狼 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1980年6月号
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1. SFマガジン 1980年6月号

か細いキーキー声の応答。 冷たい静まりかえった大地が明るくなるころ、人影は山の頂きに フォーク の・ほった。青白い岩の上で、その姿は黒い肉さしを思わせた。細す「いま頂上。川は西へ約五キロ。下に小道が見える。雨期からあと 3 ぎる体。蛇のようななで肩。それは頂きの下の低木の茂みに沈むは、だれも通っていないみたい。大の声がしていた。暗くなるまで ここで待って、それから無線の影にはいるわ。出たら知らせます。 と、小さな顔を空にむけ、ふたたびうずくまった。 頂きをめぐるように、影が走った。大型の大。ちがう、大きな雄たぶん、あさっての夜ね」 の狼だ。けものは、人のいるすぐ上の岩場にふらりとおり、動きを はじめより大きなキーキー声。女性の声だ。狼はロをあけ、若い とめた。ふさふさした尾の不自然な線が、古い骨折のあとを物語っ女はロもとに笑みをうかべた。 ている。夜はみるまに明けていったが、西の谷はまだ闇の中にあ「いつも気をつけてるわよ。 パトロール、発信終り」 る。谷間からかすかな遠吠えがあがり、まもなく止んだ。 狼はスイッチを切ると、頭を低くし、女のプーツの先を歯でそっ 大と見まがう狼の姿が山の背から消え、人のうずくまる茂みのわとくわえた。腕のない女はきやしゃな足をプ 1 ツから抜き、自由の きに現われた。人影が頭をたれた。狼が近づく。暁の光のなかで大きく足指を冷たい光のなかで屈伸させた。もう一方のプーツが脱け 歯がきらりと光る。狼は首をひねるようにしてかみつき、黒っぱい たところで、女は両足指を使って、狼の分厚い毛の上の背負い皮か キャップをくわえ取った。 ら・ハックをはずした。狼は巨体を思いきり伸ばすと、寝そべり、濃 明るい色の髪が、頭のひとふりで溢れだし、流れた。狼はキャッ いクリーム色の下腹を見せてころがった。 プを落とし、すわると、胸もとの何かが気になるそぶりを見せた。 女は糧食のパックと水筒を足指で取りだした。起きだした狼が、 陽が空にのぼった。岩場の下のすきまにいる人影は、いまではは岩のわきの泉に水筒を運び、前足で支えて流れ落ちる水をためた。 つきりと見えた。きめの粗いジャケットとズボン姿の若い女が、キ食事が始まった。女はあおむけに寝て、顔の上にぶらさげた水筒か ャップの下から髪をふりだしたところ。ジャケットの両肩はパッドら水を飲んだ。女が一度、むせて笑いだした。狼は女の頭をこづ で終わっている。腕の部分はない。女に腕らしいものはなかった。 き、女は膝に顔をのめりこませた。食事のあとは運動の時間だっ フォコそ 腕がまったく欠けていた。アザラシ体だ。女は狼のそばにすわっ た。あたりはすでに昼の明るさで、太陽は針金に吊るされたよう た。朝日のなかで見る狼は、頭が肥大し、奇妙にカールした毛におに、東の丘陵地帯からまっすぐ空にの・ほってゆく。日の出とともに おわれていた。 風が起こり、岩だらけの尾根をヒュルヒュルと吹きすぎた。 狼は小さな物体を取りだし、女の前にある岩の上においた。両者狼は腹ばいのまま頂きに行き、しばらく観察したあと、女のとこ はむかいあう形になった。朝日が狼の眼に黄色く照り映え、女の眼ろにもどった。彼らは茂みをまわりに集めると、ラテライトの岩棚 に青く照り映えた。前足が物体の上にのび、かちりと音がした。 の上に寄りそってからだを丸めた。 「ハトロールから基地へ」女が低くささやく。 高くなった日ざしが、肌寒い風をつらぬいて照りつける。鳥の姿

