男でも間違うことはあるものだ。 いデザートを運んできたのは。 翌朝ルシルから電話があってハリイは心臓の発作をおこしたので 「よう、異星人 ! 」 会社を休むという。ぼくは二度ばかり そう言って・ほくはまた笑いころげた。ハリイのひどくおびえたよ ーーー冠状動脈血栓らしい うな、がつくりしたような顔を見てーーーうまい、実にうまい、テレ見舞いにいったが、医師から絶対安静を命ぜられているから、とル シルに断わられた。ルシルが女医のシンプソンを頼んだところをみ ビ・スターそこのけの名演技だ。 / リイは日頃こう一一 = ロっていたも 女どもの、うんざりしたような顔を見て、ようやく笑いがおさまると、ハリイはよほど重態らしい。、 った。女たちにもこのおかしさをお裾わけしてやろうと思った。とのだ、たとえ犬でも、病気をなおしてやるつもりならば、彼女には ぜったいに診せないねと。そんなことも頓着できないほど、病気が / リイがヘらへらと笑ったのだ。いつもは、 ころが奇妙なことに、、 重いのだろう。 話におちがついて、聞き手が腹をかかえて笑いころげていると、ハ リイは、「あれ、そんなにおかしいこと言ったつけ ? 」というよう人の命なんてはかないものだ。ハリイの最高傑作も彼とともに野 辺の露と消えてしまうのはいかにも残念に思う。あの偉大な言語芸 な涼しい顔をしているのに。 とにかく・ほくは話しだした、すべりだしはよかったが、そのうち術が、痕跡もとどめず失われてしまうのはなによりも悲しい。 にしどろもどろになった、 ( リイに助け舟を求めたが、知らん顔を彼にかわってぼくが保存するつもりだ。ひと通り思いだしてみた とくにあの文学からの引用が。 が、ところどころうろお・ほえだ しているので、とうとう・ほくは音をあげた。 だからぼくは一生懸命本を調べて、似たような言葉をさがしだし 「だめだなあ、やつばりハリイにはかなわない」 た。するとハリイが言いおとしていた言葉が二つばかり見つかっ こうしてその晩も平穏無事にすぎた。話題も次第につきて、例に た。これも話の中につけ加えようと思う。ハリイは知っていなが よって、「じゃ、おやすみ、愉快だった、いずれまた。と言うしか ら、うつかり言いおとしたにちがいないのだから。 なくなった。 一つはだれでもよく知っているものだ。キップリングの詩で、こ 外に出ると、ルシルがきんきんした声でこういっているのが聞こ んな言葉ではじまる、「およそ女類は : : : 」もう一つはぼくが考え えた。 やもめ だしたものだ。ある日・ほくは自問した、世間には鰥夫より後家の方 「ハリイ、ポイラーの具合がおかしいのよ。前からお願いしておい たのに、見てやる見てやるって口さきばかりなんですもの、今晩はが多いのはなぜだろう ? と。 ジェーンが、ポイラーをなおしてちょうだい、と・ほくを呼んでい どうしても見てもらわなくちゃ、あしたお洗濯するんですから」 「ああいいよ」ハリイがいやにやさしく返事する声が聞こえた。やる。 だけど変だな、ポイラーの具合がおかしいなんてちっとも知らな 7 っこさん、またスチームに穴でもあけたか、と・ほくは思った。明日 ・カー また会社で話の続きが聞けるだろう。 ね
