それはキラキラと黒い波にまとわりつぎ、フレイヤ号のゆくてを青ように、かれをおそう危難からどうにかしてかれを庇い守ってくれ 白い光のレースにそめあげ、あたかもこの世界には、黒とこの青白ようとするのではないか : い光のほか、何の色あいも存在してはいないかのような錯覚をさえ その、根拠もない、しかし甘やかな思いは、もしかしたら、父を もたらした。 知らぬこの少年にとって、考えつくかぎりもっとも父に対するそれ 幽霊船を見やっても、しかしなぜかイシュトヴァーンは、少しもに近い感情であったかもしれない。 それをおそろしいと思い、呪わしいと思う嫌悪の情はわいて来はし ( カメロン ) ないのである。 あんたの幽霊なら、こわくないよ、カメロンーーーひた走るフレイ・ それは、ひとつには、動かす人のすがたもないままにかけぬけてャ号のマストのもとで、イシュトヴァーンは考えていた。 ゆくその黒い船が、なぜかふしぎなほど美しく、幻想的であったた ( ただ、あんたがあんまりむざんなすがたで幽霊にさえなっていな めかもしれないし、もうひとつには、それが、かれの知っているー ければーーあんたはいつも、身なりにはおかしいくらい気をつかっ」 ー親しかった死者たちの魂によってうごかされている、と考えるたて、きれい好きだったものね ) めであったのかもしれない。 幽霊船に近づいてゆくフレイヤ号をも、青白い鬼火がほの青くそ ォルシウス号の船長テヴェールをはじめ、かれに笛と木彫りをおめあげるなかで、イシュトヴァーンにはそれでも超自然の怪異と向 しえてくれた若いジェークス、しつかりもののフィルス、かけごときあう恐怖や畏怖はなく、ただ、死者その人に対する哀惜となっか のつよいランーーその死者たちは、みな、もはや、かれにとってはしさだけがあるのだった。 ・カ 親しいものばかりであった。 そしてカメロン ( 近づいて かれを愛し、あとつぎになれとしきりにすすめたカメロン、船員 イシュトヴァーンは、ハッとして、いきなり帆づなをつかんで立 ふうにうしろで東ねたこわい黒髪と不敵な黒い目、ゆがんだ徴笑をちあがる。 もっ伊達男のカメロン、そして投げナイフのあっかいの早さを、自 いつのまにか 分の子どものような年のイシ = トヴァーンときそって本気にむきに フレイヤ号は、幽霊船に追いっきかけていた。 なるカメロン いや : : : というよりも、つねにかわらぬ距離を保って、フレイヤ そのカメロンならば、たとえそのうっし身がくちて死者の仲間に号を誘導してきたかっこうの幽霊船が、いっか、静かにとまってい 入ったといっても、決して、かれの愛するイシ、トヴァーンに危害たのである。 を及ぼそうとはすまい 「追いついたそ」 もはや、魂のみの存在となってからでも、うっし身のときと同じ「罠かもしれん。 クラーケンがおそってくるかもしれんそ。注 324
しい。こんなところで、ガキどものポス は、どこへ、ずらかっていたんだ、イシュトヴァーン ? 」 だよ。頭も切れる、度胸も、 「人聞きがわるいことを云うね」 になってけちな悪事を働いて、ゆくさき、どうなるっていうんだ ? 少年ーー・イシュトヴァーンはにやりとあの悪つぼい笑いをみせ トルクのような、けちな悪党になるのが関の山だそ。それとも、お れが嫌いか ? 」 「おれがいつ、何をしたって ? 」 「あんたは、マシな方さ、カメロン、おれを落とそうと狙ってるい 「おまえさんがヴァラキアに舞いもどってくると、トレヴァン公のろんな男や、女の中じゃな」 治安兵が忙しくなるとうわさになってるそー イシュトヴァーンはヴァシャ果の皮を吐きだしながら云った。 「よしてくれよ」 「こないだ、おれが、あの助平のカンドス伯爵になびくふりをし イシュトヴァーンはペッと唾を吐いた。 て、しこたまおどしとってやった話、きいたかい」 「おらあそんなワルじゃないよ」 「危いまねをしたもんだ。カンドスはトレヴァン公のお気に入りだ 「なら、 しいさ。