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検索対象: 悍 第3号 特集暴力燦燦
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1. 悍 第3号 特集暴力燦燦

とを十分に考慮していなかったが、それは必然性とその場しのぎの手段し、変調し、様態を付与された。ーー要請は、本質的に決わ教っ りうあ久 ってこ ) に、 測りえぬものの一部分にいで光 を管理する者にすぎぬことの意識を欠いていたからであり、欲望つまり定も定義もされえない。 とっ本 山 は精神、息、感覚を失っていたからだ。したがって問題は単に《民主主があって、これはおそらく、一般的計算の文化ーー・《資貪な一 るの 義の精神》を理解することではなく、まずもって、《民主主義》が形式、本》と呼ばれるーーの徴用に対する最も反抗的な部分で学れフ ン まチ ナ 一 ) ( 制度、政治的・社会的体制である以前に精神であることを考えることである。この部分は、やはり予測的計算とも、効率の予測 こらモ とも断ち切られていることを要求する。しかし、この切 ク ある。この提案の中でちぐはぐで、《精神主義的》で、《理想主義的》一 ッ ュ 見えるかもしれないものは、しかし逆に、最も現実的で、最も具体的か断はあらゆる先取り、準備そして最も適正な措置の考慮、を者 を破棄しなければならぬということではない ( この〔切タにが っ最も火急を要する必然性を含んでいる。 ン ↓まな , っ ャ ルソーの契約が、その日付つきの概念が閉じ込められている法的・防断という〕語の二つの意味において ) 。そうではなくて、 ジ 理 」 ( ) ~ 一護的限界を越えて意味を持っとすれば、それは、彼のテクストが言「てやはり、要請の果てしなさはその場所 ? ーーそして時を、格済と の嫩 ~ 真 いるように、この契約が何よりもまず、より本質的には、知的な存在お瞬間をーーー見出さなければならない。ある期間ーー要すと 念勗義 ? イよび人間を生み出すことなしに自らを統治する共同集団の原理などは生るに予想されたとおり 時代はクロノ概観主 スというよりはカイロスであった。つまり、持続と継続こ」 み出さないとい - フことにこそある け民 民主主義の精神とはまさにこのことに他ならない。すなわち、人間のというよりは、チャンス、遭遇、到来なき、確立なき偶て目な コ・プレザンス プレザンス あの対 息。与件としての人間の背丈に見合うヒューマニズムの人間ーーこの与発事、可能なるものの存在と共存在としての現在時に も先正 かかわる不安の到来にして去り行きである。この可能な いかなる条件で、いかなる規定で ? ーーでは で目も 件 2 はい」「 ) に・回か - フの、っ・・ トなく、 しかし人間は限りなく人間を超出するものである。ここまででわるものそれ自体は権利としてと言うよりはカとして定義概と一 的うア される。すなわち、潜在性それ自体はその《実行可能性》 ッれわれに欠けているのはルソーとともにいるパスカルだ。マルクスは ュ言 イにる において捉えられるのではなくて、開けにおいて、それ この両者を結び合わせようとしていた。彼は、人間が自らを生産するこ タ単わ 第と、そしてこの生産はあらゆる計測可能な価値を越えて無限に価値があら可能性がカとしてそして無条件の実現ーー事物化につ たま いては何ら言わないまでもーーーに従属する義務もなく提ま ることを知っていた。そしてマルクスこそは、永久にその名をーーー《マ はー ) 挙莪、刀 と詳主う ルクシズム》という呼び名ではなくてその固有名をーーーコミュニズム的供していた存在の拡大において捉えられるのだ。逆に こ主ろ この無条件さはやはり、その《実現しえぬ》絶対性にお餌ロ民 、要請に結びつけているのであり、この要請を以上のように考えることに 擬者がな いて、実行の受取人側に留まらなければならない。 よって、ルアー ( 擬似餌 ) と混同されるまでにコミュニスト的要請はい 罪るは 一有あで かに抵抗しまた強制しえたのかが一層よく理解されるのである。 ア「での Ⅶ計算しえぬものの分割分有 ルけえた デズーヴルマン 別の言葉で言えば、作品以上のものないしは無為 * この要請、人間の、無限のそして共通なるもののーー・同じものが凋落 1 93

