「父らしいことなど、何もしなかった父です。恋人のそばに行きたい、 くなんて、できないよ」 円の父は笑って言った。 「でも、最後の一年ぐらい、娘といっしょに過ごしたいんだよ」 うそじようだん 円のオヤジさんは、それから僕を真っ直ぐ見つめた。嘘や冗談を言っているようには見えな かった。きっとそれは、全部本当のことなのだろう。だからこそ、わざわざ円の父はここまで やってきたのだ。嘘なら電話で済む。 きつぶ わた それから、僕に切符を渡した。 「これ、円に渡しておいてください」 僕は・ほんやりとその切符を見つめた。なにか言おうと思ったけど、言葉が出なかった。 タ「円のどんなところが気に入ったんだい ? 」 ちゅうとはんば レ けんめい ・フ僕は真剣に考えた、中途半端な答えじゃ、よくない気がした。一生懸命に考えたけど、気の のきいた答えは見つからなかった。結局、もごもごと僕はロの中で呟くだけだった。 「綺麗で : き 描「あの子は僕に似ている。娘は父に似るっていうけど、そっくりだ。いろんな意味でね。きっ と苦労するよ」 うまく一一 = ロ葉にならなかった。オヤジさんは立ち上がると、僕にペこりと頭を下けて言った。 きれい つぶや という娘を縛り付けと
166 じじよう 僕は黙っていた。円の家の事情はわかった。でも、それと家出は関係ない。 「でも : : : 」 ほほえ 僕がそう言いよどむと、円の父は微笑んだ。 「恋人を帰したくないってつ・・」 ゆる 「円は東京に来たがっています。そして、僕は円が好きです。だから、来年、円の上京を許す って言うなら : : : 」 おも 僕は必死の想いで、そこまで言った。円の父の顔が歪んだ。僕はびくっとした。しかし、円 どな の父は怒鳴ったりしなかった。ただ、激しく咳き込んだ。 「だ、大丈夫ですか ? 」 「大丈夫。禁煙してたんた。よくないな、タ。ハコは」 「え、ええ」 「タ。ハコ、医者から止められていてね。でも、今さら禁煙しても始まらないんだけどね」 「あと一年なんだよ」 「僕はガンなんです。胃がよくなかったらしい。若い頃、好き放題やったつけが回ってきた」 僕は。ほかんと、円の父の顔を見つめた。 わか ころ
円の父は、そこで初めて、円の方を向いた。 「円」 呼んでも、円は返事をしなかった。ただ、父を見て、何よ、と言いたげな目つきをした。 となり 「べッドの隣に、四角い包みがあるから、それを取ってくれ」 すきま 円は、べッドに近づくと、窓側に回った。壁とべッドの隙間に、なるほど、四角い包みがあ っこ 0 「開けてくれ」 円の父が言った。円は一一一一口われるままに、包んだ布を外した。 中から一枚の絵が現れた。僕は息を飲んだ。 いっしゅん さび それは、円の絵だった。一瞬で、僕にはそれが円だとわかった。絵の中の女の子は、寂しげ タに眉をひそめ、俯いている。背景は : 、和室の一室。円の家には、そんな部屋があるのかも レ ・フしれなかった。 の円は、それを見ても表情を変えなかった。ただ、深いため息をついた。そして、興味のなさ そうな声で言った。 描「いつの間に、描いてたの ? 「県のコンクールに出品しようと思って、描いてたんだ」 円の父は、独り言のように言った。 ひと あらわ かべ ぬの きようみ
234 「完成させるまえに、倒れてしまってね」 こころざ 僕は・ほんやりと、その絵を見つめた。昔、画家を志したというだけあって、タッチは生半可 のものではなかった。寂しげな表情をしているのに、不思議と暖かい絵だった。 てわた 円はそれを、僕に手渡した。やっかいなものを、早く手放したい、と言った感じだった。そ れから、「飲み物買ってくる」と言って、部屋を出て行った。 病室に、円の父と、一一人取り残された。 ひみつ 「僕のこと、秘密にしてくれてるかい」 不意に、ぼつりと円の父が言った。僕は頷いた。 