2. SFマガジン 1980年6月号

: と、大地の震え、かすかなゴロゴロという が、何も聞こえない : り、彼女の服を引っぱると、腕の下に首を入れ、助け起こした。 男が広場にはいったときには、女はひとりで立っていた。水平のひびき。通信機が金切り声をあげた。 光を受けて、女のからだは輝いている。男は足をとめ、左右の見慣「もうだいじようぶ ! 」と女がいった。「ポンズがいるわ ! 」 れぬ壁に目を白黒させた。だが一歩踏みだしたところで、いきなり「ポンズがいるって、どういうこと ? 」はるかな声が問いただす。 突進してきた。女は立ちつくしている。たくましいからだが宙を跳「来るのが聞こえるの。あの亀裂を通り抜けたらしいわ」 「救われない馬鹿の集まりだね」と声。「エネルギーの無駄づかい び、腕が組みつき、女は下になってかたい地面に倒れた。 もつれあって倒れた瞬間、女の口から相手の顔にガスが噴射されだよ。基地、送信終わり」 いびきをかく男のそばに坐っ タ闇のなか、女と狼は寄りそい た。男は身もだえし、女を押しつぶした。狼がかけつけ、暴れる巨 た。女はプーツをはいた足で、すこしのあいだ男をつついた。女の 人の腕をくわえて、引きずりおろした。女は咳こみ、喉をぜいぜい 鳴らしている。男のからだの動きがやむと、狼はとびかえり、女の歯がカチカチ鳴りはじめた。 頭を鼻でこづいた。 大地を走るうなりはすさまじい轟音となり、光の扇が広場の向か 喉の音の調子が変わり、女の両脚が狼の胴に巻きついた。そのまい側でぐるりと回った。光の背後には、小型トラクターの黒い鼻づ ま地面にころがそうとする。狼は女の顔をベろりとなめ、下腹に前らが見える。それは平たいワゴンを引いていた。 足をかけて、からだをふりほどいた。落ち着くと、狼は女の鼻先に髪をひとふりして女が立ちあがった。 しひきの音が聞「ポンズ ! ポンズ、ひとりつかまえちゃった ! 」 通信機をさしだした。男が倒れている方角からは、 : こえてくる。 トラクターががたがたと停まり、青白い顔がのりだした。ダッシ 女と狼はいっしょに巨体を見守った。体重は狼の倍近くあるだろュポードの明かりが、少年の顔を浮かびあがらせる。やせて鋭角的 だが、顔だちはこの女とそっくりだ。 「あなたのからだに縛って引きずったら、傷だらけになってしまう「やつはどこなの ? 」 「こっちょ。見てごらん、この大きさ ! 」 わね。追いたてて歩かせること、できると思う ? 」 トラクターのライトが回り、ぐったりした男を照らしだした。 狼は通信機をおくと、顔をしかめて男をながめ、どっちつかずの 「ワゴンにのせなくちゃ」少年の眼は疲労にくぼんでいる。運転台 うなり声をあげた。 からおりるようすはない 「いいえ、ゴ・ハの西の例のところにいるだけよ」女が通信機にむか って説明した。「ごめんなさい。はじめ思ってたよりも手強い相手狼がワゴンの横にまわり、ラッチを外した。横板がガチャンとお だったの。もしそっちでーー、待って ! 」 り、低い荷台にのぼる斜面ができた。女と狼が、赤つはい巨体を斜に 道路に出た狼が、からだを緊張させている。女も耳をすませた面のほうにころがしだす。

