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検索対象: 悍 第3号 特集暴力燦燦
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1. 悍 第3号 特集暴力燦燦

講義ノートは講義の録音なのか ソシュール一般言語学講義原資料の研究ど翻訳 圭い評相原奈津江・秋津伶訳 ミール・コンスタンタンによ 一般一一一口語学第三回講義工 『フェルディナン・ド・ソシュール パルク、初版第一刷二〇〇三年二月一三日、初版第二刷二〇〇三年四月一七日 ) る講義記録』 ( エディット・ 小松英輔編、相原奈津江・秋津伶訳 一般言語学第三回講義〈増補改訂版〉コンスタンタン 『フェルデ . イナン・ド・ソシュール パルク、二〇〇九年三月六日 ) による講義記録 + ソシュールの自筆講義メモ』 ( エディット・ フェルディナン・ド・ソシュール著、影浦峡・田中久美子訳 『ソシュール一般一言語学講義コンスタンタンのノート』 ( 東京大学出版会、二〇〇七年三月二七日 ) 四日までの期間である。インドⅡヨーロッパ諸語の比較歴 フェルティナン・ド・ソシュールと一般 = = ロ語学講義 史一言語学を学び、ライブツイヒで学位を得た後、パリに移 、高等研究院やパリ言語学会を研究拠点と フェルディナン・ド・ソシューレ ノ ( 一八五七ー一九一三 ) ノオカ一八九一 はジュネーヴ大学で一九〇七年から一九一一年にかけてしてフランスで高い評価を得たソシューレご。。、 年にはジュネーヴ大学に戻り、インドⅡヨーロッパ諸語の 「一般言語学 (linguistique géné「 ale) , と題する講義を行った。 第一回は一九〇七年一月一六日から七月三一日まで、第一一比較歴史一一一口語学講座を担当して、一九一一年までサンスク リ , ッ , 「ロ、。 キリシア、ラテン、アングロサクソン、 回は一九〇八年一一月五日から一九〇九年六月二四日ま で、第三回は一九一〇年一〇月二八日から一九一一年七月古高地ドイツ語などの講義を行っている。一般一一一口語学講座 家辺勝文 書評 206

2. 悍 第3号 特集暴力燦燦

をドト 第一次釜ヶ崎暴動の発端は交通事故。日雇労務者がタクシーにはねられ、体が痙攣し ているのにムシロをかけて死体扱いした上、警部補が「おまえら、税金払わんと文何 ぬかすな」と言い、民衆の怒りが爆発したのである。 2 ーー抵抗する民衆に対して催涙弾が放たれた瞬間 ( 一九六一年八月二日午後一一時 頃、大阪・西成署前 ) 3 ーー蹶起した民衆に警察は警棒を振るって襲いかかった ( 一九六一年八月三日午後 八時すぎ、大阪・西成署付近 ) 4 、ー・憤怒の炎につつまれた西成署臨時派出所 ( 一九六六年五月一一九日午前一時一〇分 ) 5 ーー西成署前で警官とにらみ合う民衆 ( 一九六六年六月一一一日午後一〇時頃、後方 は通天閣 )