・ : 」宇之は黙している。 「くだらん当て推量は止めてもらおう」宇之の語調は冷たかった。 「だが、おれは侍だ」織部は胸を張った。「自分が侍であるという 「ふっと思いついた名前が宇之だった、というだけのことだ。他に : おぬしはどうだ ? 確 あれこれ名前を考えるのは面倒たったし、どちらにしろ、功刀哲太誇りは何物にも替え難いと想っている。 かに、手に職を持っていれば喰うのには困らないかもしれないが、 郎などという名前よりはましに違いなかろう」 そういうものかな、とロのなかでつぶやいて、織部は盃を手に取しかしおぬしほどのうでが錺職にしか使われないというのは、あま りに・ 「用件に入れ」織部の饒舌を撥ねのけるように、宇之がいった。 比丘尼屋敷の長屋、斎藤織部胖の居間であ 0 た。放生池で会っ た後、宇之は誘われるままに、比丘尼屋敷までやって来たのであ「そんな話をするために、おれを招んだのではあるまい」 「う : : : ああ」織部はつるりと顔をなでた。「だが、まだいいでは る。むろん、かって友人であった織部がなっかしかったからではな ないか。もう少し飲んだらどうだ」 く、御庭番が滝沢みちの一件とどんなつながりがあるのかを知りた 「用件を聞こう」宇之は盃を伏せた。 かったからであった。 「 : : : 実はおぬしに頼みたいことがあるのだが : : : 」渋りながら、 もう夜明けがちかい時刻になっていた。 しつも唇のあ織部は話を切り出した。 久しぶりに見る織部は、軅も顔もまるまると肥り、、 「ほう」宇之の唇に笑いが浮かんだ。 たりに微笑を浮かべているような男になっていた。昔から、見るか 「なろん、おぬしのこれからの身の処し方については相談にのるつ らに円満そうな容姿の持ち主ではあったが、しかしその実、織部が もりでいる。おぬしもいつまでも錺職人でもあるまい。今ちょうど 狡猾な策士であることを、宇之は知りすぎるほどに知っていた。 小十人組格にひとり欠番があるのだが : : : 」 膳のうえの肴にいかにも賞美するように手をつけながら、織部は 「頼みとはなんだ ? 」宇之は織部の言葉を遮った。そして、この男 再び口を開いた。 「暮らしの方はうまくいってるのだろうな。つまり、毎日の暮らしは変わらないと思った。 実はおぬしに頼みたいことがあるのだが : に不自由するというようなことはないのだろうな」 コ一百俵どりの両御番格のような暮らしは、とてもかなわぬがな織部の口からその言葉をきくのは、宇之にとってこれで二度めの ・ : 」宇之は皮肉に応じた。 ことだった。五年前、つまらぬ男気から織部の頼みをきいてしまっ たばかりに、宇之は大小を捨てなければならないはめに陥ったの 「いや、旗本や御家人の暮らしがいかに切り詰めたものであるか、 おぬしだとてよく承知しているはずではないか。二百俵どりといっ てもな。近頃はますます札差どもが強欲になりおって : : : 」吐息を 五年前。 ・ : 将軍家の鷹をあずかる鷹匠が、白昼、蔵前の札差を ついて、織部は首を振った・ 無礼討ちにするという事件が起こった。鷹匠は高百俵の軽輩にすぎ
おお 古風な燭台の灯かげが、その老女の影法師を巨きく壁に匐わせて 男は、その屋敷の表門を一瞥さえせずに通り過ぎると、高塀の暗いる。 がりまで来て、フッと提灯の火を吹き消した。男の姿はたちまち闇「おみつつあんですね」男が冷え冷えとした声できいた。 に呑まれて見えなくなった。 なにか赤い紐のようなものが闇のなかに躍ると、その端が塀越し老女はやはり壁を向いたまま、男を振り返ろうとはしない。耳が に伸びている松の枝にからみついた。 遠いのか。 後ろ手に障子を閉めながら、男は言葉を続けた。 次の瞬間、男の姿は黒い怪鳥のように塀の向こう側に消えてい うの 「あっしは宇之って者です。 : : : 怪しい者じゃないっていいてえと なりわい ころだが、実は他人さまの命を頂戴するのがあっしの生業でして 塀の向こう側ーー植込みの蔭に、男はヒッソリと身を沈めた。 