正面玄関に通じる、すっかり舗装の崩れてしまった小径をたどっ その家は、あらしのただなかに閉じこめられてしまった難破船の ように、草しげる岬の突端に無残な姿をさらして、海を見下ろしてていくと、ふと家の床下で何かが動いたような気がした。ぎよ 0 と して立ちすくみ、エレンは、床下の暗いがらんどうをのぞきこんで エレンはすっかり気がめいってしまった。 いた。その光景に、 「この家ですか」スビ 1 ドをおとしながら、風防ガラスごしに斜めみた。犬たろうか。それとも、子どもでもあそんでいるのか。大き 。けれども、かくれている くて、まっ黒くて、すばしつこくて : 前方をすかし見て、タクシーの運転手がいぶかしげに聞いた。 こんなとこのか、いなくなってしまったのか、その姿はもう見えなかった。す 「らしいわ」エレンだって確信があったわけではない。 ぐ背後で、タクシーのエンジンの音がしていた。ひき返そうかとふ ろに伯母が、というより誰か人が住んでいるなんて、信じられない タニーのもとへ。あの、うんざりするいざこざのただな と思った。・ 気持だった。 うそとか かへ、もう一度もどろうか。あのひとの、飽きもしない、 このあたりの習慣どおり、家は、木造の建物にセメントの・フロッ クをはかせて、地上三、四フィートほどもちあげたっくりになってら約東のくりかえしのなかにー エレンはふたたび歩き出し、玄関につくと、ゆがんだ灰色の扉に いた。波の害など、いまやこの家をなしばな風や時のながれにくら こぶしの先をあてて、鋭く二回ノックした。 べたら、ほんの徴々たるものにすぎなかったのだが。家は、・フロッ クの脚の上に、やっとのことでしがみついているように見えた。野老いさらばえたひとりの老婆が扉をあけた。棒のようにやせ細 り、見るからに病み衰えた様子だ。黙ったまま、二人はまじましと ざらしの壁板に、灰色の。ヘンキが、ところどころかさぶたのように 残っている。カーテンもない窓がぎらぎらと光を照りかえし、はずおたがいを見つめあった。 れかかった雨戸がひとつ、中途半端にかしいでいた。びどくたわん「メイ伯母さま、ですの」 一瞬、誰だかわかったらしく目をかがやかせ、老婆はかすかにう だ二階・ハルコニーの床板のすきまから、空が見えた。 「待ってます」運転手はそう言って、雑草がのび放題になったドラなずいた。 「誰もいなかったらこまる「エレン、だわね」 イヴウェイの突きあたりに車を止めた。 それにしても伯母は、いつの間にこんなにふけこんでしまったの でしよう」 「ありがとう」スーツケースと一緒に、エレンは後部座席から降りだろう。 立った。運転手の掌にきっちり料金をわたしてやり、家を見上げ「おはいり」かぎ爪のような手、羊皮紙のようにしわくちゃの腕を た。人の気配はかけらもなかった。みるみる肩がうなだれるのが自のばして、老婆はエレンを招き入れようとした。そのとき、ふと、 エレンは背後に風のけはいを感じた。家がきしみ、足もとの床が、 分でもわかる。 たしかに少し沈んだような気がする。足どりももどかしく、エレン 「誰か出てくるのが見えたら、行っちゃっていいわ」運転手にむか は家のなかへとびこんだ。後ろで老婆が扉をしめた。老婆たなん って、エレンは言った。 7 6
きくりとした。 るままに、出されたビールを飲んだ。こ 課長も飲みなが : ばくが経験したのと、同じではないか。 それでは : ら、大いに喋った。ご機嫌だった。 ばくは、課長をみつめ : : : だが、すぐにはどういって 「こんな郊外だけれども、自分の城というものを持って ししか、わからなかった。 みると、悪くはないもんたよ」 その間に、先輩のひとりがたずねた。 課長はいう。「ぼくは子供のころからすっと借家住ま いでね。いっかは自分自身の家を持とうと思っていた。 「本当ですか ? それ、幻覚ですか ? 夢じゃないんで それが現実になったんだから : : : まあ、はじめから自分すか ? 