ば、とギンナルは思った。岩登りになれば、かれは悲鳴をあげて立った。グングニールの槍は放さない。 「一献酌み交しながら話をしょ ちつくすハリイデールの横を、これ見よがしにひょいひょいと登っ「酒がある」ギンナルが言った。 ていくことができる。これほどの快感が、またとあろうか。それゆう。でないと、ここでは凍えてしまうそ」 ギンナルはかがみこんで足元に置かれた瓶のうちから小ぶりのひ えにこそ、ギンナルは砦にとどまらず、山の隠れ家に行くことをあ とつを把り、テープルの上に置いた。テープルの上には小さな鉢 れほど主張したのである。 が、いくつか重ねてある。 しかし、ギンナルのその目論見は、あえなくついえ去った。 ( リイデールは弱音を吐くどころか、槍を手にしたまま、ギンナ蝋で固められていた封を切り、瓶の中の液体をふたつの鉢に注い ケフィア だ。饐えた匂いを放つ、白い酒だ。山羊の乳からっくられた乳酒で ルよりも早く岩場を登りきったのだ。ギンナルはあらためてハリイ デールに感服した。悔しさはなかった。世の中にはあらゆる面で桁ある。 違いの人物がいゑそういう人物と張り合ってはいけない。かれは「近づきのしるしにどうだ ? 乾杯してくれないか ? 」 ギンナルがいた。 畏怖すべき相手であって、争う相手ではないのだ。そして、ハリイ しぎたり 「お前の風習にならおう」 デールこそ、まさにその人物であった。 予言が本当になる。ーーー岩場を渡りながら、ギンナルはそう確信ふたりは腕を組み合わせ、そのまま鉢の中の酒を一息に乾した。 「ふう : : : 」すつばさに顔をしかめながら、ギンナルは笑った。 した。 「エギールの館で呑む酒も、これほどに美味ではないだろうて」 隠れ家に着いた。 「そうかな・ : : こ 丸太を無造作に組んだだけの、ひどいあばら家だった。すぐ脇に ハリイデールは、ニコリともしなかった。 小さな川が流れている。グルスノルンの大原野の中央を滔々と横切 「さて : : : 」二杯目を鉢に注ぎ、ギンナルはあらためて言った。 る大河、ベスクドーミャの源流がこれだ。 「えらく荒れてしまったが、まさかつぶれるようなことはないだろ「何から話したもんかな : : : 」 ・、ハリイデールは一一 = ロった。 う」あいまいな笑いを浮かべて、ギンナルが言った。「狭いところ「美獣のことからだ : : : 」すかさす ぜ、その名を知っている ? 」 ・こ・、、 - まいってくれ」 小屋の中は、思ったよりも広かった。窓はなく、ギンナルが点け「知っていては、おかいしことなのか ? 」 リイデールはうなずいた。「トビアンの村の長に、代 「そうだ」ハ た灯心の明りだけが、唯一の光源だった。 うた 積み上げたワラ、何枚かのポロ布、粗末な木のテ 1 ル、べン代ロ伝されてき予言の詩に、その名は封じこまれている」 「なるほど : : : 」 チ、桶、瓶などが・ほんやりと見えた。 ギンナルは、それまでテープルの下に入れていた左腕を、 ギンナルが・ヘンチに腰をおろした。ハリイデールも、それになら 「な
緊張に腕を震わせながら、静かに静かに、ギンナルは扉を開けてに首をめぐらせた。 と、それを待っていたかのように、ふわりととなりの部屋の扉が たよりなげな灯明の赤い光の下に、幅の広い大きな寝台が見え開いた。 た。壁に薄い影がうつり、それが激しく揺らいでいる。樫の木の寝あまりの唐突さに、ギンナルは動けない。 台が、ギッギッと耳障りなきしみ音をしきりにたて、その震動がか ふんふんと鼻を鳴らして、裸の男がそこからでてきた。美形のや すかに床に伝わってくる。 さ男である。 ギンナルは、寝台の上で何がおこなわれているのかを知った。 ギンナルと目が合った。 男が一一人、からみあっているのである。 