286 どな あき 見事なグーだ。円は好きな男をグーで殴れる女なのだ。僕は呆れて怒鳴った。 「なにすんだよ ! 」 しんぞう 心臓止まるかと思ったわよ ! 」 「落ちてたらメールって言ったでしよう ! 円は僕に、ケータイをつきつけた。 ばんおど 「サクラサク」の文字が、文字盤に躍っていた。 それから円は、僕にしがみついた。 よかったな、としんみりした声で、僕は言った。 震える声で、円は言った。 「落ちてたって、来るつもりだったけどね」 こいから ? 」 「俺のそまこ、 「ハカじゃないの。あんたがそばにいてくれって言うからよ」 へ向かった。 それから僕らは、僕のア。ハート 部屋に上がるなり、どうして一か月でこんなに散らかるの、とぶつくさ文句を言いながら、 かた 円は片づけを始めた。 はしもと 橋本から電話がかかってきた。一一言三一一 = ロ、話して、僕はケータイを切った。 「今から、橋本たち、来るって」 ふる おれ もんく
僕が歩き出すと、円はすぐに呼び止めた。 「なんだよ」 「あのね、受かってたら、電話して」 言いにくい声で、僕は言った。 「落ちてたら ? 」 「メールして」 そろ 円は僕とお揃いのケータイを取り出して、そう言った。 「なんでメール ? 」 しゅんかん 「落ちてたら、すごい落ち込むから。その瞬間の声は、あんたに聞かれたくない」 僕は発表の会場へと向かった。あまり人はいなかった。張り出されてから、二時間ほど過ぎ タている。 レ きんちょう プ胸が高鳴った。円は僕に押し付けたけど、僕だって円と同じぐらい、緊張していたのだ。 にぎし の円の受験票を握り締め、番号を探した。 カ 結果はすぐにわかった。 描僕はケータイを取り出すと、円にメールを打った。 あらわ けいじばん しばらくそこで待っていると、すぐに円が現れた。掲示板の前でにやついている僕を見つけ ると、物凄い形相でかけつけ、手加減無しで僕をぶん殴った。 むね ものす′」 お てかげん よ さカ
278 「どうした ? 」 不安になって、僕は言った。 とど ちょっと怒りを含んだ返事がふすま越しに届いた。 「あんたのことはすごく好き。でも、これだけは直して欲しい」 「わかった」 どんかん 「死んだほうがいい と思うぐらい、鈍感なとこ」 僕はちょっとむっとして、言った。 「ああ、直すよ」 「なんでわたしが、寝た後もこんなに話しかけてるのか、少しは考えて」 だま 僕は考えた。当然の結果、黙った。すると、円の疲れた声がした。 「ここまで言っても、わかんないのよ。あんたって人は」 「せめて、ヒントをくれ」 ため息が聞こえた。長いため息のあと、吐き出すように円は言った。 「一回しか言わないからね」 「うん」 「あのね」 「なんだよ」 ふく
おも 円への想いを描いた。 カイハスに、何十回も描いた。 心の中で、その何倍も描いた。 そして、今でも、僕は円の絵を描き続けている。 「だよな。俺だって、お前に、自分の気持ちを、うまく伝えられてるなんて思えないし、お前 が俺にうまく伝えているとは思えない」 あいづち 優しい声で、円が相槌を打った。 「うん」 まちが 「でも、好きだ。それだけは間違いない」 そう一言ったら、なんだか急にせつなくなった。 これ以上円への想いを口にしたら、僕と円を隔てるふすまを、破ってしまいそうだった。 レ さわ ・フそうなったら、シャツをこっそり指でつまんで持ち上げるどころの騒ぎじゃない。 くぎさ けいべっ のさっき、釘を刺されたばかりなのに、そんなことをしたら、円は僕を軽蔑するに違いな、。 かいたん 僕は階段を想像した。キスの次の階段は、何段先にあるのだろう。 描少なくとも、今日はまだその段に達していないように思った。 だから、円におやすみと言って、無理やり目をつむった。 返事はない。でも、起きている気配がした。 やさ ゃぶ
「聞いたな。そんなこと」 「あの人、きっと、わたしに近づきたかったんだと思う。でも、いきなり家に来てさ、いきな り。、パだよなんて一言われても、わたしはどうすればいいのかわかんなかったし」 「そうだな」 「そんな人に、いきなりべタベタされても、困るよね。そりゃあ、嫌いにならないほうがおか しいよ」 「うん」 「でも、泣いてて思った。自分に好きって気持ちを向けてくる人は、嫌いになれない。ほんと のほんとに、嫌いになんてなれないんだね」 「そうだな」 あいづち 「泣いててそう思った。あんた、相槌ばっかりだけど、ちゃんと聞いてる ? 「聞いてるよ」 やさ の僕は、優しい気持ちでそう言った。 「あんたが歩道橋の上で言ってた、わたしに一一 = ロえないことって、この事だったんでしよ。あん き 描た、知ってたんでしよ。あの人がガンだって」 「うん。知ってた」 「どうして、わたしに言わなかったの ? 」 こま