」 「さあ。どっちとも、ぼくにはわからん」 の家屋敷のある人にはわからんだろうし、こんなささや かな家で何をいってやがるんだ、と、笑うかも知れない と、課長。 : ・ほくにとっては、夢の実現なんだよ」 「課長、酔っ払って、夢を見たんでしよう」 別の社員がいった。 そんな風に話す課長よ、 ーいかにも柔和であった。 「そうかも知れん。だが、ぼくはたしかに見たんだ」 「何しろね、これまではせまい団地にいただろう ? 」 課長は、ビールを飲みつつ、つづけるのである。「た 課長は笑った。「幻覚か : : : 夢か : : : わからんが : から、なかなか、あたらしい家の広さになじめないんだ ともかくばくは、自分の心理が投影されたみたいな気が な。貧乏性という奴だろう。この間もね、おかしな経験して : : : 不思議だったよ」 をした」課長は、くつくっと笑った。「この部屋で、夜 課長夫人が、ビールとおつまみを持って来た。 中にひとりでウイスキーを飲んでいたと思ってくれ。き 「あら。またその話をしてらっしやるの ? 」 みたちが手伝ってくれて引っ越した、その晩のことた。 と、課長夫人はいった。「あんまりそんなことばかり ぼくはだいぶ酔っていた。するとだよ、ふと気がつく いっていると、皆様に笑われるじゃありませんか。まる と、ばくの身体から、もうひとりのぼくが出て行って、 で、家を建てることが人生の目的だったみたいですわよ」 そのへんを歩き廻るんだな。まるで、部屋の広さを確認 「仕方がないさ。ある程度は真実なんだからな」 するみたいに、さ。あれ、と思って目をこらすと、もう と、課長。 いなかった」 「これだから、困るんですよ」
草のはえた砂地の斜面を、せまい浜めがけて、エレンは一気にか してなの」 とっさに、本能的に、エレンはドアロから見えないように身をひけ降りた。忘れてしまいたかった。どんな顔をして、伯母に会った祐 そめ、耳をそばだてた。 らいいというのだ。どんな顔をして、これから先暮していけという 「一緒にいてくれるって言ったのは、あんたよ」伯母の声がつづのだ。あんな、あんな家に。 ダニーの声がきこえるような気がした。うんざりしたような、こ 。声が哀れつばくて、嫌な感じがした。 ばかにしたような、それでいてやつばり思いやってくれている声 「そばにいて、ずっとみててくれるって約束したくせに。お迎えが 、カ 来るその日まで」 「あの娘がいたじゃないか」ビータ】の声だ。「行っていいもんか「おまえさんは、セックスに関してうぶすぎるぜ、エレン。黒か白 どうか、わからなかったんでね」 かしかないんだからな。子どもなんだよ、まったく」 ダニーが恋しくて、エレンは泣き出してしまった。ダニーのもと 「あの娘がいたからどうだっていうの。かまやしないわ」びしやり とメイ伯母が言った。「あたしの目の黒いうちはね、、、 ししこと、あをとび出したりなんかしなければよかった。あのひとだったらなん の娘なんか関係ないの。この家はまだあたしのものなんだから。そて言うだろう。伯母にだってたのしむ権利はあるっていうかしら。 してあたしは、そういうあたしは、あんたのものなんじゃなくっ年齢なんてのも偏見のひとつにすぎない、ぐらい言うわ。 て ? ね、ね」 でも、それならば、あの青年の方はどうなのだ。あの、ビーター 会話はそこで途切れた。できるかぎり足音をしのばせて、エレンとかいう青年は。いったい何がおもしろくて、やっているのだ。伯 はいそいでその部屋を離れ、家から逃れ出た。 母を利用していることに疑いはなかった。伯母の持物をくすねてで 海からの風は、湿っぽくて、生あたたかかった。それでも、閉鎖もいるのだろうか。それにしてもーーー二階の、何もない部屋べやを 的で崩れきったあの家にくらべれば、まだしも救われたような気が思いうかべて、エレンは首をふった。 した。、 しくら深呼吸をしてみても、気分はなおらなかったけれど。 