茫然として、傴背の小男を見つめている。ゆるゆると右手があが り、ギンガルを指さした。 陽焼けした逞しい大男と、生っちろいほっそりとした少年のよう な男だ。大男は、傭兵隊長の ' ( ルドスである。本人に会ったことは「あなた、誰 ? 」 ないが、南砦の・ハルドスといえば、誰だって知っている。 乾いた声で、そう説いた。風貌といい仕様といし 、兵士のそれで すると、若僧の方は衛兵だな。 はない。男妾である 。バルドスのお相手はひとりではなかったの ギンナルは合点がいった。衛兵はいたのだ。ただし、・ ( ルドスの だ。この男は、何かの都合でとなりの部屋にいっていたのだろう。 お相手になるためである。・ ( ルドスはみめのいいきやしゃな青年を ギンナルはツキが落ちたのを感じた。 衛兵に選び、欲望が昻ると自分の寝台に引き入れていたのだ。 くるりときびすを返し、ものも言わずに逃げだした。 ーー男色野郎め、何が衛兵た・ : 「待って ! 」 苦々しげに顔を歪め、ギンナルはまた細心の注意を払って扉を閉 男は金切り声をあげた。 めた。強欲で名高いルドスのことである。どうせかき集めたおた 「どうした ? 」 からは自分の手が届くところ、寝台の下あたりにでも隠しこんでい 寝室から・ハルドスの太い声が響いた。 「怪しい奴が : るはずだ。例のズール人が仕えていた前の隊長もそうしていたとい 。せむしの小男です ! 」 。いかにあっちの方に気をやっているとはいえ、これでは手のだ「賊か ? 」 しようがない。 どたどたと音がして、勢いよく扉が開き、腰に布を巻きつけた・ ( しかたねえ、よその部屋をあたってみるか。何か ( ン。 ( 物のルドスが顔をだした。さすがに隊長らしく、目つきが鋭い。顔のほ ひとつぐれえはあるだろう。手ぶらで帰るわけにや、いくもんか。 とんどは濃い髭で埋まっている。 このまんまじゃあ、仲間うちの笑いもんになるばっかりだ。 「廊下にいたんです。あっちへ逃げました。左翼の方です ! 」 口惜しさに顔をどす黒く染め、ギンナルはひょいと廊下の先の方動転しているのか、男はやたらと両手を振り回した。 幻 5
ギンナルの、ハリイデールを呼ぶあわれな声が聞こえてきた。 尾根という尾根に、松明の列が、びっしりと並んでいるのだ。何本 ハリイデールは槍を小脇に、とって返した。 あるかは数えようがない。千や二千では、きかないはずだ。 リイデールはつぶやいた。「オルドー ギンナルは立ち並ぶ石柱の一本によじ登っていた。ヒルドが立つ「砦の兵だけではないな」 ( ていたのとは反対側の本殿の端である。先ほど仕留めた兵士と同じル公みずから、乗り出してきたものとみえる」 ことをしているが違うのはギンナルが攀じ登るのに成功したという「あ、あれを : ことだ。しかし、石柱の表面はよほど磨かれているらしく、ギンナ また、ギンナルが叫んだ。見ると、右側の一点を指差している。 ルはときおりずるずると滑り落ちてくる。下にいる兵士は剣を手 ハリイデールは視線を動かし、目を凝らした。 に、ギンナルが疲れて落下するのを待っているだけだ。このままで「う は助からない。 思わず唸った。 ( リイデールは槍を肩にのせ、兵士を的に、まっすぐ投げた。槍神殿のすぐそばに岩の突出があった。ちょうど小さな岩山といっ は兵士の首を射し貫き、兵士はもんどりうって、床に叩きつけられた感じで、鋭く盛り上がっている。 た。もちろん即死である。 その頂上に、一頭の獣が佇んでいた。四足獣の黒い影である。ど ういった獣かは、空が暗くてはっきりしない。 ハリイデールは石柱のところに行き、ギンナルを見上げた。 「降りてこい」ノ 、リイデールは怒鳴った。「もう敵はひとりもいな とっぜん、電光が減茶苦茶に天を駆けめぐった。