こ 0 を張ったような目が惚れ惚れとするほど艶つぼい ひと 「どうして、そんなに私を邪慳にするのさ」おりはは恨みがましく「おりはさんはいい女だぜ」一変して真面目な口調で、谷斎がいっ 2 いった。「私がなにか宇之さんに悪いことでもしたかい」 た。「大事にしてやるこったな」 宇之は返事をしようとはしない。黙って、鏨を持つ手を動かして「たからよ」茶を海れながら、宇之がいった。「だから、おれみて えな男と関わり合いにならねえ方がいいのさ」 谷斎は胸をつかれたように黙った。 おりはがソッとため息をついた時、 むろん、谷斎も宇之をただの錺職人だとは考えていない。それな 「よっ、ご両人、お暑いことでーーー」 りの過去とわけのある男だろうとふんでいたし、現在もなにか他人 素頓狂な声をあげて、一人の男が入ってきた。年齢は宇之と同い かんとんじま にはいえない裏稼業を持っているかもしれない、と睨んでいた。 年ぐらい、舶来広東縞の下着を着て、この暑さに緋縮緬の羽織をは が、そうと睨んではいても、宇之が色濃く滲ませている影に、どう おっているという、見るからに幇間じみた男だった。 かするとフッと胸をつかれることがあるのだった。 「いくらたい 「厭だね。谷斎さん」おりはが照れたように笑った。 「今日はどうした風の吹き回しだ ? 」宇之がきいた。「客に振られ こだからといって、私たちにまで世辞を使うことはないだろうに」 たばさ 「世辞だなんて減相もない」谷斎と呼ばれた男は手挿んでいた扇子たのか」 なか ふたり 「だったらいいんだが、吉原は虎狼痢で火の消えたようよ。そうか を引き抜くと、ばっと顔の前に拡げた。「ほんにお両人が並ぶと、 といって、新宿や品川じゃ薩摩芋が出張ってきて、とてもたいこを 役者絵見たようーー」 赤羽織の谷斎ーーもともとは伊勢屋という屋号を持っ商家の旦那呼ぶような粋な客はいねえやな」 「じゃあ、どうしてこの暑いさなかを歩き回っているんだ ? 」 で、角彫りの名人として江戸に聞こえの高い男だが、本人は商売に も名声にもなんの未練もなく、緋縮緬の羽織を常用して、花街や角「弔いの帰りよ」 ほとけ カ場に出入りする名物幇間として毎日を送っていた。銀細工に角彫「弔いか。珍しくもねえ。 : : : 死人はおれの知っている人か」 「いや、知らねえだろうよ。婆さんだからな」 りとものは違っても、同じ細工職人であることから宇之と知り合 つぎあ 」宇之の眼が細くなった。 以来今日まで交を続けてきたのだ 0 た。・ : : ・人間嫌いである「婆さん ? ・ : : ・ はすの宇之が、谷斎とだけはっきあっているのも、多分、人生をお「ああ、四谷信濃殿脇の滝沢みちって婆さんさ。虎狼痢で、それこ きのう ・ : 他人の話じゃ、昨日まで りたようなその生き方に、共感するものを覚えたからであったろそコロリといっちまったってことだ。・ ビンビンとまではいかなくても、まだ二年や三年は生きてそうに見 えたってことだが : : : 」 谷斎のじゃらじゃらした饒舌に閉ロしたおりはが、逃げるように 「そうかい。そいつは気の毒な : : : 」 して家を出ていった後、二人の細工師は仕事台を挾んで向かい合っ つのばり
うな」 宇之は一言で撥ねのけると、そのまま庭を出ていった。 「勿論たとも」心外そうな声で、織部がいった。「おれが、女に危焦げつくような皹しぐれが高く、低く、庭を覆って聞こえてい 害を加えるような男に見えるか」 「見えないから、きさまという男が嫌いなのだ」 「おう、おりはさんはどうなったい ? 」 さすがに織部の顔に険が走った。 戸を開けるなり、谷斎の声がとんできた。 「うのさん」宇之は躯の向きを変えた。「あたしは、あなたの兄さ「なんだ。まだ居たのか」宇之はそう受けると、戸を後ろ手に閉め んを信じてはいない。信じられないのだ。・ : だが、あなたを信した・ ることはできる。そこで、あなたに頼みたいのだが、あの女に誰に 「冗談じゃねえ。