時間 - みる会図書館


検索対象: 描きかけのラブレター
39件見つかりました。

1. 描きかけのラブレター

した僕は、従兄にスーツを借りて、その日に臨んだ。スーツはやり過ぎだと思ったので小綺麗 な普段着に変えた。 しかし、そこまで気合を入れたのにスタートからつまずいた。 僕は約束の時間を三時』と言ったつもりだったが、彼女は『一時』と聞き取った。 つまり、彼女は駅前で一時間も僕を待ったことになる。 とまど 待ち合わせの場所にいた円は明らかに機嫌が悪く、僕は戸惑った。 おそ 「え ? 一一時五分前だよ」 「なに言ってんの ? 待ち合わせは一時でしょ ? 」 「いや、二時って : 二時って聞こえたんだけど」 「ごめん」 たいど あやま すぐに謝った僕の負けで、円は卒業式の日に見せたしおらしさをどこかに放り投げた態度で、 くっ , っ この一時間がどれだけ苦痛な時間だったかを僕に語りだした。 「キャッチセールスがしつこかったのよ」 「ごめん」 「六人にナンパされたんだけど」 のぞ こぎれい

2. 描きかけのラブレター

彼女は楊枝をくわえながら、自分の弁当を男友達にあげていた。 女の癖に楊枝なんかくわえんなって文句を言いたくなる。 「ほ、ほんとに俺にくれんの ? 」 もら こうふん その男子生徒は、円に弁当を貰ったということで、いきなり興奮している。バカはいつでも せつない。 「ん ? ダイエットしてるから」 「円ちゃんはダイエットなんかする必要ないだろ」 「いいのいいの。気にしないで」 円はそう言うと、僕のほうを見てにやっと笑った。 僕は無言で弁当箱を閉じると、パンを買いに行った。 「う、うまいよー これー かんちが 後ろから、もしかして円に好かれてる ? と勘違いした男子生徒の声が聞こえてきた。 次の日。二時間目が終わった後の休み時間に、僕は弁当を広げた。 ふた ぎろん 蓋を開けたときに、早弁についての議論が聞こえてきた。円が、クラスの女の子と話してい 「円、あんた早弁て」 「通はね、一時間目が終わったあとに、食べるのね」 くせ よ、つじ と

3. 描きかけのラブレター

すぐにその想像を改めたらしい 「お前、泊まってなんもせえへん言うのは、ある意味えつらい失礼やで ? 」 しよ、つかい 橋本のその言葉に、美智子が笑った。僕は二人を美智子に紹介した。それから、僕らは四人 で行動することが多くなった。 新しくできた仲間との時間は、円を失いつつある ( と思っている ) 僕にとって、楽しいもの になっていった。もちろん円の代わりには、決してならなかったけど。 四月が終わる頃のある日、僕らは『鷹の台ホール』で、昼飯を食べていた。学食は二つあっ こぎれい た。一つがこの『鷹の台ホール』で、もう一つが『十一一号下』と呼ばれる、小綺麗な学食だ。 こぎたな ふんいき よ′」 油絵学科はどうしても汚れることが多く、僕らは似たような雰囲気をもった小汚い『鷹の台ホ ふくそう ール』を愛した。小綺麗な『十二号下』学食はデザイン科の連中が多かったからだ。服装もそ しゃれ ういうお洒落な匂いがする学生ばかりで、なんとなく敷居が高かった。場所の持っ雰囲気が住 み分けをつくる好例だった。 わり 橋本は当然のごとく、『鷹の台ホール』を愛用したし、伊東も東京生まれの割には、どこか 野ったかった。美智子だけは、どう考えても『十一一号下』が似合ったが、僕らにつきあって、 『鷹の台ホール』で食べてくれた。 さっえい 「ゴ 1 ルデンウィークになったら、撮影旅行に行こうや」 ころ しきい