右も左も上も下 い」 もない。ただもう数百本の電光が入り乱れて走った。 その光を背景に、 ハリイデールは獣の正体を見た。 だが、ギンナルは降りてこなかった。ハリイデールの声も耳には いらないらしく、石柱の上で本殿の外ーーー山なみの方を見たまま、 灰色とも褐色とも銀色ともっかない一頭の狼。全身の毛を逆立 茫然としている。 て、たてがみを大きく開いた怒りに燃える一頭の狼。その眼は金色 に輝き、そのロは赤くぬめぬめと光っている。 「降りてこい 稲妻はますます荒れ狂い、暗雲を切り裂く。 ハリイデールは、もう一度怒鳴った。 「電光狼・ : : ・」 「火だ : : : 」ギンナルはポツリと言った。「火が俺達を囲んでい ハリイデールの口から、かすれた言葉が知らずに漏れた。 る」 いつの間にか、ヒルドの姿が・こにもなかった。 ( 以下次号 ) 「なんだと ? 」 ハリイデールは首をめぐらした。 筆者註作中に登場するルーン文字に関しましては、谷口幸男著 5 頬がこわばり、眉が跳ね上った。 「ルーネ文字研究説」を参考にし、文章作成にあたって ギンナルのいう火は、松明の火だった。うねうねとつづく山脈の は、高倉ゆき氏の力を得ました。
「たしかに不思議なほど、よく降る」 状態で残っていた。屋根の一部が崩れ、壁も三方にしかないが、一 「こんなことは、初めてだ」ギンナルは首を捻った。「グルスノル時しのぎにはそう不都合でもなかった。 ンは、ほかの地に比べて雨の降ることが多いそうだが、それでもこ崩れた壁の間から、中にはいった。 んなには降りはしない」 ガランとして、何もなかった。石敷きの床には、屋根や壁の隙き 「何かの意思が働いているような雨だ」 間から吹きこんだ雨が、水たまりとなって広がっている。 「なんだって ? 」 「ぜいたくは言えんさ」 「特に意味はない」 ハリイデールは肩をすくめてみせた。「感じた ギンナルは、さっさと水たまりの上に坐りこんだ。もっとも、か ままを言ってみただけだ」 らだ中にぐるぐると毛皮を巻きつけているから、肌がじかに水たま りに浸るわけではない。 二人はロをつぐみ、尾根道を歩くことに専念した。 : 、イデールのた ギンナルが先に水たまりの場所をとったのてノリ しばらく行くと、右前方に雨の壁を透かして、黒い塊のような影めには、あまり濡れていない、。 とちらかといえば乾いた場所が残さ が見えてきた。一見したところ、 , となりのビークにも思えたが、そ・れた。ギンナルのせいいつばいの配慮である。 れにしては形が角ばっていた。 ハリイデールは、黙ってそこに腰をおろした。 「あれが神殿だよ」 しばらくは、無言で過ごした。雨よ、 をいっかな止む気配がない。 ギンナルが顎をしやくった。さすがに目をつぶっていても行ける雷鳴も石の壁をびりびりと震わすほど、激しく鳴り響いている。 いつの間にか、うとうととしはじめた。 と断言しただけのことはある。見事な案内ぶりであった。 神殿は、鞍部の平原状になった土地に建てられていた。さほどの 雨音と雷鳴の中に、かすかな足音が交じった。 それだけで、ハリイデールの目が醒めた。 規模でもなかったが、かといって土地神の社というほどみすぼらし いものでもなかった。いずれアサ神族の誰かの神殿であろうが、ギ人間のものではない、野獣の感覚である。 ンナルは、それはもう土地の者でも知らないことだと言い切った。 瞬時に傍らに置いたグングニールの槍を損み、そのままぐいと横 神殿の前に来て、その古さがよくわかった。石の表面が完全に風に突き出した。 化していたからである。しかし、建物自体は、まだまだ風雨には耐「ひーーー」 えられるたけの頑丈さを保っているようだった。 小さな悲鳴が、その行動に応じた。ハリイデールの眉がびくんと 神殿の奥に進んだ。 跳ね、かれはゆっくりと首を左にめぐらした。 「これはこれは : : : 」 雨から逃れるために、壁と屋根の残っている建物を選んだ。 本殿につづいている小さな休息所とおぼしき建物が、比較的よい 声をあげたのは、ギンナルだった。ギンナルは悲鳴を聞いてはじ 236