さほどの広さがあるわけではないのだが、よほどの間、職人の手ね : : : 」 が入っていないらしく、庭は荒れ放題に荒れていた。屋敷もむしろ老女はわずかに肩を震わせた。が、宇之と名のった男の言葉に怯 えたようには見えなかった。 廃家と呼んだほうが相応しいぐらいで、離れ座敷にポツリと点もっ ている明かりがなければ、とてものこと人が住んでいるとは信じら「こちらを向いちゃもらえませんか」宇之の唇には皮肉な笑いが浮 れないほどだった。 かんでいた。 ・それに、お経を読 蛙がしきりに鳴いている。 「どうして、西の方を向いていなさるんで ? : : ・ 男は猫のように夜眠がきくらしかった。離れ座敷に明かりが点もむというのもすこうし手回しがよすぎやしませんか . っているとはいえ、むろんのこと庭をまで照らすほどに強い明かり宇之の口調はあくまでも穏やかだったが、しかしその声にはあら のわけはなく、男が居るのはまったくの闇のなかといっても過言でがい難い響きがこもっていた。老女はあきらめたように、宇之に視 はなかった。その闇のなかを、男はなんのそうさもなく、腰をおと線を向けた。 して駆け抜けたのである。 老女の貌には苦悩が深く刻まれていた。かってはそれなりの美貌 離れ座敷の下まで来ると、男はしばらくなかの様子を窺っているの持ち主だったのかもしれないが、老いと、そしておそらくは貧窮 ようだったが、やがて草履を懐につつこんで、ヒラリと縁にのぼっとが、彼女から総ての美を奪いつくしていたのだった。身に着けて た。そして、障子を静かに開ける。 いる衣類も、数えきれないほど水をくぐった代物であるように見え 寝具のうえに座して、ひとりの老女が経文を読んでいた。経文をた。 読めるほどなのだから、さほど耄碌しているはずはないのだが、老その年齢に相応しくなく、彼女の頬にはうっすらと赤みがさして 女は男が障子を開けたのを振り向こうとさえしなかった。 いた。もしかしたら、労咳を患っているのかもしれなかった。 っこ 0 とし
兎、関、四日市・・・ = ・那古にかかるあたりから、家康主従はいたると 0 ているではないか。ギャンでつくられているような、それは美 ころで蜂起する土民一揆に襲われ、四六時中生命の危険に脅やかさしい玉が、な : : : 」 れたという。そのおり、伊賀地侍二百人が伊賀路から伊勢の白子ま「おれはおとぎ噺を聞きたいのではない」 で家康を護衛し、後に伊賀者が江戸に招致される所以となる働きを「おれもおとぎ噺を話しているつもりはないわ。だだをこねずに黙 って聞け。話はだんだんと面白くなるからの」宗春はどぶろくをあ している。 「むろん、伊賀者の働きもあ 0 たわさ」宗春がいう。「だが、そのおると、老人に似合わぬ赤い舌でべ。リと唇のまわりをなめた。 「その美しい玉だがな。摩訶不思議な霊力を持っておった。まず話 頃の伊賀者といえば、銀でどうにでも動く地侍の集まりじゃねえ か。そりゃあ、確かに服部半蔵が夙くから徳川家につかえていたとをするのよ。それも耳に聞こえる声でではなく、頭のなかに直接に : それに強い。伊賀者がとんと赤児に思える いうこともあるかもしれねえが、伊賀者がそれほど本気で家康公の言葉を伝えてくる。 ほどに強いんだわさー 身を護ったとは思えねえ。 : : : 家康公には別の用心棒がいたのさ」 「どういうことだ ? 強いとは : : : 」 「用心棒 ? 」 「おうさ。