262 僕が部屋にあがると、橋本と美智子は僕に言った。 「おかえりなさい 「ただいま」 「ユキオ、 いいニュースが二つあるんや」 「なあに ? 」 もど おれ 「一つ目。俺、明日から自分の部屋に戻るわ」 「そりゃあ、よかった」 僕は美智子のほうを見た。 「で、美智子はどうすんのフ じようけん 美智子は橋本の部屋を使っている。自分のア。ハ ートを見つけるまでという条件で、橋本が自 分の部屋を貸しているのであった。 橋本が、自分の部屋に戻るということは、美智子はやっとアパートかマンションを借りるだ けのお金を作ったのだろうか ? 「部屋、見つかったの ? 」 たず 僕は美智子に尋ねた。 みよう 美智子は、首をかしげた。その仕草は、なんだか、妙にいろつぼかった。 「二つ目の いいニュースや」橋本が、代わりに答えた。
は美智子に力説した ( らしい ) 。『住め』じゃなくて『使え』と。 これが意味するところは、『俺といっしょに住もう』という、恋する男にとって玉虫色な提 りつきやく 案でなく、美智子の側に立脚している『困ってるなら、俺の部屋を使ってやってください』と いう、思いやりなのだ ( もちろん、すべて橋本の理屈である ) 。 橋本は僕に説明した。 きら ていきよう 俺はな、好きとか嫌いとか、そんな気持ちで美智子に部屋を提供したわけやあらへん。あい そ、つぞう つが困ってるからや。親切心でや。下心とか、想像したらあかんでフ だれ もちろん、そんな理屈は誰も信じなかったが、結局、美智子はその提案を受けた。美智子は 橋本の部屋に、自分の荷物を運び込み : 、そこで生活している。そのために、橋本の部屋は、 美智子の荷物で足の踏み場がない。 タ美智子は、荷物に埋もれた部屋で、新しい生活のスタートをきった。スタートはきったが、 レやちん ・フ家賃は橋本が払っている。美智子は真の新生活のスタートのために、く ノイトに励み貯金をして のいる。新しいア。ハートを借りるつもりなのだ。美智子に実家と呼べるものがないことを、その かとき僕たちは知った。美智子はずっと母子家庭で、その母も美智子が東京に来る前に他界して 描 かんじん すみか 9 さて : ここで問題になったのが、肝心の橋本の住処である。美智子に部屋を明渡したは けいざいりよく いいが、橋本に新しいアパートを借りられる経済力があるわけもない。 あん ふ う あけわた
「はあ ? 」と僕は返事を返す。、、 ししのだろうか。円はじっと僕を見ている。時計を見ると、予 備校はとっくに始まっている時間だった。 今から行ってもしようがない。それにずぶ濡れで気持ちが悪かった。 風呂から上がった僕を待っていたのは、私服姿の円だった。風呂上がりらしく、髪が濡れて いる 「どうだった ? 」 「いい風呂だった。ありがとう」 わり たたみじ まどぎわ づくえ 円は僕を部屋に連れていった。円の部屋は割とシンプルだった。畳敷きで、窓際に勉強机が 置いてある。小学生の頃から使っているようなごっい勉強机で、高校生の女の子の部屋には似 一合わない。 「汚くてごめんね」 そんなことないよ、と僕は言った。僕の部屋に比べたら、随分マシだった。 きんちょう 女の子の部屋に入るのは初めてで、とても緊張する。その上、相手はあの円なのだ。 こしか カカ 円は机から椅子を引き出すと、背もたれを抱えるようにして腰掛けた。 かべ おさな べッドの横の壁に、一枚の絵がかけられているのを見つけた。幼い女の子の絵だ。僕がその 絵をじっと見ていると、円が言った。 きたな ころ くら ずいぶん かみ
268 わり 「そういや、お前、割と寒さに強いのな」 「どうしてフ 「だって、俺の部屋、寒くないか ? 橋本が電気ストー。フ持って行っちゃったから、コタッし かないし」 「寒かったわよ。わたし、寒がりなのよ」 「なんか意外。俺に気をつかったの ? 」 「なんでよ ? 円は、きよとんとした顔で僕を見た。 ひいきめ 「だって、お前って、ワガママだろ。贔屓目に見て」 「贔屓目に見て、ワガママね」 まちが 「そんなお前が、こんな寒い部屋で、寒いの一言も言わない。何かが間違ってる。それか、俺 に気をつかった。寒いのは、俺が貧乏で暖房が買えない所為た。お前は、寒いと言ったら、俺 を責めることになると考えた」 「なんでわたしがあんたにそこまで気をつかうの ? 」 「好きだから ? 「ハカじゃないの。だからうぬ・ほれないで。あのね、男の部屋で、寒いなんて言ったらね」 円は、僕が買ってきたシャンパンを飲みながら言った。 びんぼうだんぼう