帰れるわけがねえじゃねえか : 谷斎は恨みが も指一本ふれさせないようにしてもらいたい」 ましい声でいった。「おれがだらしがねえばっかりに、おりはさん 「あの女は哲太郎さまのご妻女ですか」それまでみごとなほど抑制をさらわれちまったんだぜ」 のきいていたうのの声が、ここにいたってふと乱れた。 もうかれこれ七つ半になろうというのに、暑さは少しも和らぐ気 「なんの関わりもない女だ。妻でもなければ、情婦でもない。・ 配がなかった。軒につるされた風鈴もコソとも鳴ろうとしない。頭 だからこそ、なおさらあたしのために不幸なめにはあわせたくない に包帯をまいた谷斎は、肌ぬぎになって、金時みたように真っ赤に のだ」 うだっている。 「私を信じるとおっしゃいましたね」 「おめえのせいじゃねえさ」宇之は勝手から徳利と茶わんをふたっ 「いった・ : ・ : 」 持ってくると、谷斎の前にあぐらをかいた。「どうだ ? 肴は味噌 「私が御庭番の家の娘でもですか」 ぐらいしかねえが、暑気ばらいに一杯やらねえか」 「同じことだ。あたしは、あなたを子供の頃から知っている」 「よしなよ」谷斎の顔がますます赤くなった。「不人情なのも、た 「分りました」うのはうなずいた。「私の生命にかえても、あの女いがいにしときなよ。おりはさんがさらわれたというのに、のんだ の身はお守りします」 くれてる場合じゃねえだろう。 : : : 番所には報せたのかえ」 「お願いする」宇之は軽く一礼すると、クルリと廊下に背を向け「いや」平気な表情で、宇之は首を振った。「二 : : おめえが行きた こ 0 くないというんなら、おれが行ってきてやるぜ」 「待て、哲太郎、仕事の手筈を , ーー」と織部が慌てて呼び止めよう肚に据えかねたというように、谷斎が腰を浮かそうとするのを、 とするのを、 「坐ってくんねえ」宇之がとめた。 「おってこちらから連絡する」 「だけどよ」 かた いのち かた かお 8
先触れの声がひときわ高く、朝の清冽な空気のなかに響いた。 「いいから、坐んなよ」 井伊邸より外桜田の門までは三、四丁、右手には大名屋敷の長屋 ・ : 」谷斎は渋々腰を落ち着けた。 卩カ連なり、左手にはお濠が続いている。ーー井伊直弼を殺めるに 「おめえに頼みたいことがあるんだ」酒を飲みながら、宇之がいつ。、 こ 0 は、この行列を襲うのが、最も賢明な方法であるようだった。 供侍はいずれもたいしたことはない。・ 「頼み ? 」 「ああ : : : おりはが安心して、身を隠せるような所を探してもらい お濠端の草ゃぶに身を潜めながら、宇之はそう思った。供方は六 たいんだ」 十余人、が、騎馬従士にも、供廻り従士にも、問題とするにたるほ てだれ 「なんだ ? 」谷斎は唖然とした。「それじゃ、おりはさんは帰ってどの手練はいないようだった。ただひとり、二刀流を良くすると評 判のたかい河西忠左衛門という供目付だけは、さすがに精彩を放っ くるのか」 びとみ 「ああ : ・ : こ宇之の眸子が暗くなった。「ここ一両日中にな。だていたが、所詮は宇之の相手ではなさそうだった。 ・ : できるだけ早「おれには見えねえ」行列を見送りながら、宇之が呻いた。「本当 が、またさらわれでもしたら、ことだからな。・ に、黒衣組が守っているのだろうか。おれには見えねえが : : : 」 、安全な隠れ家に移してやりたいのさ」 八文字に開かれていた井伊邸の赤門が、軋むような音をたてて閉 「宇之さん : ・ : ・」なにか咽喉にからんだような声で、谷斎がいっ ざされた。 た。「おめえ本当のところ何物なんだえ ? 」 「頼まれてくれるかい ? 」宇之は谷斎の言葉が聞こえなかったよう着物の裾をはたきながら、宇之は草むらから身を起こした。 宇之はこれで三日、城中から辰の刻 ( 前八時 ) をつげる天鼓が聞 な表情をしている。 「勿論だとも」谷斎は慌てて立ち上がった。「そんなことなら、おこえてくると、お濠端の茂みにとびこみ、井伊公の行列をうかがっ ていた。