おれがお前をどう思ってるか知ってるだろう。おそ。 それだけじゃない、港湾組合のギルド長のライス、あれの れは、オルニウス号のあとをつぐのは、お前しかいないとまで決め上のむすめ、太っちょのパウラ夫人から、つつもたせをやったとい てるんだぜ。そのお前に、十五や六で、つまらん強盗や戦場かせぎうじゃないか」 で生命をおとさせたり、おたずね者にさせたかあないよ」 「耳が早いね、カメロン」 「ハッ、親切だね、カメロン船長」 「たった十六で、まるでドールの申し子みたいなガキだ」 「なあ、坊ず」 カメロンは歩人った。 カメロンは、つと近づいて、イシ、トヴァーンの肩に馴れ馴しく「しかしそこが十六の悲しさだな。いい気になってあとからあとか 手をかけた。 ら敵をつくって、いまにどうなるか気がついてない。カンドスもラ 「よせよ。触られるのは、嫌いなんだ」 しかし、お イスも、小僧ひとりが敵にまわすにや荷が重いぞ。 「なあ、イシ = トヴァーン。おれの気持は知ってるはずだそ。もうれがお前のうしろだてになりや、やつらも手が出せない」 そろそろ、おれの船に乗り、おれの右腕になるための勉強をはじめ 「あんたのオルニウス号が、 トレヴァン公の内命をうけて、沿海州 てもいいじゃないか ? こんなちつ。ほけな港町にや、お前は勿体なで海賊をはたらいていることぐらい知ってらあ」 さすぎるよ」 「おい、おい、イシュトヴァーン」 「おれに、あんたのべッ トの相手をつとめ、あげく海賊として縛り「あんたの右腕になったって、先が知れてるってことさえなきや 首になれってのかい ヴァシャ果をひとつもらうよ」 ね、カメロン、一回ぐらい、なびいてやってもおれには同じことだ 2 「そう身もフタ - もねえことをいうな。お前は、見どころのあるやつけどさ」
「さあ」 カメロンがそちらを見るのをやめてふりむき、イシュトヴァーン 波打ちぎわまでおりると、カメロンがそうささやいた。 をちらりと見た。 そのまま、先に立って、そっと海中へ身をおろす。ーーー水しぶき 「その女が気になるらしいな、イシュトフ と物音で注意をひくことをおそれて、あえてとびこもうとはしな 「おい、カメロン」 いま、ちょうど、わたり板をヴァイキングたちが、一人 「待て 二人は、なかば潜水しつばなしで、ただときおり、方向をたしか づつわたらされてるとこだ : : : ふむ、ここからみてもこれだけ大き めるのと息をつぐためにそっと海面に頭を出しながら、静かにフレ く見えるんだから、きっとほんとに巨人なんだろうな。ふーむ イヤ号めざして泳ぎすすんだ。 おお、うしろから二番めに、一人だけ、ちょっと全体に小柄なのが イシュトヴァーンの方が二十歳以上も若いにもかかわらず、さき いるぜ : : : うん、髪も長いようだ。たぶんあれだろう、その女は」 に目標にたどりついたのはカメロンの方だった。かれは、頭を出し カメロンはイシュトヴァーンの肩をどやしつけた。 てようすをみたが、そちらの側ではあまりにも青い光が明るく、と 「安心しろ。その女はどうやら、まだ生きてるようだぜ」 うてい見られずに船に這いの・ほることができぬと気づくと、またも 「云っとくけど、おれは別に、その女と何でもないんだからな」 ぐり、船底をくぐって反対側に出た。それを見ていたイシュトヴァ さあ、いまだ、イシュト。やつらはすっか 「わかってるさ。 ーンはむきをかえて、やはり同じ側に泳ぎつく。 り、例の儀式に気をとられてる : : : それに、あの、オルニウス号の フレイヤ号の巨体はいまやかれらのすぐ上にあった。 ときに見たが、この儀式のときにや、あの死人どもも、みな岸にあ こちらの側は船の影になってまっくらである。二人はそっと泳ぎ がって、それにあのクラーケンの接吻だか何だかのあいだにや、よ もともと死人にやちがいないがーーー動まわって、船から海におりたち、上ったりするときのためのはしご こたわって死人みたいに といっても、船腹にとりつけた、ただの足がかりにすぎなかっ かなくなる。