3. 悍 第3号 特集暴力燦燦

型インフルエンザ」間題によってすっかりかき消されて業主義に走っている様を露呈しているが、見方を変えれ ば、マスメディアの必死な様もまた、現在の北朝鮮の いった。五月末に北朝鮮が二回目の核実験を行ったこと を受けて、北朝鮮の「脅威、の煽動は再燃し、さらには「脅威、にはかってほどの情報としてのインパクトも値 一ニ「金正日総書記の後継者問題をめぐってワイドショー並み打ちもなくなりつつあることを示しているようだ。 北朝鮮に対して緊張しているポーズを取ってはいるも のレベルで情報垂れ流し状態が現在までも続いている。 しかし、これらの動向を見ていても、「脅威」を煽ってのの、まったく緊張していない。所詮、それは鉤括弧付 はいるものの、もはやその熱は冷めてしまった感があきの「新型インフルエンザ」に取って代えられてしまう ほどのものなのだ。二〇〇二年、二〇〇六年の段階と現 、ぞ ) る 四月からこれまでの日本政府とマスメディアの動向を在が違うのは、日本社会はもはや、過剰に煽り出された ト見ていると、二〇〇二年九月一七日の日朝首脳会談で拉「脅威」をも含めて、北朝鮮の「脅威。に慣れてしまっ たし、もっと言えば、飽きてしまったのではないだろう 致間題が発覚した時、一一〇〇六年一〇月九日の北朝鮮が か。そして、それは同時に、日本社会は北朝鮮のことを 一 ~ 一一回目の核実験を行った時と、今回の一連の出来事が日 一本社会に与えた「脅威、との落差に気づかずには」られ「知 0 て〔る」と」うことでもある。 翻って考えてみれば、戦後の日本社会において、大衆 ない。明らかに、日本社会で変化が起きているのだ。 ? イ端的に言えば、日本社会は実のところ、北朝鮮を恐れレベルで、現在ほど北朝鮮のことを「知っている」時期 ていないのではないか。日本政府とマスメディアが煽はなかったのではなかろうか。 ( 「脅威、を互いの体制 るほどには、もはや北朝鮮に対して「脅威、を感じてい維持・政権維持のための道具にしている意味で ) 北朝鮮 ないのではないか。かっての安倍政権ですらその「脅と日本との敵対的な共犯関係が続くなかで、大衆レベル 威 . を利用して支持率を上げえたのに対して、当時の麻で、北朝鮮に「触れる」機会がこれほど多かった時期は 生政権が支持率を上げることができなかったことは、日なかったのではないか。 ・らに、 こうは考えられないか。情報が過剰に報じ 本社会がもう北朝鮮を恐れていないことを示しているよ 日りえない範囲内で、北朝鮮のこと うだ。あの手この手を使って「脅威ーを煽り続ける大手られても何ひとっ矢 新聞をはじめとするマスメディアは、広告取りのため商を「知っている」現在の日本社会は、これまでで最も日 腑抜けの暴力 ( 崔真碩 )