3. SFマガジン 1980年6月号

とっぜん背後に新しい声が加わったーー・大たちが追跡に参加したあたりで尽きる。男はこれから先も追ってくるだろうか ? 何も聞 のだ。女は顔をしかめ、スビードを上げた。灰色の大きな影が横かこえない。狼が現われ、陽のあたる岩棚にさし招いた。狼は鼻先を ら近づき、停止すると一本の木のそばで後足をあげ、つぎの木でもっかって女を所定の位置にすわらせると、ジャケットの前を広げた。 また同じことをした。女はほほえみ、。ヘースをゆるめた。 女はせつなげに声を震わせて歌いだし、笑い声でしめくくった。 それからまもなく、狼のしるしを嗅きつけて、大たちの声の調子こだまが止まぬうちに、女は狼に押されて岩場をかけおり、前の が変わった。男のどなり声、キャンキャンという鳴き声。以後、大キャンプ地を通りすぎた。狼はすぐに追いついたが、歯を見せて笑 の声はふつつり途絶えた。 いながら横っとびに消え、あとにはひとり、伸びゆく影をつつきっ 女は走りつづけた。登り坂なので、いまでは早足、小走りだって走る女が残された。うしろをふりかえると、すでに男の赤みがか た。真昼の太陽が頭上から照りつける。かねて用意しておいた第一つたからだが岩場をはねていた。つきしたがう犬の姿はなかった。 の地点に、息も絶えだえにたどりつく。木立ちの中をゆく灰色のか走るうち、足元は闇につつまれ、あたりはたそがれの色に染まっ たちに一警をくれ、わきにとびのいて、そのまま斜面をのばった。 た。たそがれは月明かりに変わった。狼は彼女の先を歩いている。 うしろで鋭い叫びが起こった。ついで穴に落ちこんだ男のうなり曲がった尻尾を高々とあげ、その旗をたよりに彼女は平原を進ん 声、もがく音。女は死んだ蟻塚にもたれかかった。木々はまばらに・こ。 ナここはかっての山羊の土地。イ・ハラが茂みをつくり、山羊が姿 なり、吹く風が疲れを運び去ってゆく。 を消したいま、いたるところで若芽を吹きだしている。 狼が現われ、不機嫌に鼻先をしやくった。女はからだを回し、風しばらくのち狼は女に歩くことを許し、自分もときおり止まっ にむかって駆けだした。木々の梢の上に、はるかに周辺の岩山の青て、うしろの足音に耳をすますようになった。ここではほかに物音 い稜線が見える。早足、小走り。男はいまでは視界に彼女をとらはない。 え、追いせまっていた。 彼らはとうとう足をとめた。狼は霧のように音もなく消え、やが 十分引きつけたうえで、また向きを変えると、うしろで枝の・ほきてばたばたともどると、女をとあるイ・ハラの茂みにみちびいた。彼 ぼき折れる音と怒り狂った叫びが起こった。からだを休めたときに女はそこではじめて・フーツを脱ぎ、水を飲み、がつがっ食らい、ま は、狼がかたわらにいた。人とけものは、衰えた突風のあいまに伝た水を飲んだ。そのあいだ狼は女の足のぐあいを調べながら、それ わってくる激闘の音に聞きいった。やがて女は自発的に走りだしをなめた。だが自分の背負い革を外させようとはせず、女の髪を解 た。つきはなせないことは明らかだった。狼はあたりに目を配りな くこともせず、送信機を出す前に、すでにプーツをはかせていた。 がら、あとに残った。 「ひとり捕まえたわ。かなり頑健。ポンズはだいじようぶなの ? 」 最後の尾根にたどりつき、うしろをふりかえるころには、太陽は質問がこうるさく始まる。狼はスイッチを切り、女を地面に押し 地平線のほこりの中で黄色く輝いていた。野蛮人たちの小道はこの倒すようにして、ひからびたイ・ハラの屑に寝かせた。そして彼女の

