れから各システム 源泉でもある。 かくして、「」を筆頭にの上級版とキャン ゲームは、野火のように広がった。いまペーン・システム を合体させて完全 では主だった / ファンタジイのゲー ム会社はほとんどこの系列を持つなゲームに しようというシス ている。「 A & 」のいちばんのライバ ルは先月号にも書いたケイオシアム ( 発テム・コンボ・ス タイルなのだ。 音訂正します ) 社の「ルーンクエスト」。 これはルールのていねいさと、世界の拡しかし、現在の ところ、やはり創 がりという点でマニアの間では評判がい い。ファンタジイより中世風へ傾斜して業者の強味か、こ いるのが ()5 —社の「シ・ハルリ 1 & ソの分野では「 & ーサリー」 (0±0)0 攻勢にた」が圧倒的で、 まりかねて、ついに大手の社が決約二十五パーセン 星に転換することもできる。何よりも、 A 定版と意気ごんで出したのが「ドラゴントを占めているという。 クエスト」。ただし、これは微に入り細そこで各ゲーム会社はどうしたか ? ここでは宇宙船やロポットを使えるの をうがちすぎて、・ヒギナ 1 にはちょっと先ほどからのゲームの説明で閃い 難しい。「」のソリテア ( 一人遊た方もおられるだろう。ロール・プこれに早くから気づいていたのが、先の レイへの進出である ( やっと出ました月号も名前だけあげた社である。 び ) 版をもくろんだのが、フライング・ ! ) 。確かに空想を刺激するのに手つ取「トラベラー」と題されたそのロー ・ハッファロ 1 社の「トンネルズ & トロ り早いのはファンタジイだが、これには ル・プレイ・ゲームは、他社がに ルズ」 (e & e ) 。 、ま言ったような ま、いろいろあるけれど、どれも初心小道具に限界があり、常にま新しいもの血道を上げるうちに、 を望むのは難しい。特にこれだけさまざス。ヘース・オペラ的設定で、たちまち 者用の手引きとなる部分に弱点がある。 これを改善しようとしたメタゲーミングまながひしめきあえば、未開拓のゲーム・ファンの心をつかんでしまっ 社の「ファンタジイ・トリツ。フ」という領域は堀りつくされてしまう。それに比た。現在、—社が「スペース・オ のは面白い。どういうものかというと、 べてを見よ。怪物に相当するものはペラ」、社が「ユニヴァース」、メ ゲーム全体からコン・ハット・システムと異星人に置き換えられるし、魔術は超能タゲーミング社が「スタートリッダー」 マジック・システムだけを抜きとってゲ力に新発明だ。迷路は宇宙空間だし、あと続々この分野に進出しつつあるが、ど ーム化し、まずこれに慣れてもらい、そるいはダンジョンをすっ・ほりそのまま異うやらの「 & Q 」的位置を、こ
もかもが自由でひらかれているなどというのは、法に接触しない範化した ) 統治形態も、それからあとに、開拓史時代に外惑星植民地 囲でだけ生きている、健全で立派な市民にと「ての楽しい幻想にすでとられたという「単位主義」も、つまるところ社会にはそれ自体 の維持システムの点検者であり、維持者それ自体でもあるところの ぎないのだ。この件について、ディマ 1 : イトウが何というやら、 「支配者」と、そのシステムに依存して社会それ自体を形成する きいてみたいものだ ! 「被支配者」との上下関係がある、という絶対的な真理の、ヴァリ ディマーは、このシティ・システムには法規というものがない、 ただタ・フーだけだという。しかし、何かを誰かにむかって「禁し = のごく巧妙にされたかたちにすぎなかった、という点では、歴史 る」のは、法ではないか。それに、タ・フーがもし、それを破った人学者の見かたは一致している。 そのあとで、二元主義があらわれて、社会の維持システムそのも 間を裁くために効力を発揮するとしたら、それはすでに、原始的な 法制の形をもっことになるだろう。たとえ真綿ぐるみのものであろのの見直しがおこなわれた、というのが、 O 日 o の云い分なのだが うと、ぼくたちはやはり法をもっているし、それによって規制され 、 : ぼくは無力だ。ぼくは社 ている。しかしまた、それすらもない社会では、やつばり・ほくたち ( 何も、変わっていやしないじゃなしカ 会に反逆した。そして、民衆はぼくに石を投げ、支配者がぼくを裁 は自分の身を守るわけにゆかないだろう。 