4. 悍 第3号 特集暴力燦燦

義挙として広く受けとめられる一大センセーションをま き起こすことになるのである。しかもその義挙は苛斂誅 求を討っ正義の物語としてだけでなく、村落共同体の扶 助的慣行を破壊する〈私 ( 私有 ) 〉の壟断に反撃したも のとして注目されたに違いなかった。そしてその主体に 一定の共同性が存すると目されたからこそ、騒動は思い もよらぬ支持の広がりを見たのである。 刑事事件としての真土騒動は、現在ではとうてい考え られない結末を迎えている。神奈川県下の農村では騒 、動を支持する減刑歎願運動が燎原の火のように広がった が、これで判決が覆されなければ、事件は同情する余地 があるにせよ、ただ極悪非道の七人殺しとして近代史の 闇に消えていたかもしれない。 しかし当時の現実は逆を く。騒動の帰結は放火殺傷事件には違いないのだが、 びんりよう イ暴殺の実行者たちが「憫諒」 ( あわれみ ) のもとに救済 されるのである。すなわち、一八八〇年五月二〇日には 冠弥右衛門、伊藤佐次兵衛、伊東元良、伊藤音五郎の 一一四人に斬罪 ( 死罪 ) 、福田小左衛門、石川儀左衛門、伊 藤兵左衛門、冠伝次郎、新倉嘉兵衛、佐藤安五郎、冠峯 〔「、松の八人に懲役八年三一七日 ( 懲役一〇年に未決算人 ) 、 伊東杢左衛門、伊藤佐五左衛門、伊東平兵衛、伊藤藤吉、 伊藤岩次郎、伊藤権兵衛、伊藤治良左衛門、伊藤富五郎、 ぶ伊藤兼吉、小野田勘右衛門、山本乙右衛門、吉野弁蔵、 かむり ( 4 ) 前出の三橋善太郎の報告によれば、 10 月 30 日に 17 人、 11 月 3 日に 1 人、 5 日に 14 人、計 32 人が捕縛された。 「明治の昔譚眞上騷動」や「大野誌』では被疑者を 56 人とする。 ( 5 ) 見送ったのは近郷の人々だけではなかったようで、長谷川伸の自伝「ある市井の徒』 ( 中公文庫版、 1991 年 2 月 10 日 ) には、若いころ和泉村 ( 現横浜市泉区 ) を在所とした著者の母が、近隣の人々とともに戸塚に出 て捕縛者を見送ったとある。日く、「平塚から横浜までの間、道路の両側に見送りの人々が、垣をつくったよ うに並んでいたそうです。その人々の過半以上が見送りで見物ではないのです。到る処でだれが音頭をとる ともなく、南無阿弥陀仏と称名の声が起こったそうです」。この説話の存在は井上弘「平塚ーゆかりの文人た ち」 ( 門上社総合出版、 1993 年 12 月 22 日 ) に教えられた。また丸山清「常光寺と真上騒動の関係について」 にも、被疑者の護送時に「英雄視した民衆が一目みようとして、沿道を埋め尽したと伝えられている」とあ る。 ( 6 ) 質地係争裁判の横浜地裁判決 ( 「市史」 110 ) 、東京上等裁判決 ( 「市史」 113 ) 、野村靖「上申書」 ( 註 7 参照 ) による。事件後の土地処理に際して作成された「人費割約定書」 ( 「市史」 138 ) と「冠彌右衙門事蹟」 ( 註 9 参 照 ) は 64 人、「明治の昔譚眞土騷動」「怨親平等」は 6 人、丸山清「常光寺と真上騒動の関係について」は 69 人とする。 ( 7 ) 野村靖「上申書」 ( 「市史」 153 ) 。減刑歎願のため県令野村が 1878 年 12 月に右大臣岩倉具視に宛てた文書で、 地租改正事業に携わってきた県二等属の添田知通に起草させたもの。小林孝雄「真上村騒動起こる」では 12 月 6 日に添田より野村に呈されたというが、大湖賢一「真土事件と民衆の上地所有観念」 ( 「京浜歴科研年報」 第 8 号、京浜歴史科学研究会、 1994 年 1 月 30 日 ) の分析によれば 9 日に上申されたようだ。 ( 8 ) 「明治の昔譚眞土騷動」の表現による。「大野誌」は「名義書き換えは即ち質流しとなった」主旨の文書と している。地券名受けの際の長右衛門による同文書の作成については絵草紙・講談類でも言及されたが、上 等審資料としての実物は未見。あるいは判決文にいう「地券ハ地所持主タル確証ノ旨趣ニ付云々ト記載アル」 「為取換証文」 ( 原告第 6 号証 ) のことか。 ( 9 ) 冠友吉「先代冠彌右衞門事蹟」 ( 「吾等の郷上」所収 ) 。 1920 年 12 月 15 日時点での記録。 ( 10 ) 鶴巻孝雄「近代化と伝統的民衆世界転換期の民衆運動とその思想」 ( 東京大学出版会、 1992 年 5 月 25 日 ) 暴民哭々 ( 植本展弘 ) 39