きっとやつらはクラーケンから、精気を注ぎこんでも ・ : だから、フレイヤ号にのりこむとすれたがーーーをさがしあてた。 らわんと動けんのだろう・ : 「おれのからだをおしあげてくれ、カメロン」 はいまだぞ、イシュト」 イシュトヴァ 1 ンが片手でそれのいちばん下の段につかまりなが 「よし」 らささやく。 云うやいなや イシュトヴァーンは身がるにとびあがり、しかし島からみえぬよ「先に入ってようすをみるよ」 うに岩と岩のあいだにかくれ、岩のとぎれたり、低くなったりして「おれがゆく」 「おれの方が、身がかるいぜ、カメロン、青白いイリスにかけて」 いるところはじりじりと這うようにしてすすみはじめた。カメロン がつづく 「見張りとはちあわせするかもしれんぞ」 356
に、全員がためらいもなく持ち場へ走る。 「何だとーーっ・ 8 「装甲板、上げ ! 」 きッと、カメロン、副船長のフィルス、それに水夫長のジェーク 2 「帆をしぼれ。射手、前へ」 スが目を光らせた。 目をみはるすばやさで、戦闘準備がととのってゆく。 「射手が、しなし 「おもかじ、いつばい」 「おお、まるで攻撃する気など、まるきりねえみてえさ」 「右舷、射手用意よろし」 「そんなばかな。 それ以外に、どうすることがある ? あいさ その間にも、音もなく海上をすべる怪船は、みるみるオルニウス つでも、するつもりだってのか」 号に近づいて来つつあった。 「真実を守るティアにかけて、おれは見たままを云っただけだよ」 異常なまでの速さである。カメロンは、上部甲板から主甲板へか イシュトヴァーンはロをとがらせた。 けおりた。 「それならおそらく楯の下にでも伏せてあるのかもしれん。 「おお、船長。やつら、まっすぐにこっちに向かってますぜ」 む、よし、やつらめ、何のつもりだかーー」 「ふん、まるで、船ごとつつこんで来そうな案配だな」 カメロンのことばを、いきなり、イシュトヴァーンと入れちがい 「それにしても、イヤな船だな。まるで、ガン鳥みたいにまっ里 に、見張り台へのぼっていった水夫の悲鳴がさえぎった。 「どうした、ロク ! 」 「ふむ、聖なるドライドンの輪にかけて、あいつがどんな化物を「うわあああーツ ! 」 のせていようと俺はおどろかんそ。 マストにのぼってるのは誰ロクはマストをすべりおりようとしていた。しかし、あまりにも うろたえた手がつるりとマストをはなれ、水夫はまっさかさまに、 おお、イシュトでさあ」 甲板へ叩きつけられた。 「何だと、あのばか、いつのまに・ーーおい、イシトヴァーン。危「ロクッ ! 」 おりてこい」 「ロクがおちた ! 」 「おれは、遠目がきくんだ」 「ばかもの。持ち場をはなれるな」 スルスルとすばしこくメイン・マストをすべりおりて、イシト カメロンはわめいて、そっちへかけよった。フィルス、イシュト ヴァーンは云った。 ヴァーン、ジェークスが追う。 「おい、カメロン、あの船は、どうもくさいぞ」 「大丈夫か。どうした、ロク ! 」 「何が見えた、イシトヴァーン」 「せ、船長 ロクよ、・ 「甲板に、全然射手の姿がみえないんだ」 とこかを折ったらしく、ロから血を流して甲板に倒れて ふ
めようと、ドールの黄泉の底からあらわれたのだ ) カメロンの剛毅な暗い目に、おさえきれぬ動揺と不安の色がうか ぶ。 ( 幽霊船がーー ) 船乗りはみなきわめて迷信ぶかい。 ( 幽霊船ーーーしかし、そうとしか考えられん。俺たちすべてがあれ たちまち、ざわざわと、激しい恐怖にみちたささやきがあっちを見た。そして、あれは、まっすぐにこの船へつつこんできて でも、こっちでもおこり、ヤヌスの印、ドライドンの印を切ろうとぶつかったと誰もが思いこんだとき、ふいと消えていた : ・ : ・ ) する。 ( ドライドンよ、あなたの海は、このような謎をかくしているので 「きさまらーー」 すか ? なぜ : : : ) カメロンは、何十年もの日々をただ海の上でだけくらしてきた、 カメロンはそっとドライドンの印を切り、剣をさやにおさめた。 