正午、フィリッピンの東北端に達したが風はなほ冷い、午後はゴルフ、夜はサロンから鳴る蓄音一 機を聽きながら早くべッドに人った。 一月ニ十ニ日 ( 船中 ) 朝の陽光が私のキャビンの窓を射す頃起きた、凉しい氣温、サロン備付の小説を讀んだ。正午 船の位置は北緯十三度十九分で、午後、ルソン島の東南、サン・ベルナヂノ海峽に入り、ネグロ スとセプ兩島の狹い間を進んだ。セプ島は低い止陵地で海岸に近く古表椰子の林が績き、所々燒 畑の跡地が現はれ、夕方になると海峽は愈々狹く點滅する人家の燈火が見えた、風は凪ぎ、海は 湖水の様で蒸し暑くなって來た。 一月ニ十三日 ( 船中 ) 朝、海峽をぬけ、ミンダナオ島の西海岸に滑ふて南下、正午、北緯八度十六分、発航程の凡半 ばを航行した、暑さも本格的となり室の電扇が唸って來た。夜に入ると滿月が澄んた室に懸り海 には銀波を映じてゐた。 船はザンボアンガの沖に差しかゝった。 一月ニ十四日 ( 船中 ) 昨夜は蒸し暑く寢苦しい夜であった、午後から陸地を見す、船はスル 1 群島の間を走ってゐる
晝の食堂に出ると一等船客一一十六人、紅一點の女性の外は商業關係の若い人逹であった。私は一 船長の正面に座した、見渡した處、私が一番の年長者らしい、同じ卓の人々と名刺を交換すると 精陶商龠氏、爪哇にて實業を營む氏、東京府技師 O 氏、ポルネオ、バンジャルマシン、野村 ゴム園の氏であった。 一月十九日 ( 船中 ) 朝七時、温い一杯の珈琲がべッドに運はれた、甲板に出ると右舷、遙に屋久島が雲の間にその 頂を現はし、波は相當荒いが船の動搖は少なかった。 午後船長とデッキ・ゴルフ、甲板が米松なので滑りが惡い。夕方奄美大島が幽かに見えた。 一月廿日 ( 船中 ) 氣温が昇って來た、夏の合服に着替へて甲板に出ると快適な微風があった。 食事は多くは日本食、時々洋食、食後いつも果物が出るのが嬉しかった。 正午迄の航程、三百四十二浬、北緯二十三度五十分、午後、囘歸線を越した。 一月ニ十一日 ( 船中 ) 凉しい東北の貿易風が吹いた、朝の珈琲を濟ませてガラス張りの甲板に出た、赤い太陽が東の 水平線から昇り柔い光を甲板の上に投げてゐた。海に白波が立ってゐるが今日も船の動搖がない。
クラブの宿舍に入った、莫蓙を敷き詰めた板張りの大きな室にはアセチリンの光が熄々と輝いて ゐた、ガラス窓を開けると波の音が椰子の林を隔てゝ聞え、心地よい潮の風を送って來た。 久しぶりに温浴して浴衣に着替へ、船中一一日間の苦を忘れて床に入った。 四月ニ十セ日 ( ヌシ丸船中 ) 朝、河野主任の案内で島を見學した、島の中央の凹地が燐鑛の所在地で、往時土人はその鑛石 を掘り上げに水溜りを設け農耕地とした、今はこの掘り上げた鑛石が利用せられてゐる。 歸途、海岸の土人の部落を見た、土人はその體格が偉大でその素朴な木彫人形は有名である。 十時、一日一クラブの宿に歸った後乘船、十二時に出帆、海は靜であった。 四月ニ十八日 ( ヌシ丸船中 ) 好睛、波は靜、時々プリッヂに上がって太洋を眺めた、タ陽の景色は美しい。終日無爲。 四月ニ十九日 ( バラオ ) 未明、べッドに寢た儘丸い小さな窓から外を望むと。 ( ラオ島が海面に浮び鋸の様な見覺えのあ る峯が次第に近づいて來た、船はコロ 1 ルの燈臺山を一週してマラカル島の前に投錨した。 九時、防疫と税關檢査とが濟むと杉浦農林課長、相澤技師、安武技手の諸氏が私達を迎へた。 ランチでコロ 1 ルの波止場に上陸、興發のクラブに落付いた。
