平服である。 ・ほくはうめいた。 その女は、年は同じくらいではあったが、私の妻ではなかった。 いったいどうしてこれを捨てることがでぎるだろう。 女は、棺桶のふたを開けると、暗がりの中で、しばらくしっとぼ あの女が何者かも、・ほくとどのようなことがあったのかもわから くの顔を見つめていた。 ぬというのに。 女は泣いていた。 どういうつもりで、あの女はこれを置いていったのか わからなかった。 おし殺したような嗚咽がわすかにもれた。 むろんぼくに覚えはない。 手にもっていたそれが、次第にすっしりと重いものに変っていっ 記憶を失っているからである。 女は、自分の服の下に忍ばせてきたものを取り出すと、思いきっ その感触が、手の平から、じわじわと・ほくの内部にしみ込んでく たように、素早くそれを棺桶の中の・ほくの死体の懐におし入れた。 女がその部屋を去ったあと、・ほくは、また中有洞にいる自分を意熱い、激しい想い。 識した。 はたしてそれが、愛情であるのか、憎悪であるのか 「見たな、今のを」 の両方であるのか、全然別の何かであるのか 目の前に縁似子がいて、低くつぶやいた。 ・ほくにはわからなかった。 ・ほくは、声に出さずにうなずいた。 ただ、その重さと熱さが、一しつかりとしたみとなって、ずっし ・ほくの胸の上に、それはあった。 りと・ほくに伝わってくる。 今目にしたばかりの、女が・ほくの死体の懐に入れていったもの 「それを、捨てますか」 ひどく優しい声で縁似子が言った。 「さて、それをどうします ? 」 とうしていいかわからずに、そのひと房の黒髪をただし 縁似子が言った。 っと握りしめているばかりだった。 私は、それを手に取って、じっと見つめた。 ( 中有ーー人が死んでから四十九日間とどまるという、あの世でも 「捨てますか ? 」 この世でもない処。清水「国語辞典し 「捨てる ? 」 「捨てねばあなたは成仏できません」 「しかしーー」 る。 。またそ 6 4
女は無造作に橋の上に足を乗せ、歩きはじめた。 それとは別に、腹部から下半にかけて、しびれるような快感が広 男の時にはびくともしなかった橋が、男より軽いはずの女の体重がっていた。 でゆるくたわんでいた。そのたわんだ橋の上を、女は、平地と同じ ぬるぬる、ぬめぬめとした、生温かな感触が、下腹部にあった。 足どりで霧の向こうに消えていった。 内臓を舐めまわされるようなその感触が這うたびに、すごい快感が 次は、・ほくであった。 ・ほくを襲った。 橋の前に立ち、縁似子を振り返ると、彼がうながすようにうなず くちゃくちゃという湿った音。 獣が、獲物の内臓を屠る時に立てる、不気味な音だ。 ・ほくは目を開けた。 胸のあたりに、鈍い疼痛があった。温かみもさっきより増して、 熱いくらいである。 空があった。不気味な色の空であった。 胸を押えながら、ぼくは、橋に一歩を踏み出した。 うねうねととぐろを巻いた、青黒い蛇の群が蠢くのを下から見二 げているような気がした。 と、橋がいやな音をたてた。 あの湿った音は、まだ続いていた。 次の足を踏み出し、両足を橋の上に乗せた。 ぼくは、仰向けの姿勢のまま下半身に目をやった。 ぎがつ。 ・ほくは、そこに異様な光景を見た。 その途端に、ぼくの身体は虚空に放り出されていた シャツの前がはだけられ、ズボンも下着もぬがされ、・ほくば裸同 橋が折れたのだ。 然の姿であった。 恐怖に、ばくの背の皮膚が一瞬氷結した。 その裸の両足の間に、裸の女がうずくまり、ぼくの腹の中に顔を 次に・ほくが感じたのは速度であった。 突っ込んでいた。半ばぼくの腹の中に没した女の後頭部が揺れてい ・ほくの身体は、霧の中を、速度を増しながらどこまでも落ちて いる。そのたびに、あの湿った音があがり、ぼくの肉体に快感が走る のだ。 ぼくは、その女に、自分の内臓を喰われていたのである。 5 女の肉体が動くと、その陰から、怒張したぼくの性器がのそい た。女の左手がそれを握りしめ、鋭い爪を突きたてながら激しく動 胸に、鈍い痛みと、温かさとがあった。 かしている。何度も放出したらしく、女の手と・ほくの性器は、白い ひどくなっかしいような、しかし、その温かさの正体を知るのが液体と血にまみれていた。 どこか恐ろしいような、不思議な甘やかさを持った痛みであった。 その時、ぼくの腹から、女が顔をあけた。 4