ジーンズのポケットからティッシュを一枚ひつばり出して、彼女 ふたりは恋人どうしだったのだ。死にかけた伯母と、あの嫌味なは涙をぬぐった。おかげで、ずいぶんいろいろとつじつまがあって 青年は。 きた。伯母が、あんな朽ちはてた残骸みたいな家に必死でしがみつ いているわけだってわかったし、弟にたずねてきてもらいたがらな あの、冷ややかな目をした、筋骨たくましい、傲慢な闖入者が、 か細い、老いさらばえた伯母と寝ているなんて。想像するだけでもい理由もよめた。 胸が悪くなったが、疑う余地はなかった。さっきの会話の切れつば「こんちは、エレン・モロウさん」 しからも、伯母の声音からも、それは、火を見るよりも明らかなこ ぎよっとして頭をあげると、すぐ目の前に彼が立っていた。あ とだ。 の、ひややかな笑みをうかべて。一瞬目があったが、次の瞬間、エ
お・まろ テレビから廱につかめたものは、中ソ国境で小ぜりあいがあり、 おや ? と思っていると、ジー・フが二台、かなりのスビードで走 在韓米軍が中国を支援に五千名からなる空艇団を派遣したというこりこんできて、塀の前に止まった。 とであった。もとはといえば在韓米軍総司令官の独走だが、事態は後のジープから短機関銃を手にした数名の兵士がとびおり、左右 最悪のコ 1 スをたどってしまった。日本国軍に振りあてられた役に散った。守の家の玄関口と裏木戸にまわったのだ。 は、宗谷・津軽・対馬三海峡を封鎖して、日本海にいるソ連艦船を先頭の車の助手席から、夏たというのにダークスーツをつけた男 出られなくすることであった。 がおり、続いて後ろの座席から長身の男が不慣れな様子でおりた。 日本はどこにも宣戦していない。たが来るべき結果は予測でき作業服のようなものを着ている。 その声をぼくはかろうじてのみこんだ。 国内全土に戒厳令が布かれ、午後八時以降の外出は禁しられると いう。先程の陸上部隊はそのためのものであった。 パパは工場のはずだ、なんだってこんな兵隊たちといっしょに・ : 戦争がどういう過程で進むのか、ぼくに分析できるわけもない。 ただ、核ミサイルを射ちあったら世界の終りとなるだろうことは、 だが、そんなことを考えているひまはなかった。突然、守の家の 常識以前のことであった。 勝手口の方でもみあう気配がしたかと思うと、ダダーンツという銃 パパなら、ぼくの疑問に答えてくれるかもしれないと思ったが、声が耳をつんざくほどに響いた。続いて一発。 留守である。ママは、まるでヒステリー状態で、相談相手にはなら足早にかけ去る足音がする。室内に灯がともり、銃を手にした兵 士のシルエットが勝手口の方へよぎった。 いらだった気持を誰かにわかってもらいたいと思った。 誰かが裏口から逃げたのだ。撃たれたのは兵士のひとりであろう 、刀 ( そうだ守にきいてもらおう、彼なら : : : ) それまでの恨みはケロリと忘れ、ばくは食事を済ますと、キッチ パパは黒い背広の男と並んで立っていた。 ンの網窓から、守の家の方を見た。 ふと男がふり向き、金網ごしにのそいていた・ほくと眼があった。 窓に灯がともっている。 帽子のひさしのかげから冷ややかな視線がぼくに注がれている。 えら 守は帰宅したのたろうか。正太と進にみつからなかったのたろう上唇の薄さと鰓のはった顔型が、酷薄な印象を与えていた。彼はパ パの方を見てかすかに笑みをうかべると、ジープに戻り、運転手に 勝手口から出るため窓を閉しようとしたとき、車の音がきこえ、命じて、兵士たちのかけ去ったあとを追った。 ヘッドライトが守の家の板塀を嘗めた。 残されたパパは、・ほくの窓に向ってきた。 とたんに守の家の灯がパッと消えた。 「圭一、部屋に戻りなさい ! 」 0 、 0 、 8