2. 悍 第3号 特集暴力燦燦

的平和秩序の構築と人権の実現という展望を見失わず国民が被った犠牲を、また「朝鮮戦争の過程で民衆が受 けた悲惨さと人間の尊厳の毀損」を構造的に捉えれば、 に、その否定的遺産を清算する道を探さなくてはなら 十ノー、 ( 三六三頁、傍点部引用者 ) それはまさに排除である。 排除としての虐殺は、軍事独裁政権が続いた韓国社会 においても繰り返されたし、先述したように、東アジ 『朝鮮戦争の社会史』の第Ⅱ部「避難」で書かれてい るように、朝鮮戦争時、李承晩はいかなる方法を動員しア化して捉えれば、それは韓国民衆の犠牲のうえに成り てでも大韓民国という国家を守ること、さらには北朝鮮立っている〈日本的資本主義体制〉が必要とした排除で もある。より具体的に言えば、一九七九年一〇月、朴正 を含む朝鮮半島において権力を掌握することが最善だと いた。そのため戦争の過程において、備えのな熙暗殺後、ソウルの春を迎え、韓国全上で民主化を求め 確信して い国民と軍隊が負わなくてはならなかった犠牲と苦痛にる気運が高まるなか、軍事独裁国家としての大韓民国の 対する、「過程の責任」のすべてを免れようとした。そ国家自律性が危うくなった時に、全斗煥が引き起こした 一九八〇年五月の光州の虐殺も、構造的に見れば排除で れゆえに、六・二五、朝鮮戦争勃発後には我先に避難し、 九・二八、ソウル収復後には避難せずにソウルに留まつあり、その排除のうえに同時代の日本社会は経済の新自 た国民をパルゲンイ ( アカ ) と疑い虐殺した、李承晩に由主義化を遂げていているということだ。 朝鮮民衆が被ってきた虐殺を排除と構造的に捉える 国民は存在しなかった。繰り返し言えば、組織として国 家は存在したが、 そうした危機的状況において国民は存時、戦後日本社会といまだ終わっていない朝鮮戦争は直 在しなかったのだ。国家の無責任性、李承晩の無責任性接的に繋がるし、朝鮮戦争の痕跡のうえにある「戦後」 はそのマキャヴェリ的性格にも起因するが、構造的に見「日本ー「社会」の在り方が鮮明になるだろう。とどの れば、当時の韓国の国家自律性 (state autonomy) の限っまり、私たちは朝鮮戦争の痕跡が残る社会に生きてお 、世界資本主義体制および国家間システムの枠内で見 界に起因するものであった ( 一四四ー一六九頁 ) 。 た時、戦後日本は朝鮮戦争をし続けてきたのだ 「避難社会」としての韓国社会における、国家と国民、 ここからさらに、この朝鮮民衆が被った虐殺を排除と すなわち領土または組織としての国家と、国民としての 国家の乖離が克明に現れるなかで、国家に見捨てられた構造的に捉える視点を反転させて今日の状況を見つめ直

3. 悍 第3号 特集暴力燦燦

共同討議 暴力の現在 自然発生性どスローガン 暴力の抑制と隠蔽 / 六八年反乱の解放感と 個別現場の暴力 / 党の目標と歴史からの視 座 / 状態としてのアナキズムと大衆運動 共通の敵、共通の友とは誰か / 党の実体は スローガンである / 党派間内ゲバから再び 党の間題へ / 民主主義と組織と活動家と / 再びみたび、党とはスローガンである 市田良彦 佐々木中 維秀実 ・長原豊 1 70

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けの暴力を言葉化するための断章である。ささやかでは 、を ( 現在の日本社会に蔓延している暴力があるとすれば、 今ここにある暴力を可視化する 多それは腑抜けの暴力とでも呼ぶべきものであるように思あるけれど、私なりに、 ための距離としての一一「ロ葉を求めたいと思う。そして、こ トう。それはふたつある。ひとつは、日本政府とマスメ ディアが一体となって行っている北朝鮮バッシングにおの社会における歴史感覚と政治感覚の再生とともに、今 ここにある暴力を解く契機を見出したいと思う。 をけるそれであり、もうひとつは、世界的な不況下で新た に立ち現れている人種差別主義におけるそれである。 