その表面に絵が現われた。 どこかの山の岩場のような所であった。 大小の岩が散らばる上に、ひとりの男が倒れていた。 四十代初めの男である。 和室の八畳間がある。 後頭部から血が流れ、下の岩を赤く染めていた。 その中央に、・ほくの死体の入った棺桶が横たえられていた。 「あれがおまえさ」 その部屋には、三人の人間がいた。 ひとりのやつれた顔をした中年の女と、ふたりの子供である。 縁似子が言った。「もう死んでいる。上の岩場から落ちたのさ。 子供の大きい方が女で、小学校の高学年といったところだ。小さ もっとも、自分で飛び下りたのかどうかまではわからないがね」 そこに倒れているのは、貧相な顔をした中年男だった。仮に、自い方が男の子で、これはまだ小学校に入学したてのようである。 上の女の子は目をまっ赤に泣きはらしているが、下の男の子は、 分から死を選んだのだとしても、その顔を見れば納得もいく 何かつまらなそうに堅く口を結んでいる。 ・ほくは、不思議な感覚の欠落を味わっていた。 ふたりの子供が・ほくの顔に似ていて、中年の女によりそっている 「この近くでね、たまたまもうふたりの人間が同時刻に死んだ。お ところを見ると、中年の女は。ほくの妻で、ふたりの子供はぼくの娘 まえも知っている、あの男と女だーー・」 と息子であるらしい ・ほくは、あの初老の男の首にあった、痣を想い出していた。あれ 中年の女は、泣いたあとの熱っ ' ほい目を赤くして、しっと棺桶を は、一本のロー。フに、自らの体五をふら下げた跡であったのかもし 見ていた。 れなかった。 「ここではないらしいな」 「これは、おまえの趣味なのたろう」 縁似子の声がして、場面が変った。 縁似子は、小屋の内部を見回した。「この中有洞は、それそれが 夜である。 心の内で見たいと想っている姿となって感じられる。おまえは、三 場所はさきほどと同じ部屋である。 人が一緒にこの小屋にいたように想っているが、実は、それそれが 部屋の中央には、やはり・ほくの死体の入った棺桶がある。 別の世界を見ていたのだ」 灯りは、点いてない 「おお」 こだ、ガラス窓越しに差し込む月明りらしい青い光が、静かに部 ・ま ). 、は , 少ま」イ、、つめい亠」。 屋に満ちていた。 おお。 ふすまが開いて、その部屋にひとりの女が入ってきた。 人目を忍んでやってきたものらしかった。 5 4
肉体が重く、だるかった。 ふいにもどってきた風景の感触に、ぼくの肉体がまだ慣れていな いのだ。 音がしている。 「あれは、風なんでしようか」 ごく幽かな音である。 ばくの「ええ」が曖昧なものであったためか、若い女が返事をし あると想えばある。 なかったためか、初老の男はもう一度言った。 ないと想えばない。 「風です」 それほど徴妙な音である。 冷やかな声が響いた。 それは、耳鳴りのようでもあった。耳の底にこびりついている何女が口を開いたのだ。 かの音の名残りが、存在しない音を、聴こえていると錯覚させてい 女の声は高かったが、やはり乾いていて、どこか遠い響ぎがあっ るのかもしれなかった。 「風の音でしようかね」 女は、夢見るような、しかし冷たい瞳を、遙か遠くさまよわせて 初老の男が言った。 湿り気のない、低い、干からびた声だった。 こえ 誰かに話しかけゑということを、彼が最初に思いついたのであ夜、幾重にも重ねた毛布の中にくるまり、遠く微かに聴く風の音 ろう。