黒衣衆の警護がどれほど強固なものであるか、自分の目で 安い御用だぜ・ : : こ 谷斎が風をくらったように飛び出していった後、宇之はしばらく見定める必要があったからである。 だが、分らなかった。朝にタ、六回にわたって井伊の行列を目の 手酌で飲んでいたが、やがてゴロリと横になった。五つ数えるほど あたりにしたのだが、幾度見てもそこには供侍の姿が見えるだけ の間をおいて、宇之の静かな寝息が聞こえてきた。 で、黒衣衆のにおいさえ感じられなかったのだ。 井伊大老は我々三人が常にお守りしている。 井伊家の赤備えといえば、江戸で知らない者はいない。武具も馬 具も総て赤く塗った行列が、いましも井伊邸の赤門を出ていこうと笈川隼人と名のったあの男の言葉を、宇之は一度は自分を牽制す るための偽りではなかったのかと考えた。そして、甘いそ宇之、と 9 している。 黒衣衆の忍びの術は、御庭番のそれの比ではないは 自嘲した。 「下にイー 下にイー
うなことをいっていたが、その実、ずいぶん前から宇之に眼をつけ 「おりはさんが : : : 」谷斎は泣くような声でいった。 ていたに違いなかった。そうでなければ、御庭番が宇之の住居を知 「おりはがどうした ? 」 っているはずがなかった。 「おりはさんがさらわれた : : : 」 よほどひどく頭を殴られたらしく、谷斎はそれだけをいうと、再宇之は焼酎で谷斎の頭をぬぐってやり、包帯を巻くと、蒲団を出 び気を失いそうになった。宇之は容赦なく、谷斎の頬を平手で叩い して寝かせてやった。そして、行灯の火を消して、外に出た。その こ 0 足で、比丘尼屋敷に向かうつもりだったのだが : 「詳しく話せ」 長屋の木戸も出ないうちに、提灯を持った三つの人影が、宇之の 吐息をつくと、谷斎は眠を開けた。 前に立ちふさがったのである。その三人の男は黒い木綿ものを着て いて、これも黒のたつつけをはいていた。どうやら武士のようだっ ・ : そした 「おりはさんと二人でおめえの帰りを待っていたんだ。・ たが、しかし武士といいきってしまうには、なにか躊躇らわせるよ ら、なんだかわけの分らねえ奴らが踏み込んできて、あっという間 におりはさんを引っさらっていっちまった。なんとか止めようと思うなものを三人とも備えていた。 ったんだが : : : 面目ねえ」 「功刀哲太郎殿ですね」真ん中に立っている若い男がいった。 「かどわかしはどんな奴らだった ? 」 まだ子供のような貌をした、いかにも青春の息吹きを感じさせる リャンコ 「 : : : 分らねえ。みたところは武士のようだったが : : : そういえ青年だった。その右側には、油を塗ったように黒光りした肌の、僧 冫くぶん小柄な、実直そうな ば、おかしなこといってたぜ」 頭の大男が並んでいる。もう一人よ、、 「おかしなこと ? 」 中年男であった。 「ああ : : : 哲太郎によろしく伝えろって : : : 哲太郎って誰のことだ「人違いだろう」宇之は眼を細めた。「おれは宇之って者だ」 おれの名を知っている奴が、御庭番以外にもいる。 その三人が御庭番でないことは確かだった。見覚えがなかった 宇之は全身の血が逆流する想いがした。宇之を哲太郎という名でし、なにより御庭番と違う体臭をはっきりと感じることができた。 御庭番だったら、 「いや、名前はどうでもいいのです」若い男がいった。「要する 呼ぶのは、御庭番の連中しかいないはずだった。 , 女を拉致したとしてもなんの不思議もなかった。彼らには信義も、 に、あなたであればいいのですから : : : 」 友愛もなく、あるのは目的のためには手段を選ばぬ非情さだけなの「用なら後にしてもらおうか。いま急いでいるんだが : : : 」 だから。 「比丘尼屋敷に行かれるのですか」 ・ : 」宇之は今度こそ唖然とした。 ーー織部、謀ったな。・ ごろっき 宇之は胸のなかで咆哮していた。昨夜、始めて宇之を見かけたよ「いや、公儀庭番ともあろうものが、破落戸のような真似をするん 5 3