4. SFマガジン 1980年6月号

川の曲がり目のあたりで、大が一びき遠吠えをはじめたが、キれた。のんびり岸まで出て、たたずみ、あるいはしやがみこむ。女 = ウと尾を引くように鳴いて静かになった。女は足の爪先をつかと狼は、川向かいの小屋の横手、 ( ンノキの木立ちを見つめた。ほ 、入り組んだ模様を砂地に描いている。狼が足をびしょ濡れにしどなく葉むらが騒ぎだした。男が通り抜けようとしている。狼の首 いかにも通りなれた がこくりとした。あの大男だ。現われた男よ、 てもどり、人とけものは食物と水にありついた。月が沈むころには ようすで砂洲を歩き、小便をしようと立ちどまった。 眠っていた。 夜明けを待たず、彼らは隠れがを出ると、遠まわりに川をわた狼が一本の低い枝をそろそろと引き下げる。女がぎごちなく一歩 り、この谷に最初におりたときの側に来た。峡谷の壁はここでは浸踏みだし、裸身を惜しげもなく日ざしのもとにさらした。男がひょ いと首をひねり、女を見つめた。男のからだが緊張した。女は小声 食され、ごたごたした岩場ができている。川べりと岩場のあいだを で呼びかけ、からだをゆらゆらさせている。 何回かゆっくり往復するうち、空が白みはじめた。最後に彼らはハ ンノキの茂みのかげになった水辺を選び、そこに坐った。小屋が対男の脚の筋肉が波うち、足もとの砂がとんだ。とたんに女の前で 岸に見える。 枝がはねもどり、狼が彼女のズボンを引きあげ、ジャケットをはお 峡谷に光がさしこむころ、女は起きだし、狼に顔をむけた。ジャらせた。つぎの瞬間には、もう走りだしていた。ハンノキの茂みを ケットは彼女の胴をつつみ、大きなルー。フで終わっている。狼はルすりぬけ、川沿いの低地をしやにむに駆けて、もと来た方角へ。 ー。フに一本の歯をひっかけ、留め金をはずすとジャケットの前をあ背後の水をける音が、上流へ向きを変えた。狼は周到にルートを けた。ジャケットの下では、女ははだかだった。女は辛抱づよく立選んでいた。男の行くてには深みがあり、それを迂回しなければ彼 ち、そのあいだに狼は鼻をつかって、ジャケットをケープのようにらのいる岸に着けない仕掛けなのだ。彼らは断崖を駆けあがった。 首にかけさせた。彼女の両肩は、小ぶりな乳房の上にある無疵のな女の動きはウサギのようにすばしこい。峡谷から出ると、狼は林の めらかな節こぶだった。冷たい風にふれて。ヒンクの乳頭がすばみ、 なかに方向を転じた。 腋の下にあたるところに生えた絹色の毛がなびいた。 断崖からはいあがった男が見たのは、前方のトンネル状の小道を 狼はジャケットのひだを整え、腕らしく見せるのに余念がない。 ひとり走ってゆく女の姿だった。男はそのあとを追った。強健な脚 やがて満足そうに大きな頭をそむけると、ズボンの柔軟なウエスト がしだいにあいだの距離をつめてゆく。だが走ることにかけては、 ・ ( ンドを引っぱりはじめた。器用にズボンをおろし、腰から太股に女は元気一杯の時代にあった。子供のように細いその体はきたえら かけてを外気にさらしてゆく。女はほほえみ、身じろぎした。狼はれている。男の最初のスパート が鈍りだしてからも、女は疲れも見 かすかにうなり声をあげた。風が裸身を吹きすぎてゆく。女は狼のせず走りつづけた。上体のくねるような独特の動きが、腕のない不 あたたかい毛にもたれかかった。時は過ぎていった。 自由さを補償している。走りながら女は左右を見まわし、来る途中 対岸の草ぶき小屋から物音が聞こえてくる。人影がいくつか現わで木々に残した傷跡をさがした。

5. SFマガジン 1980年6月号

と、からだがぐるんと回り、目がくらんだ。つぎの瞬間、支えが外を歩いたが、やがて岩に阻まれて相手が見えなくなるところに来 れ、雨と降る土埃りのなか彼女は地面に転落した。背後では、崩れた。 落ちた岩石が排水口になだれこみ、男をしめだした。 すかさず狼が強引に服を着せ、よろめく女を今までとは逆方向の 息詰まるような闇のなかで、女は息をはずませていたが、やがて道に送りだした。女はむらのない小走りにはいり、太陽と風をいま 排水口のフロアを登りはじめた。傾斜は急だった。彼女はもがき、や正面にうけて、北西の方向をめざした。古いハイウェイはまもな はいつくばり、両肩のパッドで押し分けるようにして進んた。長い く断崖からそれ、風化した岩山が左右に突出する地帯に分けいっ 修練のたまものである。子供のころ、こうして両肩を赤むけにした た。右手には、それらよりも高い尾根がつづいている。かってハラ ものだ。ほどなく頭上に灰色の光が見えてきた。出口から、狼の顔 1 ルと呼ばれた山々である。気がつくと岩山はうしろに過ぎ去って がのぞいていた。 いた。道路は、また一つの台地の頂きをまっすぐ縦貫している。周 女は古い道路の表面に姿を現わし、狼といっしょに崖つぶちへと囲は廃墟だった。アドービれんがの廃屋、どぶ、ごみだらけの庭、 歩いた。ここでは風が強い。女は狼によりかかって下を見おろした。そんな庭にときおり影を落とす巨大なユ 1 カリ樹。道ばたには、金 はるか下界では、赤みがかった肌の男が、排水口をふさぐ岩に取属のかけらがころがっている。走りすぎる女のわきに、錆びたガソ り組んでいる。この位置では断崖は垂直なので、男が登ることはで リン・ポン。フが人間のようにたたずんでいた。ほこりの風が吹きす ぎた。女はびつこを引きはじめた。 きない。女は溜息をつき、につこりしたが、まだ息をはずませてい る。狼の背を鼻でさぐり、水筒のロを見つけると水を飲んだ。狼は ときどき狼が横に並んだが、またすぐ道をそれ、追跡者が通りす 口をあけたまま低く鳴いた。 ぎるのを見守った。今では男はびったりうしろにつき、道路ぎわの 彼らはまた裸身を見せつける儀式にはいった。ズボンが下げられ奇妙な物体をよけながら、根気よく走っている。日ざしの色が変わ ると、女はくすくす笑った。狼はうなり、女の下腹にかみつく仕草るころ、追う者と追われる者は徒歩同然にスピードを落とした。二 をした。つぎに狼は後足で立ち、キャツ。フを脱がせた。・フロンドの人の距離はみるまに着実に縮まった。 髪が流れだした。 峡谷をまたぐ橋の残骸に着いたときには、女はほとんど片足だけ 女は崖つぶちに歩いてゆき、風の中に呼びかけた。あから顔が上で歩いていた。ここで時間稼ぎはできたものの、気休め程度。すで を向いた。口があんぐりとあいた。女は頭でジェスチャーし、左にに力を使い果たしていた。こわれた橋を過ぎると、女は両側に壁を 歩いた。その方向に、地すべりで道路が崩れ落ちた個所があり、男見てよろよろと進んだ。道路は死に絶えた村の前でカ 1 ・フし、古い の登りやすい堆石地帯ができているのだ。 広場にはいっていた。女は広場のわきに寄り、膝から崩折れた。うし 男はにらんだり叫んだりするのをやめ、堆石地帯へと遠まわりをろでは、男がすでに橋の瓦礫の上を飛びこえている。夕暮れ時。狼 始めたが、途中いくたびか止まって顔を上げた。女は男と平行に上が現われ、せかすように鳴いた。女は首をふり、あえぐ。狼はうな 6

