「父らしいことなど、何もしなかった父です。恋人のそばに行きたい、 くなんて、できないよ」 円の父は笑って言った。 「でも、最後の一年ぐらい、娘といっしょに過ごしたいんだよ」 うそじようだん 円のオヤジさんは、それから僕を真っ直ぐ見つめた。嘘や冗談を言っているようには見えな かった。きっとそれは、全部本当のことなのだろう。だからこそ、わざわざ円の父はここまで やってきたのだ。嘘なら電話で済む。 きつぶ わた それから、僕に切符を渡した。 「これ、円に渡しておいてください」 僕は・ほんやりとその切符を見つめた。なにか言おうと思ったけど、言葉が出なかった。 タ「円のどんなところが気に入ったんだい ? 」 ちゅうとはんば レ けんめい ・フ僕は真剣に考えた、中途半端な答えじゃ、よくない気がした。一生懸命に考えたけど、気の のきいた答えは見つからなかった。結局、もごもごと僕はロの中で呟くだけだった。 「綺麗で : き 描「あの子は僕に似ている。娘は父に似るっていうけど、そっくりだ。いろんな意味でね。きっ と苦労するよ」 うまく一一 = ロ葉にならなかった。オヤジさんは立ち上がると、僕にペこりと頭を下けて言った。 きれい つぶや という娘を縛り付けと
かばんさ 鞄に差した白い五百円のビニール傘を見つめる。こいつで予備校に行ったら、きっと、つく 頃には服を着たままプールに飛びこんだようになるだろう。 ためら 駅は僕みたいに外に出るのを躊躇う人で溢れている。 そんな人ごみの中に円の姿を見つけた。 , 彼女はうんざりしたように腕を組んで、じっと駅の 外を見つめている。 円の家がこの駅にあったことを思い出した。駅を降りて、海側にずっと行った所に、円の両 親が経営する旅館がある。ここから歩いて、二十分はかかる。 円は傘を持っていなかった。 わす 家を出るときに忘れたのだろう。あいつ、意外にアホだな、と思った。 円がこっちを見た。僕に気づいて、一瞬、目を丸くした。 一それから唇を噛み締めて、駅の外に再び目を移した。 レ 僕は急に気まずくなって傘を鞄からぬいた。 ふ あ k 台風が吹き荒れる街へと飛び出した。予備校まで駆けるつもりだった。 たた け・おおつぶ 大粒の雨がばちばちと音を立てて、僕と傘を叩く。 描いきなり後ろから、誰かが僕の傘に飛び込んできた。一瞬、予備校の友達かと思った。違っ こん せいふく た。白いシャツに、紺のフレアースカート。僕の学校の制服。 円だった。 すがた 力さ いっしゅん こ うつ うで
262 僕が部屋にあがると、橋本と美智子は僕に言った。 「おかえりなさい 「ただいま」 「ユキオ、 いいニュースが二つあるんや」 「なあに ? 」 もど おれ 「一つ目。俺、明日から自分の部屋に戻るわ」 「そりゃあ、よかった」 僕は美智子のほうを見た。 「で、美智子はどうすんのフ じようけん 美智子は橋本の部屋を使っている。自分のア。ハ ートを見つけるまでという条件で、橋本が自 分の部屋を貸しているのであった。 橋本が、自分の部屋に戻るということは、美智子はやっとアパートかマンションを借りるだ けのお金を作ったのだろうか ? 「部屋、見つかったの ? 」 たず 僕は美智子に尋ねた。 みよう 美智子は、首をかしげた。その仕草は、なんだか、妙にいろつぼかった。 「二つ目の いいニュースや」橋本が、代わりに答えた。
のだろうか。 「もう、あんな落書き、すんじゃねえそ」 先輩は、そう言い捨てると、行ってしまった。殴られた頬が痛み出す。 すがた そのとき、円の姿を見つけた。 みつ この前、僕が絵を描いていた場所に立ち、彼女はじっと僕を見詰めている。 くちびるか 唇を噛み締めて、とても悔しそうな顔をしていた。 彼女の顔が、そんな風に歪むのを見るのは初めてだった。 むぼうび 泣きそうになっている円はとても無防備に見える。誰かに助けを請うような、そんな顔。 もど いっしゅん でも、そんな風に見えたのはその一瞬だけで、円はすぐにいつもの顔に戻った。 「気が済んだか」 僕は円にむかって言った。 「彼氏を使って復讐かよ」 「あの人は彼氏しゃないよ。それにわたしがやれって言ったわけじゃない」 「いい気分だろ。俺が殴られて」 ためら 躊躇うように首を振ったあと、円は僕のほうに近づいてくる。 まゆよ 上向いた眉を寄せて、 かんちが 「勘違いしないでよ。わたしは、冗談で言ったんだよ。ユキオ君が、わたしのマンガを描いて す し ふ ほお
無限に感じるような時間が過ぎたあと、円はゆっくりと言った。 「わたし、寒い」 一番長い夜が過ぎたあと、雨の音で目を覚ました。べッドの上だった。 となり 円は僕の隣で寝息を立てている。 もうふ ほお 僕は円の頬をつねってみた。円が、寝ぼけながら顔を振り、毛布の中に顔を埋めた。 かくにん ゅめ 生まれてから今日までで、一番長い夜が、夢ではなかったことが確認できた。僕はほっとし 円の寝顔を見つめていると、なんだかどこまでも優しい気持ちになれる。なるほど、好きな 女の子が、隣に寝ているということは、こういうことなんだ、と思った。 タそんな風に見つめていると、円が目を覚ました。 レ 「 : : : 起きてたの ? 」 の「うん」 か円は、ぶるっと身震いした。 僕は円を抱きしめた。 「違うの。今度は、ほんとに寒い みぶる うず