シリーズのあらすじ・ にすぎなかった。はるばるこの南砦までやってきたのも、ここの傭 、ハリイデールはあてどなく歩い 氷雪にとざされた無人の荒野を 兵隊長がたんまりと貯めこんでいるというのおたからをあわよく ていた。 / ~ ー 彼こま、過去の記憶の一切が失われている。だが、やがて ば掠め取ってやろうとの魂胆からだった。成功すれば金銀宝石だけ 彼はとある村に行きあたった。それはオーディンの神殿を守るため ではなく、仲間うちでの名声も得ることができる。かってオルドー の村で、しかもへニングリート率いる巨人族の脅威にさらされてい ル公の南砦を狙った盗賊は数あれど、生きて帰った者はひとりとし るのだった。やがて、巨人族の襲撃のさなか、彼はオーディンの神 ていなかったのである。 殿に守られていたグングニールの槍を手に、ヘニングリートを倒し こ。ハリイデールは、彼自身知らなかったのだが、実は悪霊どもと 外壁のふもとで丸まっていた毛皮の塊の間から、細い腕が石の表 闘うべく神々からっかわされた″美獣″だったのだ。 面を這ってするすると上に伸びた。ギンナルの右腕である。まるで しかし、彼にとっての過去はあいかわらず謎のまま残されてい 枯枝のように細い る。そこで彼はヘニングリ 1 トがいまはのきわに残した「ラガナの 右腕は石の表面に、あるかなきかの小さなでつばりを見つけ、そ 氷の女王」という言葉を手掛りに、再び旅に出、さまざまの冒険に 立ち向かっていくのだった。 こで止まった。指の先がそのでつばりをしつかりとむ。すうっと 毛皮の塊が宙に浮いた。ギンナルが城壁を登りはじめたのだ。 毛皮が右腕の上にかぶさり、ギンナルのからだは腕の長さだけ地ので気にはならなかったのだ。しかし、ここはふつうの家ではな 上を離れた。と、同時に今度は左腕が毛皮の間から伸びた。 い。砦である。夜はかえって警戒が厳重になるのだ。最も兵士たち の気が緩むときはいっか ? それは昼下りからタ刻までのけだるい 左腕の手首のところが、陽光をあびてギラリと鋭い光を放った。 山吹色の光。ーーーそれは黄金の輝きだ。薄汚ない小悪党に似つかわひとときであろう。つまり、今頃である。 時間は余計にかかるが、ギンナルは左腕を使うことを諦めた。腕 しいものではない。 光輝の源は純金でつくられた見事な細工の腕環であった。それが環を隠そうにも、隠すだけの毛皮をあいにくと持ち合わせていなか ギンナルの左手首にびったりとはめられているのだ。手首と腕環の ギンナルは右腕一本で、砦の外壁を登りきった。小悪党ながら、 間には髪の毛ひとすじほどの隙き間もあいてはいない。あたかもギ ンナルの手首に合わせてつくられたかのようである。どうやってはあなどれない膂力である。 めたのかはわからない。何か不思議な力が、腕環にはあるようだっ銃眠胸壁をひらりと乗り越え、ギンナルは巡視歩廊の上に音もな く降り立った。巡視歩廊には数名の兵士が歩哨に立っていたが、誰 ギンナルは腕環の放っ眩い光に気がついた。これでは砦の兵士たも白昼堂々と侵入してきたこの傴背の小男に気がつく様子はない。 かれらの注視は砦の外に向けられ、しかもそれはかなり散漫になっ ちに自分の存在を報せているのも同然である。あわててギンナルは 左腕をひっこめた。危ういところであった。いつもは夜に忍びこむている。 幻 2