ぼくだってなにも、すべての法規や東縛というものがとり払われくのだろう ) アウラとレダ。かれらが例外をファイルしたコード O 6 0 0 0 たのが真のユートビアだなどという、幻想を抱いているわけではな かった。そんなふうに考えるためには、ぼくたちはすでに、あまりー」に入っていることは、首をかけてもいい。 支配者 ( それが誰であれ ) は、かれら ( またはかれ ) に都合のわ にも原始社会から長いこと隔ってきている。 シテイだって、例外 ただ「ぼくが改めていぶかしまずにいられなか「たのは、ではどるい事実を、かれらの人民に教えたがらない。 うして、ディマーなり O " O なりは、市民に「全く自己自身によっではないのだ。 目のまえで、完全な自由と完全な真実、というシティの夢がくず てのみ規制される」原則の社会、という幻影を与えなくてはならぬ れおちてゆくのを、ぼくは見ているここちだった。 のか、ということだった。 ぼくはもう一度ヴィジフォーンに近づき、データ要求をセットし 0 O は、つまるところ、市民たちに、独裁者のイメージを与え ることをもっとも恐れているのだろうか。しかし ( ぼくのあまり経た。市民として当然の権利により、市民登録の確認を。レダ・セイ 験ゆたかとはいえぬ考えからだけでさえ ) 人間たちがあつま「てひャーとアウラ・ザンべリイについて、データを要求する。 が違っています。もう一度、コードナイハーをセット とつの地域社会を構成するというのは、レベルの差こそあれ《民「当該コード 衆》と呼ばれるものが発生すると、いうことなのであり、そして遠して下さい」 いむかしに「民主主義」と呼ばれていた ( 主として二十世紀に一般単調な声が云った。 227
ⅢⅢⅢⅢⅢ川聞ⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ聞 発明の才能を発揮する物語である。『月面 の盗賊』召 ga 〃ホ / / 尾」イ 00 れ ( 1930 ASF 誌 ; 1931 ) と、その続篇Ⅳ襯〃尾 0 イ催 ( 1932 ASF 誌 ; 1961 ) は、彼の スペース・オペラの代表例であり、宇宙海 ー ! つこ 賊の跋扈と人類が恐るべき異星の怪物を撃 退するさまが描かれる。他の未刊行長篇 "Jetta of the Lowlands" ASF 誌 ) がある。 カミングズは基本的にパルブ作家であ り、さらに、彼よりも少し歳下の何人かの 作家たち一一一たとえば、マレイ・ラインス ターやエドモンド・ハミルトン一一一と異な って、時代の変化に、科学面でも文体面で も適応していくことができなかった。彼の 初期の作品は、ほとんど手を加えることな く後期のものと、置き換えられる。彼は今 日の読者にとっては、単に歴史的関心の対 ( 1930 c 厖尾ん 4 襯のさ ( 1976 ) は、 1977 年のア ポロ賞を受賞している。 サイバネティックス CYBERNETICS 〔 M J 〕 象にすぎない。 〔 J C 〕 『宇宙の果てを超 その他の既訳作品 えて』召のじ & の・ 5 ( 1928 アーゴシ ー誌 ; 1963 ) キュルヴァル、フィリップ CURVAL, PHILIPPE フランスの作家・ジャーナリスト、フ ィリッフ。・トロンシュん〃 e T 加ん ) の筆名。キュルヴァルは 1950 ( 1929 ー 年代からフランス S F に関わりあい、書籍 商、雑誌編集者、写真家、記録者、作家と して、同国 SF の成長期を過ごしてきた。 彼は見事な文体の持ち主であり、その作品 は、官能的、詩的な雰囲気と、登場人物 への強い愛情とを特徴とする。 20 篇以上の 作品をものしているが、第一作は 1955 年に 発表している。 1963 年 Le s 0 I ' ぉ第。化 ( 1962 ) でジュール・ヴェルヌ賞 を受け、ん ' ん 0 襯襯 e なな” ( 1974 ) は その年のフランス最優秀 SF 長篇に選ば れている。また、『愛しき人類』 Cette IV SF 専門用語の中で、これはごく普通に 使われる言葉だが、しばしば誤用される。 