水 - みる会図書館


検索対象: アンコール・ワット
210件見つかりました。

1. アンコール・ワット

1 アンコール・トムの定義 アンコール・トムとは、「大王都」 ( アンコールⅡ王都、トムⅡ大 ) の意味である。 アンコールの政治・経済・芸術の中心である王都は、実際には何回も造りかえられた。トムと 呼ばれる現在の王都は、ワット建立より後で、アンコール王朝最後の華やかさを示したジャヤ・ ヴァルマン七世 ( 一一八一ー一二一八 ? ) によって建立されたものである。 2 王都の立地条件とその功罪 カンポジアにおける王都の第一の立地条件は、水である。一年中水と苦闘する土地だからであ る。モンスーンは、雨期 ( 五ー十一月 ) になるとあたりを洪水で埋める。乾期 ( 十二ー四月 ) に ききん なるとまったくの水饑饉をもたらす。 ( 例をあげれば、カンポジアの南部山岳地帯の降雨量は七 月一か月だけで八五〇ミリを超す。反対に水饑饉の乾期になると、ドラム罐につめられた水が各 地で売買されているほどの怖る・ヘき水不足である ) 。 一総論

2. アンコール・ワット

このように両極から水で苦しめられているこの国では、水への対策を講じ得て、しかも豊カカ 米作の中心地が、王都の第二条件である。 クメール族は、魚を米とともに主食にしている。魚が大量にとれる地区が、第三の条件である アンコール地・区は、こ の水・米・魚の三つの条 件をみたすものである。 すなわち、米作の一大生 洪産地である。南のトン 叭レ・サップ大湖は、世界 あでも有数の魚量を誇って 期いる。また北から南に流 一れてきて大湖にそそぐシ 湖ム・レアップ川は、水 プの利用に便利なものであ サる。全長五〇キロで河川 ン利用工事に手ごろな大き さの川なのだ。 王都は大湖から二〇キ

3. アンコール・ワット

ルの「女池」。現代文明社会にもない超大型。フ 1 ルで、 ンターンなしの一二〇メートル競泳も、男池ではできる ナ のだ。 プ 構造もすばらしく、四方の縁から水の中へ階段がっ プいている。雨期と乾期とでは、当然水位がちがってい テたであろうから、水が少なければ、適当なところまで 階段を下って行き、そこから泳ぐことができるわけだ。 泳げない者は適当な水の深さまで階段を下り、そこで 体を洗うことができる。 上の段の腰石には、腰をおろして具合がいいように くぼみがついている。水浴後一息ついたり、仲間の水 泳を眺めたり、あるいは泳がなくても涼んだりするた めであろう。縁の砂岩には、蛇・魚・半人半鷲のガル ーダなどが彫りこんである。デラックス版プールだ。 更衣場はない。昔もなかったであろう。彼らにはそ の必要がない。なぜなら、男女ともサロンと呼ぶ長い 腰布をまと 0 て、入浴する。体は、その布の上から掌 でこすって、洗うのだ。布ごしにである。洗い終わる

4. アンコール・ワット

である。シヴァ神のリンガだけでなく、。フラ・カーン寺院には、式ラモン教の三大主神であをフ ラマ、ヴィシュヌ、シヴァ神のリンガが並んでいる。 リンガは、普通直径三〇センチほどの石の円柱でできているが、高さ一メートル五〇もある大 型リンガもある ( プラ・ビトウ寺院 ) 。形態は、上部にリアルに線を入れたものもあるが、大部分 がただの円柱である。上部が花の蕾形のものもある。それらが、台座の上に、屋根の上に、参道 の両側の石柱列として、並んでいるのだ。 万物が生まれ、死ぬ謎として、リ . ンガがあるが、それを助けるもう一つの要素として、水があ る。リンガは、水が流れる溝のついた石の台座の上に置かれ、僧により信者により、たえず水を 」 ( 一神蔵 ヌ館 ュ術 ヴペ つみ

5. アンコール・ワット

5 がんじがらめの自在天タ・ソム 熱帯樹の暴力と妻まじさが、いかにものすごいものであるか、これはいかに文字で正確に描写 しても、誇張か嘘としか、きこえない。 タ・ソム寺院の正門の塔は、巨大な四面像になっている。その顔の上に一本の蔦系の熱帯樹が 生い繁り、その根が数限りなく顔をおおっている。顔をがんじがらめに、おおっているのだ。そ の顔の主がロケスヴァラー・・・ー自在天であることも、皮肉なことである。 6 人造湖の中之島寺院東メポン 九世紀末、王都への水の補給と灌漑のため、ヤソ・ヴァルマン王の掘ったん造湖は、東西七キ ロ・南北二キロ・深さ三メートルのものであった。正しい矩形である。水量四千万立方の人造湖 の水は、シエム・レアツ。フ河の水をひいた。王は、この人造湖の中央に中之島をつくり、祠堂を 建てた。これが東メポン寺院の起源である。 王の死後、王位継承争いがおこり、首都がアンコールからコーケに遷された。再びアンコール に王都を戻し、第二大アンコール王都を建設したのは、ラジェンドラ・ヴァルマン二世である。 この王は、アンコール王都の施政に当たって、新たに「水」の重大性を強く認識したのであろう。