頼りになる用心棒がな」宗春は遠くを見るような眼つき「こう、な」宗春は両の掌を胸の前に合わせ、漏斗のような形をつ 「こんな風に、緑色の光を放つのよ。その光にあた になった。「ある山のなかでのことだ。神君御一行がな。よっぴてくってみせた。 山越をしていると、ふいに月夜に星が流れた。その星の放っ光とき 0 た人間は驅が痺れて、五体がいうことをきかなくなる。鉄砲や弓 一行に襲いかカ たら、辺りが昼と見まごうほどの凄じい光だ 0 たというわ。 : : = 流矢の比ではないそ。なにしろ瞬きするほどの間に、 ってきた百人からなる一揆土民が、ことごとく躯を痺れさせ、地に れ星は峰を削り、樹をなぎ倒し、思わず地にひれふした御一行のつ 転がったというからの : : : 」 い眼と鼻のさきにズーンと墜ちた : : : 」 「つまりはその玉が用心棒というわけか」 「まるで見ていたような口ぶりだな」 「おうさ。 : : : 神君は供侍に命じて、その玉を三河に持ち帰った。 「聞いたのよ」 そして、その玉と話し、聞きしているうちにな。その玉が孔明も裸 「ほう、誰に聞いた ? 」 足で逃げる大軍師であることが分ったのよ」 「その流れ星にさー 「大軍師 ? 」 あ 0 けにとられる宇之の表情を小気味よさそうに見ながら、宗春「一度いいきかせたことは絶対に忘れぬ。いいきかせた人間が忘れ るようなつまらぬことでもはっきりと憶えている。そして、なにか は言葉を続けた。 「地鳴りがおさまった後、面々は恐る恐る眠を開け、首をあげた。相談をもちかけると、それらの話をもとにして、思いもよらぬ策を 5 ・ : もとより軍略、陣法だけのことではないぞ。 ・ : するとどうだ。さしわたし三尺ほどもあろう玉が眼の前に転が持ちたしてくる。 かね
・ : その若者は奥坊主の今西家の生ま「こいつは驚いた」宗春は眉をあげた。「黒衣ものとやりあうのは って、この村に届けに来る。 れーー元お数寄屋坊主だったあんたとはどこやらでつながっていそそっちの勝手、どうしてそれがおれの褒美になるんだえ」 「あんたは黒衣ものを怖がっている」 うじゃないか」 「お数寄屋坊主というのは表向き、実のところおれは無役の小普請「おれが怖がってるたと : : : 」 「怖がっているといって悪けりや、黒衣ものに一目おいている。だ 坊主たったのさ」宗春がポソリと言葉をはさむ。 「こいつは別の筋からききだしたことなんだが : ・ : こ宇之は話を続からこそ黒衣ものを直接ここには来させすに、昔のっての奥坊主の ・ : なあ、河内 ける。「あんたは将軍家のお宝なるものを盗みだしたということじ家の人間なんそ仲立ちに使っているんじゃねえか。 山の親方、欲をかくのはよしにしねえ。肚の底は見え透いているん ゃねえか。そのお宝を盾にして、あんたは自分の身を守っている : だぜ」宇之は一気にいってのけた。 : おれはそう睨んでいる。それに、どうやら黒衣ものもそのお宝と 燭台の焔が音をたてて燃えている。その揺らめく焔に陰影を隈取 やらになにか関わりがありそうな : : : 」 られながら、宗春はしばらく眉を顰めていたが、 宇之は手のうちを総て宗春にさらけだした。 「このおれに正面きってそんな口をたたいたのはおめえが始めてだ 「ううむ : : : 」宗春は唸ってみせた。「どうしていい鼻してるじゃ ねえか。おれがもう十も若けりや、おめえと組んで面白いことがでぜ」やがて、ふいごのような声でいった。「本当なら勘弁ならねえ ところだが、そこまで見透かされているんじや仕様がねえや : : : 」 きるんだがなあ」 ゆすり 「話してくれるかい」宇之の表情は変わらない。 