そして、小説でのそうした一般使用があま り普及したため、この語の本来もつ意味が いまでは価値を減じたり、忘れられたりす るおそれも出てきている。 、、サイバネティックス″は著名な数学者ノ ト・ウィーナーが 1947 年に提唱した 言葉で、ウィーナーたちが 1942 年以来携っ てきた新しい科学を述べたものである。 の言葉が一般にもはじめて使用されるよう になったのは、ウィーナーの『サイバネテ ィックス』 CYb 〃な 5 ( 1948 ; 國 1961 ) が出版されてからだが、それには、、動物と 機械における制御と通信″という副題がつ いていた。サイバネティックスは、当初か ら学際的なものだった。それは、ウィーナ ーたちが通常はまったく別と思われる科学 の諸分野で、ある種の相似した問題が絶え ず起こっていることに気づいたことから発 展した。中でも重点が置かれたのは、統計 力学、情報理論、電気工学、神経生理学の 四分野である。、、サイノくネティックス〃は、 ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィに よって 1940 年に確立された一般システム理 論と共通する部分が多い。その語源は舵手 もしくは管理者を表わすギリシャ語であ る。科学としてのそれは、システムの作用 のしかたやシステムが自らを制御するやり かた、さらにはその制御のためにシステム が情報を処理する方法 0 フィードバック″ として知られる処理がしばしば行なわれ る ) 、およびそれらの最良の設計方法に関 わるものである。当該システムは機械のこ ともあれば、人体の場合もあるよウィーナ 268
となのよ。というより、内発的な自己評価というものが、そもそもアル・ケース』が成立するのか レダは望んでいないんでしょ わたしたちにとってはまことに注目に値するものなの。もしかした う。デイソーダーであることを」 ら、あなたこそ、真のデイソーダーなのかもしれない、と思うこと「少しちがうと思うわ。彼女は、デイソーダー ・システムの趣旨を もあるくらい それについては、なろん、あなたなりの異論もあ理解していない。 シティ・システムそのものの思想についても」 るでしようけれどね」 「なら、なおのことです。やつばりそれは隔離じゃないですか。シ 「ぼく自身がデイソーダーかどうか、そうありたいと望んでいるかティ・システムの理念を理解していない、だから、そういう人間 どうか、という点については、考えてみなかったので」 は、シティにとっては不要だというわけでしよう」 ぼくは云った。 「そうじゃないのよ」 「それは、また考えてみますけどーー。でも、おききしてもいいですふいに、・はひどく年をとって、そしてがつくりと疲れはて か、»-ä・。では、それでも、ーー・それでさえ、『真の例外的な場合』たようにみえた。 はあったわけなのですね ? デイソーダーたろうとしてもいない 「そうしゃないのよ、イヴ。あなたには、わかってないのよーー何 し、望んでもいないのにデイソーダーとして隔離された、という ほんとうの、スペシアル・ケースが ? 」 「たからわかりたいのです」 ・は黙った。その顔に当惑のかげりがうかぶより早くぼくは ぼくは追及した。 云いついだ。 「レダはユニークだとぼくは思います。・ほくなんかより何倍も。レ 「それは、レダのことなんでしよう。そうでしよう」 ダはレダで、彼女の自我は、それ以外の何ものにも、規制されてい シティの人間はふつう嘘をつく習慣がない。話したくなかったない。どうして、・ほくなどに注目するより、レダの自由な魂の声を ら、話したくないと合図すればすむことだからだ。 きかないんです ? ぼくなど、ただ、彼女やアウラの影響下にある *-; ・の眉のかげりがいっそう濃くなった。それから、彼女はい にすぎないのかもしれない。だけどーーー」 「そうじゃないのよ」 「レダ・セイヤー。そうよ」 »-a ・はくりかえした。 「彼女はデイソーダーたろうと望んでいないのに、 「そうじゃないのよ、イヴ。 ごめんなさい。わたしは疲れた。 されて、隔離され、その上、ヴィジフォーンも与えられてない。そやすみたいわ、デイソーダーさん。 どうか」 うでしよう」 会話終り、の強力な要求。 「おお、イヴーーー」 ぼくはおとなしくお休みを云い、そしてヴィジフォーンを切っ 「ぼくはわからない。一体、どのようなケースなら、『真のスペシ っこ 0 も」 こ 0 232