「ミサイル」から「新型インフルエンザ」へ それらは別々の事象であるけれども、朝鮮人である私 二〇〇九年四月五日、朝鮮民主主義人民共和国 ( 以 ? イの身構えにもとづいて言えば、そのふたつは今ここで同 時に知覚感覚されている暴力である。それらはあくまで下、北朝鮮 ) が人工衛星を打ち上げた。それは、日本の も腑抜けなのだけれど、腑抜けの暴力が常態化してこの領空権が及ばない数百キロ上空の宇宙空間を飛行するも ナ、社会の空気と化した時、再び、とりかえしのつかないこので、国際法上すべての国家に認められている宇宙平和 オし私たちか生きるこの社会の未利用の権利にもとづいたものだった。しかし、日本のマ し」が起さるかーれよ、 スメディアはそれを端から「ミサイル」と名付けて報道 来を案じる。私は表現者として、ひとりの大人として、 それがこのし続けた。 未来の子供たちに恥じない社会を作りたい。 発射台にロケットが据えられて先端部の形状が明らか ~ 社会に生きる者としての最低限の務めだと思う。 になった最初の段階で、軍事技術の視点から複数の軍事 この文章は、いま私が知覚感覚しているふたつの腑抜 腑抜けの暴力 崔真碩

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まったく逆である。確かに私がこだわっているのは、政治的問題はも はや、政治的秩序の原理的な克服として民主主義が賭けるものの考察 ー ) かー ) 宀なが、らこの からしか真に提出されえないということである おそらくは今日、この選択は別の形で継続されているのかもしれな 克服は、ポリス、その諸制度、その闘争か、 sub specie infinitatis humani 人間は結局《悪》以外の何ものも求めないのかもしれない。アリス gene 「 is ( 生成する人間的無限の名の下に ) 求められる限りにおいてしか トテレスの言う《よく生きる》ことではなく ( 彼は《生》への絶えざる 起こらないのである。まさにこの意味においてこそ私は、民主主義の補足、その必然性を越えた拡大をこう呼んでいる ) 、そうではなく逆に 《精神》のことを語っているのだ。つまりそれは、その性向、風上、一自己自身のと同様他者の無化が行いうるもう一つの補足、あのもう一つ 般的な訴訟代理を区別するような《ある》精神ではなくて、その精神をの拡大、したがって共通の炭化に還元された共通なるものである。そ 導くはずの息Ⅱ活力、少なくともわれわれがそれをわがものとすること う、それは可能であり、人類の現時点はわれわれに墓地の、飢餓の、自 ができるならば、実際にその精神を導く息Ⅱ活力、われわれがその精神殺の、痴呆の共同体を示している。 を深く感じ取るに至るのを要求するもののことである。 この可能性それ自体は、私が本書で民主主義の真理としての《コミュ 政治的行動が今日のように麻痺しているとすれば、それは政治的行 ニズム》と名づけているものの執拗な問いを、ある白熱した明証にもた 動がもはや、原動力が備わった《第一動者 ( 神 ) 》からは可動されえな らすのである。というのは、もはや何ものも、われわれが約束された共 いからである。つまり、政治的タームにおいてはもはやこの《第一動者同体を措いては共同的 ( 共通 ) ではないからである。もはや対等性およ ( 神 ) 》は存在せず、あらゆる政治は別の所から再喚起されなければならびその決定的なエントロビーをこれ以上実現するものは何ものもない。 ない。やはりまた、資本とその成長とは別の経済的第一動者も存在しな もはや、死の欲動以外に共通なものは何ものもない そして問題は、 経済そのものが政治の推進力として考えられ続けている限りは。 アウシュヴィッおよびヒロシマを許した〈国家〉のテクノロジー政策が 加えて、この選択が対等性を維持すると同時に、この対等性に関する無この秩序の欲動を解き放ったのかどうかを知ることではなく、むしろ、 関心を正当化すると見なされている《進歩》の思想を維持する結果、同何百万年もの年月をあまりにも背負った人類がこの数世紀来その消滅の じように考えられ続けている限りは。 方途を選ばなかったのかどうかを知ることである。 なぜならば、この根深い選択ーーん . ネサンスから一九世紀に至るまで しかし、この無は中身のつまった無である。