が、建物の内部に使われていた木材に燃え移ったのだろう。けっし ギンナルは震えていた。どうしようもないほどに怖かった。これ て小さい炎ではない。 ほどの惨状を目にするのは、数知れぬ修羅場をかいくぐってきたか 槍がハリイデールの右手に戻った。ハリイデールは剣を投げ捨れにして、初めてのことだった。 て、槍をぶんぶんと振り回した。 中庭の中央に立っているハリイデールなる男は人間ではない。ギ 兵士の首がいくつか、血の塊とともに薄明の空高く躍った。勇猛ンナルは心底からそう思った。人間に、こんなマネができるはずは で名を売ったズールの傭兵が、まるで赤児のように抵抗ひとつできなかった。できるとすれば、それはけだものである。けたものたけ ず落命していく。 が、大地を血の泥沼に変えることができるのだ。 しかし、そんなハリイデールに畏怖の念が湧きこそすれ、不思議 しなやかに躍動する筋肉の黒い影は、あたかもトール神のごとく に憎しみや嫌悪の情が浮かびあがってこない。な・せたろう、とギン 猛々しい 腰を抜かしたギンナルは、両腕で這いずって、開いた門の陰にそナルは自問した。 の身を潜めていた。だらしなく開かれたロから舌が長く垂れ、細い 門に背を向けていたハリイデールが、ゆっくりと後ろを振り返っ 目は、うつろで赤く血走っている。 た。何かの気配を感じとったのである。 「なんという槍た : よろめきながら、死体の山からひとりの男が立ち上がった。折れ なんという化物だ : ・・ : 」 た段平を右手に握りしめている。 喉の奥から、知らず言葉が漏れた。 バルドスだ。パルドスは腰から叩きつけられたあと気絶し、今ま 中庭は朱に染まっていた。折り重なった死体が山になり、大地は 血を吸ってぬかるみと化していた。ほとんどの兵士は逃げまどうだで何も知らず、地面に倒れ伏していたのである。 呆けたように・ハルドスは周囲の死体を見回し、それから瓦礫とな けである。幾人かの勇気ある者が果敢に立ち向かっていったが、い ハリイデールを見た。 かんせん無駄なあがきでしかなかった。 ( リイデールの槍の一振りった居館を背にして立っ で、かれらは切り裂かれ、絶息した。そして、それは逃げまどう兵何やら奇声をして、折れた段平を振りかざした。 士達も同じだった。ハ リイデールは逃げる者どもには槍を投げた。 ハリイデールの手から、槍が一直線に飛んだ。 むくろ 槍は兵士を追い、かれらを須臾の間に血まみれの骸と変えていった。 槍は・ハルドスの胸を貫通して門の端、ギンナルがしがみついてい 槍が正面の居館を貫いた。居館は瓦礫の塊となった。右翼同様、る巨木の真ん中に、凄まじい音をたてて突きささった。 火の手があがった。 ギンナルは、再び魂消る悲鳴を喉の奥から振り絞った。 ふと気づくと、七十余名の兵士がすべて、物言わぬ冷たいなきが つかっかと、ハリイデールがやってきた。 らと化していた。難攻不落を誇ったオルドール公の南砦は、左翼のその全身には殺意が炎のようにめらめらと燃え立っている。 建物を除けば、たたの廃墟でしかない。 ギンナルはハリイデールを見、そして門に突き立っ槍を見た。 225
震える声で、ギンナルはハリイデールに尋ねた。宿酔は、もうと「行くそーーこ うにどこかへ失せていたが、それでもまだ名残りは残っているらし ハリイデールとギンナルは、ト屋を出た・ く、ギンナルの頭には、何の考えも湧いてはこなかった。 外へ歩を踏み出すと同時に、ハリイデールは、土砂に埋められる 「この小屋は、もうもたん」 ハリイデールは雷鳴に負けまいとしような衝撃を後頭部、首、肩に受けた。水は深いが、何とか足は着 て、怒鳴った。「あといくらもせんうちに流されてしまうだろう。 く。ギンナルは完全に泳いでいる。