んだかはりがなくなっちゃってね。おかげで、この家ときたら、 いってもらえると思って」伯母は敷居のところで立ちどまり、つい まだに買ったときのまんま、。ほろぼろの難破船みたいなありさまでてくるようエレンに手まねきした。「シーツ類は、きれいなのが廊 7 すよ。掘り出しものなんてもんじゃなかったのよ。誰も買い手がっ下の棚にありますからね」 かなかったんだから。ヴィクターとあたししか、ね」ふいと誇らし エレンはなかをのぞきこんだ。家具といったら、べッドと鏡台 げに顔をあげて、メイ伯母はほほえんでみせた。「あんたは、どうと、まっすぐな背もたれのついた椅子がひとつあるきりの、殺風景 かしら。気にいってくれる ? もしも、あたしがあんたに、この家な部屋だった。壁紙もありふれた緑色で、飾りもない。マットレス を残してあげたら」 はむき出しのままだし、フランス窓にはカーテンがなかった。 「そんなこと。伯母さま : : : 」 「ハルコニ ーには出ないようにね。ひどく足場のいたんでるところ 「かまいませんよ。他にあてがあるわけじゃなし。あんたの方で、 があるんじゃないかと思うから」伯母が注意した。 どうしてもこんな・ほろ家じゃがまんできないっていうんなら別だけ「そうらしいですわね」エレンも言った。 ど。でも、 いいこと、ここだって、まるつきり捨てたもんでもあり「どこかがまずだめになる。そういうものなのよね。さあ、もうそ ませんよ。建物があんまりひどく虫にやられてたり、腐ったりしてろそろひとりにしてあげなくちゃ。あたしもちょっとっかれちゃっ るようだったら、とりこわして、あんたとダニーの気に入るような たわ。タごはんまで、それそれひとねむりするのはどう ? 」 のを建てたらいいわ」 伯母を見ていると、エレンは胸が痛んだ。青ざめ憔悴しきった、 「お気持はとっても、うれしいわ、伯母さま。でも、お亡くなりにしわだらけの、伯母の顔。ちょっと階段をのぼっただけなのに、そ なる話なんか、なさらないで」 れがこんなにこたえているのだ。手には小きざみに震えがはしり、 「この家じゃいや ? あたしの方はかまわないのよ。でも、あんた伯母は、やつれはてて灰色にくすんで見えた。 によけいな気をつかわせちゃってもなんだから、この話はもうよし エレンは思わず伯母を抱きしめた。 ましよう。お部屋に案内してあげましようね」 「メイ伯母さま」やさしくよびかけた。・「わたし、きっとお力にな 「この頃はもう、二階にはいかないもんだから」手すりにしがみつりますわ。どうか安心なさ「て。わたし、おそばについていますか くようにして、何度も休み休み、ゆっくりと階段をのぼりながら、 ら」 メイ伯母が言った。 しきりにうなずいてみせながら、メイ伯母はエレンの腕をすりぬ 「あたしの寝室は下にうっしたの。しよっちゅうの・ほり降りしなきけた。 ゃならないんじゃ、しんどすぎるでしよ」 「ええ、ええ。きてくれて、ほんとにうれしいわ。あんたのこと心 二階は、強烈な、かびと湿った海のにおいがしていた。 から歓迎しててよ、あたしたち」くるりと背をむけて、伯母はその 「この部屋からだとすてきに海が見えるの」伯母が言った。「気にまま階下へ降りていった。
ますわ。進んでここまで往診してくださるお医者さまだっているかエレノは立ちあがって、後ずさりしながら部屋を出た。父親がむし も知れませんし」 ように恋しかった。誰か、この悲しみをともにわかちあってくれる 8 メイ伯母の青ざめた顔が、枕の上でかすかに動いた。 ひとがいてほしかった。 「いいのよ、、、 ししの。お医者さまにできることなんか、ありやしまその日はそのまま何ひとつ手につかず、彼女はいらいらと本を読 せんよ。もう、どんな薬だって手遅れなんだから」 んでみたり、あてもなく家のなかをうろついてみたりしてすごし 「でも少しはお楽になるかも : : : 」 ダニーのことや伯母のこと、ビーターとかいう不快な闖人者の 「しいこと。あたしは、ほとんど感覚が麻痺しちゃってるのよ。ちことが、きれぎれに脳裏をかすめる。おりからの風が古い家をゆら っとも痛くなんかないの。だから、もう心配しないで。