それは《分かちあわれた 行なわれたこの選択ーーー・はその効力を使い果たしていて、《左翼》はも民衆の国家「 espublicacommunis 》というよりはむしろ《ものとして、事 はやないというあの衰弱を露わにしているからだ。もっともここには、物化された共通なるもの》 ( 既にある程度までは《商品》であるもの ) 怒りかっ闘争するために、告発しかっ要求するために 人間の、そのである。仮にわれわれが望むものがそれであるのなら、この言葉が何を 意味しているのかを知らねばならない。 諸権利を超えた一人の人間の公正で、執拗かっ美しい無限を要求するた つまり、《神は死んだ》のでは なくて、死がわれわれの神となるのである。 もっと多くの理由が絶えず存在しているのではあるが 200

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当時の様々な愛国主義的右翼や反近代的民族派と比べるな いたが、彼のナチス論は基本的にエアハルト系の組織とナ らば近代派であり、またユンガーや国民革命派もまた近代チスとの関係のラインに沿っており、ナチスとエアハルト 一派だっこ。 ュンガーは国民革命派の活動の場は地方 ( 農村 ) 系組織は当初は、競合し、また協力関係にあった。その端 ではなく大都市であり、そして国民革命の実働部隊は労働的な例がナチス突撃隊 (n<) であり、突撃隊の指揮官や 者であると認識していた。ュンガーや国民革命派が近代派幹部はエアハルト旅団の尉官級の将校が占めており、突撃 だった所以は、第一次世界大戦の物量戦の体験にある。物隊はいわば国民革命派の巣であるといってよかった。後に 量戦の戦場は野原での騎兵戦ではなく、工場が林立するコ幕僚長のエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部が粛清され ンビナートでの労働者の製造作業のようなものだからであるが、その背景として突撃隊に巣くっていた国民革命派の る。ナチスと国民革命派、とりわけェアハルト系の組織は、 一掃ということも考えられるだろう。 それゆえに競合した。ュンガーはまだ政治思想活動に人る ュンガーのナチス論の特徴としてあげられるものに国民 前の一九二三年に、冒頭でも述べたがナチスの機関誌『民革命主義者と国民社会主義者 ( ナチス ) の間の運動分野の 族の監視者』に「革命と理念」 」という文章を寄せ、「真の分業論があった。 ュンガーによれば国民革命派とナチスの 革命はまだ起こっていない 。しかし、それは次第に近づき目標は一致していた。当初は国民革命派の「闘争組織」と つつある。それは決して反動的なものではなく、まごうかナチスの「大衆組織」が結合し、それが国民革命の戦闘部 たなき革命である。その理念はフェルキッシュであり、そ隊になるだろうと考えられてしオド 、こ。引題は、ナチスとの連 の旗はハーケンクロイツであり、その表現形式は一点への携がなされた場合の運動のヘゲモニ 意志の集中、すなわち独裁である」と、後の洗練された彼そこから両者の間にはズレが生じてくることにもなる。両 の一言説とは異なり、ある意味で素朴にナチスを称揚してい者の目標は同じである。しかし「それにもかかわらず、両 る。その後、鉄兜団の青年将校用の別冊機関誌『軍旗』の者の違いは否定出来ない。ナチスは政治組織として現実的 編集に参加した時も「ヒトラーの運動には、前線兵士のほ手段による権力獲得をめざしていたが、ナショナリストの んの一部が参加しているにすぎないが、 そこには所謂革命任務はこれとは別なものだった。ナチスは理念を実現せん なるものが長しド、冫 、司弗き立たせてきたものよりも遥かに多く とする願望を持っていたの対して、ナショナリストは理念 の情熱と生命が潜んでいる。と肯定的な評価を下してい の実現可能な深さと純粋さを把握しようとしていたのであ る。ュンガーのナチス評価はナチスの暴力性に向けられてる。そのためナチスの理念にとっては大衆は当然にも重要 ーについてだったが、 1 66