かげろ , っ すず 喫茶店の外は陽炎がたっている。喫茶店の中はクーラーがきいていて涼しいけれど、外はう しんきようそ - っぞ , っ だるような暑さだろう。この暑さの中、わざわざ東京までやってきたオヤジさんの心境を想像 僕は立ち上がって、喫茶店を出た。勘定は、オヤジさんが済ませていた。 ア。ハートに帰ってくると、円は慣れぬ手つきで料理をしていた。 僕を見ると、そっ。ほを向いて、再び野菜を炒め始めた。 「勘違いしないでね。あたしが食べたいから、作ってるんだから」 僕は無言で、円の前に、切符を突き出した。 火を止めて、円はそれを見つめた。 「なにこれ」 レ ・フ「切符」 の「切符 ? どうしてつ・ 円は怪訝な顔で、僕を見つめた。 描「今日の十一一時十五分上野発、特急」 「どういう意味 ? 」 「これで帰れ」 ふたた かんじよう
シャツが上れて、い腹が見えている。 の上にあるの盛上がった丘を、 は腕を組 ' っと見つめた。
ツができたら、それを隠せる円じゃないのに、 それはやつばり、離れているから、なんだろうか。 「あたしたち、何も、ないもんね」 「何もって ? 」 一」い・ひと 「恋人らしい、証拠とか」 しんぞう 円は僕を見た。僕は見つめ返した。心臓が鳴った。円は、僕に何かを要求してる、と思った。 よ 僕は勇気を出して、腕を掴んで円を引き寄せた。拒まれても、かまわなかった。 わり あず 円は割とあっさり、僕の胸に身を預けてきた。道行く人が、面白そうな顔で僕たちを眺めて いたけれど、気にしなかった。 あご 円の顎を、左手で持ち上げた。円は軽く唇を噛んで、僕を見つめた。それからゆっくり目を タつむった。 レ プ円の唇に、ゆっくりと自分の唇を近づけた。時間が止まったように感じた。 しゅんかん のでも、唇が触れそうになった瞬間、円は僕を左手でそっと押し返した。 カ 描「やつば、まだダメ」 「どうして」 「あんたさ」 ふ しょ・つこ うでつか むね か ーセントの不安が残ってしまう。 おもしろ
118 円は答えなかった。僕の方を、見もしない。 それから、ゆっくりと机の上の目覚まし時計を取り上げ、見事なフォームで、僕にむかって それを投げつけた。 かた 目覚ましは僕の肩に当たり、床に転がった。 ひょ、つじようう 円は壁にかかった絵と同じ表情を浮かべて、僕を睨んだ。それから、僕に向かって初めて口 を開いた。 だれ 「誰 ? あの女」 ひび 転がった目覚ましが、ジリジリジリと乾いた音で鳴り響いた。 わす しかし、僕はそれを止めることも忘れ、じっと目の前の女の子を見つめた。なんだか、時間 が止まった気がした。 こいびと 円も僕を見つめていたけど、その目の中に三か月ぶりに会えたという、恋人の情感みたいな ものはない。 おこ 僕はとりあえす落ち着こうと思った。円は怒っている。怒っている円は、信管がつけつばな あっか しの爆弾みたいなもので、取り扱いがますいと爆発する。でも、僕は無事に信管を外したこと うれ あせ がないことを思い出した。冷や汗が流れた。こんなとき、ヤキモチを焼かれるのは本当は嬉し いもんじゃないのだろうか ? 僕はそう思ってた。 つくえ ゆか かわ
168 「一年だけ、娘を貸してください」 きっさ そして、喫茶店を出て行った。 後に残された僕は、じっと切符を見つめた。いろんなことをいきなり知りすぎて、頭が混乱 きら ぎり した。円はあのオヤジさんを嫌っている。義理というだけでなく、自分をへンな目で見ている、 ′」かい よこしましせん と誤解しているのだ。邪な視線で見られて、母に嫉妬され、円は自分が嫌いになった、と言っ ていた。 でも、さっきの話を聞いた後で考えれば、それはヘンな視線でもなんでもない。円のオヤジ さんは、娘をただ愛しているのだろう。ほんとうの父と一一一一口えない分だけ、娘を見つめていたに だれ ゆず 僕は円を、誰にも譲りたくはない。 でも、そんなオヤジさんになら、一年ぐらい、譲ってもいいような気がした。 そしてそれは、なんだか、とっても正しいように思われた。少なくとも、円に嫌われたくな いばっかりに、「帰したくない , と意地を張るより、ずっと正しく、円のことを思いやった行 動じゃないかと、僕は思った。 なさ でも、円はなんと思うだろう。僕を清けないと思うだろう。言いくるめられて、自分を帰そ うとしている、と考えるだろう。それでも僕は、本当の理由を円に言うことができない。オヤ ジさんと、このことは一一一口わない、と、約束したからだ。 むすめ しっと