6. SFマガジン 1980年6月号

いた。夜のなか、岩床のむこうで、銀の帯がさざめいている。二つ はない。けものは見当たらない。もつれあう茂みのなかには沈黙が あるばかり。一度、カマキリに似た生き物が、隠れがの近くでカシの影は早瀬をわたり、とある岩棚にの・ほると、ひっそりと下流をめ ャカシャと音をたてた。地面すれすれに黄色い眼があいた。生き物ざした。においは今では悪臭といえたーー煙、魚、死体、排泄物。 臭気は小高い岩塊のむこう、川の曲がり目のあたりから流れてく は羽音をたてて飛びたち、眼はとじた。 午後になると、風が、ア 1 アーと聞こえるかぼそい声を岩場に運る。犬の遠吠えが始まり、また一びきがそれに和したが、キャンと んできた。茂みのなかで、黄色い眼に青い眼が仲間入りした。つぶいう一声で沈黙した。 やきはおさまり、眼はふたたび消えた。それ以上は何も起こらなか女と狼は岩塊にのぼった。下は入り込んだ空地で、草ぶぎの小屋 が三つかたまっていた。灰の山が一つ見え、煙がたちのぼってい った。赤道直下の太陽は真西の谷に沈み、風が絶えた。 影が岩場に忍び寄るころ、茂みが両側に押し分けられた。女と狼る。小屋は影のなかにある。最後の月光が、岸辺の魚くずの山に銀 は連れだって泉に行き、女のほうは蛇のように身をくねらせて水を色に照り映えていた。 飲んだ。二度目の食事がすむと、女は足指で荷物をまとめ、狼の背人とけものは、岩の上から息を殺して観察した。このあたりはい 負い皮にそれをくくりつけた。狼は送信機を胸もとの袋に鼻で押しくぶん暖かい。だが虫は飛んでいない。下の小屋で子供が泣きだ こみ、片方のプ 1 ツをくわえた。女が・フーツをはくと、狼は黒っぱ し、すぐ口をふさがれた。魚くずの山に近づく生き物はない。月が いキャップを牙にひっかけた。女がその中に明るい色の髪を流しこ沈み、川は暗くなった。魚がはねた。 んだところで、狼がキャップを頭にかぶせ、髪が眠にこばれ落ちな 狼が起きあがり、どこへともなく消えた。女は川音に聞きいって いように注意深く縁をととのえた。あたりはすでに暗く、彼らの背いる。狼がもどり、女は狼のあとについて川をのぼると、空地から 後、東の空には上弦の月がかかっている。女が・ハネのように身をよは見えない、高い岩壁の裂け目にはいった。はるか下の川では、横 じらせて立ちあがり、彼らは谷めざして崖を下りはじめた。 一列に並んだ古ぼっくいのまわりで水が騒いでいる。人とけものは 洪水に浸食された乾いた低木地は、下るにつれて森になった。女静かに食事を終えた。あたりが白みはじめるころには、からだをく と狼のコンビは、うっすらと残る小道づたいに、油断なく縦一列につつけて眠りこけていた。 なって進んだ。月が天頂を過ぎるころ、いったん止まり、あたりの 日光が岩壁に照りつけ、影は東に縮んだ。空地の方角から、子供 茂みと石を苦労して並べ変えた。それからしばらく木立ちの中を進たちのかん高い叫びが流れてきた。おとなたちの低い声もまじる。 んだところで、また同じ作業をくりかえした。道はここで枝分かれガチャンという音、叫び。高い岩の裂け目の奥、乾いた雑草のかげ していた。前進はさらに注意深いものになった。空気にはほのかなで、日ざしがきらりと黄色に反射した。風が起こり、川面を太陽に においがこもりだしていた。 むかって横切ってゆく。突風のあいまに、うなり声、舌を鳴らす期 荒れはてた峡谷にたどりつくころには、行くてで月は沈みかけて音、意味不明の叫び、火のはぜる音が切れぎれに聞こえる。眼はよ