イヴがデイソーダーに ! ? そして、彼は全シティ・システムの鍵を握る存在に。 、きミ第 レ ) 本薫叫昇 224
を見つけ、彼らの宇宙船を乗取らねばならないのだ。それが、彼女 相手についての情報が、シギイトから得た僅かなものだけであり、 の使命なのだ。ローダは、自分自身に、そのことをもう一度、言い 4 しかもそこから類推すると、ほとんど万能な存在であるらしいとい きかせようとした。だが、その決意は、いのほか弱々しいものに うことだった。 しかならなかった。 だが、本当に万能なのだろうか ? ロ 1 ダは考えた。たとえば、 一つには、アレクサンドロス人の存在はわからぬにしろ、彼らの マイダスほどに万能なのか ? 突然、ロ 1 ダは苦笑を浮かべた。マ イダスは、一つの世界そのものを完全に支配している。そして、お宇宙船が飛行可能な状態でこの惑星のどこかにあるという可能性 そらくこの惑星の人間がマイダスにやってきたら、その世界の名前は、非常に薄いのではないかと思えたからだ。シギイトは、そのよ がそれを支配している巨大なシステムそのものの名であることに気うな話をにも耳にした億えはないと言っていた。そう言えば、メ 付くことはないだろう。そして、マイダスに住む人々は誰一人としリンもそのようなことを口走っていた。そして、ローダ自身の考え て、まともに問われることがなければ、マイダスについて説明するでは、おそらく、アレクサンドロスの者たちがこの惑星にやってき ことはないだろう。な・せなら、そのシステムは、マイダスの人々にているとしても、自分たちと同じような目に会っているのではない とって、ことさらにロにすべきものですらなく、呼吸する大気のよかと思えたのだ。 うに彼らの中に入り込んでしまっているからだ。ことによると、こ そこにはあの教主様と呼ばれる存在が実在することが絶対条件だ の惑星からの訪問者は、そのシステムの存在そのものにさえ気付か が、メリンはそれを認めはじめていた。その上、もしもアレクサン ずに去っていくかもしれない。 ドロスの者たちが無事でいたとしたところで、これほどの時間が経 おそろしくわけのわからぬ世界だと考えてしまうだろう。ちょうってしまったら、もはやこの惑星から飛びたっているのではないだ どローダ自身が、この惑星のすべてに対して感じているのと、同じろうか。 ように、だ。 どちらにしろ、自分たちがアレクサンドロスの宇宙船に出会う可 もっとも、マイダスにおいてなら、説明を求められれば、それな能性は極端に少ないだろう。ロ 1 ダは、ほとんどあきらめかけてい りの返答はできる。けれどもこの惑星では、それはタ・フーになってたのだ。それよりも、教主様という存在が、何であるのか、それを いるのだ。そのちがいは大きい。おそらく、どれほどの間、この世確かめたいという気持の方が強くなりかけていたのだ。 界をさまよったとしても、他国者でいるかぎり、真相を見てとるこ その存在には、必ず弱点がある。ローダは確信していた。シギイ とはできまい トや、あのティクという男の態度が、そう考えさせたのだ。つま ローダは、自分の置かれた立場をもう一度考えた。あるいは、シり、彼らは盲目的に教主様の意志に従っているのではないように思 ギイトたちのもとにとどまるべきだったかもしれない。けれども、 えた。非常に僅かなものであるかもしれないが、自分の意志で行動 自分はマイダスに戻らねばならないのだ。アレクサンドロス人たちすることができる余地を、彼らは持っていた。たとえば、マイダス