超ヴェテランの船乗りである。たちまち、かれらが恐怖の危機におふりむくと、フィルス副長と、そしてイシュトヴァーンのするどい ちいっている、と悟って、すらりと剣をぬき放った。 目が、じっと彼を見守っていた。 「いいか、きさまら、下らんことを考えやがるとーーっまらねえこ 「おお、いたのか」 とを、ロに出して、ドライドンのタ・フーにふれるものは、いますぐ「カメロン、あれは , ーー」 この俺が叩っ切ってやる。さあ、どいつだーー俺に成敗されたいや イシュトヴァーンが何か云いかけた。 つは ! 」 そのとき ! 「せ、船長ーー」 いきなり、オルニウス号は、ぐーツと激しくかたむいたー 船乗りたちは、子どものように、信頼しきった目つきでカメロン まるで、何ものかの見えぬ巨大な手が、この大きな船を下から思 を見上げる。 いきりつきあげでも、したかのように おやじ 「うわあーツ この船長さえいれば大丈夫だーーその至上の信頼感が、かれらの 恐怖をおちつかせ、かれらはさわぐのをやめた。 「大波が ! 」 「持場につくんだ、ばかもの。つまらぬことを、何も考えるな」 「イシュトヴァーン、危い ! 」 カメロンにどなられて、あわててかれらはかけ出す。 カメロンはとっさに帆綱にとびつき、身を支えた。 ようやく、船の中に秩序がもどりつつあるのをたしかめて、カメ「何かにつかま : : : 」 ロンはひそかに、部下たちに気づかれぬように身をふるわせた。 云いおえるいとまもあらばこそー 「ワアアアーツ 青い海原はなめらかで、あの黒い船のたてた航跡ひとつ、のこっ てはいない。 「あれは何だ ! 」 ( あ、あれは一体ーー おお、ドライドンよ : こんどこそ 8 3
というんだね」 「あんたはトレヴァン公の大のお気に入りだ。まさか、おれがこん 「いや、出航まえのせわしいときにじゃまして申しわけない、カメ なことを云ったなんてことは : : : 」 ロン船長」 「下らん心配をするな。海の兄弟ヴァラキアの子らだ」 役人は気弱げに笑った。 カメロンは笑った。 「実はわがトレヴァン公の弟君オリ ー・トレヴァン殿下に、乱暴を「おれはそれこ、、 冫つだって公に云ってやるのさ。失礼だが、公の はたらき、害をなそうとしたろうぜき者があってーー」 弟君は兄上とはだいぶできが違いますなとね。それがわからん公じ 「まあ、 いい、日の出とともに出航の予定はかえたくない。手早くやないのだがーーまったく、骨肉というやつは、赤の他人よりよほ すましてくれ」 どめんどうだな」 「別にトレヴァン公の双の翼といわれる、オルシウス号とオルニウ「どうも本当に失礼した、カメロン船長」 ス号、そのかたわれたるこの《海の女王》ォルニウス号まで調べ ごく形式的に、寝台の敷布をめくったり、机の下をのぞいたりし るいわれはないのだが、あんたも知ってのとおりオリー殿下は・ ていた役人たちは云った。」 「今度はどこへ ? 」 「わかってるさ。飲むか、クムのぶどう酒だ。カラムの実入りだ「うん。まずライゴールで商売をすませ、それから南方諸国だ。海 岸にそって、コダイ、ルテチア、順風に恵まれればランダーギアの 「いや、すぐに戻らんとーーー」 方まで下る。たぶんしかし、例によって、あの謎の《ドールのロ》 「しいだろう。たいへんだな、あんたたちも」 の大渦にまきこまれるのをおそれ、ランダーギアまではゆかずにひ 「こう云っては何だがたかがチチア遊郭のガキ一匹に、港を閉鎖すきかえしてくることになるな」 るの、チチアを包囲するのというさわぎでな」 「それはまた , ーー遠い旅になるな」 嘆息して、ロスが云った。 「まあいつもよりは長いがね。しかしどのみち同じことさ」 「しかもどうやら、オリー殿の遺恨というのが、殿下のほうがお忍「ドライドンのよい日和を、カメロン船長」 びでチチアでいかさまばくちをやって、その小僧に見破られたとい 「ありがとうよ。