ : 中町奉行は粋なの化け物ともいうべき存在には違いなかった。 いのち さばきで名が通っているんだ。生命だけは救けてやらあ : : : 」 「だが黒衣ものの正体を知ることと、おれが非人村で生きながらえ せりふ ひどく脅しをきかせたその台詞をさらりと受け流して、 ているわけを知ることとが、どこでどうつながるんだえ ? 」もうひ 「死んだはずの河内山宗春が、どんなわけがあってこの非人村で生とりの化け物がきいた。 きているのか。そのわけを知りてえもんたな」宇之がきいた。 「月に一一度ほど、成延という若者が井伊邸の黒衣ものから書状を託 ノ . 2 6
表情が浮かんだ。 かどわかされた記億がおりはの頭にはいまも生々しく残ってい 「それじゃ話が合わねえぜ。じゃあどうしておれが忍びこんでくるる。その恐ろしくてうとましい記憶が、おりはになんの思慮もなく のを知って、罠をはっていられたんだ ? 」 悲鳴をあげさせようとした。 「投げ文があったのよ。これこれこういう奴が忍びこもうとしてい 次の瞬間、おりはは肩から袈裟懸に斬られていた。悲鳴をあげる ると、な・ : : ・」 こともかなわず、おりはは血飛沫をあげて舞った : ー・ー瞬時にして たちきられたその意識のなかに、宇之の横顔が白く漂っていた。 どぶろくをいれた椀が、宇之の手からその膝のうえにポトリと落 もの音に気がついて、悲鳴をあげようとしたちえの腹に、正高存 ちた。「しまった」とつぶやいた宇之の声には、断腸の響きが含ま れている。 平の足が蹴りこまれた。あまりの苦痛に、ちえは嶇を折ってのたう ち、咽喉をぜいぜいと鳴らしている。 早暁の陽光が障子に白々とあたっていた。 「斬ったのか」 「伊豆橋」の奥座敷 , ーーおりははこの家の女主人の妹ちえと枕を並存平の背後から殺したような声がかかった。気絶した谷斎を肩に べて寝いっていた。 抱いて、庄田源内がうっそりと立っていた。 蚊やりの煙がたちの・ほっている。 「うむ : : : 声をたてようとしたのでな」 フッとおりはは眼を覚ました。夏の夜の常で、寝苦しさにもんも「まずいではないか。今西成延に、この幇間 : : : もうひとりいなけ んとして、ようやく眠りにはいったばかりというのに、こうして夜れば、権現さまの欲しがっておられただけの数が揃わぬそ」 「なに、誰であろうと数さえ揃えばそれでよいのだ。不憫だが、も 半に眼が開いてしまうというのが、なにか口惜しくもあり、いぶか しくもあった。 うひとりの女を連れていこう。それに : : : 」存平の唇に凄いような 笑いが浮かんだ。「おりはという女には死んでもらった方が、あの どうしたのかしら。 おりはは呆んやりと天井を見つめた。とーー蚊やりの煙が横にた宇之とかいう男とやりあうのになにかと便利たわ」 谷斎とちえをかどわかし、魔風のように彼らが去った後、座敷の なびいているのが眼の隅に入った。 壁には血のあとも生々しくこう書かれてあった。 襖でも開いているのか、とおりはは上半身を起こした。それがい けなかった。 ( 明日辰の刻、黒衣ノ者おはぐろどぶ裏に参上っかまつるーーー ) いましも座敷に足を踏みいれようとしていた円頂の大男と、まと もに視線を合わせてしまったのである・ 九 9- 6