雨の壁で周囲は何も見えず、方 今やらねばならんのは、外へ出てどこか安全な場所に避難すること角どころか、今どこに立っているかすらわからない。 「これで、東の尾根に行けるのか ? 」 「無茶だそ ! そいつは : : : 」顔色を変えて、ギンナルは喫いた。 ハリイデールは、胸の下にいるギンナルに訊いた。 「あんな雨の中に出ていけば、四、五歩も行かないうちに息が詰ま「任しておけと言っただろ」ギンナルは軽くいなした。「ここら辺 って死んでしまう ! 」 は、目をつぶってても動けるんだ。絶対に迷いはせん」 「案ずるな ! 俺のからだの下に潜りこめば大丈夫だ」 背後で、雨音と雷鳴にまじって、何か絶叫にも似た音が響いた。 「あんたは、どうなる ? 」 背中の毛が逆立つ、嫌な音だ。振り返ってみると、小屋が崩れ、 「グングニールの槍がある。こいつがあれば、たとえ火の塊が降っラ・ハラになって流れていくところだった。 てきても恐れることはない」 「あのポロ小屋にしては、よくもったぜ」 「そんなら、 すっかり肚を据えたのか、ギンナルが呑気なことを言った。 「ところで、どこか避難できそうな場所はあるのか ? 」 ハリイデールは、グングニールの槍を頭上にかざした。しばらく 「そいつは任しといてくれ」ギンナルは胸を叩いた。「東の尾根すると槍の穂先が赤みを帯びはじめ、やがて槍全体が白熱するよう に、古い神殿の跡がある。あそこなら洪水の心配もないし、石造りになった。 だから、この雨にも平気た。あまり知られていないので、兵士がや 雨はそこで割れ、霧となって消えていく。 ってくることもないだろう」 「凄いな : : : 」 「よし」 / リ 、イデールはうなずいた。「そこへ行く。俺の前にこ振り仰いだギンナルが、細い目を丸くして感心した。 ギンナルは流れに逆行するコースをとっていた。流れは急流とい ハリイデールは上半身を後ろにひねり、ギンナルの首根っ子を擱ってよく、ふたりの進む速度は、当然のことながら遅かった。しか まえて、自分の胸の下に置いた。少し前かがみになって、ギンナルし、それでも着実に高台へ向かって進んでいるらしく、水深はごく ごくわずかであったが浅くなりつつあった 0 の頭に、直接雨がかからないようにしてやる。楽な姿勢ではない ふたりは黙々と水を掻き分けた。 が、効果はあった。 234
ギンナルは小男だ。上背は常人のへそのあたりまでしかない。黒 小人とほとんどかわりがないのだ。しかも、猪首で背中にあまり大 きくはないが瘤があった。 ギンナルは森の中にいた。 傴背である。 晴れ渡った蒼い空と石造りの古い砦が、木の間ごしに見えてい それが毛皮に身を包み、せなを丸めているのだ。遠目には、何や る。ォルドール公の南砦である。ォルドール公ゴッドプレ 1 ドの指ら四ッ足の獣が走っているようにしか見えない。一種の擬態であ 揮下にある国境守備隊の兵士七十余名が、そこには駐留している。 った。たとえ見張りの兵士がその姿を見つけたとしても、けっして 兵士はみな、勇猛でもって鳴るズールの傭兵たちだ。グルスノルンそれが人間であるとは思わないだろう。そして、ギンナルは砦の兵 の東から南西にかけての国境では、もっとも堅固な砦のひとつであ士が定められた時間にしか狩りを行わないことを知っていた。兵士 ろう。 たちが勝手気儘に狩りをしていては、砦はその用をなさなくなるの ギンナルは、そろそろと動きはじめた。それまでは陽が傾くま とぎ で、じっと巨木の陰に身を潜めていたのである。 むろん、今は狩りの時刻ではない。ギンナルが獣と思われている 森は、ギンナルの立っ位置からほんの数歩のところで、唐突に終限り、見張りの兵士たちに咎められる気づかいはなかった。事実、 わっていた。そこから先は、。 