そしてあんたらには、ルアーの恵みをな。このつ うのだからな。いい恥さらしさーーーもっとも例によって、遺恨もさぎ、いっ会えるかわからんが」 ることながらむろんその小僧というのが、なかなかの美少年という「長い旅立ち前を下らぬことでさわがせてすまなかった」 わけだ 0 で、このさわぎさ」 ロスとデムシウスは何度もわびを云って、船長室を出ていった。 9 憤懣やるかたなく云「てから、あわてたようにカメンの顔をうカメロンは銀杯を手にしてそれを見送り、なおもしばらく、船から 2 力がい見た。 役人の小舟がはなれてゆく音がきこえるまでじ「を待った。、 ぞ」
上にふりかかってくるおそるべき運命であると、いっこうに実感すダにしたいのか、おまえは ? 」 ることができぬかのようだった。かれらは何か・ほんやりとしてそれ「だって、このままじゃ 「何とかして、船を、もう少しあそこへ近づけるんた」 を見上げ、再びクラーケンの触手でおりてくるのを見つめていた。 カメロンはつよいカで、イシュトヴァーンの腕をにぎりしめては もう一人が宙にかき消えた。 なそうとしなかった。 イシュトヴァーンはその列にも、またすでに消された二人の中に も、ニオルドらしい人影を見わけることができなかった。ひと目で「あいつらはさいわい、すっかりあっちに気をとられている。いま 女性とわかるニギディアとちがい、みな同じように丈高いヴァイキのうちに綱をぶち切って船をうごかして : : : 」 ングの中から、顔かたちまでを見わけられるほどには、彼はかれら「そんなひまはないよ ! 」 イシュトヴァ】ンはわめいた。 のちかくにいるわけではなかったから、そう断言することはできな かったが、かれは何となく、ニオルドがすでに死んでそのかたわら「いますぐ助けなくちゃ ! もうニギディアまで、あと三人 に築かれた死体の山の中によこたわっているのが見わけられるようや、あと二人しかのこってないんだ。はなしてくれ。おねがいた ! はなしてくれよ、カメロン ! きこえないのか ? 」 な気がした。 クラーケンの処刑ーーあるいはその呪われた食事ーーは、ゆるや「はなさん。おまえにそんなムチャをさせるわけには : : : 」 「はなせよ ! さもないと、おまえなんかーーー」 かに、しかし着実にそのヴァイキングたちの列を宙に消してゆくか 「死んでもはなさんそ、イシュトヴァーン ! 」 に見える。すでに四人のヴァイキングが消減している。 ニギディアは、その列のいちばんさいごに立っていた。仲間たち「ちーーー」 イシュトヴァーンはいきなりカメロンの手をのがれようと身をよ のそのさいごを見とどけて、なおもひるまずに怪物の非人間的な目 にまっすぐ顔をむけている彼女の、蒼白な顔がはっきりと目にみえじった。しかし、カメロンは、じゅうぶんに予期していた。 カメロンの手が、しつかりとイシュトヴァーンの胴を羽がいじめ るような気が、イシュトヴァーンはした。 にしている。少年はもがいたが、カメロンのカのほうがはるかにつ いきなり、彼は立ちあがった。 よかった。 ぐい、とカメロンの手が彼の腕をつかんでひきとめた。 「ちくしようッ ! 」 「伏せろ ! 見つかるそ ! 」 イシュトヴァーンはやにわに身をしすめ、がっしりとっかまれた 「はなしてくれ」 腕にちぎれそうな激痛が走るのにもかまわす、カまかせにカメロン イシュトヴァーンは喘いだ。 の腹に頭突きをかませた。 「ニギディアを助ける。あの銛をあいつに打ちこんでやるんだ」 さすがにうッと呻き声をあげてカメロンがひっくりかえり、腹を 「待て。ここからじゃ届きっこない。たったひとつのチャンスをム 360