7. SFマガジン 1980年6月号

なまあたたかい体臭をふりきると、近くの蟻塚にのぼり、もと来たが現われたとき、女はすでに高原のかなり先をひとりで走ってい 方角に顔をむけて寝ころんだ。ぶっちがいに組んだ前足。その上にた。男はためらい、引き返すそぶりを見せた。だが獲物の姿を目に 沈めた頭は、見えるか見えないほどかすかに震えている。重たげなしたとたん、力強く駆けだしていた。 眉の下で、黄色い眼が一つひらいていた。ややあって背烽がびくり女はスビ 1 ドを上げ、そのまま一キロばかり二人のあいだの距離 と引きつり、動かなくなった。 を保ちつづけたが、そこで追いっかれはじめた。彼女は足にさらに 夜になって、狼は喉からしぼりだすような声をあげた。だが女の力をこめた。この不毛地帯では、向かい風につぐ向かい風だった。 アム・ハ 眠りは深かった。目覚めたときには、狼は蟻塚の根元でからだをひ高原は深い溝によって、そこかしこ切り裂かれていた。スビードが くつかせていた。たくましい顎から流れだすよだれが、月明かりに落ちると、女は覚えた地形をたよりに方向を変え、男を隠れた谷に 見える。悶える頸にのしかかると、両太股で頭を押さえつけ、歯の誘いこんだ。いちばん深い二つの溝では、狼が先まわりしていた。 あいだに膝頭をねじこもうとした。狼はのたうち、絶叫する。矛が追跡者が駆けおり、よじ登らなければならないところを、女は狼の かみあい、ズボンの膝頭のパッドにくいこんだ。もつれあって転が背中に乗りうつって渡った。 るあいだも、ロに膝頭をねじこませたままだった。女の脚に黒いし だがいくら走ろうと、男は着実に距離をつめた。突風のあいまに みが広がってゆく。すでに舌を切っているらしい。どれほどの深手 かたい足が大地を打っ音が聞こえた。断崖のふもとの岩だらけの丘 かは、女には見当もっかなかった。 に着いたときには、息も絶えだえだった。男は近い。ますます近づ けいれん いてくる。女は死にもの狂いで岩場に跳躍した。犬に投げつけられた シンクローヌス痙攣が去ると、女はけものを解放し、何やらつぶや きながら坐りこんだ。舌の出血は止んでいた。瞬膜がのろのろとひっ石のことを思いだしたからだ。あのいかつい異様な腕が投げる石は、 こみ、狼の開いた眼に、月光が鬼火のように緑に照り映えた。狼は頭どれくらい飛ぶのだろう ? 両肺の灼けつくような痛みに耐え、上 をあげた。女は顔をすりよせ、押した。狼は息をつき、胸の柔毛に鼻づへ逃げるしかなかった。彼女はトンネルにすべての希望を託した。 らをつつこんだ。薬びんがそこにしまってあるのだ。大きな錠剤を苦ここが運命の分かれ目である。もし男がこの断崖にくわしかった 労してつつぎだすと、ひとロでのみこんだ。そして起きあがり、ぎら ! だが男はあとを追ってまっすぐに登ってくる。立ちどまって石を くしやくと歩き去った。近くには水がある。もどったときには女は 眠っていた。狼はそこを離れ、大儀そうに自分の部署にとびのった。投げることもせず、追いせまる。小石がジャリジャリと鳴る。自分 夜が明けるころ、彼らはとある高原にいた。前方には高い断崖がのあえぎにかぶさるように、男のうなり声が聞こえる。数歩と離れ 連なり、そのいたるところに中世の城の小塔に似た突出部を見せてていないだろう。 とっ・せん前方に影が見えた , ー・ーむかしの排水口だ。内部にロ 1 プに いる。その断崖が彼らのゴールなのだ。だがそこへ行き着くには、 空虚な平地をまず渡らなければならない。露出した岩のかげから男の輪がたれさがっている。その輪の中に全体重をかけてとびこむ アム (