ーが見つけた問題点とは、エンジニアが機 械を論じるさいの専門用語が、人間のシス テムを論じる場合にあまりにも機械論的な アプローチになってしまうことや、逆に生 物学的な専門用語が、機械 ( あるいは経 斉システムやエコロジー・システムでもよ この二つの分野でもサイバネティック スは有用だ ) を論じるさいに、過度に擬 人的なアプローチへの手引きになること であった。要は、機械派や生物派の偏見 にとらわれない新しい科学を造りだすこ とである。 W ・ロス・アシュビーはみ〃 0 イ uc だ 0 れ加 Cy 翔な 5 ( 1956 ) で、 こう述べている。「サイノくネティックス は、ちょうど幾何学が地上的な空間におけ る現実の対象を扱うように、現実の機構ー ー電子の、機械の、神経の、経済の諸機構 を扱う」言葉を換えれば、サイネテ ィックスは、抽象化し総合化する科学とい うことになる。しかし、科学はどんなもの であろうと、つねに専門化する傾向があ る。学際科学としてのサイバネティックス という最初の発想も、忘れられるおそれが あり、たとえば現在ではサイバネティック ス工学やサイネティックス生物学の専門 家が現われている。後者は一般に、、ノくイオ ニクス″と呼ばれるが、これは実は、、ノくイ オロジカル・エレクトロニクス″の短縮形 で、 1960 年という最近に現われた用語であ る。 もしここで、サイバネティックスの定義 を広汎な、科学的に認知された範囲にとる なら、このエンサイクロペディアの一項目 に分離し限定してしまうわけにはいかな い。他のアンドロイド、オートメーショ ン、コミュニケーション、コンビュータ 、サイボーグ、知能、ロポットの見出し で論じられている作品の大半は、サイ / くネ ティックスものであるとも説明できるから だ。たとえば、カート・ヴォネガット・ジ 267 ュニアの『フ。レイヤー・ヒ。アノ』刊叩 れ加 ( 1952 ) ( オートメーション ) は その奥底に、非人格的な機械じみたシステ ムにとりこまれ、従属させられる人々のイ メージがある。彼らは事実上、サイバネテ ィック・システムの一構成要素、もしくは 、、ビット″となるのである。 しかし、 S F ではサイバネティックス は、普通もう少し狭い意味で使われること が多い。十中八、九まで、それは人工知能 の創造に関連している。確かにこれはサイ 『キャッチワールド』 パネティックスの中心課題の一つではある が、それのみであるとは到底いえない。サ イバネティックス論者の中には、神経シス テムけなわち脳 ) の解明が進めば、疑似 知能の合成が可能となり、それは最初機械 だが、やがて自己プログラムを行なうまで になるかもしれないと期待する向きもあ る。現実社会での人工知能への第一段階は コンビューターであり、それゆえにすべて のコンビューター小説は、サイノくネティッ クス小説でもある。 サイノくネティックスはまた、 、、サイボー グ″という言葉を借りて S F に現われる。 これは、、、サイバネティック・オーガニズ
ない心ーー守るべき『自由』への感受性というものを、もちあわせて ただひとつ、わかっているのは、『自分』が何をもとめているの しなし心力いまやシティにとってふつうのことになっている、とか、ということーーーもとめている自分。そこからはじめてぼくはそ いうことではないか。たとえどんな惨めな、あるいはあやまったもの『自分』の存在に気づいたのだから。 のであれ、自己評価ーーそれも内在的な、理想と現実とのファクタ 思いは、いつも、レダに ただレダだけにかえってゆく。 1 ・で区切られたーーをもちあわせていない、ということは、つま レダはぼくを、やっとみつけた自分の辛うじて水面からおぼっか り、最も重大な、自分の『こころ』というものを、もっていない、 なげに出ている杭のさきに、つなぎとめている細いひもで、だから ということではないか。自分がなくって、いったい、どのようにしこそ、こんなにもぼくはレダに固執するのだろうと思う。レダがひ て、自分が何ものであり、何をのぞんでおり、何になりたいか、をとつの命題だとしたら、それをとくのは他の誰でもない、この・ほく 知りうるというのか ) でありたい。 ( レダはレダだ。それ以外の何ものでもありえない。そして、どん しュ / し レダは何ものなのか。なにゆえに、何ものに定められ なにおぼっかなく、稚いものであるにしたところで、やつばり、・ほて、あのような存在であるのかーーーそれが、明らかになったときは くもぼくであると思う。それ以外のものではない。そんな、わかりじめて、ぼく自身、というこの命題もとけはせぬだろうか。 きった、もっともかんたんな、あたりまえのことが、なぜ、 0 ・ o それにしても ぼくはふしぎな、夜の大海にただひとり、仰向 も注目するほど重大なことにならなくてはいけないのだ ) けに求ートにねころんで漂っているようなふわふわとした思いの中 ( これは、『個性』なんていうふざけた、うすっぺらな問題じゃなで考えていた。