4. 描きかけのラブレター

かえって清々したとか、思っているのではないだろうか。 それはとても、悲しいことだと思った。 円の実家である神木旅館には、たくさんの人が集まっていた。葬式に来る人の数で、その人 1 」うかく の価値が決まるなんて言われているけど、そういう意味で、円の父は合格だと思う。 シーズンオフなので、泊り客がほとんどいないことが、幸いだった。隣で葬式をやられては、 むずか しゆくはく 宿泊客もたまらない。客商売の難しいところだと思う。 もし、そういったことまで考えて死んだのだとしたら、なるほど、円の父はとんでもない人 格者だった。 市長までが、わざわざ来ていた。高校のときの同級生とのことだった。 きよう しんみよう ひつぎ タ 坂さんがお経を読み上げている間、円はじっと神妙な顔で、棺の前に正座していた。 けむり・はい しゆっかん ・フ読経が終わり、出棺の時間になった。火葬場に仏様を運び、焼いて煙と灰にするのだ。 の市内にある火葬場まで、マイクロバスで向かった。 時間通りにすべては行われ、つつがなく進んでいった。 き 描 かまどの前に棺が置かれ、参列者が周りを囲んでいる。 。人は時間通りに焼かれ、灰になる。 今から、かまどの中に、棺が入っていく あいさっ その前に、お別れの挨拶があった。 まう とま となり

5. 描きかけのラブレター

そのとき、円がしやくりあける音が聞こえた。円は泣いていた。 「円」 僕が声をかけても、円は顔をあげなかった。 近づいて、とりあえず肩を抱いた。すると、円は激しく泣き出した。 つぶや しやくりながら、円は呟いた。 「どうしてフ 「病気だったんだ。仕方ない」 しやくりあげながら、ゆっくりと円は言った。 えんめいちりよう 「ガンだったんだって。それなのに、あいつ、延命治療してなかったんだって。苦しいからっ 彼が、延命治療を行っていなかったことを、そのとき僕は初めて知った。 ・フ去年、僕に会ったとき言っていた、「あと一年なんだよ」という数字は、延命治療を施して、 かの、つ の初めて可能な時間だったらしい かどうして延命治療をしなかったんたろう。 もうれつ いた 描苦しいから ? 確かにそうだ。ガンの延命治療は、猛烈な痛みとの戦いだと一言うことを、テ レビで見たことがあった。感動の一一十四時間とか、そういう番組だ。 むすめ 冫いたいと願う彼が、そんな理由で延命治療を拒むだろう でも、あと一年、娘といっしょこ ほどこ

6. 描きかけのラブレター

220 ひが 彼女の言葉には僻みつ。ほいところがどこにもない。 そっちよく の 僕は率直な感想を述べた。 「すげえな」 「車 ? 中古だけど高かったぜ。三年ローン。でも、車ぐらいないとね。田舎は困るんだよね」 「いや、そうじゃなくて : 僕がそう言いよどむと、巧は、ああ、と気づいた風に、聞き返してきた。 「俺たちがか ? すごいかな」 セリフの後半は、助手席の彼女に向けたものだった。 ふつう 「普通じゃない ? うら ヒロミさんが言った。彼女は、日除けの裏についた鏡を覗き込んで、マスカラの具合を確認 していた。 僕と円じゃ、絶対こんな風にはなれない。円はすぐにじとっとするし、僕は僕で、円の顔色 ふきげん をうかがってしまうだろう。不機嫌になりやしないかと、すぐにヒャヒャしてしまうだろう。 きず この二人は、きっと、とても仲がいいのだろう。きっと、お互いのほんとの傷も知りつくし ているんだろう。だから、何を聞いても、言われても、動じることがないのだ。 うらや とても羨ましいと思った。 いっしょに過ごした、時間の差なんだろうか。僕と円も、いっしょに過ごす時間を増やして おれ ぜったい ひょ のぞ こま ふ かくにん