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翻訳 二〇〇三年二月一三日初版第一刷 講義ノートの校訂テクストは一九九三年から英訳ととも二〇〇三年四月一七日初版第二刷 に刊行されている。一九九〇年代には人文学の分野でも英相原奈津江・秋津伶訳『フェルディナン・ド・ソシュール 語が事実上国際的な意志疎通のための言語になりつつあっ ミール・コンスタンタンによる 一般言語学第三回講義工 た。この時代に、講義ノートの校訂テクストが単に原文の講義記録』、エディット・ フランス語だけではなく、研究素材としての国際的な共有 可能性をねらって英訳とともに刊行されたことには目的合 二〇〇六年二月一日初版第一刷 理性があると考えられるが、その最初の日本語訳 ( コンス 小松英輔編、相原奈津江・秋津伶訳『フェルディナン・ド・ リードランジェ タンタンの第三回講義ノート ) が二〇〇三年には刊行されソシュール一般一一一一口語学第二回講義 ている。このことは『講義』に対する日本での関心の高さ トワによる講義記録』、エディット・ を反映しているとも考えられるが、最近の原資料研究の流 れの中で、各資料や講義ノートをどのようにとらえて、あ 6 二〇〇七年三月二七日初版 えて日本語に翻訳することにしたのかも気になるところでフェルディナン・ド・ソシュール著、影浦峡・田中久美子 ある。しかも、四年後の二〇〇七年には、同じコンスタン訳『ソシュール一般一一一口語学講義コンスタンタンのノー タンの第三回講義ノートが別の訳者・出版社によって刊行 されている。これらは日本におけるソシュール原資料研究 の特異な活発さと深まりを示すものなのだろうか ④二〇〇八年三月二七日初版第一刷 一般的な読者にとってこれらの翻訳がもつ意味を考える 小松英輔編、相原奈津江・秋津伶訳『フェルディナン・ド・ リードランジェによ ためには、原資料研究の上でのコンスタンタンの第三回講ソシュール 一般言語学第一回講義 。、レク 義ノートの刊行についての評価と併せてその翻訳についてる講義記録』、エディット・ の評価を行う必要がある。 6 一一〇〇九年三月六日増補改訂版第一刷 まずは刊行の順を追って、事実関係を押さえておく 小松英輔編、相原奈津江・秋津伶訳『フェルディナン・ド・ ト』、東京大学出版会 。、レ 。、レク 書評 214

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よ越境者 軽やかオ 父・船本洲治は東アジア反日武装戦線の闘いと「共に、生き続けたいために」 米軍・嘉手納基地前で焼身自決した ( 一九七五年六月二五日、享年二九 ) 。 娘・下地秋緒は二〇〇八年一月四日、スペインで病に斃れた ( 享年三一 l) 。 下地秋緒 コラボレイション 3 ェッチング , 2006 , 17 x 12 cm