いし 、わね」し、屋体骨がきしんで、ひどく耳ざわりな音をたてた。朽ちはてた 伯母は、なんて憔悴しきってしまったことだろう。まるで、すっ残骸のような家に閉じこめられているのに耐えきれなくなって、エ かり精根っきはててしまったみたいだった。ふとんのなかにちちこ レンは正面ポーチに出た。手すりにもたれて、天色と白にひかる海 まっている、か細い姿を見ていると、熱いものがこみあげてきた。 をすかしてみる。ここでなら、思いっきり外の風をすいこむことが 思わず、エレンはべッドのわきに突っ伏した。 できた。頭上で無気味な音をたてる・ハルコニ 1 のきしみも気にはな 、 . つよ、 0 「メイ伯母さま、おねがい。死なないで」 「ほらほら、いい子だから」身じろぎひとっせずに、老婆がやさし何気なく、手をのせていた手すりに目をむけて、彼女は、突き出 く言った。「しつかりしてちょうだい。あたしだって、そりや、 しているとげのひとつをつめでひっかいてみた。すると、驚いたこと まのあんたみたいな気持になったことだってあったわ。でも、あた に、とげどころか、ペンキのはげた木の部分までごっそり一インチ しはちゃんと乗りこえてきた。ありのままの現実を受け入れようつ四方ほどかけおちて、そのあとから、スポンジのように穴だらけで てしてきたの。だから、あんただって。あんただって、そうしなく やわらかくなった内部がのそいた。木がふるえているように見え っちゃ」 る。エレンは一瞬わけがわからなかったが、すぐに白蟻にやられて 「いや ! 」ペッドに顔をおしあてたまま、ニレンが小さく言った。 いるのたと気がついた。おそましさのあまり小さく悲鳴をあげ、彼 できることなら、伯母を抱きしめてやりたかった。ただ、老婆の静女は、目の前にさらけ出された、内なる世界の様相を見すえたまま 謐さには、・ とこかそれを許さないところがあった。せめて手をさし後ずさりしーー、・家にもどって、後ろ手に錠をおろした。 のべるなり、こちらに顔をむけてキスぐらいさせてくれたら。エレ 日が暮れるにつれて、食事と人が恋しくなった。ふと、朝ねむつ ンの方から動きをおこすのは、何となくはばかられた。 ている伯母を残して部屋を出て以来、伯母の部屋で物音ひとっしな 涙もかれはて、やがてニレンは身を起こした。伯母はまぶたを閉 いことに気がついた。台所を点検して、献立の心づもりができる じて、ゆっくりやすらかな寝息をたてていた。熟睡しているのた。 と、エレンは伯母を起こしにむかった。
レンは、相手の、暗い打ち解けがたい目から視線をそらしてしまっ エレンはしばらく黙っていたが、やがて言った。 「あのひとは、病気でさびしがりやの年よりだわ。誰かがいてくれ 7 「あんまり愛想のいい方じゃないみたいだね」彼が言った。「あっ ないとやっていけないのよ。でも、あんたの方は、いったい何の得 というまに行っちまうんだもの。話しかけるひまもなかった」 があるっていうの。死んたらお金を残してもらえるとでも思ってい 彼女はビーターをにらみつけ、さっさとそのそばを通りすぎようるの」 とした。青年は、歩調をあわせてついてくる。 馬鹿にしたように、青年がせせらわらった。 「そんなにすげなくするもんじゃないよ」彼が言った。 「あんたの伯母さんは、金なんかありやしないよ。あの・ほろ家があ 「おれのこと、理解しようとしてくれなくっちゃあ」 るつきりだ。それだって、あんたに残すつもりでいる。おれは伯母 エレンは足を止め、きっとなって青年にむきなおった。 さんの求めるものを与えてやり、伯母さんはおれに必要なものを与 「そんな必要があって ? あなたなんかどこの誰かもわからなけれえてくれる「てわけだよ。お金なんかよりず 0 と、根本的で重要な ば、そんな人がどうして伯母の家にいるのかも、わたしにはわからものを、さ」 ないっていうのに」 顔が赤くなったような気がして、それを見られるのがいやさに、 「まんざら知らないってわけでもなかろうに」彼が言った。