「盗人や強請の片棒かつがされてたまるか」宇之が苦笑する。 「まあ、いい鼻はしてるが所詮はそれだけのこった」かまわず宗春「聞かせてやる。おめえなら万に一つ黒衣の化け物たちに勝てるか ・ : おめ は言葉を続ける。「将軍家のお宝がなんだか分らねえうちは、どうもしれねえ。どうで、あいつらは生かしておけねえんだ。・ え、神君の伊賀越の話は知ってるだろうな」 材料をよってみたところで、糸は一本になりつこねえ。黒衣ものの 「伊賀越 ? 」 正体なんそ逆立ちしたところで分るものか : : : 」 と宇之が眉をひそめたのは、それがこの場合に宗春の口から出る 「だから、そいつをあんたに教えて 「だからさ」宇之は動じない。 にはあまりに思いがけない話だったからであり、微禄とはいえかっ もらいたいといってるんだ」 「教えるのはいいが、只ってわけにはいかねえよ」齢はとっても河ては幕府の禄をはんでいた彼が〈神君の伊賀越〉を知らないはすが 内山宗春、さすがにぬけめがない。「おれにはどんなご褒美が貰えなかった。 天正十年六月ーーー本能寺の変の際、家康は信長の招きにより泉州 るんたい ? 」 「黒衣ものとやりあうといってるじゃねえか」宇之は嗤った。「褒堺に滞在していた。身の危険を感じた家康は、急遽三河に帰るべく 決心して、その最短路である伊賀越の間道に向かった。柘植、鹿伏 美はそれで充分だろう」 しか 4 6
先触れの声がひときわ高く、朝の清冽な空気のなかに響いた。 「いいから、坐んなよ」 井伊邸より外桜田の門までは三、四丁、右手には大名屋敷の長屋 ・ : 」谷斎は渋々腰を落ち着けた。 卩カ連なり、左手にはお濠が続いている。ーー井伊直弼を殺めるに 「おめえに頼みたいことがあるんだ」酒を飲みながら、宇之がいつ。、 こ 0 は、この行列を襲うのが、最も賢明な方法であるようだった。 供侍はいずれもたいしたことはない。・ 「頼み ? 」 「ああ : : : おりはが安心して、身を隠せるような所を探してもらい お濠端の草ゃぶに身を潜めながら、宇之はそう思った。供方は六 たいんだ」 十余人、が、騎馬従士にも、供廻り従士にも、問題とするにたるほ てだれ 「なんだ ? 」谷斎は唖然とした。「それじゃ、おりはさんは帰ってどの手練はいないようだった。ただひとり、二刀流を良くすると評 判のたかい河西忠左衛門という供目付だけは、さすがに精彩を放っ くるのか」 びとみ 「ああ : ・ : こ宇之の眸子が暗くなった。「ここ一両日中にな。だていたが、所詮は宇之の相手ではなさそうだった。 ・ : できるだけ早「おれには見えねえ」行列を見送りながら、宇之が呻いた。「本当 が、またさらわれでもしたら、ことだからな。・ に、黒衣組が守っているのだろうか。おれには見えねえが : : : 」 、安全な隠れ家に移してやりたいのさ」 八文字に開かれていた井伊邸の赤門が、軋むような音をたてて閉 「宇之さん : ・ : ・」なにか咽喉にからんだような声で、谷斎がいっ ざされた。 た。「おめえ本当のところ何物なんだえ ? 」 「頼まれてくれるかい ? 」宇之は谷斎の言葉が聞こえなかったよう着物の裾をはたきながら、宇之は草むらから身を起こした。 宇之はこれで三日、城中から辰の刻 ( 前八時 ) をつげる天鼓が聞 な表情をしている。 「勿論だとも」谷斎は慌てて立ち上がった。「そんなことなら、おこえてくると、お濠端の茂みにとびこみ、井伊公の行列をうかがっ ていた。