「なるほどな」宇之はうなずいた。「岡っ引が踉けているのは、お れも気がついていた。その岡っ引を、また誰かが踉けていることも宇之は伝馬町の長屋に帰る前に、たまたま眼についた小料理屋に 3 知っていた。 ・ : その誰かがまさか御庭番だとは思わなかったが上がりこんだ。仮眠をとりたかったこともあるし、自分の家にまっ な」 すぐ戻ることは、なにか薄汚れた侍の世界を持ち帰るようで気が進 そうはいってみたものの、宇之は必ずしも織部の言葉を信用したまなかった。 わけではなかった。織部は信用するに価しない男だった。が、仮に砂ずりの壁に大きなひびが入って、納戸が割れたような二階の部 織部のいうように、黒衣衆のひとりがみちを殺めたのだとしたら、屋で、宇之は昼の間、寝ころんで過ごした。 なぜなんの罪もない老女が殺められねばならなかったのか、という紀州慶福と一橋慶喜、御庭番と黒衣衆 : ・ : ・どちらを向いても、侍 疑問は確かに残る。 それに、どうしてみちは自ら死にたがっての世界には汚い権力争いが渦巻いている。宇之は天井を見ながらそ いたのか、という疑問も : う思った。掃部頭を消す仕事も、殺し屋として頼まれたのであれば 「話は済んだな」織部の顔には驕慢な表情が浮かんでいる。うのと引き受けたかもしれねえな。そうも思って、苦笑いした。 会わせたことで、宇之が頼みを引き受けるものと決めてかかってい 宇之が赤坂裏伝馬町の長屋に帰ってきた時には四つを過ぎてい るらしかった。「どうだ ? 引き受けてくれるだろうな」 た。軒を連ねている長屋は、いずれの家も火を消して暗かったが、 「いや」宇之は首を振った。「断わろう」 宇之の家だけは、障子に薄く火がうつっていた。 「なんだと : : ・・」織部の懼が蒼白にな 0 た。 宇之は軽く舌打ちした。留守中に家に上がりこんでいるとした 「ただし、誰にも他言はしない」宇之はゆらりと立ち上がった。 ら、どうせおりはか谷斎だろうが、今夜の宇之は誰にも会いたくな い心境たった。 「そういうことで、勘弁してもらおうか」 「帰るのか」 宇之は戸を開けた。 「帰らせてもらう」 行灯の脇に、谷斎が寝ているのが見えた。 「待て、いまうのが茶を運んでくる」 「酔っているのか」 「よろしくいっておいてくれ」 宇之がそう声をかけたのに答えるように、谷斎が「うう」と呻い 障子を開けると、宇之は縁先から庭におりた。 た。酔っているのでも、寝惚けているのでもない、正真正銘の苦痛 「しばらく待て」宇之の背中に、織部は懸命になって呼びかけた。 の呻きだった。 「おれの話を聞け、哲太郎ーー・」 「どうしたんだ」宇之は一足跳びに部屋に上がると、谷斎を抱き起 「おれの名は、宇之だ」 こした。谷斎は首を振りながら、薄く眼を開けた。額に薄く血が滲 そういい捨てると、宇之は足早に庭を立ち去っていった。 んでいる。 なんど
ふいに若い女の声がかかった。土蔵の陰から、うのが走りだして「来てたのかとは情けない」谷斎は扇子を拡げて泣く真似をして見 きて、兄をかばうようにして立ちふさがった。 せた。「あの火つけは、なにをかくそう、あっしの仕業でしてね」 「どうそ、このままお帰りくたさい」うのの顔も蒼白になってい 「やってくれ」宇之がいった。 る。「兄を救けてやってください」 どちらへ、と駕籠かきがきくのに、 「粋なところさ。新宿の伊豆橋」 「どくんだ。うのさん」宇之の声は呻いているようだった。 谷斎がみえをきった。 「いえ、どきません」うのはかぶりを振った。 うの : : : とつぶやいて、おりはは目を瞠っている。 「私はお約束を果たしました。その女には誰にも指一本ふれさせま 七 せんでした。 ・ : どうそ私に免じて、兄を見逃がしてやってくださ おはぐろどぶ裏の非人村ーーーそれもかなり奥まったところに、ポ 「 : : : やむをえんか」宇之の肩からカがぬけた。「織部、妹御に感ツンと建てられている社は、 いま十重二十重にともされている松 謝するのだな。