少なくとも、実際に言葉をしゃべったのは、その場にいた三はこんなであるのかもしれない 人のうちでは彼が最初である。 「けれどーー」 「ええ と、女は自分に言い聞かせるように言った。 「ーーー風ではないのかもしれません」 ばくは、とまどいながら返事をした。 ぼくの唇からもれたのは、やはり、乾いてしわがれた声だった。 それは、天井近くをはしる、太い、くすんだ木の梁に、おうおう 声を出したとたんに、ぼくは、それまで頭の中に追っていた事柄とからみつく暗い呪詛の声のようでもあった。また、幾百、幾千も を忘れてしまっていた。夢から我に返り、夢の余韻だけをひきずつの無数の小動物の群が、音もなく、闇の奥からひしひしとおしよせ て目醒めた時のようである。 てくる気配のようでもあった。 何を考えていたのだろうか。 耳を傾けようとすると、それは遠ざかり、気をそらせていると、 3 しきりと何か考えていたようでもあるし、何も考えていなかったその心の隙間にいつの間にか忍び込んでいる。色も、形も、匂いも 3 ようでもある。 ない、奇妙な生き物のようでもあった。 こ 0
ぞろりと男の体内から引き出されたそれが、キイキイと細い声を ずい分長い間歩いたようであった。 あげながら、縁似子の手の中で動いている様は異様であった。 ふいに、縁似子が立ち止まった。 「さっき話した魍が、形を持ったのがこいっ等さ」 「さあ、着きました。この橋を渡れば、中有洞を出ることができま 「痛くはないのか」 ぼくは、初老の男にとも縁似子にともっかずたずねた。 「出る ? さっきの小屋が中有洞ではなかったのか」 「痛くはない」 答えたのは縁似子である。「しかし、不快感は、人によっては相「あの小屋は、中有洞の中心です。中有洞というのは、我々が今い るこの世界全体をいうのです」 当なもののはずだ」 縁似子の足元から、細い、一本の木の橋が霧の奥に伸びていた。 言いながら、女を手でまねいた。 女の身体にも、それは男に負けぬほどたかっていたが、女は、涼橋、というよりは一枚の板である。その板は、数メートル先で霧に のみ込まれ、この橋が、いったいどれたけの長さをもつものなの しい顏で縁似子の前に立った。 か、見当がっかなかった。 「気丈な女だ」 とれほど深い空間が広がっているのか、それ むろん、橋の下に、・ 女の身体からも、それを取ってやる。 もわからない。 魍鬼は、捨てるそばから、霧に溶けて姿を消した。 「時々、霧の中に、このようなものばかりが集まっている場合があ「あなたからです」 るのです。しかしーーー」 縁似子が、初老の男を指さした。 と、縁似子はぼくを見た。 「私から ? 」 不思議そうな顔をしていた。 「そうです」 「あんたが先に行ってくれるんじゃないのかね」 「同じ所を通ってきて、あなたには一匹も魍鬼がたかっていません 不安をあからさまに顔に出していた。 ね」 「ひとりずつです。さあーー」 言われて、・ほくは自分の身体を眺めた。 なるほど、・ほくの身体には、一匹もあのいやらしいシロモノはた縁似子の言うなりに、初老の男は、そろそろと橋に一歩を踏み出 かっていなかった。もしいれば、ばくは恥も外聞もなく悲鳴をあげした。 ていたろう。 危ないパランスで、男は霧の向こうに姿を消した。 「次は、あなたです」 やがて、ぼくらは再び霧の中を歩きはじめた・ 言われたのは女であった。 ばくは、歩きながら、胸のあたりに、またあの甘い痛みを感じて 9