6. アンコール・ワット

ア ン コ 王 の 創 始 足さ いイム 水育 イム教 きの る石 転ー へ座 のを 方仰 る女 。性 たくさんある。 的れ のが し . あで り争 しそ 、る 室た 的は ど方 乾は が倒 期生 1.3 の な カ : っ て い る 首のない仏像ーーこのような像が り え て い ゾ で ど り ま カ : にがれかか ど て 2 、 フ モ ン 教 と ・は に て い た ☆ 仏 教 と ラ モ ン 教 の 相 克 と ハ ン ス は も 貴 重 冫こ な る 滴がれ の生ナ で と の 也イ言・ り が 他 、方 。他を混た . 圧 た と 甲 う と 台 ヨ イ と る ・つ て も ルけた カ : い 終 見わ始 っ の か 。歴 、史 . ら 、み あ つ た し で盛、したか他イ 性 も な い っ り ド ほ ど の 徹 . 底冫 な 、排ナ し か し 争 い ま の 水 に る 切 ら む も の で 対そ性 すれ標 と と 実も見 なにな 持雨者 ち期も は 信面水 で洪あ ガく る苦こ だみ生

7. アンコール・ワット

アンコール・ワット全休図 廊廊 回回回 象の門 一橋央 中央塔 象の門 の蓮側段濠 ( 0 メ の 0 よ と 水 のタを 土 も に牛幅陽見 メ 東 ☆ の に 々 に の 花は の 西 ワ 美 の広 で・は ト 西 の て の 濠 カ : い背 ル で し 群 ッ ト は石をあ咲上 り ド皆 いを水後寺 の 五 ル ト 、の 渡 て . 段 の外 の 神追 ろ い野 百 の を の 行式濠 水 陸 っ う メ 構 囲 秘 つき て の ワ お 濠 橋 の 成 い不とけ・に カ ; 的 て て ッ り る忍る 、帰め な め 内 ト ト て 開 ぐ側ル っ き の く 力、 ワ の き こ池正 て ら 歌 オよ て タ る に ツ の の一ⅲ 、南 なし いさ 的 行 ・映と ト るれ幅北 光 お 蓮よ参 く え . て約千 景 。牧 し 入 はう道 縁 と 目リ る 後にの だ ま童 、面 た東 力、 し、 、両 が 濠 り 門 る九百 に 世 ら の

8. アンコール・ワット

t12 ニ各論 城壁と五つの城門 城壁と外濠三キロ四方の王都を取りかこんでいるこの城壁は、ラテライトの切石造りで、 高さ八メートル。内側から土をかぶせて盛りあけてある。そこから登り、城壁上を歩ける。いや、 歩い・ても落ちないように手すり代わりの石が並べてある。壁面内部から外を見る覗き穴はない。 城壁の四隅にそれぞれ堂宇がある。 城壁の外は、幅百メートルの濠でかこまれている。濠は、もちろん王都の防と威光のために つくられたものであるが、実用的な水利も考慮されている。水饑饉の乾期に備えてであろう、雨 期にありあまる水を、北東と南西二か所に傾斜で流し、そこから城壁の下を通るトンネル五つで、 城内の水溜り池に導水するのだ。 蛇をかかえる石の巨人群、じつは欄千幅百メートルの濠をわたって城内に行くには、陸橋 王都内のおもな建造物をあげると、イヨン廟、・ハブオン、ビメアナカ、男池、女池、群象テ ラス、類王テラス、テップ・。フラナン、プラ・。 ( リライ、プラ・。ヒトウ、十二基の塔の。フラサ・ スオル・。フラットほかである。もちろん王宮の五つの城門と城壁も加えなければならない。

9. アンコール・ワット

暗い小部屋の女人トルソー 岩でつくられている。しかも階段式になっていて、水の中に段々で降りていける。水底も石だた みという豪華さである。 西岸にあるテラスは、クメール獅子の石像に、大蛇の欄干があり、欄十の大蛇の頭の上には、 小肥りの半人半鷲ガルーダが馬乗りになり、ふんぞりかえっている。 静寂な水の美しさは、スイスのレマン湖を連想させる。しかし人工的に造ったこの池と、自然 の湖レマン湖の間には、印象の相違がある。レマン湖はロマンにあふれている。北国の光は感傷 にみちている。しかし、熱帯地方のま昼の光線の下に、感傷はない。ぎらぎら厳しく光る詩情だ。

10. アンコール・ワット

ものを遺跡のアンコール・トムと間違えて、アンコール・ワット以前の建設と、述べている。日 本にアンコール研究の資料が少ないためにおかした過失であろう ) 。 この王の建てたものの代表的なものが、。フノム・・ハケン ( 第六章 1 ) であり、大工事としては、 東の大人造湖を掘っている。乾期になると一滴の水も貴重になるほど水の欠乏をきたすこの国で は、灌漑その他の水を確保することが国家経営の必要第一条件であったからだ。 ☆アンコール最盛期から衰退まで ャソ・ヴァルマン王が死ぬと、王位争いが始まった。隣国チャンパとの戦争もおこった。難を 避けるため、首都はアンコール北東のコオ・ケルに移った。 チャン。 ( との戦争に勝ち、ラジェンドラ・ヴァルマン二世 ( 九四四ー六、・、卩 / / ) カ員位するにおよ んで、王都は再びアンコールに帰ってきた。この王によって東メポン ( 第六章 6 ) や、。フレ・ル ツ。フ ( 第六章 7 ) の寺院が建てられた。また彼とその後継者ジャヤ・ヴァルマン五世 ( 九六八ー 一〇〇一 ) によって、・ハラ色の美麗な寺院、・ ( ンテアイ・スレイ ( 第六章 ) が造られた。 この王によって、アンコール文化は軌道にのったのだ。軌道にのった といテこと、それは 不思議な力をもったことでもある。なぜなら、そ れ以後、内部的に王朝が新王朝にかわっても、ま たアンコール地区内ではあるが、首都の中心が移 動したり、首都が造りかえられたりしても、軌道