8. SFマガジン 1980年6月号

「待った」だしぬけに少年がいった。「怪我をさせないようにしろ ートのうしろから毛布を引っぱりだした。運転台の内部には、チュ よ。こいつに何をしたんだ ? 」 1 ・フやレ・ハーがごたごたと配置されている。本来なら少年の足があ 3 「なんともないわよ」 るあたりのフロアには、何かの装置がおかれ、チュープが何本も上 男は女の膝にだらしなく両肩をもたせかけている。狼のくわえた にのびている。少年がからだを起こすと、下に両脚はなかった。上 上腕部が赤く裂けていた。 体がシートに固定されており、下半身はカン ' ハス地の袋となってチ 「ちょっと、こっちに見せて」少年は依然おりる気配もなく、薄い = ープがその底に通じているのだ。少年の顔には汗がいく筋も伝っ 唇をなめながら坐ってながめている。 ている。 「われらの救世主」少年の声はかん高く、荒々しかった。「お姉ち「さあ、行くぞう」 ゃんお待ちかねの染色体か。それにしても、汚ねえな」 少年は筋肉の盛りあがった腕で、毛布を窓の外に押しだした。き 少年は前に向き直り、彼らは無意識の男を荷台に押しあげた。フやしゃな顎から汗がしたたり、毛布に落ちた。女は横から顔をのそ ロアには掛け金とベルトが取りつけられている。女はプーツを脱ぎかせていたが、何もいわなかった。狼は毛布の二重折りにした部分 捨て、傷だらけの不器用な足指で男をくくりつけた。身動きとれなをくわえると、残りを背負い投げし、四つ足でフアにおりた。少 くしたとたん、うめき声があがった。女は唇をゆがめ、頬と歯のあ年は両腕をステアリング・ホイールにかけ、こくりと頭をたれた。 女と狼は荷台の男に毛布をかぶせ、両脇をたくしこんだ。つぎに いだに仕込んだ噴射器をおもてにのそかせると、男の顔に注意深く ガスを吹きつけた。 狼はもう一枚の毛布を女にかけ、自分は地上にとびおりた。少年が 顔を上げた。エンジンがかかり、トラクターはひと揺れして道路に 少年はシートの上でからだをよじり、リア・ウインドウからこれ のった。夜空にコウモリはいない。夜鳥が獲物を追う影もない。こ を見守った。水筒の水を飲んでいる。ワゴンの上では、狼の背中か こだけでなく、この空虚な世界の全域にわたって、空を飛ぶ生き物 らパックが外され、食事が始まっていた。彼らは少年にほほえみか はいない。ただ一台のトラクタ】が、灰色のけものをうしろに従え けた。少年は笑顔を返さない。その眼は、赤みがかった黄金の巨人 て、月明かりの平原を走っているばかり。ヘッドライトの黄色い光 に釘づけにされている。 芒のなかには、虫一びき飛んでこない。前方には平坦な道が、大地 女の足が男のからたにのびた。たくましい手足を投げやりにつつ 溝帯を見おろす山なみにむかって伸びている。ここは、かってエチ き、生殖器をもてあそぶ。 オピアと呼ばれた地。 「やめろったら ! 」少年の声がとんだ。夜気が冷たい。 「こいつ、毛布をかけたほうがいいと思う ? 」女がたずねた。 「いや ! うん、かけたほうがいいよ」うんざりした声だ。 狼が運転台のドアのわきに後足で立っと、少年はかがみこみ、シ