うのさんがいなかったら、今頃きさまの首は飛んで明の明かりのなかに、赤くゆらめき映えている。少なくとも二十 いた」 人、いや多分それ以上の非人たちが、てんでに鉈や斧、鋤や鍬まで 織部はがくがくとうなずいている。 も持ちだして、社の周囲にビッシリとつめているのだ。 宇之はおりはの手をとって歩きたした。おりはは引きずられるよ彼らが社を警護しているのは間違いないようだった。が、古びて うになりながら、怖い表情でうのを睨みつけている。 ろくに手入れもされてない社を、どうして、なにから守ろうとして のち いるのか。社の格子は、盲いたような闇をくぎっているだけで、そ 「そうだ : : : 」宇之が織部を振り返った。「姆命を救けてやる替り に、ひとっ教えてもらいたいことがある。例の岡っ引の件だが、居の奥に隠されたものを見せようとはしなかった。 所は知れたかな」 奇怪なことにいま社の奥から何者かの声が流れていた。空気の層 「 : : : 武井屋の久六なら、麹町平河町で名前を売っている」織部がを震わせる自然の声ではない。なにか人間の英知を越えた術によっ まわり 気を呑まれたように答えた。 て、その声は周囲につめている非人たちの耳には聞こえす、遠くの 比丘尼屋敷の外、海鼠塀が長々とつづいている辺りで、宇之たち樹上から社をうかがっている梟のような三つの影に伝わっていた。 三人の男女を我が前に連れ来れ。 が来るのを、谷斎が駕籠と一緒に待っていた。 押されるようにして駕籠にのりこみながら、おりはが嬉しそうに その超自然的な声はそれのみを繰り返している。 っこ 0 「 : : : 三人の男女 ? 東照公さまはどういう御心なのかな」庄田源 5 「谷斎さんもきておくれだったのかえ」 内がいった。 なまこ・ヘい ひと やしろ
: ふたりの夫が減んでゆくのを、この眠でしかと」 が、それから十年後、すなわち慶応三年 ( 一八六七年 ) に、三人 えにし 「斬れえ」織部が絶叫した。 の運命は再び奇妙な縁で結ばれることになる。 赤羽織の谷斎ーー本名尾崎惣蔵は、芝神明町の漢法医荒木舜庵の よう 夜が白々と明け始めた頃、名も知れぬ小さな橋の欄干に、ひとり娘庸と結ばれ、慶応三年に一子徳太郎をもうける。徳太郎、長じて の男が背をもたせかけていた。男は満身傷だらけで、その足元には尾崎紅葉を名のる。 血だまりができていた。 男はそこでなにをしているのか。 今西成延ーーー後に、これも代々表坊主をつとめる幸田家に養子に き、慶応三年、猷との間に四子成行をもうける。成行、長じて幸 どうやら欄干の外を、朝陽にかきけされた弱い火を点もして飛んい 田露伴を名のる。 でいる螢を、その眼で追っているようだった。 ちえーー江戸牛込馬場横町の夏目小兵衛直克との間に、慶応三 「 : : : あの権現さま、おかしなことをいいやがったな」男はロのな かでつぶやいた。「十年後には我が意志がこの地に甦ゑか : : : で年、四二歳の高齢をもって五男金之助をもうける。金之助、長じて きることなら、そいつが本当かどうかこの眼で確かめたいものだ夏目漱石を名のる。 明治の文豪、いや、その後の日本文学界の趨勢を定めたといって も過言ではない巨人たちが、三人までこの年慶応三年に生をうけて 男は激しく咳込んだ。血痕が橋げたに紅い花を咲かせた。 「 : : : おりは、おめえには莫迦なめをみさせちまったなあ」男の躯いるのである。これを、記録し物語ることをその本能にしていた辺 はズルズルと欄干をつたって崩れ折れていった。「待ってなよ。あ境惑星記録調査用コンビューターが、彼らの親の遺伝子になんらか の操作を加えた結果であるとするのは、必ずしも考えられないこと の世でわびるからよ : : : 」 ではあるまい 橋のうえを飛んでいた螢がフッと姿を消した。 十年 : : : 十年が過ぎれば、そちたちを介して、我が意志は再 やしろ あの夜、社のなかで玉が告げたように、赤羽織の谷斎、今西成びこの地に甦ることになろう。 