「そうか、ならいい。いいんだ」 円の父は、喋り始めた。 「あと一年なんて言われてもね、初めはビンとこなかった」 いったい、僕になにを頼むつもりなんだろうか、とそんなことを僕は思った。 むすめ にぎ 「しばらく考えて、娘の絵を描くことにした。一一度と筆を握るつもりはなかったけど、最後な んだからいいだろうってね。そう思ってね」 ほほえ それから彼は、唇の端を持ち上げて、微笑んだ。 かんしゃ みと 「でも、完成させる前に、このザマだ。別に、今さら娘に感謝されたいとか、父と認めて欲し しやく いとか、そういう考えはないんだけど、完成しないのが、なんだか癪でね」 しゃべ うなず
めずら 「どうしているのがわかったんだ ? て顔だね。円の家出は珍しくないからね。帰ってこない から、まただ、と思って、ウチのに聞いた。そしたら、君の名前を言った。迷惑かもしれない けど、君のご実家に電話して、君の電話番号と住所を聞いてね」 「遠くまで、ご苦労様です」 僕はしまらない感想を述べた。円の父は、ははは、と笑った。 「君がどんな男なのか、確かめたかったし」 僕は下を向いた。僕がどんな風にこの中年男性の目に映ったのか、それが気になった。 「安心したよ。君は悪い人間には見えない。娘の趣味にどうこう一言うつもりもない」 す 僕はほっとした。少なくとも、娘と付き合うな、みたいなことは言われずに済んだ。 ひま によう・は、つまか 「それに、たまに来るなら東京も悪くない。家のことは女房に任せつばなしだし。僕は暇なん タだよ むしよく レ どうやら無職らしい。そのくせ、引け目みたいなのがどこにもない。なんとも、変わったお のっさんだった。さすがは円の父というべきか。いや、確か、この人は円の義理の父だった。円 おさな かの本当のお父さんは円が幼い頃に死んでしまったはずだ。円の母の、再婚相手というワケだ。 きら 描そして、円はこの義理の父を嫌っていた。その話を、円の部屋で聞いたことがある。 「で、話というのはだね」 の しゆみ さいこん ぎり
とは確かだった。 「だから、君から言って欲しいんだ。家に帰れってね」 僕は黙っていた。 「 : : : ダメかね」 きんえん それから円の父は、ポケットを探った。禁煙してたんだ、と独り言を呟くと、水を一杯飲ん 「あの子は、僕のことをなんと言っていた ? 」 「正直に言っていいですか ? 」 「あまり、好きじゃない、みたいに、言ってました」 タ「あとは ? レ プ「義理の父だって。だから、あんまり、好きじゃないって」 の「そうか : : : 」 円の義理の父は、片手を挙げて、ウイトレスを呼んだ。昨日の円と同じ仕草だった。血が 描繋がっていないのに、 ヘンなところが似てるなあ、と思った。 たの 彼はウ = イトレスにタ。 ( コを頼んだ。タバコを渡されて、彼は一本くわえた。 けむりす むね 胸いつばいに煙を吸い込んで、吐き出すと、僕にむかってにやりと笑った。 つな かたて さぐ わた ひと つぶや いつばい
なみだ 「どうして、嫌いなのに、涙が出るの ? だいっきらいだったのに、どうして、わたし、泣い てるの ? どうしてだろう、と思った。 実の父だと言うことを、円は知らない。誰も、おそらく、円には言ってないはずだ。 とど それでも、円の父はその死によって、娘に何かを届けたに違いない。 僕はそう思うことにした。 僕は円を、強く抱きしめた。そして、円の質問に答えた。 「悲しいからだろ」 えんとっ 煙が煙突から、立ち上っていた。 空はどこまでも青く澄んでいて、煙はその中に消えていく。 もふく タ円は、黒い喪服姿に包まれている。黒は円を、今までで一番引き立てていた。 レ ・フ こんなときなのに、そんな円が、とても綺麗に見えた。 の け そうしき 。カ 円の父の葬式が終わったあと、僕は円を残し、東京のア。 ( ートに帰ってきた。 描部屋に美智子と橋本がいた。 あれだけたくさんあった、橋本の荷物が、綺麗になくなっていた。 コタッに入って、美智子と橋本は、中むつまじくオデンなどをつついている。 きら す きれい