・がまたひとつの謎だった。 絶対にちがう : : : ) i-a ・は、いつでも、彼女自身がいわばその代表者のひとりで、 だが、それなら何なのか、と考えはじめると、それはぼくには、」最高運営者のひとりでもあるところのシステムについて話すのに、 あまりにも判らないことが多すぎた。 まるで彼女がわかいデイソーダーででもあるような云いかたをす ぼくの心、ぼく自身 , ーーそれはぼくにとっては、ほんとうに、きる。ほとんど、彼女は、懐疑と諧謔とを、シティ・システムに対し のう今日、ようやく目をさましかけてきたおさないものであったのて表明したがっているといわぬばかりなのだ。 だし、それをつかってものを考えることも、・ほくはまだ、じゅうぶ それはむろん、»-ä・の知的な批評精神のあらわれと、とれない んに馴れているとは云いがたかったのだ。 でもないが ぼくは手さぐりで、あつい天の雲のなかをめくらめつばう歩きま しかしその、・にして、レダ・セイヤーの「スペシアル・ケ わっているようなものだ。自分が何ものであるのか、どうして自分ースに」言及するときだけみせる、ああまではっきりした逡巡 であるのか、この自分をつかって何ができるのかも、まだ知らなそれが、いつも、・ほくをとまどわせた。 彼女はまったく、そんなためらいとは無縁にみえるのだが。彼女 234
を伊 - 、刀 はぐらかされたような、わけのわからぬようなーーーしかしとしてした。 : 」く稚い、一方的で片手落ちなものではあったろうが いちばんつよいのは、異様なたかぶりと、そしてつのりくるレダへ それでもとにかく、ぼくは、ぼく以外のものの目をかりて、世 の思いーーー ( 会いたい ) という、たったひとことに、集約してゆく界を見ようと、おずおずと一歩をふみ出しかけていたのである。 思いだった。いまや混乱の極に達したぼくに、わかるのはたったそ っ乙 れだけーーーぼくがレダを、こんなにも切実にもとめている、という こと。 それはほんとうに、奇妙なそして胸苦しい一夜だったのだ。 たとえレダに何か、まだぼくの知らぬ秘密があったにしても、そ ぼくはほとんど眠れなかった。しかしいつものように、薬をの のことで、彼女が『ほんとうに例外』的なスペシアル・ケース「な み、 ドリーム・マシンをかける気には、どうしてもなれなかった。 のだとしても、それが何だろう。 何だか、そうすることそのものが、シティの片棒をかつぐみたい ・ほくにとってレダはレダ、それだけのことだった。ヴィジフォー ンがなかろうと、デイソーダーであろうと。 でひどく不愉快に思われたのだ。まだ、・ほくの敵はシティ・システ とまで、そうまではっきりと思いさだまったわけではなか もし、レダがそうなりたくないのにデイソーダーたることを強制ムだ ったが、ただ。ほくが考えていた以上に、たくさんのものがそこに端 され、シティの他の市民に与える悪影響を恐れて隔離されているの だとしたら、ぼくは、シティにーーーそうだ、シティ・システムそのを発しているというのは、まちがいのないことに思われた。 アーティフィシャル ものにだって反逆してやる。 人工的だとディマーはいった。何もかも、ぼくたちの生はつく レダがレダであること、それこそが正しいことなのだ。それをどられたものであり、だからもうぼくたちは「あるがまま」の自然の 子、ではありえないのだ、と。 のようなかたちでも、さまたげることのできるものなどこの世にい よ、しよ、 0 だから、シティシステムがすべてを代行してやっているではない か、というのが、 O ・ O の云いたいことなのだろうと思う。生活の それは、ふしぎな夜たった。・ほくは、そうとはそのとき気づかな 管理、眠りと夢の管理、心の管理。 かったし、そのあとも長いこと、そういうふうには考えてみなかっ ( だが、いちばんおそろしいのは、そうして完璧な管理社会がつい たが。それは、たぶん、ぼくがはじめて「ぼく以外の人間」にしん そこ心をむかわせ、「・ほく」でない人間の存在に心からなる関心とに現前しえた、ということではない ) 、ほくは、さながら O ・ O というディマーの顔をもった巨大な怪物 共感をよせた一瞬だったのだ。ぼくはもう、淋しいヴァーゴのイヴ ではなかった ぼくはいまようやく、「世界」を漠然としたひとが存在するかのように、べッドにひっくりかえって、頭の中で語り かけていた。 かたまりとしてではなく、・ほく自身の他にもぼく自身と同じくらい 大切なものがあって、それがさらされている嵐の場所として見よう ( いちばんおそるべきなのは、それを何ら束縛とも、過干渉とも感じ 233