9. SFマガジン 1980年6月号

・腕のない女と狼の息のあったコンビは、その惑星で何を目ざすのか・・ 雪はとけた、雪は消えた ジェイムズ・ティフトリー J に 伊藤典夫訳 イラストレーション・岩淵慶造 The Snows Are Me1ted, The Snows Are Gone 以 9

10. SFマガジン 1980年6月号

うすをうかがった を投げた。大たちは逃げ、ふりかえり、這うようにしてもどった。 陽が高くなるころ、はだかの女が二人、岸づたいに何かを引きずその男はグル 1 。フの中ではいちばん大きかった。活発で、体格もよ 3 りながら、川の曲がり目から現われた。さらに七人がうしろにばら 一団が水をたたきながら網の近くまで来たとき、目を上げた大 ばらと続き、立ちどまっては身ぶりをまじえて喋っている。肌はほ男が網の破れ目に気づき、岸を走って破れ目をくくった。崖の上 てったような赤、股と腋の下では色は淡い。白い傷跡がくつきりとで、人とけものは顔を見合わせた。狼の歯がカチッと鳴った。 目立つ。ふくらんだ腹に刻まれた左右対称の紋様。乳首はいちょう いま網の中では、魚が水面を泡立てている。人間たちが近づき、 にぼってりした円錐形をしている。うち二人は出産まぢかに見え網をたぐりだした。あふれ、はねとぶ魚。犬がとびこみ、くらいっ た。髪はもつれてかたまり、錆び色の縞が寄っている。 く。叫び、悲鳴、もがくからだ。人間たちはのたうつ塊を岸にあげ、 岩塊の上で、青い眼が黄色い眼に加わった。女たちが川の中を歩地面に落とすと、逃げる魚を手づかみした。若い巨人は直立し、に きだし、引きずっていた荷は、・ほっくいのあいだにかけわたす粗末たにた笑いながら、両手に一びきずつ持った魚を交互にむさぼって な網であることがわかった。「ウェッ、ウェッー イイ、アア ! 」 いる。足もとでは子供たちが、ばたっく網の中にとびこんでいる。 と、金切り声がとびかう。子供たちの一団が川の曲がり目に現われ男は言葉にならぬ大きな叫び声をあげ、魚を空高く放りなげた。 た。年かさの何人かは赤ん・ほうを抱えている。子供たちは「イイ やがて女たちは、岸の小道づたいに獲物を引きずりながら小屋の ガアッ ! 」と高い声でロまねした。一本の杭が倒れ、金切りほうに消え、川に人けはなくなった。女と狼は伸びをし、落ち着か 声のなかで回収されたが、日 , 底には二度と立たず、捨てられた。 なげに横になった。川 の曲がり目から煙がまわってくる。風の通り しばらくのち川べりの小道に大柄な人影がいくつか現われた。男から外れているので、岩場のなかは暑い。見おろす砂地では魚のは だ。数は六人。女たちと同様、はだかで赤みがかった肌色だが、傷らわたが光っているが、蠅は飛んでこない。岩かげの空地は静ま 跡はずっと多い。思春期を過ぎたと見える者はなかった。いちばんり、ときたま子供の泣き声が短く聞こえるだけ。陽は谷のふちに傾 小柄なひとりは黒髪、ほかはみんなニンジン色の髪で、ひげをたく いて、下の川に影が広がりはじめた。太陽を追って風も絶えた。 わえていた。うしろに大が三びき従っている。尾を尻に巻きこみ、 ほどなく峡谷にはタ闇がおり、半月を背に空はライラック色に変 すぐにも逃げだせるよう身構えている。 わった。空地からは、煙がひとすじ空に立ちのぼっている。静けさ 男たちは横柄にどなり、 日上にのぼっていった。女たちが水からを破って、だしぬけに人びとの声が起こり、ドンドンという音に合 出て、小走りに追った。つぎの曲がり目で一行は川にはいると、水わせてリズミカルな合唱になった。煙の柱がゆらぎ、火の粉をまき をたたき、はねあげて、魚を網に追いやる作業にかかった。赤ん・ほちらす。悲鳴、・ とよめき。騒ぎはかすかなうなり声にまで衰え、や うが泣き声をあげた。岩塊の上で、人と狼はこれを一心に見守った。 がて沈黙がおりた。夜の冷気のなかで、岩がチッと音をたてた。 大たちが網のそばをうろついているのに気づき、男のひとりが石狼が岩の裂け目から出ていった。女は溜息をつき、あとに残っ