冷たく エレンはきびすをかえすと、足をはやめて砂丘を横ぎり、家の方へ 見すかされて、彼女はもう少しで息が止まりそうになった。 ともどりはじめた。青年はやつばり、すぐ脇を歩調をあわせてつい 「あんたの伯母さんは、おれがみてやってるんだぜ。おれが来る前てくる。見たわけではないが、そんな気がした。 はまるつきりのひとり・ほっちだったんだ。家族もなけりや、友だち とうとう青年の手が彼女の腕をつかんだ。思わず彼女はあえぎ、 だ 0 てなくてね。完全に無防備だ「たんだぜ。あんたにはシ「ツク声がもれたとたん、今度はその声にあわてはじめた。ビーターの方 な話かも知らんが、いまじゃおれに感謝してるよ。あんたがいくらはといえば、そんなことには気づいた素振りもなか 0 た。彼女をひ おれを追い出そうとしたって、伯母さんの方でいい顔なんかし「こきとめるや、何やらしきりに、地面の方に注意をなけさせようとし ないさ」 ている。 「もう、わたしがついてるわ」エレンが言った。 なんだか馬鹿ばかしくなってしまい また少々びくつきながら 「わたしは家族の一員よ。伯母の弟た 0 て来るわ。二度と伯母をひも、彼女は強いられるがままに青年とならんで地べたにしやがみこ とりになんかするものですか。どこの馬の骨ともわからない人の思んだ。ビーターが気をとられていたのは、ひとつの戦いーーーほんの いどおりになんか」 わずかな砂地にくりひろげられる、生死をかけた戦いなのだった。 「伯母さんはおれを離しやしないさ。あんたの家族が米ようと、誰砂のように生気のない色をした一匹の蜘蛛が、パイ。フクリーナーの が来ようと、ね」 ような脚を、油断なくうごめかしている。キチン質の胴体を陽光に
て、とエレンは思う。わたしの伯母なのに。 はちゃんと建ってるでしようね。あたしは、それだけで、たくさん」 「ひとりつきりでこんなとこにいらっしやるなんて、ほんとにいけ「伯母さまったら」骨と皮ばかりになった伯母の肩に、エレンはそ 6 ませんわ」エレンは言い出した。「知ってさえいましたらわたし、 っと手をおいた。「そんなこと、おっしやらないで。死んだりなん いえ、父が、けっしてこんな : : : 」 かなさらないわ」 「助けてもらいたければ、とっくにそうおねがいしてますよ」伯母さっきと同じ乾いた声で伯母はわらった。 が言った。エレンの父親そっくりの鋭い口調だ。 「あたしをよく見てごらん。うそじゃないんだから。とっくに手遅 れなのよ。すっかり、なかを食いつくされちゃって。こうして、あ 「でも、このお家」エレンはあきらめなかった。「おひとりじゃ、 とってもたいへんですわ。いまにも崩れてきそうですもの。万が一んたを迎えに出てるあたしの表皮しか、もう残っちゃいないんです のことでもあったら。伯母さま、ひとりつきりなのに」 エレンは伯母の目のなかをのそぎこんだ。あまりの無残さに、思 老婆がわらった。乾いた、紙がかさこそ触れあうような声だ。 「とんでもない。 この家は、あたしなんかよりよっ。ほど長生きしまわす涙がこみあげた。 すとも。それに、物事は外がわから見ただけじやわからないものだ 「でも、お医者さまならきっと」 って言うでしよ。ごらん。これでも、住み心地はなかなかのものな 「お医者だってどうにもできないことがあるのよ。誰にだって、 のよ」 つかはそういう時がくるの。この世とおさらばしなけりゃならない 言われてはじめて、ニレンは廊下に目をむけた。しんちゅうのシ時が、ね。ま、入ってひとまずすわろうじゃないの。お昼は ? 長 ャンデリアが下がり、豪華な東洋のじゅうたんをしきつめた、天井旅だったから、お腹がすいてるんじゃない」 の高い、幅広い廊下だ。壁は卵色に塗られ、階段もどっしりとりつ めまいを覚えながら、エレンは伯母について台所に入っていっ ばで、びくともしそうになかった。 た。緑と金色で統一された細長い部屋だった。