意味 - みる会図書館


検索対象: アンコール・ワット
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1. アンコール・ワット

である。 2 橙色の小ピラミッド・ ( クセイ・チャンクラン ・ ( クセイ・チャンクランとは、「翼で身を守る鳥」という意味である。かわいらしい名前である 平方の基台の上に、二層の基台と中央塔 が、祠堂も橙色で、小ぢんまりと美しい。二七メートル がのっており、 全体の高さは一五メートルある。九四八年、ラジ = ンドラ・ヴァルマン二世の建 立にかかる。 基台各層・入口・まがい戸は砂岩、神殿の他の部分は煉瓦でつく 0 てある。アンコー トなどの大建築とちが 0 て、石材の色までよく吟味してある小建築である。 橙色の美しい形態で、緑の樹の奥に謙に建 0 ている光景が、とくに晴れた熱帯の青空の下 では、美しく見える。 舞姫と聖剣の寺院プラ・カーン 。フラ・カーンとは、国の守り本尊の「聖剣寺院、の意味である。現在、。フノンペンの宮殿にあ る聖剣が、ここにあ 0 たものかどうかは、わからない。一一九一年、・ ( イヨンや王都の建設王が、 チャム軍を撃退した戦勝を記念し、あわせてチャム軍に悩まされつつ死んだ父王を祀るため、建

2. アンコール・ワット

墨」のことである。また「入墨」をした「サ ムレ族」の意味にもなる。いわば、「入墨サム レ族」の「砦」の意味になるわけである。 現代カンポジアの入墨は、日本の耽美的芸 術的色彩入りの彫りものとちがって、ごく簡 単な点状で寺の格好だの経文の一節だのを、 、発 4 ~ 第獣ざ囲 , 3 青色ひとつで彫 0 たものである。信仰のため・ の見の彫りもので、僧院で坊さんが彫る。 」昔のサムレ族が、どんな入墨をしたか、今 のなはわからない。しかしサムレ族とは、系統は レの ネグリー ト族、小柄で、鼻は平ら、頬骨が高 く、色は黒い。今でもアンコール北部に土着 んし、頑固で排他的部落をつくっている。無知 で傲慢な排他性は、軽蔑される。彼らは、軽 蔑されるとますます、入墨などして仲間意識 をたかめていたのかも知れない。入墨をして おけば、どこに行ってもここの部落民である ことがわかる。わかれば嫌われる、であろう。

3. アンコール・ワット

る。もし、チョンマゲであったとすれば、日本人であること、つまり怖るべぎ戦闘者としての、 身分証明書となるわけである。「チョンマゲ来る ! 」という声で、戦わずして敵に浮足だたせる 威力があったであろう。その意味で効果的だ。 しかし、チョンマゲ姿の異邦人日本人を、大事な国政に参与させるとは考えられない。容姿も シャム人になりぎってこそ、宮廷や国民を納得させる政治への参与ができるわけである。 しか つまり、戦闘要員の枠内で満足し、その威力を誇示するにはチョンマゲは都合がいい し戦闘要員の枠から飛躍して、政治面でも活躍するためには、チョンマゲは向かない。彼らが、 チョンマゲであったかどうかには、このような意味が内包されている。 しかし、山田長政の肖像は、シャム服であるが頭の中央を剃ったチョンマゲ的頭髪をしている。 いわば高級戦闘要員の枠内にいたという印象を与えるのだ。 ( アンコール・ワットの建物を、五 重の塔で日本的に表現したように、これらの肖像も、日本的にして日本で描いたのかもしれない 6 アンコールと日本人町 アンコール・ワットを建設したクメール族のカンポジアから、アンコール一帯を奪ったのは、 シャムである。史実で明らかなものだけでも、一三五七年に九万人のクメール人、一四〇四年に 四万人のクメ 1 ル人を捕虜として連れ帰っている。以来、アンコールはシャム領である。日本人

4. アンコール・ワット

勝利の門を出て、タ・ケオに向かう道の両側、小さな二つの寺院がある。右側がチャウ・サ イ ( あるいはチャウ・サイ・デヴォダ ) 、左側がトム・マ / ンである。 いずれも十一世紀末から十二世紀前半に建てられた仏教寺院である。よく見ると壁面彫刻・唐 草模様などに美しいものがあるが、大寺院の大規模なものを沢山見てきた眼には、あまりアピー ルしてこない。 女の砦・ハンテアイ・スレイ アンコール遺跡のうち、ある意味では、もっとも美しいものと言える。 ' ( ンテアイ・スレイと は、「女の砦」の意味である。 これまでみてきた大建築が男性的で雄大な建物であるとすれば、この「女の砦」はまさにその 名の通り、優雅な気品のある女性的建物である。 ばら色の建物で、とくに赤色糸の砂岩を選んで、それだけで建てた贅沢さを誇っている。中央 正殿に南北一列に並んだ三つの礼拝堂が、きわめて美しい。 ばら色の建物のばら色の大柱に彫られた彫刻像も、美女と美少年の群である。乳房の横に、し なやかな指をあてがい、顔を少し外側にむけたポーズを女神たちはしている。美少年の像は、門 1 ラである。 衛ドヴァーラバ ドヴァーラ。、 1 ラは、ほかの寺院では剣や槍を手に、少しガニ股で、恐ろしい顔をした中年男

5. アンコール・ワット

るところナガーラ (Naga ・ (a) は、城市・首都の意味と同義語である。このナガーラが、 Nagara 1 ー↓ Nogkor—»Ongkor—>Angkor となまって、「アンコール」になった。 そればかりでなく、「蛇」はカンポジアの建国説とも関係がある。インドから流れついたデリイ ナーオラージャ の王子が、大蛇王の娘と結婚して新しい王国をつくった、ということになっている。 仏像の蛇の台座ーー七つの頭が仏陀の光輪のようだ。