なにものかが、いきなり、前ぶれもなくかれの腕をうしろからっ かんたのであるー 第四話夜光虫の海 「おまえ、おまえーーー生きていたのか。よく、ぶじで : どうしてーーーどこでーーおまえ : カメロンのことばはしどろもどろになってかき消えた。 「あんたこそ、カメロン、あんたこそ : : : おれは、おれはてつき り、あんたが死んじまってーーあの、あの : : : 」 イシ = トヴァーンは喘いだ。かれはカメロンの強いカで抱きしめ っこうに気にならなかった。 られて、息もできぬほどだったが、い 「なんてこった ! ああ、ヤヌスよ、なんてこった ! 」 「わあっ ! 」 かれはロ走っていた。 イシュトヴァーンは思わす、女のような悲鳴をあげていた。 「おれはあんたが船ごと沈んじまったか、そして : : : 」 あのおそましい死人の感触、死人どものあいだにおしつぶされ、 倒れてい「たヴァイキングたちがありありと目によみがえ 0 て、し「オル = ウス号があのくらいのことで沈んでたまるもんか」 ばらくは、腕をぎゅ「とっかまれたまま、ふりむく勇気さえも出な荒「。ほく、イシ = トヴァーンの背中や肩をびしゃびしゃ殴りつけ ながら、カメロンは叫んだ。 かった。 全身が凍りつき、のどに巨大な恐怖のかたまりがっかえた。よう「カメン船長ーー・ヴ , ラキアの誇るオル = ウス号のカメ 0 ン船長 やく、とりあえずはぶじな身にな 0 たと信じこんでいたので、かれともあろうものが、そうかんたんにくたば 0 てたまるかよ ! ャー ンの運命の機にかけて、おれが心配していたのはおまえだよ ! も はほとんどその場で気を失ってしまってもふしぎはなかった。 ちろん、どうせおまえのこった、そうかんたんにはくたばらないと が、そのとき は思っていたさ、おれと同じようにな。しかし何といってもおれは 「イシュト なっかしいーー限りなくなっかしい、ききお・ほえのある声が、うおまえが海にのみこまれてゆくのをみたし、それにあのクラーケン のやつだ : : : おまえがもし、たった十六で、おれのせいでこんなク しろから、彼の名を呼んだのである。 ラーケンのいる海につれてゆかれて、そこでおまえの大望をはたす 「イシュトヴァーン ! 」 イシ = トヴァーンはふりむき、そして叫び声とも悲鳴ともっかぬこともなく死んじまいでもしたら、おれはどんなに自分をのろい くやみ、くやんでもくやみきれぬことかと思ったよーーそうだ、お 音をたてた。 れは、ずっといつもおまえのことを考えていたよ : : : 」 「カーーーカメロンー カメロン ! 」 「おれはーー」 「おまえ イシュトヴァーンは、かれをうしろからカまかせにはがいじめに あいてもまたしかし、ろくにものも云えぬようすだった。 3
その、異次元の世界にも似た時間のさなかで、かれらは見た。 剣をかわしたが、しだいにそのうごきは少しづっ敏捷さを失いはじ 青白い光に包まれたクラーケンの島の中で、赤毛と皮の胴着の一 めていた。 「インユトーツ ! つのすがたが、やにわにそのいたところをはなれて走り出す。 カメロンは切り結びながらわめいた。 ニギディアだ。彼女のかけてゆくさきには、巨大な銛が、なかば 地面につきささって、忘れ去られている。 「危い ! 」 彼はとびこんでいってイシュトヴァーンをうしろから切り倒そう ニギディアが、ようやく、銛の近くにかけよったとき としていた死人をなかば体当たりでふっとばした。 クラーケンは、はじめて、彼女の意図を理解したかのようだっ 「イシュト 「だめだ、カメロン」 それは、のろのろと、彼女の方へその触手をのばしはじめた。 イシュトヴァーンは喘いだ。おそらくかれのこれまでの短い人生 ニギディアは、いまや、銛に手をかけて、彼女の大柄なからだに ではじめてかれはそのことばを本心からロにせねばならなくなったさえあまりにも巨大にみえるその銛を、地面からひきぬこうとして のだ。 「やつらは多すぎる。もうだめだ」 ひとびとは イシュトヴァーン、カメロン、死人ども、そして 「ばか。立つんだ。危い」 世界のすべてが、息をつめて彼女を見守っていた。彼女のうごき 「もう動けない。もうーーー」 は、あまりにものろのろとしており クラーケンののろのろとし 「立つんだ、ばか ! 