テー・フルの前にすわ り、エレンはじっと、壁紙に描かれた、魚とフライバンの模様ばか 「ほんと。なかの方がずっといいわ」エレンが言った。「外の道か ら見たときには、まるで空家みたいでしたもの。タクシーの運転手りみつめていた。 さんだって、人が住んでるなんて信じてくれなかったくらい」 伯母が死にかけているなんて。思ってもみなかったことだった。 「あたしには、内部のことだけが気がかりなんですよ」老婆が言っ父の姉とはいえ、たった八つちがいなのだ。父の方は、タフで健康 こ 0 「こんなにしちゃったのは、みんなあたしのせいなんだから。そのもので、いまなお男盛りといってよかった。食器棚からカウン でも、 いくらこの家が蜂の巣みたいに・ほろ・ほろで、虫にだってひどターをつたって別の棚へ、昼食を仕度するために、ゆっくりと動い くやられてるとはいっても、このあたしにくらべたら、またまたよていく痛々しい伯母の姿を、エレンは見やった。 つ。ほどましなのよ。あたしが死んでお墓に埋められたって、この家「あたしやりますわ、伯母さま」エレンは立ちあがった。
。そして、角の わってしまったの。そして、そのあとから、こういう若者向けの店が出入りしているのに初めて気がつくってわけ : がまわりにどんどんできはじめて、一層ひとの流れを引きつけたつお豆腐屋さんが、アウトドア・スポーツのお店になっていたことに 5 てわけ。 もっとも私だって、ときどきはこの辺にくるわけだかも突然気がつくの。その前から、なにか変だな , ー・、・通りで擦れ違う ら、大きなことはいえないけど」 ひとたちが、以前とは違うみたいだなってことには薄うす気がつい 亜希子も苦笑しながら、眼の前のフルーツ・ ハフェに手を伸ばしてはいたのよ。でも、それが意識にの・ほってくるのは、すいぶんと あとのことなのね」 : さっき、 「ひとの嗜好なんて、実にあやふやなもんなんだね。・ 宇田川も亜希子の言葉に同意を示した。 私がコーヒーといって注文したら、ウェイトレスが、・フレンドです「そういえば このあいだ、きみを家まで送ってから、私はまた かアメリカンですかって説いただろ。私にいわせれば、コーヒーとあのあたりをぶらぶらとしたんだよ。気がついたら、いつのまにか いったらコーヒーのことさ。あのアメリカン・コーヒ 1 なんて、お代々木公園に戻っていた。そのときーーー変な話で恐縮なんだが 湯割りの薄いやつが出廻りはじめたのも、考えてみるとこの十年間私は急に尿意を催したのさ。すこし先に、公衆便所らしい灯が見え のことだ。それを、いまでは誰も疑いもなしに美味そうにってい たんで、私は急いでなかに飛びこもうとした。そしたらーーこ るーーー・考えてみれば、不思議なもんさ。ひとの好みなんて、そんな彼はすこしおかしそうに笑った。 ふうにコロコロとすぐに変わってしまう。もっとも、さっきのきみ「いったいなんだったと思う ? そこは地下鉄の出人口だったの さ。 の台詞じゃないがーー私だって、コーヒーを飲みすぎた日なんか、 ・ : 私はあのあたりに関しては、けっこう土地勘があったつも 無意識のうちにアメリカン・コーヒー 、なんて注文してる始末たが りなんだけどね。何年か前に、新しい地下鉄の駅ができてたらしい ね」 んだね」 「そういえばーー・・・・」 彼はしばらく間を置いてからポツンといった。 「なんか、こう 亜希子が、彼の言葉に触発されたように語りだした。 世のなかの動きがただ急激っていうだけでな 「私の家ってーーーオジさんはこの前、送ってくれたから知ってるでく、 ひどく場当たり的なものに感じられてならないんだよ、私に しようけどーー・原宿の裏通りにあるでしよ。あの辺は、表通りと比は。そして、私たちの意識もーーそれに調子を合わせるように、場 べたら、まだ静かなもんだけど、それでも私が子供の頃と比べたら当たり的で、しかもずいぶんと脆いものになってきてるような気が いや、私のいっているのは、学者たちが喋る、現代社会 凄い変わりよう。ところがね、それに気がっかないの。ああ、なにする : か工事をしているんだなーー・家を改築しているのかな、ぐらいの興の危機がどうしたこうしたって話じゃないんだ。い ってみれば 味なのね。そして、ある日、父のお使いで、すこし離れたところにもっと肉体というか、本能に根ざした恐怖みたいなものかもしれな ある煙草屋さんにいくと、そこが・フティックになって、若いコたち