6. アンコール・ワット

しかしこの遷都が重なったことは、王が統一のために、かなり手こずったことを意味する。苦 しい統一には、妥協も必要になってくる。ここに、ジャワ渡来の仏教糸王朝の、カン・ホジア化が、 生まれてくるのだ。 王の出身地シ = リーヴィジャヤ国は、ジャワに見事な仏教大建築ポロブドウールを、八世紀に 建てている。カンポジアに渡来してここの王になったジャヤ・ヴァルマン二世 ( 八〇二ー五〇 ) も、このような大建築を自分もっくろうと、夢みていた。大王もそれを志した。しかし実現でき なかった。この間に七、八十年経ってしまう。が、それは全土統一と驚異的な国力・財カ蓄積の 準備期間であったとともに、ジャワのポロブドウール様式と違うカイホジア独自のアンコール芸 術をつくるための、準備期間でもあったのである。 三代目のインドラ・ヴァルマン王 ( 八七七ー八九 ) は、平野の中心ハリハララヤ ( 現在名口リ = オ ) を王都とし、。フラ・コオ ( 第六章 ) や大寺院・ ( コン ( 第六章 ) を建てた。やっと国力 が強大になってきた証拠である。それとともに、依教国のジャワからきた王が、三代目で異教の ・ハラモン寺院を建てたことも、注意されてよい / リハララヤ王都を捨て、王都 その子の四代目王ャソ・ヴァルマン王 ( 八八九ー九〇〇 ) は、、 アンコール ( アンコール・「王都」の意 ) を建設した。しかし当時は、王の名をとり、ヤソダラー 。フラ ( 「ヤソ王居城」を意味する、中国の史書では「耶輸陀羅城」 ) と呼んだ。 ( 現在「アンコール・トム」と呼ばれている遺跡は、後に述べるように、アンコール・ワット より後に建設されている。しかし、東大教授吉岡カ氏ほかの史学者は、このヤソダラー。フラその

7. アンコール・ワット

1 アンコール・ワットの規模 コ ン ☆建立動機とその年数 の アソコール・ワット け アンコール・ワットは、「王都・寺院」の意味である。 しかし、恒久的な代々の王のための寺院ではない。前述 の「神・王」思想によって、スールヤ・ヴァルマン二世 が、ヴィシュヌ神と合体するため自分のために建てた。 いわば、王一代のために建てられた「王都寺院」と、 えよう。なぜなら、代々の王は神になる自分のための寺 院を建てる習慣があるので、引き継ぎの二代三代にわた る建築は一般にない。火王が先王思いで、ほぼでき上が - ったものの細部を完成することはあるけれども。しかし またあるいは一方では、未完のまま工事を中止すること もある。 ところで、アンコール・ワットは、細部を火王が完成

8. アンコール・ワット

日本人の外人部隊は、いろいろな かっちゅう 古意味で強かった。まず、彼らは甲冑 ( 0 第を一露町に身を固めて」た。南国 0 半裸 0 兵 本隊と、甲冑の防備とでは、矢を浴び たときの防禦率が問題にならない。 ン現地人たちの眼には、甲冑の日本人 一たちの肌は、ピストルの弾丸をはね かえす巨象の肌のように映ったであ ろう。 日本刀の切れ味も、すばらしかっ た。ましてや、戦国乱世の伝統をも つ日本人の武術の腕も、驚異であっ た。その卓抜さは、慶長の頃ソンタ ム王をして、日本人を王警護の近衛 兵として、採用させるほどであった。 しかし、彼ら日本人は異国にあっ ても、依然としてチョンマゲであっ たのだろうか ? これは一考に価す

9. アンコール・ワット

135 武士道的なものがあったのであろう。 擘の中央近くには、一匹の虍に追われ て、樹によじの一はるバラモン僧の図があ るしなぜこのような・ハラモン僧の、醜体 を描いているのであろうか ? チャム軍 じゅじゅっ 行 の戦勝を呪術で祈る敵の・ハラモン僧であ るのか ? そのために虍にくわれて、罰 されるのであるか ? それとも仏教王の、 ・ハラモン僧に対する皮肉であるのか ? 当時の解説がないため、その解答は得ら れない。しかしなんらかの意味があろう。れ 璧の終わり近くに、工事現場の図があ る。おそらく、寺院建設の工事であろう。 とすれば、アンコール建築に興味あるも のにとって、見逃すことのできない光景廊 である。 どこの国でも現場監督や親方は、肥っ この て腹の出た風格をもった者が多い。

10. アンコール・ワット

201 を、考慮したと、考えることもでぎる。なんら骨だけ にしてしまう必要はないからだ。黒焼きでいいのた。 とすると、火葬の半ばで、実際に死体の裏返しが行 なわれたとも考えられるのである。 一般庶民にしてみれば、裏返し式火葬は高貴な者に 限られているから、尊敬と崇拝を感じ , るものであった ろう。「死体の裏返し寺院」ということは、「王族の火 葬寺院」の代名詞として、考えることができるのでは なかろうか ? これも一つの推定ではある。 8 王の浴場スラ・スラン 森にかこまれ、はればれと視野いつばいにひろがる景 見事な池、見事な石のテラ・ス、そして見事な静寂 : : : 。る スラ・スランとは、「王の浴場」の意味である。十二世 の 紀末、ジャヤ・ヴァルマン七世が造ったし ス しつもまんラ 東西七百メートル、南北三百メートル。、 まんと水をたたえている、この大きな池の周囲は、砂