黒衣衆の警護がどれほど強固なものであるか、自分の目で 安い御用だぜ・ : : こ 谷斎が風をくらったように飛び出していった後、宇之はしばらく見定める必要があったからである。 だが、分らなかった。朝にタ、六回にわたって井伊の行列を目の 手酌で飲んでいたが、やがてゴロリと横になった。五つ数えるほど あたりにしたのだが、幾度見てもそこには供侍の姿が見えるだけ の間をおいて、宇之の静かな寝息が聞こえてきた。 で、黒衣衆のにおいさえ感じられなかったのだ。 井伊大老は我々三人が常にお守りしている。 井伊家の赤備えといえば、江戸で知らない者はいない。武具も馬 具も総て赤く塗った行列が、いましも井伊邸の赤門を出ていこうと笈川隼人と名のったあの男の言葉を、宇之は一度は自分を牽制す るための偽りではなかったのかと考えた。そして、甘いそ宇之、と 9 している。 黒衣衆の忍びの術は、御庭番のそれの比ではないは 自嘲した。 「下にイー 下にイー
軅を強張らせて、庄兵衛は天井を凝視め続けていた。 た、と考えてもよさそうだった。 だいぶたって、下女がタ飼の支度ができたと報せにくるまで、庄結局、一人の老女が虎狼痢で死んだだけのことではなかったの といき 兵衛は天井の殺し屋が立ち去ったことを信じきれないでいた。吐息か。 いや、そうじゃあるまい。 をついて、庄兵衛は畳のうえにへたりこんだ。 宇之は頭のなかでかぶりを振った。あの晩、闇のなかにみなぎつ ほうじよういけ ていた尾行者の殺気を、宇之はいまもまざまざと感じることができ 宇之は放生池の縁に立っていた。 池の面は暗い闇の底に沈んで、時おり錆びたような光を放つ以外た。 は、なにひとつ見えなかった。蓮や葭や蒲などの陰で鳴く蛙の声草を踏む音が聞こえてきた。 が、とぎれることなく続いていた。 振り返った宇之の眼を、無地の弓張提灯の明かりが灼いた。 「どけてくれねえか」宇之は落ち着いた声でいった。「ひとの顔を 放生池は鮫河橋の近くにあり、その池畔には同じ名の庵もある。 滝沢みちの死んだ様子を、信濃殿界隈の商家などに説いて歩き、な照らすのはやめねえ」 んの収穫も得られぬまま、鮫河橋にさしかかり、ふと宇之はこの池「そいつはおおきにすまなかったな」含み笑いとともに提灯が脇に に寄ってみようかと思いついたのだった。池畔の涼しい風に吹かれ寄り、小柄な中年男の姿がポンヤリと浮かび上がった。 小作りながら、手足はゴッゴッと太く、それでいてどこかに敏捷 れば、なにか考えがまとまるかもしれないと思ったのだが : しりはしより 「分らねえ」宇之はもうさっきから同じ言葉を繰り返していた。 さを感じさせる男だった。めくら縞の単衣を尻端折にして、浅黄の 「まったく、分らねえ」 短い羽織を着ている。 みちの死にはなんの不審もなさそうだった。急な発病で、その日「おらあ武井屋の久六つて者だが」男は懐から十手を取り出した。 のうちに死んでしまったというのも、死因が虎狼痢であってみれ「御用のすじで、ちょっとおめえに訊きてえことがあるんだ」 ・ : 」宇之は返事をしようとしない。 ば、むしろ自然なぐらいだった。死に様が虎狼痢そっくりに見える「 : すまい 毒の存在を、宇之も知らないわけではなかったが、しかしそこまで「まずおめえの名前と住居を聞かせてもらおうか」かまわず久六は いった。「それにどうして、滝沢みちの死に様を尋ねて回るのか、 疑うときりがなかった。 むしろ宇之に分らないのは、どうしてこれほどまでにみちの死がそれも聞かせてもらいてえ」 気にかかるのかということだった。庄兵衛が二人の人間に仕事を頼宇之はやはり黙している。 んだというのであれば、確かに定法のうえからも、宇之がみちの死「どうした」久六の語気が荒くなった。「おれの言葉が聞こえねえ を見過ごしにすることはできなかったろう。しかし今日の庄兵衛ののか」 様子からすると、少なくとも仕事を依頼されたのは宇之独りだつ「親分、池へとびこみねえトふいに、宇之がいった。 よしかま 5 2