のであらう。 一月廿五日 ( 船中 ) 朝六時、船は赤道を通過した、往時、航海の少なかった時には赤道の通過は珍しいことであっ た爲めか色々の行事があった、和蘭船では始めて赤道を通過する者に頭から冷水をかけた。最も 普通に行はれるのは赤道の神様から通過の鍵を頂く儀式である、然し最近まで、會就は客の吸 收策として赤道を通過する毎に神様から貰ふ鍵の代はりに一枚の切符を發行し、それが一定の枚 數になると割引券と交換する仕組みにしたこともあった。 はマカッサ 1 海峽に入った、つまりワレ 1 ス線に滑ふて南下してゐる譯た。明日から外國の 領海内に人るので内地へ電報を打った。 午後、右舷に沿ふて帶の様な低地が見えて來た、ポルネオの・ハリク・。ハ。ハンか、サマリング地 ) 一・物・ 1 ヒす 方石、「 であらう、夕方から幾分凉しくなり、夜に入ると陸地の燈臺が見えて來た。 一月廿六日 ( 船中 ) 大脣凉しい、船は爪哇に近づいて來た、小島がポッ / 、現はれた。 サヨーラ・デナー タは送別會がガラス張りの甲板上に催された、幾つかのチャプ臺が置かれ、座布團を布き 「すき燒」の御馳走、船長初め船客は浴衣がけに胡坐をかき賑やかに食事した。
四月ニ十四日 ( ヌシ丸船中 ) 朝、官廰に・印ち副理事官リンクス氏を訪間、旅行中の援助や旅行の許可證のことで行き 違びが出來、面倒をかけたことを謝した、・は豫め私達の旅程を通知して哭れるなら何でも 無かったことだと云った。 この室の一隅に並べられた土俗品を一暼した後、・の出した訪問帳に記念の署名をした。 私は隣室に居るム君にも敬意を表すべく最後の別れを告げに行った。 中食は宿の主婦の料理になるライス・テ 1 プルであった、 = ュ 1 ギ = ャ最後の食事で一同は寬 いで食べた。 食後一睡、五時、スシ丸に乘り込んだ、興發社員、税關長、その他の人々が船まで見送った、狹 い食堂で杯を上げて健棗を視し互に別れの言葉を交してゐるうち六時出帆の汽笛が鳴った、船が 錨を推き上げるとスコ 1 ルが一陣の烈風を伴ふて襲來し、棧橋に立って船を見送くる人達の姿が 怱ち隱れ、マヌコワリの市街も間もなく雨とタ闇に消えた。 航 ( 共の一 )
「昨夜あの婦人が晩くまで甲板の上で大き な聲で話したり、笑ったりしたんで安眠が 出來なかった」 と告げた、すると艢長はその紅い着物の婦人 こ、洋ド人は直ぐシ に近づき何か話した様たっオ妃 ガレットを持った手をさしげ私を見ながら ロ爆笑する、私も手を振った、この川・」、如 港はタルナテ副理事官夫人で本国に休暇を取り テ 今歸路にあることを後に知った。 日ガ記みるとサロンで。ヒヤノが引セら囂 べットに人る、 時ダンスが始まったらしい。 葡夜中烈しいスコ 1 ルで、その飛沫が屡々窓の 中に這入り、安眠を妨げた。 ニ月十六日 ( 船中 ) 船は未明にスピ 1 ドを落した、窓外を覗く
のアベタイザー、八時夕飯、これが一般の生活の日課であったが今日はテニス、ゴルフ、水泳な一 どが廣く行はれ、父運動とは云へぬもタ方のドライヴ、自轉車など非常に盛んになった。 正午頃、船はプートン沖を通過、夕刻、室模様はドンより曇る、夕飯前の乘客はアルコ 1 ル飮 料をとるので何と無く陽氣になる、中に婦人逹が傍若無人振りを發揮するのが苦々しい。 ニ月十四日 ( 船中 ) モルッカ海は波靜で朝から微風が甲板を撫で心地がよい、午後の睡から目が覺めて何氣なくキ ャビンの窓から外を覗くと近くに島が見える。海岸の椰子林に滑ふて人家が點々と並び倉庫らし い大きた建物が立ってゐる、ポ 1 イに「は何處だ」と訊けば「アンポンです」と云ふ、アンポ スケジュール ンには明日着くのだと航路表を信じて居た私には意外であった。 スピード 甲板に出ると船はもう速力を落して靜な内に弧線の波を殘しながら徐々に這入ってゐた。美 しい島が目の前に現はれ見覺えのある白、赤の建物、彩られた森、アンポンに違びない、船はや がて棧橋に横付けになった、埠頭には出迎へと、見物人で澤山な土人が群がり甲板には乘客が下 船に忙しく何となく騒々しい室氣が一面に漂ふて居た、私は船室に入り荷物を整理した、何處と もなく「立てよいざ立て、主のつはもの : : : 」の讃美歌の合唱が埠頭の群集からタ暮の室氣を流 れて聞えて來た、此船に乘ってゐる救世軍の司令官を出迎へる一團であろう。