」 たぎこちない動きよりもさえ、あまりにもおそすぎるようにみえ カメロンはイシュトヴァーンにおおいかぶさるようにして、かか ってくる敵の一撃をうけとめた。 彼女はのろのろと銛をゆさぶり、何とかそれをひきぬこうとする 「まーーーまだお別れを云うにや早すぎるそ ! ℃しか、おれは・ が、それはふかぶかと地面にくいこんでいる。 彼女はやにわに、銛の端に全体重をかけて、それをてこのように カメロンの剣がカシーンと音をたてて彼の手からふっとんだ。 使ってこじり出そうとこころみた。 彼は本能的に手をあげて身を庇おうとする。 のろのろと、クラーケンの触手が、しかしいまは明瞭な怒りと殺 そのとき 意をもって彼女のうしろに迫っている。 ふいに、世界のすべての時間が、とまったような気がした。 ( ニギディア ! ) ふいに、すべてが、静止したかのようだった。 イシュトヴァーンは叫・ほうとした。しかし、声はのどにつまって 何もかもが、奇妙なくつきりとした画面と化し 365
だから、わるいけれ「だが、おれをかわいがってくれた。 「ヴァラキアの坊や。そテいうわけなのよ ど、あたしはあんたに水先案内をたのまなくちゃならない。やっとれたんだ。サリアの手にかけて : この船はそのために北からけてーーと : : : 」 ぶつかった場所をおしえてちょうだい。 やってきたのよ , ーーせつかく助かったのに、またあの怪物にわざわ ( カメロン ざ出会いにいくなんて、イヤだろうけど、いうことをきいてもらう ( あんたを死者として幽霊船にのって、この愛するレントの海をさ まよわせたりしやしないさ、カメロン。そうとも、ドライドンにか 死者たちの魂のためだもの」 けて、おれのあんたへのーーあんたへの思いにかけて ) 「やつをーーー」 「インユト : : : 」 イシュトヴァーンは星空を見上げた。 「クラーケンを殺せば、あやつられている死者たちの魂は、解放さ瞑想的な声音で、ニギディアがささやいた。一 「それでは、あたしもあんたも、好きなものをなくしたどうしだわ れるのか ? 」 こっちにおいでよ。あたしの部屋へ」 クラーケンは、ふしぎな力をもっている。まっすぐ目 「そう。 ・ : やっ ニギディアは、イシュトヴァーンを、彼女の船室へつれこむと、 を見つめれば、生きてる人間でも、金縛りになってしまう : ・ がほろびれば、あやつられていた死者たちもついにほんとうの眠り赤毛をかきあげ、ふーっと息をついた。 「ああ、暑い 夜になっても、少しも涼しくならないね」 につけるのよ」 「そんな。ヒッタリした皮ものをきてるからさ。ヴァラキアでは、み 「いいとも」 んな、体にくつつかない、フワフワした布をきてるよ」 イシュトヴァーンはひくく云った。・ 「カメロン、ジェークス、フィルス テヴェール : : : やろうしや「脱いじまった方がすっとするわ」 ニギディアは、皮の胴着と短いズボンとを、からだからはぎとっ ないか。おれも、やっからおれの大切な人びとを解放し、眠りにつ た。堂々たる、女神のような、自信にみちたしぐさ。 かせてやりたい。あんたたち、ヴァイキングがイヤだといったっ 「ヴァイキングは、一夫一婦を守るの」 て、手伝わせてもらうぜ、クラーケンをやつつけるのをーーーおれの 彼女は云った。 守り神、聖なるドライドンにかけて」 「愛人が死んじまったら、その女や男はもう、新しい愛人をもてな ふいに、イシュトヴァーンの目から、涙がこ・ほれおちた。 「あんたの船も、やつの手におちたのね。大切なーーー父さんか、兄いのよーーーヴァイキングの中にはね。異国人となら : : : いいの」 「ニギディアーーー」 さんでものっていたの ? 」 「あたしを抱くのはいや ? 」 「おやじでも、兄きでもないよ」 「ーーーあんたは、とてもきれいだ。でも : : : 」 イシュトヴァーンはつぶやいた。 ほんとにかわいがってく 2 3 いつもそういってた、神々にか