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の本をョイショしたのも正気の沙汰とは思われない。此奴ことが評価の基準たった。証左とされてしまうのである。 らは全員腹を切る ( 男 ) か喉を突く ( 女 ) べきである。 また語られている時期が七〇年八月 ( 四月に入学した私が教 育学部のヘゲモニーを確立した ) 以降のことであるとすれば 恣意的解釈への「史料」断片のあてはめ 私は早大赤ヘル無党派の活動家であって少なくとも狭義 例えば私の「回想」は次の如くに扱われる。 の「ブント系の活動家」ではなかったし、一般論として言 ブント系の活動家だった府川充男は、こう回想してわれるならば、「ブントそのものであった時期もあれば いる。「〔運動の〕なかで一目おかれるのは、弁が立っ全然関係なかった時期もあるというだけた。今では革共同 ( 五七年一月に結成された日本トロッキスト連盟から十二月に改 のはまあ前提として、ゲバルトが強くて勇敢だとか、 アジテーションが上手いという奴でしよう。 ・ : し名した革命的共産主義者同盟の略。当初、第四インターナショ かし、ルフェー、、フルを読んでいるとか言われても、 ナル日本支部系が多数であったが大川某と黒田寛一が民青の情 それがどうしたということにしかならない。」知識量報を公安警察に売って資金作りをしようとしたもののビビって逃 よりも、「弁が立つ」「アジテーションが上手い」こげてしまった事件が明白となって更に孤立化し、大会会場から出 とが評価の基準だったといえる。 ていった少数の『探究』グループが五九年八月に「全国委員会」 〔内部的略称は Z O 。なお遉に論文化されてはいないものの内部では良く知られていた黒 圏点を付した部分が小熊の恣意的判断である。なおブント とは一九五八年に結成された共産主義者同盟のことである田寛一の本音そのものと申すべき「 zu Ⅱサナダムシ論」については「今井公雄のホーム ( 一方、代々木共産党は党の独逸語読みからパルタイと呼ばれて ページ」を参看されたい〕を名乗って分裂。全国委員会の政治局も六三 いた ) 。 : ・」として中略にされているのは津村喬に関し年には多数派と少数派に分裂する ) 系のかなりの部分とも親 ての ( 六九年から七〇年頃の ) 早大全共闘 ( 全学共闘会議 ) の戚付合いのようなものだしな ( トロ連結成首謀者の一人であ る栗原登一Ⅱ太田龍〔最初はトロッキストというよりパプロ教条主義者だった〕 学生活動家たち ( のうちの旧協系 ) の評価であるが、アン は死んでしまったが、この正真正銘の莫迦に猶太陰謀論や宇宙人 リ・ルフェ ] ブルは当時すでに三冊ほどが邦訳されてい て、読んでいる者も一杯いたに決っているのであり、だか話などのオカルト系ガセネタを吹込んだのも私の乾分の経営する らこそルフェーブル如きを持出されたってね、という文脈神保町の編輯。フロダクションであった ) 。 での発言が、何故か知らないが小熊の勝手な思い込みでは 分厚い本だが、内容は薄い。特に近年出た全共闘本 「知識量よりも、「弁が立つ」「アジテーションが上手い」 の切り貼りが多い。しかも、この切り貼りが唖然と こやっ こぶん 書評 250

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そのガヾ、テとニの年に 弘 会における「非正規」間題は雇用形態の新奇さだけに収はそう簡単にはできそうにもなく、 会ノ以ら常後う 社ヲか非戦円や本 斂されず、労働者そのものが「非正規」の「百姓」を出限りにおいて人の尊厳をかけた闘いを簒、云 ノ費ル生た会な 自とするように、常に反復する「古くて新しい」ものの奪するようなかたちで能天気に支持するモレノス養れ員の フカ所成長さ委と哭 とはいえない。 を〔《はずである。「非正規」を問題化する新たな動きのなか しかし人間の分断と差別云デル養助に別一 トスヲヲ案特ふ暴 で、当初は若い男の雇用と貧困についてだけ語り出すとを認めないと指向する以上、やはりある民関民民廃案云 貧ニ惰惰て法う。 衆ジ果しさ いうことがあった。それは日雇と女と子供と老人と移民反撃を肯定しなければならない時がどう サ公生結と保 してもある。