ひとりになったとたん、自分がひどく疲れていることに彼女は気だもの、きっと会いにくるわ。何もかもうまく事を運んでくれて、 づいた。むき出しのマットレスに身をしずめ、与えられた殺風景な病院につれていってくれて、奇跡的な治療のできるお医者さまを見 つけてくれる。 小部屋のなかをみわたしてみる。心のなかには悩みでいつばいだっ けれども、いまのいまだけは、突然、しびれるように疲れがおそ た。さまざまの、古い悩みや、あたらしい悩みで。 ってきて、どうにもならなかった。裸のマットレスの上に、彼女は メイ伯母のことを、そんなに親しく知っていたわけではなかっ た。突然ここをたすねて来たのだって、もうやけつばちになってい手脚をのばした。シーツなんかは、あとでちゃんと取ってきてきち たからだ。しばらく夫のもとを逃げ出したくなって、最近ばれた夫んとしよう。いまはただ、ちょっと目を閉じるだけ。ほんのちょっ とこか身をとだけ目をつむって、しばらく、ひと休みし : の浮気のことで思い知らせてやりたくなって、彼女は、・ よせるところを求め、家をとび出してきたのだった。手ごろな値段目をさましたときには、あたりは真暗で、お腹がすいていた。 なんだか体がこわばって、自分がどこにいるのかすらはっきりし で借りることができて、ダニーには絶対に見つからないようなとこ 一週間ほど身をかくしているのに、メイ伯母の海辺の家ほないまま、彼女はべッドの端に腰かけていた。部屋は肌寒く、かび のにおいがした。どのくらい眠っていたのだろう。 どびったりのところはないような気がした。何ごともおこらない 平穏な毎日にひたってすごし、やがてそれにも飽きて、後悔する気壁のスイッチを手でたたきつけるようにしてみたが、電気はつか もちになれたら、と彼女は思っていた。なのに、死にかけている人ない。彼女は手探りで部屋を出て暗い廊下をすすみ、おぼろげにそ に出つくわすなんて。ダニーとのいさかいだって、これにくらべたれとわかる階段の方にむかった。一段おりるたびに、足もとがきし らほんのささいなことに思えるというものだ。 んで大きな音をたてる。階段の下に光が見えた。台所からだ。 突然、さびしくてたまらなくなった。ダニーがいてくれたら、ダ 「メイ伯母さま ? 」 ニーになぐさめてもらえたら、と彼女は思った。一週間は電話しな 台所には人影がなかった。光は、ストーヴの上の螢光灯からもれ い、なんて心に誓ったりなんかしなければよかった。 ていた。ふと、エレンは、人の気配を感じた。誰かに見られてい それでも、父にだけは電話しておこうという気持になった。ダニる ! が、振りむいてみても、背後には、乱すものとてない漆黒の 闇があるばかりだった。 1 には言わないでって頼んでおくべきだろうか。わからなかった。 結婚生活がうまくいってないなんてことは、両親には絶対に知られしばらくの間、彼女はじっと耳をすましていた。古い家がきし たくなかった。どっちみち、ダニーが親に電話してこちらの居どこみ、うつろに鳴る音。戸外からきこえてくる、くぐもったような海 ろでも聞いたりすれば、感づかれてしまうにはちがいないことだつのとどろきと風のうなり。人間のたてる物音らしきものは、そのな たけれど。 かにはびとかけらも混じってはいなかったけれど、心のなかで、な 今夜にも、父には電話してみよう。忘れすに。伯母とは姉弟なんにか執拗に言いはるものがあるのだったーーー耳をすませば必ず聞こ 7