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〈公〉的役割から退場しようとしてしカイ 、こ。中裁の媒介と なるのはただ私有擁護の法体系である。 むろん地主小作関係はなにも明治維新後にはじまった ものではない。地主制的土地所有はすでに一七世紀頃に は胎動し、幕藩体制下でも商業的農業が盛行するにつれ 各地で質地騒動が起きている。この事実としての地主制 一一、的土地所有は一七四四 ( 延享一兀 ) 年の田畑永代売買禁止 令の規制緩和によって促進されたが、こうした趨勢が地 租改正で最後的に法認されたわけである。地租改正事業 トによる近代的所有者の創出は、農村における実勢として はなお一層の小農・小作農の没落と有力者への地所の私 的集積を結果した。豪農・金貸に耕作地を質人れするこ とで借財した質置主 ( 質入主 ) の多くが土地を取り上げ られ、小作農化していくのである。はしよっていえば、 ? イ続く松方デフレのもとでは農民分解と地主制的上地所有 の拡大がさらに急激に進行するのであった。政府は資本 主義の原始的蓄積のためにむしろかかる「変革」を追及 していた しかも、地租改正がもたらしたものは地主制的な上地 所有の集積だけではなく、人会地 ( 里山 ) などの元来共 デ有地とされてきた土地の官有地化・私有地化がある。改 正事業のなかで入会地が有力者個人の私有地として分割 されたケースもあれば、伝来の書証やロ碑がない場合は ( 17 ) 武田交来録、大蘇芳年画『冠松真上夜暴動 ( かむりのまつまどのよあらし ) 」 ( 錦寿堂、 1880 年 9 月 ) 。早 稲田大学図書館が同紙をウエプ上で公開している (http: 〃 www.wul.waseda ・ ac ・ jp/kotenseki/html/bunkol 1 / bunkoll a0505 / ) 。これらの絵草紙では長右衛門は憎々しげに描かれたが、のちに「開明的戸長」とする長右 衛門像の追補が図られた。その最初期のものに時事新報の「明治の昔譚眞上騒動」があり、当時村役人だっ た平川徳二郎の「事件の以前は悪人視されてゐなかった、一つには家柄とーっには学問もあり利巧者だとい ふので半恐れられてゐたものだった」とする証言を紹介した。追補ないし訂正された長右衛門像は「大野誌」 「怨親平等』に引き継がれている。 ( 18 ) ただし「横浜毎日新聞」 1880 年 6 月 13 日付の記事には横浜湊座の芝居上演差止めが真上村民から県庁に出願 されたとあり、その後の事情は不明ながら、翌年以降の芝居は事件直後の村民の意思を超えたもののようで ある。この差止め願いが事実なら、多数の受刑者を抱えつつ減刑歎願と救援の運動に奔走していた真上村民 にとって当然の対応であっただろう。 ( 19 ) 法制度確立の推移としては、 1868 ( 明治元 ) 年 12 月 18 日太政官布告第 1096 号による上地私有の認容 ( 「村々 の地面は百姓地たることを布告」 ) 、 71 年から東京府で地券発行が先行しつつ、 72 年 2 月 15 日太政官布告第 50 号による上地売買解禁 ( 「地所四民共永代売買所持ヲ許ス」 ) と同月 24 日「上地売買譲渡ニ付地券渡方規則」の 制定が見られ、さらに 7 月 4 日大蔵省達第 83 号による全国民有地への地券発行・公証の旨達、翌 73 年 1 月 17 日 太政官布告第 18 号 ( 「地所質人書人規則」 ) があった。そして 7 月の太政官布告第 272 号により地租改正が実施 されていく。詳しくは渡辺尚志・五味文彦編「新体系日本史 3 上地所有史」 ( 山川出版社、 2002 年 3 月 5 日 ) が参考になる。神奈川県は地券発行に際して 72 年 7 月に「地券相渡候ニ付心得書」、 9 月に「地券心得書」を布 達した。同県の状況については鈴木貴志「地域の慣習に関わる調査報告について」を参照。 http://e-souzoku. com市 l( ) g / 090224koken. pdf ( 20 ) 「東京上等裁判判決情」 ( 「市史」 113 ) 。なお判決情の日付は「廿日」とあるが、他の資料から 30 日ではな いかとする推定が「市史」に示されており、後出註 29 の「探偵實話眞上村騷動」収載の「判決書」にも 30 日とある。 暴民哭々 ( 植本展弘 ) 43