「もともとは黒衣の宰相、崇伝ぼうずの手足となって働いていた間 租税検地のことは勿論、たとえば、秀吉のそれまでの動き、性格、 6 素姓などを話してきかせると、いずれは秀吉が関白になり、朝鮮に諜どもだわさ。それが後になって、その玉の御用をつとめるように 6 まで手を伸ばすようになるとまで予言する。この予言がまたことごなった。・ : : ・御庭番は『御駕籠台』に出て、代々将軍から直接に御 とく適中する。 ・ : あの金山奉行の大久保長安などもな。己だけの用を伝えられる。黒衣衆は東照公から直接に御用を伝えられる。 とくせん 才覚で石見や佐渡の金山を掘りあてたのではない。総て、玉の話を : ・徳川家はな。この二つの輪が見えないところでまわり続けていた きいた権現様の助言があったればこそのことよ : : : 」 からこそ、これまでどうにか倒れねえでやってこられたのさー ・ : 」宇之はあまりに奇怪な話に呆然と聞きいっている。 「天海、柳生もものかは、この玉に勝る家来がこの世にあるもの戦国の世の武士もかくやと思えるほどの、黒衣衆のあの妻愴な気 か。東照公は、その玉をなめんばかりに可愛がったというそ。 魄がなにに拠るものであるのか、宇之はいまようやく理解できたよ するとな。なんとその玉に東照公がのりうつったということだわ。 うな気がした。徳川家の禄をはむ武士にとって、神君の上意で動い とり違えるんじゃねえそ。神君に玉がとりついたんじゃねえ。そのているという自負ほど心強いものはないだろう。彼らからみれば、 逆なんだぜ。 : : : 神君はな、手の舞い足の踏むところを知らぬえら代々将軍の命令で動いている御庭番など、所詮は二流、問題とする い喜びようだったというわ。これで徳川の家も未来永劫安泰だとに足りぬ存在に違いなかった。 な。なんせ自分が二人できたのだからな。たとえこの身が減びて「二百と五十年たぜ」と、宗春がいう。「将軍家といったって、大 も、家康は残るわーーーそう豪語したというこった : : : 」 公方もいりゃあ、なえまらさまもいらあ。いくら土井大炊頭だの智 黒衣衆はいまも東照大権現さまのために働いているというこ慧伊豆だのがいたとしてもだ。それだけで三葉葵の天下が二百五十 とだ。 : : : 井伊直弼を守るよう、東照公さまが直接に黒衣衆にお命年も続いたはずがねえじゃねえか : : : 神君の眼が光っていたからこ じになったというのだ。 そ、なんとかこうして続いてきたんだわさ。つまりは、徳川家がそ 斎藤織部のその言葉がいま宇之の頭に繰り返し反響している。あの玉を後生大事に抱えていたのがよかっただけのことよ : : : 」 : つまりは、盗みだした将軍家の宝というのは、その玉のこと のとき宇之は、なにをたわけたことを、と織部の言葉を一笑にふし「・ : なんだな」宇之が口をはさんだ。 たのだが : : : 河内山宗春の話を鵜呑にして、東照公の個性をひきう っした奇怪な玉が実在するのを信じるとしたらーー、、黒衣衆に上意を「そうよー宗春はニャリと笑った。「江戸城にあるお宝を盗むなん くだす東照大権現さまとは、その玉のことではないのだろうか。 ざ、おれだからできた芸当だぜ。なんせ江戸城の御同朋の何人かに はおれの息がかかっている。知ってるだろうが、御同朋といえば、 「黒衣衆のことを聞かせてもらおうか」宇之の声はしわがれてい幕閣から大名や役人にくだされる公文、その逆の幕閣への上申状な んかが、・せんぶその手を通ることになっている役職だ。いうなら る。 じか