272 のではないだろうか。 そんなことを考えていると、六畳から円の声がした。 「起きてるつ・ 「うん」 僕は答えた。 それからしばらくの間があって、円は話し始めた。 「あのとき、わたし、わんわん泣いたよね」 かそうば 火葬場でのことだった。僕も泣いた。悲しかった。 きら 「どうして泣いたのかなって、考えたの。だって、嫌いなのに、それってヘンじゃない ? 」 「ヘンだな」 「でもね、わかったんだ。きっと、ほんとは嫌いじゃなかったんだよ。死んでから一言うのは卑 きよ、つ 怯だけど、きっと、好きだったんだと思う。あんな人でも。わたし、きっと、好きだったんだ と思うよ」 そんな円の言葉を聞いてると、なんだか泣けてきた。不思議だった。 「いっか言ってたじゃない ? 」 「うん」 「あの人、小さい頃からわたしをへンな目で見てたって」 ころ
こんなとき、人の心が読めたらな、なんて思う。いや、円の心だけでいい。 どんなときにシャツをめくれば、二センチ以上進めるのだろう。それがわかるだけでかま わない。 やつばり、今はまだ二センチ以上進めるとは思えない。ここで年ったら、円はキスさえ許し てくれなくなるかもしれない。 結局、僕は四畳半へと向かった。 そこに敷いてある布団に、もぐりこんだ。六畳からふすま越しに、円が服を脱ぐ衣擦れの音 が聞こえてきた。 布団にもぐりこんでも、僕はなかなか寝付けなかった。 タしかたなく、目をつむった。 レ まぶたおく ・フ最近、目をつむると瞼の奥に浮かぶのは、決まって円の絵だ。 さび の僕の描いたものでなく、円のオヤジさんが描いた、寂しげな円の絵だ。 円のオヤジさんは満足したと言っていたが、ほんとうにそうなんだろうか。 描やつばり、僕が円にほんとうのことを言ってやって初めて、あの絵は完成するのではないた ろうか。そんな風に、・ほんやりと考えた。 あの人は、ほんとうのオヤジさんなんだよと、言ってやらなくては、円の父も浮かばれない じよ、つはん ふとん あ ぬ きぬず
「暖めて、って言ってるようなもんじゃないの」 「抱きしめて、そして暖めて、って言ってるってこと」 それは考えすぎなような気がした。女は、男の部屋で発一一一一口するときは、そこまで予防線を張 るのだろうか ? 「今、あんたに変な気になられたら、すごく困るから。言わなかっただけ。寒いって」 そんけい 男は全員自分に惚れると思っている女の仕草で、円はそう言った。相変わらずだ。尊敬する。 それはあながち間違いではないが、僕にもプライドというものがある。 「ハ力はお前だ」 「なんでよ」 タ円の顔が、赤くなっていた。シャンパン一杯で酔ったらしい。円も僕も、決して酒には強く レ ブない。 の「受験のときに、そんなことするかよ。俺にだって理性というものが」 か「あるの ? こっそり ?-«シャッめくろうとしたくせに ? 」 しょ - つがい ゆる ゅうぜん 描円は悠然とシャン。 ( ンを飲み干した。キスを許したとはいえ、その先には数々の障害が待ち 受けているのであった。 それから僕らは、飲みながらいろんな話をした。 あたた いつばいよ こま よぼうせんは
「そんなこと、どうでもいいじゃない 「いや、知りたい」 いきお 僕がちょっと勢いこんで言うと、「そうね : : : 」とため息混じりに円は言った。 「あんたが、わたしのシャツをめくりたいと思う気持ちと同じぐらいかな」 僕はびくっと身を震わせた。それは、とんでもない方向からのジャプだった。去年の夏、円 が寝ていたときに、僕は円のシャツの中身を見たくなり、めくろうとしたことがあった。 「起きてたのか」 むずか 「寝たふりってのも、あれでなかなか難しいのよね。でもあんたはその寝たふりに気づかなか った。きっと夢中だったのね。。ハカじゃないの」 僕は黙ってしまった。 タそして少し考えた。寝たふりをしていたということは、そのままシャツを持ち上げても、 レ ・フよかったということなんだろうか。 しんちょう の だとしたら、あんなに慎重になることはなかった。というか、むしろ覆いかぶさるべきだっ け げんそうす 描しかし、それはやはり幻想に過ぎなかったようだ。 なぐ 「命拾いしたわね。あと二センチ持ち上げたら、殴るつもりだったのよ」 僕は下を向いた。なにか、話題を変えようと思った。 むちゅう ふる おお
「他のところも受けろよ」と僕が言っても、円は頑として、首をたてに振らなかった。 じん 「背水の陣を引いたのよ」 「そんな、もし : : : 」 もし、なに ? と電話の向こうで円が言った。 そのあとは言いづらい。受験生には、言ってはならない単語であった。 だいじようぶぜったい 「大丈夫。絶対受かるから」 円は受験の間の二日間、僕の家に泊まった。僕は円のために、料理を作ってやり、コートに ブラシをかけてやった。 ひか ねすがた タ 明日に受験を控えた円の寝姿を見て、変な気分になってしまっては円も僕も困るので、六 レじよう プ畳に円を寝かせ、僕は四畳半に寝た。 の 二日目の実技の試験が終わり、円が帰ってきたあと、僕はささやかなパーティを開いてやっ け まゆ た。テーブルに置かれたケーキを見て、円は眉をしかめた。 描「なにこれ」 「一年間、お疲れ様」 すなおほほえ 円は素直に微笑んだ。 じつぎ がん こま