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もたたないうちに「特典」が決定されたことになる。四 三上長次郎、井上所左衛門の一四人に懲役三年の判決が 宣告されるが、その直後に斬罪の判決が覆される。なお人に対する減刑宣告のうち、共通する核心部分を引く 主導者の一人と目された高橋新七は病のため判決直前の 犯罪ノ事情タル村内六拾余名ョリ、長右衛門へ質人セ 五月一〇日に獄死し ( 享年五七 ) 、判決後の翌八一年七 タンセキ シ地所ノ受戻ニ付紛議数年ニ渉リ、毎戸ノ生計旦タニ 月九日には在村医師の伊東元良も主導者の一人として獄 ヒトエ 迫リ、一村ノ滅落維ニ谷マルハ、偏ニ長右衛門ノ好 中に病死した。 計ニ陥シ人レラレタル者ト認メ、一意此苦患ラ救ワン すでに事件直後の一一六人の未決「拘留」 ( 現在でいう ゆるぎ ト欲スルニ出テ、全ク一己ノ私怨ラ逞フシ又ハ賊心等 勾留 ) 中の時点で、神奈川県下三郡一六八ケ村 ( 淘綾郡 二〇ケ村、大住郡一一七ケ村、愛甲郡三一ヶ村 ) の総代 ョリ生シタル者ト其旨趣ラ異ニシ、事情憫諒スへキモ ノアルニ付、特典ラ以テ本罪ョリ一等ラ減ス ( ふりが が「御憫愍ノ御沙汰」を求める歎願書に「連員」し、ま なは引用者 ) た仏教者主導の歎願など各種の運動が繰り広げられた。 県令野村靖はこの勢いにおされ、事件二ヶ月後の一八 七八年一二月九日には右大臣岩倉具視に上申書を提出し事件が講談化される素地がすでにこの公文書のなかに ている。当初主導とみなされた一二名以外は七九年一一月現れている。減刑の説諭として質地をめぐる紛争につ いてふまえるのは当然としても、村民「苦患」の原因を 二四日付で保釈が決定されたが、残る全員の保釈あるい 松木長右衛門の「奸計」にのみ求め、いったんは死罪に は放免の歎願が繰り返し行われた。さらに面会願はもと 問うた行動に私怨はなかったと認める ( つまり民衆の歎 より、真土村在地の監獄建設の歎願 ( 真土在監による囚 人外役労働で家作の補完を希望した ) の運動も親族係累願がいう「公怨」の追認 ) 。暴殺の勧善懲悪的性格が公 によって担われるなど、事件後の救援運動の広がりが為権力によって認容された格好である。しかも、懲役三年 囚の仮出獄は実現しなかったものの、首魁とされた冠弥 政者をして動かしめたともいえるだろう。 しゅ・つしよく ( 炻 ) こうして首謀者として斬罪判決を受けた四人が一八八右衛門が養親を理由とする収贖によって一八八二年 〇年六月一日に死一等を減ぜられ、無期徒刑となったの二月八日に放免された。また新倉嘉兵衛も家族困窮のた であった。事前の運動があったとはいえ、判決から半月め仮出獄が許され ( 歎願書は八二年五月二五日付 ) 、石

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功した人工衛星搭載ロケットを打ち上げ、国家の威信を下においてファシズムや外国人差別が肥大化した歴史を 思い起こす時、いま立ち上がっている新たなる ( しかし かけて是が非でも成功させなければならなかったのだ。 ロシア、かってのソビエト社会主義共和国連邦がそれにあくまでも古臭い ) 人種差別主義を見過ごすことはでき 協力しているのは、悲しいかな、歴史の皮肉でしかない そもそも「在日特権」なるものがいかなる根拠もない ニ人種差別主義者へ ことは一一一口 - フまでもない。 それは、妄想でしかない。世界 二〇〇九年四月一一日、埼玉県蕨市で、日の丸を手に的な不況下で自分たちの利権が脅かされることに怯える もっと一「ロえば、自分 した百人ほどの一群が、両親が国外退去処分を受けた在なかで捏造された妄想でしかない。 たちの特権を与えて欲しい欲求が満たされない欲求不満 日フィリビン人のカルデロンのり子さんの通う中学校に 「犯罪外国人・犯罪助長メディアを許さない国民大行進」のはけロとしてエゴイスティックに捏造された妄想でし なるデモンストレーションをかけた。 「犯罪一家を日本かない。 彼 / 彼女らは、あくまでも妄想のなかで生きて からたたき出せーの声が響いた。当時、カルデロンのりおり、現実に存在する在日朝鮮人の一人一人とは、その 子さんは校内にいたという。怒りを通り越して、恥ずか妄想を共有し合える仲間集団と一緒でなければ向き合え しさすら覚える。 けっして一対一では向き合えないだろう。一対一 デモンストレーションをかけた彼 / 彼女らは、「在日で向き合い、在日朝鮮人の歴史とその生活の現実を知っ 特権を許さない市民の会」と名乗る人種差別主義者たちた時、彼 / 彼女らの妄想はたやすく覚めてしまうだろう である。その後も、彼 / 彼女らは、五月二日に「外国人から。だから、彼 / 彼女らの人種差別主義がはらんでい 参政権断固反対全国一斉デモー ( 札幌、東京・渋谷、る暴力は、腑抜けなのだ。 名古屋、福岡 ) を皮切りに、在日朝鮮人が集住する京都世界的な不況下のなかで立ち現れている人種差別主義 のウトロ ( 六月一三日 ) で、大阪の鶴橋 ( 七月一八日 ) の現象から想像的に読み取るべきなのは、下層の若者た で同趣旨のデモンストレーションを行っている。彼 / 彼ちの不満が、あるいは自分も下層に転落するかもしれな 女らは一見、普通の市民だ。「恐慌とファシズム」 とう予感と怯えが、外国人差別・排除に向かってし そんな古ぼけた命題が頭の片隅を横切る。世界的な不況まっているということだ。社会のなかで直接に排除の暴