232 「そうか。忙しいのに、ほんとうにすまんね」 それから、円の父は、目をつむった。瞼の動きも重かった。病人なんだな、と、当たり前の むか ことを、思った。死を迎えつつある病人の顔だった。 円はそれを知らない。やりきれなかった。 「いつまでこっちにいられるんだい ? 」 その口調が、何か、僕に頼みごとがあるようだった。テストは一月の十六日から始まる。ム リをすれば、十四日までぐらいならいられる。 「十四日ぐらいまで、いるつもりですけど」 けっこう 「結構、いられるんだね」 うれ 円の父は、なんだか嬉しそうな調子で言った。その顔が強張った。どうやら、笑っているら しかった。 夏に会ったときは、あと一年、なんて言ってたけど、あと一年も、生きられないんじゃない かって、そんなふうに見えた。 しんせき 昔、中学生のころ、親戚のおじさんが死んだときも、こんな感じだった。リ 男人みたいに頬が しゃべ こけ、鼻からパイプを通されていて、ほとんど何も喋らなかった。円の父は、それほどひどく はなかったけど、見た目はあまり変わグがないように思えた。 「わざわざ来てもらったのは、頼みがあるからなんだ」 たの まぶた こわ洋
円は、肩に置かれた僕の手を、右手で外した。椅子から立ち上がると、帰る、と言った。 幻『帰ろう』じゃなくて、『帰る』だった。 さび なんだか、もどかしくて、何にも解決していなくて、僕はとても寂しい気持ちになった。 ふきげん 家に帰ると、冷たくなったご馳走と、不機嫌な母親が僕を待っていた。僕の電車の時間を聞 いていた母は、僕の帰ってくる時間を予想して、食事を作っておいてくれたのだった。 どこに行ってたの ? と聞かれたので、「学校」と答えた。 「学校って、あんたが通ってた高校 ? 「うん」 「なんで家にも寄らずに、そんなところに行くの ? 」 「いや、ちょっと」 「夏にも帰って来ないから、気が変わったんじゃないかって、お父さんと心配してたんだよ」 おどろ 母がそう言って、僕を睨んだ。父は新聞を読んでいる。僕は父に、駅前が寂れていて驚いた 話をした。 「不景気だからな」と、市内で洋品店を経営している父は新聞から目を離さずに言った。 もう 「ほんとに、この街は不景気でどうしようもないの。たから、ウチも全然儲からないの。だか ら、仕送りはあれしか送れないけど。あんた、大丈夫だろうね」 にら ちそう だいじようぶ さび
「 : : : そっか」 「お父さんが、よくなるまでは、家にいなさい、なんて言い出して」 はず よくなるまで。それはない筈だ。円の父は、彼が自分で言ったとおり、夏までもたないかも しれない。 円の母も、自分の夫の死期が近いことを知り、夫の望みをかなえてやりたくなったんだろう。 それが人情というものだ。でも、円はそんなことは知らない。父親に対する愛情もないから、 そろ じゃま 二人揃って自分の進路を邪魔しているようにしか、見えないのだろう。 「なんでカンケーないやつの、カンケーない病気で、邪魔されなくちゃならないの」 冷たい調子で、円は言った。円は父親を嫌っている。義理の父だと思っている。ほんとうは、 血のつながった親子であることを、円は知らない。 ちよくせつ 僕は知っている。夏に、円を迎えにきた父から直接聞いた。なんともややこしい話だった。 レ プ僕はなんとなく、気になって、円に聞いてみた。 の「お見舞いには行ってる ? 」 案の定、予想した通りの返事が返ってきた。 き 描「行くわけないじゃない。顔も見たくない」 「行けよ」 ちょっと強い調子で、たしなめるように僕は言った。 むか きら ぎり