ヌシ丸は一一百四十噸のスク 1 ナ 1 型、速カ八節、。 ( ラオとヌ 0 ワリ間を往復すると同時に乂・一 日本とのニュ 1 ギニヤ大陸とを連絡する唯一の船である。 ー帆後、吹いて來た烈風は長く績き、船の動搖益々はげしく、乘客の大部分は着替の暇もなく 共儘べッドに横たはった、夜中、屡々安眠が妨げられた。 四月ニ十五日 ( ヌシ丸船中 ) 午前、船は渺茫たる靑海原を搖られながら進んだ、剩へ午後は雨となり、空は黒雲に被はれ暑 さと濕氣とで押しつけられる様であった、タ、船尾で二尾の大きな鮪が釣れ、食膳に上ぼった。 四月ニ十六日 ( トコペ島 ) 今日は我南洋群島の最南端にあるトコペ島に到着の豫定であった、然し昨日からの惡天候で船 の位置を定め得す、加ふるに潮流の關係もあって島は容易に發見が出來す、船長を困らせたが漸 く午後三時、その位置がわかり針路を反對の方向に變へた。 タの六時過ぎ、水平面上に一文字を書いた様な低いトコペ島が現はれて來た。間もなくタ闇の 島の林に映っる靑や赤の燈火が見える、椰子の林の間から洩れる窓ガラスの光りは仕宅でもあら 私逹は迎へのランチで棧橋に上がると河野主任が出迎へた、懷中電燈を便りに暗い道を歩み、 ー 200
下に見える、一種特異な美しい此景色は他にその類例を見ないであろう・ = 一時、コロ 1 ル港に這入って來た南洋海迅の爪哇航路に就航する名古屋丸に乘り込んだ、甲板 は見送りで大混雜であった、船は四時出帆した。 五月ニ日ーーーセ日 ( 船中 ) 船では、デッキ・ゴルフがはづんだ、午後の一睡と讀書、ラヂオ・ = ュ 1 ス、型にはまった生 活で愉快な日を送った、四日頃から凉しくなり六日になると氣温は急に低下した、七日の朝、デ ッキに出ると靜な海に帆を上げた日本の魚船が見えた、此の魚船こそ外國から歸航する吾等には 一番のなっかしみで故國に歸ったと云ふ感激を何時も私に與へて哭れる。この日のタに近い頃、 船は左に淡路島を望みつゝ靜に神戸に入港した。
私は今店の裏の居間でもあり食堂でもある廣い室に案内せられた、そこには卓子や椅子の外に 幾つかの戸棚があり、熱帯焦の泳ぐガラス張りの大きな水槽もあった、この室に接して臺所が見 える、私は久し振りに親類の家にでも來た様な寬いた氣持ちで寢椅子に體を横たへた、天井から 長く吊した一つの電燈は甲斐々々しく働く芳子さんの顏を色々の角度から照した、私は椅子に寢 たまゝ當時廿四歳で愛くるしかったその面影を偲んた、芳子さんは、 「もう曲は拔け、髮は薄うなりまして」 と喞つ。やがてタ飯の準備が出來、 芳子さんの御給仕で丸卓子を圍み、往時を語りたがら食事 をした、簡素な御惣菜なのが何より嬉しく靑い漬物を貪る様に食べた。一休みして主人の案内で 市内を散歩がてら見物した、薄暗い町で、こゝでも華僑の店が並んでゐた。氏の宅に歸ると日本 からの放送、九時四十分の時報、ニュ 1 スを内地と同じ氣分で聽く。十時船に歸り冷水浴の後、 床に入ると酒を飮んで歸船したらしい男女の船客の癇高い會話が甲板の上で何時迄も績けられ安 眠を妨げた ( 三月十四日の日記は「文藝眷秋し昭和十五年五月號登載 ) 。 ニ月十近日 ( 船中 ) 碇泊中の船は何か物足りたい感じで却って安眠が出來ぬものだ、五時半ロが覺めた、曇った室 は太陽が高く上にるに從って睛れて來た。