美しい顔が、血汁にまっ赤に染まっていた。壮絶な光景であっ 女は、四つん這いの姿勢のまま、おぞましい爬虫類とも軟体動物 た。血に濡れて幾つかの東になった髪の先から、赤い糸を引いて血ともっかぬ、黒い不気味なものに変貌していた。 が滴っている。 「蝕鬼、そこまでだ」 女は、唇の両端をすっと吊りあげ、にいっと微笑んだ。ものすご頭の上で、何者かが言った。 い笑顔だった。むき出しになった白い歯が、血でぬらぬらと光って縁似子の声であった。 蝕鬼と呼ばれた、さっきまで女であったものは、ずるずるとぼく 歯の間から舌が這い出し、唇をそろりと舐めあげた。 の肉体の上から離れ、くやしげなうめき声を残し、黒煙となって消 普通であったのなら、ぼくは絶叫をほとばしらせていたかもしれえた。 よ、つこ 0 / カ / 上から、縁似子の柔和な顔がぼくをのそき込んだ。 ぼくは、自分の見た光景のあまりの異常さに、驚く感覚を「すい分あわれな有様になったな」 麻痺させていた。なにしろ目の前で自分の腹が裂かれ、内臓を喰わ久しぶりのようにきくその声には、・ほくを安心させる温かな響き があった。 れているのである。しかし、苦痛はなかった。かわりにおそろしい にどの快感があった。 しかし、その快感を感じているのは・ほくの肉体で、ぼく自身は、 ( 0 その肉体をひどく「遠い所から他人事のように見つめているのであ る。胸に感じている例の甘い痛みの方が、ぼく自身には近しいもの ・ほくは、再びあの小屋の中にいた。 であった。 木のテープルやラン。フの炎、コーヒーカップまでが、前と同じに 女よ、、 しつの間にか、腹の中にまた顔を埋ずめていた。 そこにあった。 ぼくは、自分の性器の先端から白いものがはじけるのを見た。 前と違うのは、一緒にいるのが、初老の男でも若い女でもなく、 その時、・ほくの頭の方向に、何者かの気配があった。 縁似子であることだった。 女も、その気配を感じたらしく、顔をあげた。その顔は、ぼくの 「不思議だな」 頭の方向から来たものに向けられたと見るや、見るみる変貌した。 と、最初に会った時より、口調のかわった縁似子がつぶやいた。 頬の肉が、イモ虫のように顔の皮膚の下で蠢き、這い、かっと口が「ほくに何か興味を抱いているらしい。ここにはここの法というも 耳まで裂けた。 のがある。どうやら、その法とおまえとの間に、ずれが生じている まっ黒な、悪鬼の顔になっていた。 らしい 背骨がぐうっと曲がり、そろそろと鱗が生えた。 「ずれ ? 」 しよっき 2 4
・ほくは、初老の男に言った。 いやらしい仕種で蠢いていた。 数十匹とたかり、 彼は答えなかった。 それは、爬虫類と節足動物との中間のようなものであった。 「風 ? 」 蜘蛛に似たものや蜥蜴に似たもの。それ等が、女の赤いシャツを 縁似子が言った。 喰い破り、肉の中に潜り込もうとしているのだ。 音の気配はもう消えていた。 ・ほくが声をあげる前に、背後から、初老の男のおそましい絶叫が ばくは縁似子に説明した。 響いた。 もう 「あれは、魍ですよ」 全員が振り返っていた。 ーもう 「魍 ? 」 男は、地面に倒れ、のたうちまわっていた。 「実体のない、さまよえるものたちです」 その身体中に、びっしりと、女にたかっていたのと同じものがた かっていた。 あっさりと縁似子が言う。「危険なものではありません」 男は、ころげまわりながら、それをはらい落としているのだ。 そこで会話を打ち切るように、縁似子が歩き出した。 ・ほくと縁似子がかけより、男の服にたかっているそれをこそげ落 歩き出す前に、・ほくは背後を振り返った。 とした。 そこには、みつしりとした重い霧があるばかりで、さっきまでぼ くらがいたはずの小屋の姿は、影すらも見えなかった。それが、霧その時に触れたそれの感触に、ばくの体中の体毛がそそけ立って 、た。毒蛇を素手で触る方が、まだマシであった。 のためか、小屋が消えたためかどうかはわからなかった。 男を立たせ、服をぬがせた。 どちらでもいいのです 男の肌の表面を見て、・ほくは全身に粟粒を生じさせていた。 そう言った女の言葉が、何の脈絡もなく頭をよぎった。 先頭が縁似子、次が女、そして・ほく、初老の男という順で、・ほく あのいやらしいものたちが、十数匹、男の肌の表面から体内に頭 を突っ込んで、外に残った手足を、おぞましい動作でゆらめかせて らは霧の中を歩いた。 いるのである。