罪に問われることのない構案 = ノヲノ ) 活「て とあらゆる「惰民」を埒外におく分断の行為にほかなら 法惰此幣助一法れ 、ノ救友院本さ 助怠 をない。差別を撃つ者が別の差別の囚人となる。この列島造的殺人に殺し返せばよいというのでは 救がラ漫務上族 民会カ濫義井貴一」が レ与チ官 . し 十ノー、 それでも差別に反対する者は「や窮社ノ 〔の歴史は、そうして差別され貧しく病み狂ったとされる 説 たア施即言会ま 足 、人間の血でどす黒く塗り固められている。そして日本帝られたらやりかえせ、という合言葉のなれかデ「害書議し の かにこそ、同志的結合に不可避的な心意出力タいキ務帝ら 国主義はそのうえに植民地支配を受けた人々の血を塗り 」〇味 ) にノ来あル 重ねた。その血塗られた歴史の一部である〈かれらーわの表出を認めねばならないのである。そ モヲ、恐ル九意資 年タ困モズ第な 西 ÄJ ーい , フ一」 セ貧カ最生てう 第一一れわれ〉は稼働能力を持つ者として就労支援対策の席にしてその心意は相互的な〈義〉 葛 サ ) 一飛も弊「ふ とに集約される。黒色救援会の声明がい 委 座らされてありがたい訓話を清聴させられ、あるいはい 会惰 イつ事件を起こすかしれない不審者もしくは気狂いだとし うように、「さらなる闘い」は常に準備議懶リ政 ヲ格す」 帝会ト議 1 て通報監禁され、そうして分析の見合う対象としてのみされ、そのための相互扶助と団結という ( 用欠止す 回社惰 一、懶議案乱の防ま 法ノそをり 〈義〉の獲得が追求されるだろう。かか第カリ = 。 『め 0 眇めっされてきた。しかし役立たずの「惰民、と てルナ貧費、成あ 」救国え養で 指呼される〈かれらーわれわれ〉は、外在的に治験される共同性の獲得のなかでしか他方の「不しアト とデ惰イたニさ民譯 案ノ怠ナま遂で惰る るべき客体としてあるばかりなのではなく、自らのこと義は克服されないはずである。だから 。シ案「居 正モガデ 改タ身ノた増法でて を自らで検出するほどの主体として起ちうるはずであ相互主義を前提とする扶助と自治の地平のセ自モれヲ護 , し 則サレキさ数保日致 をめざすある集合的カ動の発露を、〈反規ニ其べにノ活を る。人は貶められてただ黙っているだけの存在ではない 救疾民フ案民生月意 からである。 撃の暴力Ⅱカ能〉としてわたしは遂に恤廃貧救廃貧旧 8 注 しわけめく 肯定しなければならない。い、 ~ 〔 ~ 、わたしは臆病で惰弱だ。だから復讐の反撃に立っこと 4

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一九六三年に人り社会主義教育運動が始治局拡大会議で採択される。六月、北京大突する。四月、第九回党大会において党規 まり、六五年一月の「二三条」 ( 農村社会学・聶元梓らが最初の大字報 ( 壁新聞 ) で約改正により林彪が後継者であることが明 主義教育運動の中で提起されたいくつかの大学当局を攻撃する。八月、毛が大字報記される。 問題 ) では初めて「党内の資本主義の道を「司令部を砲撃せよ」により劉少奇と鄧小 一九七一年九月、林彪らが毛の暗殺に失 歩む実権派」について言及され、文革への平を批判する。同月、二六条」 ( プロレタ敗してソ連へ逃亡途中にモンゴル領内で墜 道が開かれる。 リア文化大革命についての決定 ) が党中央死する。七二年二月、ニクソン訪中。九 一九六五年九月、毛の軍事思想の意義を委員会総会で採択される。同月、毛らが紅月、田中角栄首相の訪中により日中国交正 強調し、毛思想の学習強化をうたった「人衛兵を天安門で接見、以後一二月まで八回常化なる。七三年三月、鄧小平が国務院副 民戦争の勝利万歳ー ( 林彪 ) が発表される。 にわたり千三百万人を接見する。 総理として復活する。八月、第一〇回党大 一一月、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」 一九六七年二月、一月革命により上海市会が開催され、プロレタリア独裁下の継続 ようふんげん ( 姚文元 ) により、彭徳懐を擁護したとしの実権を握った造反組織により上海コミュ革命論が強化される。七六年、一月に周恩 て『海瑞罷官』が批判される。 