とこまでも続く荒れ果てた原野であギンナルは誰にも邪魔されることなく、砦の外壁に至った。かれは る。丈の低い枯草がまばらに生え、その上をる風以外には、動く最大の難関を、いとも易々と通過してしまったのである。 ものは何もない。北の地の暗く冷たい褐色の光景だ。 頭上高く組まれた巨石の表面にへばりつき、ギンナルはニャリと その原野のただ中に、オルドール公の南砦は、うっそりとそびえ笑った。もじゃもじゃに縮れた真っ黒な髪、そしてその色に負けな 立っていた。 いほど汚らしく煤けた肌。まぶたは腫れぼったく、眼は糸のように 陽はじよじょに傾き、まもなく白夜の長いタ暮れが始まろうとし細い。鼻は歪んでつぶれ、薄い唇からはみだした乱杭歯だけが異様 ている。 に白く光っている。ーー異相だ。冥府をさまよう腐乱した亡者でさ えも、これほどには醜くないであろう。見る者すべてを慄然とさせ ギンナルは顎を強くひきしめ、一気に森の外に出た。森と原野のずにはおかない、おそましい容貌である。だが、人をその風体だけ この醜い小男こそ、のちのミッドガルドの 境界には、無数の切株が並んでいる。森が唐突に終わっているので判断してはならない。 は、そのためだった。砦の兵士たちが切りだしていったのである。支配者、〈傴背王〉ギンナルなのである。 その切株の間を、ギンナルは意外なほどの速さで走り抜けていった。 しかし、今のギンナルは王でも何でもなかった。ただの泥棒 身を低くかがめ、一直線に砦へと向かう。 それも仲間うちでは〈道化の〉ギンナルで知られている三下の泥棒 ツンドラ
これは、下から昇ってきた兵士達にも意外な行動だった。剣を前ざして走った。逃げきれるものではないとわかっていたが、それで に突きだせばギンナルは串刺しになって絶命していたのだが、落下も必死になって走った。生き延びることも死ぬことも考えてはいな ただ、それだけが頭の中にあっ してくる異相の傴背に度肝を抜かれていた兵士にはそんな単純なこかった。走って砦の外にでる。 とすらもできなかった。 眼前に、・ハラバラと矢が降ってきた。左翼右翼のテラスに並ぶ兵 先頭の兵士は、ギンナルのからだを甲胄の胸あてで受けた。 一団となって昇ってきた兵士達は、一団となって階段を転げ落ち士が射かけたものだった。仲間の兵士がギンナルに迫っているか ら、矢の数は多くはない。 一一十人余りの兵士が一階の敷石に叩きつけられた。甲胄の重さ今度は、槍が足元をかすめた。足がもつれ、ギンナルは前のめり が、肉体を護るよりも、それを圧しつぶした。ほとんどの者が血〈に地に倒れた。転がりざま、勢いをつけて立ちあがる。右足に激痛 が走った。ビッコを引き引き逃げる。 ドを吐き、数人は全身の骨がぐしゃぐしやにくだけて絶息した。 門まであとわずかになった。しかし、兵士達との距離も、ぐっと しくつかの打ち身のほかは、まった 一番上になったギンナルは、、 詰まっていた。ようやく中庭に姿をみせたパルドスが生け捕りにし くの無傷だった。苦しげな呻き声が、そこここから聞こえてくる。 頭をあげると、ホールがあり、正面に大きな鉄の飾りのついた扉ろと怒鳴ったので、矢を射かけたり槍を投げたりする者はもういな があった。中庭にでる扉だということは、すぐにわかった。まわり 門に辿り ~ 石いた。 にいる兵士達は、仲間を助けおこそうと躍起になっている。 ヒタリとそのロを閉じて ギンナルはガ・ ( と跳ね起き、うち重なる兵士達を踏みつけて、脱南の森の巨木を組んで造られた大門は、。 いた。閂こそ掛かっていなかったが、これだけの門である。びとり 兎のごとく扉に走った。 のカではどうあがこうが開くものではない。 幾人かの兵士がそれに気がついて、声をあげる。 : 、日」よビクとも ギンナルは両の拳で門を叩いた。