しかも、彼らは、なおも男の体内に潜り込もうとし ゆるい登りと下りをくり返しながら、・ほくらは歩を進めた。 ているのだ。 足が踏みしめているのは、岩ではなく、湿った土のようだった。 男が、それを見て悲鳴をのみ込んだ。 時おり、足元の土の上に、見知らぬ草のようなものが生えていた。 もうき 前を行く女の背に、奇妙なものがたかっているのを発見したの「魍鬼だ」 縁似子が言った。 は、しばらくしてからだった。 言いながら手を伸ばし、男の体内に潜り込みかけたそいつらの手 9 虫、ではない。 虫よりは大きな、しかし虫によく似たものだ。それは、女の背に足や、尻尾をつまんで引き抜きはしめた。 かたち
た。そのときわたしはすべてを悟ったのだ。なんてことだ。 どうなるのかね、男は」 「ねえ、お父さん」 「さあ。しかし精子は人間細胞のなかでも最高度に進化した細胞 そう言って妻は笑った。いや、娘が。 だ。それは一一一口える」 彼女はわたしと妻の子だったんだ。妻の記憶をそっくりもった、 「そいっ【は大切にしなくちゃね」ケンは笑った。「しかし生まれか しかし身体はまぎれもなくわたしたち夫婦の子が、そこにいた。 われるものならかわりたいな」 わたしは妻を失った。それを思い知ったのは長女が妻を見舞いに「女にかい」とぼく。 やってきたときだ。 もっともてる男にだよ」 「冗談じゃない。 ひと 「この女だあれ」と娘は言った。 「わかる、わかるよケン、うん、実に言えてる」 生まれかわった妻はわたしにそっくりだったんだ。 「それで先生、その話では娘に生まれかわったというんでしよう、 息子にはならないんですか」 「おそらくならないだろうな。それでは個体保存機能が断たれてし 「彼女とは別れたよ」と男は言い、グラスをあおった。「娘を抱けまう。男は受胎できんから。女は、女と男とそして愛娘を生むこと るものか。彼女も別れることに反対はしなかった。頭では夫だと認 ができるんだ。いままでわからなかっただけのことさ」 めても本能的に近親相をさけるよう・フレーキがかかるんだ。だか 男はそう言い、扉をおして出ていった。 らね」男はぼくを見て、「きみの恋人も、もしかしたらさ」 「ケン、信じるかい、あの男の話」 「やめて下さいよ。ふられた男を慰めてくれる話としてはおもしろ・「さあな。おれには難しい話はわからないけど、なんだか女房コン いけど」 ・フレックスのような男だったな。それでーーー彼女いっ下に帰ってく 「きみがわたしの話をどう解釈しようと勝手だ。だがこの研究は進るんだ」 められているんだよ。この機能が解明されてコントロールできるよ「二週間くらい先だよ」 うになれば、長期宇宙旅行の問題は解決する。女たちが精子をもっ 「あの先生の話がほんとなら悲劇だね」 「・ほくの娘が帰ってくるって ? 信じない。絶対に信じないぞ」 て旅立つだろうさ。生まれかわりながら、時を無駄にせず飛びつづ けるだろう。あるいはこんな世界が出現するかもしれないぞ、「今「おれも信じたくないよ。考えてもみろ」ケンは磨いたグラスをぼ 度はもっと論理的な思考のできる頭が欲しいわ」とか、「瞳は・フル くの顔に近づけた。「あの美人の彼女がこんな顔になるなんて、こ ーに、背は高くしたいとかを自由に、化粧品を選ぶように精子をれ以上の悲劇があるものか」 選択する日がさ」 「娘を侮辱するなんて許せんー 「すると」ケンがグラスを磨きながらロをはさんだ。「おれたちは いけない。どうも悪酔いしてしまったようだ。 7 5