7. 描きかけのラブレター

円は、肩に置かれた僕の手を、右手で外した。椅子から立ち上がると、帰る、と言った。 幻『帰ろう』じゃなくて、『帰る』だった。 さび なんだか、もどかしくて、何にも解決していなくて、僕はとても寂しい気持ちになった。 ふきげん 家に帰ると、冷たくなったご馳走と、不機嫌な母親が僕を待っていた。僕の電車の時間を聞 いていた母は、僕の帰ってくる時間を予想して、食事を作っておいてくれたのだった。 どこに行ってたの ? と聞かれたので、「学校」と答えた。 「学校って、あんたが通ってた高校 ? 「うん」 「なんで家にも寄らずに、そんなところに行くの ? 」 「いや、ちょっと」 「夏にも帰って来ないから、気が変わったんじゃないかって、お父さんと心配してたんだよ」 おどろ 母がそう言って、僕を睨んだ。父は新聞を読んでいる。僕は父に、駅前が寂れていて驚いた 話をした。 「不景気だからな」と、市内で洋品店を経営している父は新聞から目を離さずに言った。 もう 「ほんとに、この街は不景気でどうしようもないの。たから、ウチも全然儲からないの。だか ら、仕送りはあれしか送れないけど。あんた、大丈夫だろうね」 にら ちそう だいじようぶ さび

8. 描きかけのラブレター

すわ 疲れたと円が言ったので、僕らは公園のべンチに座った。辺りは真っ暗で、空気はひんやり みようほて と妙に火照った僕の頭を冷やし : : : 、僕は円を見た。 デートは失敗だったけど、いい気分だと思った。 となり あんなに好きだった円が今こうして、僕の隣に座っている。むつつりと黙っていたけれど、 きれい すてき 着ている服がよく似合っていて、相変わらず綺麗で、僕は彼女がとても素敵だと思った。 そんな彼女の隣に自分がいることは、とても素晴らしく、素敵なことのように思えた。僕は 今一一一一口うそと、思って、まず前を見た。そのとき、おもむろに円が口を開いた。 「あたし、来年になったら東京に行くから」 気勢をそがれた僕は「うん」と短く言った。円はそれから「ゴールデンウィークには帰る の ? 」と僕に聞いた。僕は「うん」と答えた。 一「一年は長くて、東京は遠いね」 レ 僕はそんなことはない、と思ったので、黙っていた。一年なんて、あっという間だし、東京 きより は特急使えば一時間ちょいだ。気になるような距離と時間とは思えなかった。 け でも、彼女はなんだかしんみりしているようだった。僕は恥ずかしいけど、彼女はキスして 描も怒らないだろうか、とか、そんなことばっかり考えていた。 じゅうじっ 明日を悲観するより、彼女と二人きりの今を充実させたかった。でも、充実させるには勇気 が必要で : でもって彼女はそんなことより明日が気になるようだった。 おこ

9. 描きかけのラブレター

164 「禁煙してたんだけどね」 「はあ」 」い・ひと 「君は、円の恋人だろ ? 」 ためら 僕はちょっと躊躇った後、きつばりと言った。 「だと、思います」 むすめ 「円はね、僕の娘なんです」 「知ってます」 「いや、そういう意味じゃなくて、義理でもなんでもない。正真正銘、僕の娘です」 あせ 僕は焦った。いきなり何を一言うんだろう、と思った。 だいじよ、つぶ 「時間大丈夫 ? 」 「平気ですけど」 「じゃあ話そうかな。円に恋人ができたら : 円の父は、ゆっくりと語り始めた。 今から十八年前だね。あの子が生まれた。でも、あの子の母親とは結婚していなかった。僕 けつだんせま は決断を迫られた。あの子の母親と結婚するか、それとも夢を追うか。いや、ほんとは娘が生 その恋人には話そうと思っていたからね」 ゅめ し め

10. 描きかけのラブレター

288 となり ていねい 円はその絵の隣に、自分が持ってきた絵を、丁寧にかけた。 しばらく一一人で、その絵を見つめていた。 円が、つまらなそうに口を開いた。 「橋本くんたち、あとどのぐらいで来るの ? 」 「さあ、でも、こっちに向かってる最中って言ってたから。十分ぐらいじゃないの」 「とにかく」 「キスする時間ぐらいはあるわよね」 僕は円を抱き寄せ : キスをするために、目をつむった。 目をつむると絵が見える。円の絵だ。 円のオヤジさんと僕が描いた、冬色の円の絵が見える。 その隣には、描きかけのまま、完成することのない、円の絵がかかっている。 結局、描きかけのまま、僕を睨んでいる円がいる。 僕はこれからも円の絵を描くだろう。 カン。ハスこ。 にら