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きられる条件としての相互主義的関係を〈公〉の内実と れる。連判はその同志的結合の証であり、嘯集の怒号は 一「ロ葉にならぬ新たな相互制約Ⅱ扶助的〈公〉の創出を見して社会に強制できない怨念の表現であったが、そのた んがためのかけ声であったといえば妄言にすぎるであろめに顕示される〈殺して生きる / 死して生かす〉という 激烈な想念に人は撃ち抜かれる。しかも暴殺の記憶が喚 うか。しかし後述するように、その相互主義のなかには 起されることにより、相州郡村のなかに「人心恟々」の おそらく被差別者は未だ含まれていない。 二つの暴殺事件ののち、負債農民は公怨を殺害で果た動揺もまた広がっていった。債主の一定の譲歩は村落の 一一 " すという極限から撤退することで、目に見える成果を獲動揺に包囲されたからこそのものである。そしてその動 を得しようと目的意識的に動きはじめる。そこでは積年の揺のもとに自らもまた追いつめられる負債農民たちは、 ←怨みはカタストロフとして昇華されず、負債軽減を喝取暫定的な、しかも僅かばかりの成果を手にして集合を終 あるいは何も果たせずに日常に還ってい 、することでその鬱積が一時的に棚上げにされる。そして熄させてい 棚上げにされた怒りは怨みに転化し沈澱していかざるを : ( えない。 こうしてあとに続く神奈川県下の負債農民は貼 しかし大日本帝国の行く末には、新たな行き場を求め ・投げ文を携え、また集団示威を自ら組織し、その一る集合的憤怒の発露が待ちかまえていた。帝国国家は富 部は年賦軽減などの債主の譲歩を引き出していった。か国強兵の帰結としての対外戦争ののち、手痛いしつべ返 一 ? イかる動きは一八八五年一月の武相困民党弾圧まで継続ししを食らいはじめる。日清戦争後の先駆的労働争議の登 場 ( 日鉄機関方争議は一八九八年二月 ) や、日露戦争の た。それが手段としての威嚇にすぎなかったとしても、 おまえもしまいには死ねぞという脅し文句や、焼討ちを講和条約締結に反対する日比谷焼討ち事件 ( 一九〇五年 ほのめかす文言を書き付けた貼り札・投げ文に直面すれ九月五・六日 ) 、東京の電車値上げ反対騒乱事件 ( 〇六 ゞよ たとえば富農合資の金融会社である共伸社社長の年三月一五日 ) などの都市暴動への直面である。社会主 とともに「津、か義者が一斉に「表舞台」から撤退せざるをえなくなった 梅原修平宅 ( 大住郡尻村 ) には、火札 ~ みな起命ハきのふ共伸社あすハ露木の友となる身ぞ , と書大逆事件 ( 一〇年 ) をはさみ、名古屋でも電車焼討ち事 かれた紙が貼られた 金貸や金融機関が「狼狽一方ナ件が起きている ( 一四年九月六日 ) 。これら以外にも政 ラス」の恐荒に陥るのも無理はない。 それは、誰もが生治的課題に交差する都市民の直接行動が浮上する。憲政 4 ( 37 ) 「神奈川県史資料編 11 近代・現代 ( 1 ) 政治・行政 1 」、資料番号 104 の「騒擾事件と行政取締報告書④」 暴民哭々 ( 植本展弘 ) 55