延、ちえの三人は、自分の身に起こったことをすっかり忘れてしま ・ : 最後に蛇足をひとつつけ加えるならば、穢多弾左衛門は、配 った。谷斎にいたっては、宇之という友人がいたことさえ、急速に下の非人はいうに及ばず、全国の非人の身分差別撤廃を政府に要求 その意識から薄れていった。また「伊豆橋」の女斬殺の件も、どこしている。「賤民解放令」が政府から布告されたのは、明治四年の ことである。 でどう細工が加えられたのか、痴話喧嘩がこじれた末の事件とかた づけられ、遊女屋にはありがちな話として、これも人々の記憶には 永くとどまりはしなかった。むろんその後、谷斎たち三人が互いに 顔を合わせることは皆無だったのである。 こと 2 8
殺気を、まるで歯牙にもかけない様子で、悠々と荷馬車にくくりつ 三人の虜囚力のない足どりで歩きだす。谷斎、成延、ちえの順 けられてある繩を手に巻き始めた。 で、一本の繩にくくられているのだが、ちえや成延はともかく、向 7 「おりぬか。う充分寝足りたであろう」 こう意気の強い谷斎までもが、魂をぬかれたようにと・ほと・ほとひか 繩にたぐられるように、荷馬車のうえに三つの人影が立ちあがつれているのは、、 しよいよなにか特殊な薬を呑まされているからだと た。いずれの人影も一本の繩でつながれてはいるが、隼人が繩をひしか考えられなかった。 くままに、唯々諾々と荷馬車からおり始めたのは、必ずしも緊縛さ「うつけがっ」きりりと形相を歪ませて、宗春が叫んだ。「おい、 れているせいばかりからではないようだった。 野郎ども、かまわねえから社に火をかけろい」 「おれの声が耳に入らぬか」宗春は両の眼をかっと見開いた。「脅「へい」 しではないそ。大人しく退かねば、社に火をかけるそ」 なかでも気のはやい奴が二、三人、ダダッと社の階に足をかけ 「好きにするがよかろう」 「なにつ」 「ぎやーっ」 「来ぬか」隼人は繩尻をぐいとひいて、社に向かってゆっくりと歩 ふいに大気の爆ぜるような音が聞こえて、社の格子から緑の光線 きだした。 が放たれ、いましもその内部にとびこもうとしていた男たちをはね 4 きざはし
「分らぬ」正高存平が呻いた。「分らぬが、おおせには従わねばな衛の次女ひさが経営にあたっている。素人が営んでいるだけあっ て、「伊豆橋」にはどことなくのんびりした気分が流れ、遊女たち 5 るまい」 も商売を忘れがちだという評判がたっていた。 「どうやら人数さえ揃えれば、それが誰であろうとかまわぬらしい その「伊豆橋」の奥座敷で、三人の女が茶菓子をつまみながら、 どうせなら、こんどの件で我らが秘密に深入りしすぎている奴ばら かしましく喋り合っている。 を引き据えてやろう : : : ー笈川隼人の声である。 ひとりはこの店の主人ひさ、もうひとりはその妹でちえ : : : 彼女 「なるほど、一石二鳥か : : : どうせ始末せねばならぬ奴らではある な」と存平。 は牛込馬場下横町の門前名主のもとに嫁しているが、時々はこうし て姉の家に遊びにくるのである。 そして三人めは深川芸者のお 「まずはあの宇之という男 : : : 」と源内がいいかけるのを、 「いや、あれは駄目だ」隼人が遮った。「あの男は生かしてはおけりは、谷斎の仲立ちで、一時、この「伊豆橋」に身を寄せているの ・ : あやつ以外に誰か三人ーーまであった。 ぬ。あまりに剣呑すぎるからな。・ どうやら、おりはが話の肴にされているらしい。店に一、二度姿 ずは幇間の赤羽織の谷斎 : : : 」 を現わした宇之が、おりはといい仲たというので、ひさたちにいい 「宇之の情婦のおりは : : : 」 ように揶揄われているのである。 「もうひとりは、坊主の家の今西成延というところか : : : 」 空には鎌のような三日月が、なにか凶事を告げるように赤い光を「そんなんじゃないのよ」おりはは顔を真っ赤にして手を振ってい ひと る。「いい男だなんてとんでもない。