ム〃の短縮形だ。この言葉の使用は、サイ パネティックスの分野が、特に人工知能に のみ関係するものではないという事実を表 わしている。木の義足をつけた人間は、極 めて簡単な形ながら一種のサイボーグであ る。生体組織はその瞬間に、サイぶネティ ックス的なものとなる。機械の部分と人間 の部分の混合は、 ( 意識的であるなしにか かわらず ) フィードノくック装置を必要とさ せるからだ。サイバネティックスの学問と は、基本的にはまずそうした装置の学問 われわれがテープルから本をとり上げ るとき、眼と手の間に働くのが、サーポ 機構であるかメッセージであるか、を問わ ずーーなのである ( 詳細はホメオスタシ ス ) 。 驚いたことに人工知能の問題に正面から 挑んだ SF は数えるほどしかない。必ずと 言ってよいくらい、この問題は空中から魔 法の言葉をとりだすことによってそらされ てしまう。たとえば、アイザック・アジモ フは作中のロポットを陽電子ロポットと呼 び、後は放置してしまう。最も包括的な ( 必ずしもわかりやすいとは言えないが ) サイバネティックス S F は、フランク・ハ トの長篇のおれあれ 0 ( 1966 ) こでは、問題は単に非常に複雑 だろう。 なコンビューターを建造するだけではな く、意識を持っと言える機械が建造できる かという点に関わっている。 VI いという唯物論をとる作家や読者に対して なサイバネティックス・システムにすぎな は、 ( 少なくとも、人間の心は本来、複雑 機械が自由意思を持っと言えるのか ? 」 もしろいことに、その問題「どんな点で、 についての哲学問題を提起するに到る。お 説の背景に必ず現われる、自律と自由意志 り、また、この種のサイネティックス小 う段階をいくつか、じっさいに説明してお は、おそらく可能になっていくだろうとい は ) 人間自身についての問題となってはね 返ってくる。学問としてのサイバネティッ クスの全推力は、表面上似ていない科学諸 分野間の類似点を指摘することにかかって きたが、心をシステムとして解明しようと するサイバネティックス神経学者はこれま で、人間という存在はおのれの肉体を神秘 的に超越していると信じる人々に激しく攻 撃されてきた。フランク・ハーノく一トは こうした問題を考察してはいるが、最終的 にはそれらに答えていない。しかし、それ をもって彼を非難することはできないだろ 現実に機械の知能をシュミレートするに は、主にコンビューターの発見的ゾログラ ムの方法をとる。これはコンビューター に、問題の解決にたどりつくにはあらゆる 可能な組み合せを骨折って行なうべきでは ないと教えこむ方法である一一一そんなやり かたをすれば、普通のチェスをするだけで も何十億年もかかってしまうーーしかし、 近道をプログラムすることで、コンヒ・ユ ターは解明のためにもっとも可能性の高 い、実りある方向を計測することができ る。人間はそれを自動的に行なっているの だが、機械には教えこまないといけない。 しかし、この教育は、機械にどうしたら選 択できるかという、意識への重要な第一歩 を訓練しているのである。 サイバネティックスの用語を使った最初 の重要な S F は、 ーナード・ウルフの んろ 0 ( 1952 ; 圜んろ 0 ' 90 英 ) で、作者 はその基本概念をコンビューター ・ゲーム、産業管理、脳の働きなどにから ませて、広い意味で ( ときには敵意をもっ て ) 使っている。もっとも、レイモンド・ F ・ジョーンズの The Cy なおわい ( 1950 スタートリング誌 ; 1962 ) では、サ イバネティックス用語の使い方はかなり大 ざっぱである。 ここではコンビューターに 266