ズ天使の怒り シドニイ・シェルドン / 大庭忠男訳定価一七〇〇円 マフィアの罠にはまり、法曹界を追われた女 性弁護士ジェニファーのたどる数奇な運命ー ヴ 『真夜中の向う側』の作者が贈る傑作長篇。 ワ 音楽と沈黙 ストリート 8 ダグラス・フェアベアン / 木村一一郎訳子定価一〇〇〇円 カストロ政権以来十八年、五十万近いキュー ハ人が流入してきたマイアミを舞台に、政治 とテロに巻き込まれた白人の死闘を描く アン・レドモン / 工藤政司訳定価一六〇〇円 私はあの女性を、階下に住む発狂した若いチ エリストを女、こ ) ロンドンを舞台に ふたりの女の愛の確執を描く異色心理小説ー 新鋭が醸し出す独得の情世界 ! おなじみのかぐや姫伝説や牽牛・ 織女の物語り、天女の話しなどを 新解釈で、ときにはユーモラスな 語り口で綴りあげた珠玉の短篇集 定価 1 2 0 0 円
スペースコロニーが実用化されようという時代だってのに、男と「これが失恋ってことなのかなあ。知らなかった。何人もの女をふ 女の関係なんかちっとも進歩していない そう愚痴をこ・ほすと・ハ ったけど、罪なことをしてきたものだ。反省すべきだな」 ーテンのケンが憎らしいことを言った。 「よく言うね。ふられ慣れしてると思ったけど、今度はとくにこた 「ついにふられたか。だろうねえ、どう見ても似合いのカツ。フルじえたみたいだな。ご愁傷さん。本物だったのか」 「恋に恋したんじゃない。・ほくは彼女を愛してた。で、も彼女はそう ゃなかったよ。泣くな友よ、・ハランタインの十七年をおごろう」 「スコッチのように酔わせてくれたよ。彼女だってそうさ、うまくじゃなかったんだ」 いってたんだ。なのに : : ほんとに女ってのはわからない ? 彼女、 それはどうかな、とだれかが言った。その声の主は先程からひと 自分は変わりつつあるから、もう逢えないって言った」 りカウンターの端でグラスを傾けていた、風采のあがらないコート 「あきらめなよ。いまならきれいに別れられる。あれこれつつつく 姿の初老の、しかしこちらをむいた眼は意外に若い、男だった。 と惨めになるだけさ」 「失礼ですが」と彼は少し首をかたむけて、まるで小児科医が子供 「嫌いになったのならはっきりそう言えばいいんだ。あきらめもっ に問診するような調子で尋ねた。「あなたは宇宙で働いた経験がお く。ところが、好きよ、愛してるわ、とこうだ。頭にくる」 ありのようですが、ちがいますか ? 」 「で、いまどこ、彼女。雲の上かい。やつばり不釣り合いだよ、な 「ええ」とぼくはこたえた。「宇宙空間構築法の研究で。宇宙空間 んだって航空宇宙電子オペレータなんかにほれちまったのかね」 の性能テストをやる でビーム構造体を自動的に組み上げるロポット ぼくが初めて彼女に会ったのは地球を回る宇宙実験衛星に乗り込ために」 んだときだった。・ほくは客員研究士として行ったので宇宙体験はそ「ビームビルダの試作機ですね。 ( イ・フリッド・デ、アル・ファイ れ一回きりだが、そのただ一度のチャンスに恋人までできたのだか・ ( 材を自動溶接して定められた構造物を造るやつでしよう」 ら、もう最高だった。ぼくらは地上に降りてからもよく逢って楽し . 「ご存知でしたか。おくわしいんですね」ぼくは親しみをお・ほえて い時間をすごした。彼女が仕事で長期間地上を離れるときは、寂し男にとなりの席をすすめた。「ぼくはおもにその超音波溶接機の動 さと悔しさのまじった妙な気分になったものだ。まさに彼女は手の作具合を調べました」 とどかないところへ行ってしまうのだから。宇宙旅行はまだ個人の 「そこでその女と性的な関係をもたれましたか。いや失敬、わたし 自由になっていない。金しだいでは不可能ではないのだが、そんなは宇宙生理関係の仕事をしていました。妻といっしょにです。宇宙 金などぼくにとっては″不可能″以外のなにものでもなかった。しでも暮しました。ですがいまは別れてましてね、たぶん、あなたと かしそんな問題は彼女がぼくの腕にもどってくれば忘れてしまう。 同じ目に遇ってーーあなたが、わたしと同し、かな」 彼女はただの女なんた。ごく普通の、愛らしい、恋人。つい最近ま「どういうことなんです」 では。 「どうやら女性は宇宙空間に出ると新しい生理機能を発現させるら ひと 9 4