「な・せちがうかって ? そんなこ それを見て、・ほくは思わすふき とは簡単さ。出来がちがうんだ、構造、ホルモン、妊娠、いろいろ だした。こいつ、テレビ・スターにでもなりやよかったのに。コメ あるさ」 ディアンばかりか立派な役者だ。いやいやそれどころか、最高の讃 するとハリイはとがめるような目つきで・ほくを見た。 「そんなものは女の口実たよ。そんなこというならそのちがいをも辞を浴びせねばなるまい、なにしろ人生最大の隠れたる悲劇ーーー夫 っと活用してもらいたいもんだ。結婚とは女にとって最良の職業でと名のつく男なら必ず知っている悲劇ーーーをしゃれのめそうという んだから。それを口にするだけの勇気のある男がいないという理由 ある。女にとって男は欲望をみたすための必要悪だ」 で、彼のこの行為はいちだんと光る。英雄だといっても言いすぎで 「くもの夫婦みたいなもんかね」 はあるまい。 「まあね。だけど正確にはちがうな。くもは雌雄はあるが同種だか ハリイはほっとしたように、台所の方をうか ほくが笑いだすと、 ら」 がうのをやめた。そのときルシルが台所のドアから首をつきだして すぐにはその言葉の意味がのみこめなかった。 こう言った。「またハリイが馬鹿話してるんでしょ ? すんだらお 「すると男と女は同種しゃないっていうのかい ? 」しばらくして・ほ っしやってね、お茶をお持ちしますわよ」 くは声をはりあげた。 なんてかわいらしい口のきき方をするんだろう。プロンドで小柄 するとハリイは、「しつ ! 」と口に指をあてて、台所の方をうか ハリイは幸せものだ、とぼくは で美人で、まったくすばらしい 4 4
とばした。地にたたきつけられた男たちの躯は、それそれに蒼白い も、社のなかに足を踏み入れさせはしないわ」 炎に包まれている。骨の髓までとかしてしまいそうな凄じい火力だ想像を絶する威力を持っ怪光線に、一度はひるんだ非人たちだっ った。脂を焦がすような厭な臭いが、周囲に満ち満ちる。 たが、隼人のこの言葉に怒りをかきたてられて、社に向かって一斉 さしもの命知らすたちも悲鳴をあげ、こけつまろびっしながら、 に突進していった。 地に顔を伏している。宗春とてその例外ではなかったが、さすがに 、刀 誰よりもはやくそのを起こして、 くたばれ、くらえつ、と叫んだ彼らの声は、そのまま断末魔の絶 「ええい、ひるむな」狂ったように吼えたけた。 叫へとつながった。隼人の剣にどこをどう斬られたのか、血潮をふ やしろきざはし きざはし が、その時すでに、隼人は社の階をのぼりつめ、三人の虜囚たきちらしながら、三人の男たちがドドッと階を転げ落ちた。 ちをその内部につきとばしていた。・、 / タリと格子を後ろ手に閉める大小を持っ両手を、あたかも蟹のように開いて、 と 、いかにも嬉しげに隼人はこううそぶいた。 「かかってこい」隼人がいった。 「今日はな、おそれ多くも権現さま自ら、きさまたちをけちらすの 空に重くたちこめていた暗雲が、ポツリポツリとようやく大粒の に手をかしてくださるそうだ。有難く地獄へゆけい ・ : とはいう雨を降らし始めていた。 ものの、おれも黒衣ノ者ーー・きさまらのような虫けら、一匹たりと ・ : 雨脚がさらに激しさを増したようだ。 3 5 7