ーン ( 上海人民公社 ) 成立宣言がなされる来、七月に朱徳、九月に毛沢東が死去。同 一九六六年五月、前記批判運動を学術の が、一一〇日後、毛により上海市革命委員会年四月、第一次天安門事件により鄧小平が ちんき 範囲にとどめようとした「二月提稿」 ( 文 と改称される。同月、陳毅・葉剣英ら古参解任される。一〇月、江青・張春橋・王洪 化革命五人小組の当面の学術討論に関する幹部による文革批判が「二月逆流」として文・姚文元 ( 四人組 ) が逮捕される。 匯報提稿 ) をまとめた文化革命五人組小組誣告される。七月、中央文革小組の謝富 が解散され、新たに中央文化革命小組 ( 以治・王力が造反組織の百万雄師に逮捕・監 以上の経緯から浮かび上がってくるの 下「中央文革小組」 ) が設置される。毛は 禁されるという武漢事件が発生する。以 は、 ( 当時 ) 八億の中国人民を動かし、ま 「社会主義の文化大革命」 という用語を初降、各地で武闘が激化する。八月、中央文 た自ら配下を動員して、劉少奇ら「実権 めて使って「二月提稿」に対抗した「二月革小組の王カ・関峰が隔離審査となる。 派」そして当時のソ連を、国内外の修正主 紀要」 ( 林彪同志が江青同志に委託して招 一九六八年一月、革命委員会を旧官僚と 義者、敵だとして闘いをエスカレートさせ 集した部隊文芸工作座談会紀要 ) を支持すの妥協と非難した省無連 ( 湖南省会無産階ていく毛の姿である。いま振り返ってみて る。同月、毛による文革後の理想社会を描級革命派大連合委員会 ) が極左組織としても、ドラスティックに動いていく事態から 「五・七指示」が通達される。同月、 解体される。 感じる高揚感は矢継ぎ早に出される大量の 文革の綱領的文献「五・一六通知」が党政 一九六九年三月、珍宝島で中ソが武力衝文書によって増幅され、毛と大衆による熱 1 22

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いる、そのかぎりにおいてでしかない。 の内側に陥没してゆくことは、「まだ見ぬわれわれーへ 「労働者ーに、したがって「日本人」になり損ねる可 と至る可能性をうち捨てることだ。しかし繰り返せば、 能生は誰にでも開かれている。しかし、私たちは日々何 「売れる側や「殺す側」となることの「拒否ーは「私 たち」の自由に任されているのではない。日本人の都合者かとして、「日本人労働者」として決定されており、 その不 その決定の積み重ねの分私たちは自由ではない。 で「他者を導入」するなどということが問題なのでも まだ未決着状態の中にある声が自由は責任である。そしてわれわれに可能な自由とは、 よい。「私たち」は、い ノた側「殺すそのような諸決定の積み重ねとしてある現在の現実を引 「私たち」を間いただす声、いまにも「売れ き受けつつ、他者に応答しながらそれを解体してゆく政 側」として決着され、承認されつつある「私たち」を問 政治的な能力のことではないだろうか。「フリーター」と いただす声を聞き取り、これに応答し始めるという、 いう名乗りを国民主義的な決着に対する拒否として貫 治的な能力を間われているのだ。たとえばキムチョンミ る が「日本民衆」総体に対して「自分たちの残虐行為」をき、その未決着状態に留まることを、国民たる「私たち」 す 感 直視することを求めるとき、それを単に本質主義や決定を解体する自由に転化できるか否か。それは、「フリー 予 論として退けてはならない。その決定、すなわち「日本ター」が「民衆」へと向かって間いただされているかぎ 章 人であるかぎり虐殺者である」という決定に対して、日り開かれた間いとしてありつづけるだろうし、そしてそ 序 本人が少しでも留保の余地を挿しはさめるとしたら、それだけが国民という「私たち」を拒否して前に進もうと れは日本人が ( 天皇国家の名において ) 犯してきた残虐するわれわれの希望である。「私たち , が他者の声に応書 旧界 答するための空間はまだ潰えていないはずだ。 行為とその遺産を解体し、差別と侵略の構造そのものと 感の して存続している日本に対して具体的な闘いをなしえて 予郷 の故 ン 山ム 冨キ ( し、 1 「フリーター」から「民衆」へ ( 小野俊彦 )