私が岡惚れしてるだけよ」 放っていた。 「どうだか」ひさはニャニヤ笑いながら茶をすすっている。 吉原は天下御免の廓とよばれていた。それ以外の遊廓は岡場所と「おりはさんは器量がいいからね」妹のちえがいう。「おりはさん せんじゅ に惚れられて、厭だなんていう男いるはずがないわ」 よばれ、なかでも名高いのが四宿、すなわち品川、板橋、千住 ひさとちえ、ふたりともほどよく肥った、人の好さそうな三十女 そして、ここ内藤新宿であった。 「品川女郎衆は十匁」と童子の尻取り文句によくうたわれているである。 が、それはこの新宿でも同じことで、女郎の揚代が十匁以上になる「それが駄目なのよ」おりはが身をよじる。「あの男ときたら、て んで暖簾に腕押しなんだから」 ことはまずないといえた。初会、裏、馴染となにかと物入りの多い 吉原に較べれば、かなり安直な遊び場で、連日それなりの賑わいを「宇之さんはいい男だからね」ちえに目配せしながら、ひさが揶揄 う。「どこかで浮気してるんじゃないかしら」 みせている。 ひと その内藤新宿に「伊豆橋」という屋号をもっ遊女屋があった。四「あら、そんな女いないわよ」おりはが力をいれて首を振った。 : いないと思うんだけど : いないわよ : 「いてたまるもんですか : 谷大番町の質商庄兵衛という者が抵当流れに譲りうけ、現在は庄兵 わらペ ひと
表情が浮かんだ。 かどわかされた記億がおりはの頭にはいまも生々しく残ってい 「それじゃ話が合わねえぜ。じゃあどうしておれが忍びこんでくるる。その恐ろしくてうとましい記憶が、おりはになんの思慮もなく のを知って、罠をはっていられたんだ ? 」 悲鳴をあげさせようとした。 「投げ文があったのよ。これこれこういう奴が忍びこもうとしてい 次の瞬間、おりはは肩から袈裟懸に斬られていた。悲鳴をあげる ると、な・ : : ・」 こともかなわず、おりはは血飛沫をあげて舞った : ー・ー瞬時にして たちきられたその意識のなかに、宇之の横顔が白く漂っていた。 どぶろくをいれた椀が、宇之の手からその膝のうえにポトリと落 もの音に気がついて、悲鳴をあげようとしたちえの腹に、正高存 ちた。「しまった」とつぶやいた宇之の声には、断腸の響きが含ま れている。 平の足が蹴りこまれた。あまりの苦痛に、ちえは嶇を折ってのたう ち、咽喉をぜいぜいと鳴らしている。 早暁の陽光が障子に白々とあたっていた。 「斬ったのか」 「伊豆橋」の奥座敷 , ーーおりははこの家の女主人の妹ちえと枕を並存平の背後から殺したような声がかかった。気絶した谷斎を肩に べて寝いっていた。 抱いて、庄田源内がうっそりと立っていた。 蚊やりの煙がたちの・ほっている。 「うむ : : : 声をたてようとしたのでな」 フッとおりはは眼を覚ました。夏の夜の常で、寝苦しさにもんも「まずいではないか。今西成延に、この幇間 : : : もうひとりいなけ んとして、ようやく眠りにはいったばかりというのに、こうして夜れば、権現さまの欲しがっておられただけの数が揃わぬそ」 「なに、誰であろうと数さえ揃えばそれでよいのだ。不憫だが、も 半に眼が開いてしまうというのが、なにか口惜しくもあり、いぶか しくもあった。 うひとりの女を連れていこう。それに : : : 」存平の唇に凄いような 笑いが浮かんだ。「おりはという女には死んでもらった方が、あの どうしたのかしら。 おりはは呆んやりと天井を見つめた。とーー蚊やりの煙が横にた宇之とかいう男とやりあうのになにかと便利たわ」 谷斎とちえをかどわかし、魔風のように彼らが去った後、座敷の なびいているのが眼の隅に入った。 壁には血のあとも生々しくこう書かれてあった。 襖でも開いているのか、とおりはは上半身を起こした。それがい けなかった。 ( 明日辰の刻、黒衣ノ者おはぐろどぶ裏に参上っかまつるーーー ) いましも座敷に足を踏みいれようとしていた円頂の大男と、まと もに視線を合わせてしまったのである・ 九 9- 6