鈍い音が響く力「。 ギンナルはがむしやらに扉を開け、脇目もふらずに中庭へと飛び しない。拳が裂け、血が流れた。 出した。 中庭は、もう薄暗かった。陽はすっかり傾いていて、今は無気味全身の力が、失せていった。 門に背を向け、もたれかかった。いつの間にか、ぐるりと兵士達 なほどに赤い。あちこちにかがり火が焚かれている。 に取り囲まれていた。兵士達はわずかに距離を置いて、冷ややかに 目ざとい兵士がギンナルを見つけ、他の者に知らせた。中庭にい た兵士達が、一斉に動きだした。たった今ギンナルがでてきた扉かギンナルを見つめている。 足が萎え、ずるずるとギンナルはヘたりこんだ。 らも、何人かの兵士が姿を現わした。 いよいよ最後だと思った。ふと左手首の腕環に視線を落とした。 兵士の流れは、すべてギンナルに集中していた。ギンナルは門め 2
部屋の突きあたりと左の壁に、さらに二つの扉があった。部屋とそれを見て、ギンナルも相手が誰で何をしようとしているのかを 部屋とを直接につなぐ扉だ。非常時の移動用である。 悟った。・ほんやりと突っ立っているときではない。 「しめた ! 」 段平が唸りをあげて落ちてきた。 ギンナルは左の扉を開け、くぐった。 間一髪。ギンナルは鋭い刃の下をするりとすり抜け、足元をかい 同じような部屋にでた。扉も同じようにある。右の扉を選んだ。 くぐって、・ハルドスの後ろに回った。小男で傴背のギンナルだから また部屋だ。今度は正面の扉。通路にでた。あわてて部屋に通じるこそできる離れ技である。 扉のひとつに飛びつき、中にはいった。 ギンナルは通路を走りだした。 部屋、通路、また部屋 : ・ 「逃がすかっ ! 」 これを何度繰り返したことだろう。 ・ハカげた堂々めぐりだった 思わぬギンナルの動きにあわてた・ハルドスは周囲の状況も忘れて が、命が賭かっているとなれば必死でやるしかなかった。体力は消一声叫び、渾身の力をこめて段平を横になぎ払った。 耗し、目がしきりにくらんだ。もう何をどうしているのかも判然と ガチンーと耳が痺れるほどの大きな音をたてて段平が弾ね飛ん しなくなった。兵士には一度も行き当たらなかったが、一部屋に留だ。石壁にいやというほど叩きつけたのである。・ハルドスは右手を まることは、怖くてどうしてもできなかった。 押さえて、呻き声をあげた。 何十回目になるのか ギンナルは目の前のドアをひょいと開その間にギンナルは角を曲って、別の通路にはいっていた。今度 けた。 は空き部屋には飛びこまない。通路をしばらく行くと、廊下にで た。すぐ左に階段がある。しかも、廊下はそこで行き止まりだ。左 そこに、ひとりの男が立っていた。待ちうけていたのではない。 偶然、そこにいたのだ。甲胄を着けていない男である。着ているも翼の端にそびえる櫓に設けられた階段である。ここから一階に降り て中庭にでれば、門はもう目と鼻の先なのだ。 のといえば腰布一枚たけ。 男は、・、ルドスだった。 ためらっているヒマはない。背後にわらわらと兵士達が集まって ' ハルドスは、不意に傍らの扉が開き、めざす相手のギンナルが顔くる気配がある。 をだしたので、一瞬、驚いて呆気にとられた。 ギンナルは階段を駆け降り始めた。と、一団となって兵士が昇っ 一方、ギンナルは疲労しきり、まったく惰性で動いていたから何てくるのが見えた。それも、もうすぐそこまで迫っている。もちろ がなんだかわからない。 ん、後ろに退くことは今となっては不可能である。進むか、死ぬか 短い空白が生まれた。 先に我に返ったのは・ ( ルドスだった。・ ( ルドスは血相を変え、段「殺られて、たまるか ! 」 平を大きく振りかぶった。 ギンナルは石段を蹴って、跳んだ。 幻 7