126 かんじん 部屋にあがったはいいけれど、肝心の円がいないので、どうにもならなかった。 「あいつ、帰ったのかな」僕がそう言うと、美智子が首を振った。 かばん 「鞄があるから」 円のポストン・ハッグが、部屋の隅に置かれている。 ′」かい 「誤解したのかな」 美智子がぼつりと言った。 「何を ? 「わたしと、ユキオのこと」 きんちょう くちびるゆが 部屋の中の緊張が高まった。橋本がつまらなそうに、唇を歪める。 「うん。お前、あいつになんて言ったの ? 」 そして、僕は頭の中で話を整理し始めた。昨晩、美智子が僕のアパートに酔ってやってきた。 しつれん ねむ 失恋したと言って泣いていた。そのうち眠ってしまったから、困って僕は橋本の家に行った。 もど 朝になって戻ってきてみれば、円がいて、美智子と話していた。 いったい、美智子は円とどんな会話をしたのだろう。 「別に : : : 。起きたら、ユキオがいなかったから、朝ご飯つくってたのね」 「なんでそんなのつくるの ! すみ ふ よ
124 橋本が言った。それが一番大きな理由じゃないのか、と思ったけど、言わなかった。 こっとうひん じよ - つはん 僕のア。ハ ートは、築三十年の骨董品だ。玄関は一階にあり、入ると四畳半くらいの台所があ となり る。その隣に年代モノの風呂とトイレがついている。風呂にシャワーはついてない。そして、 たたみ 奥に四畳半の畳の部屋があり、そのまたさらに奥に、六畳の部屋がある。今のトコ、四畳半を ら・、つ しんしつ アトリエに、六畳を寝室として使っている。アトリエといっても、今はまだ荷物が乱雑に置か ちゅうしやじようつき やちん れているだけだけど。家賃はこれで五万五千円た。僕の田舎なら、駐車場付の借家が借りられ おそ る。端っこでもこれなのだから、東京はつくづく恐ろしいところだと思う。 せなか 僕がドアの前に立って、・ほけっとしていると、橋本が後ろから背中をつついた。 「キミ、何しとるん ? はよ入り」 僕はノブに手をかけずに、ドアをノックした。 「なんで自分ち入るのに、ノックするん ? ー橋本が呆れた声で言った。 とたん 「開けた途端、包丁が飛んできたら、死ぬだろ」 部屋から返事はなかった。足音がして、ドアが開けられた。橋本が僕の後ろで息をのんだ。 美智子が立って、きよとんとした顔で僕を見つめていた。 「あら、どこに行ってたの ? 」 ぶくろ 流しの前に、レトルトやら野菜が入ったビニール袋がおいてある。コンビニから帰ってきた ふろ げんかん
第三章冬色のカイハス 深夜のコンビニの、、 ( イトから帰ってくると、橋本がのっそりとコタッから起きだしたところ うなず だった。おかえり、と、眠そうな声で橋本が言った。頷く。コタッの上には、橋本が作ったも なべ のらしい、おでんが入った鍋があった。 「おでん、つくったの ? 」 だき 「関東炊や」 関西では、おでんをそう呼ぶらしい。僕が箸をつつこむと、橋本がビールを持ってきた。 「飲むのフ レ プ 「うん。目覚めには、ビールや」 ラ のもっともらしく頷きながら、橋本がビールを飲む。師走、十一一月も半ばを過ぎた頃だ。部屋 かの中は寒い。 みちこ 描夏以来、橋本は僕の部屋に住みついている。理由は、もちろん、美智子が関係している。 しようがくきんせいど カろうけいえい ワタナベさんという、美大に通うための奨学金制度を作った、画廊を経営しているおっさん ねむ よ はしもと しわす ころ
、」、つ力し アパートについて、ドアノブを回した。カギがかかってなくて、僕はちょっと後海した。ま だ、美智子はいるのだろうか、と思いながら、ドアを開けた。 げんかん くっ 玄関に、美智子の靴が置いてある。隣にもう一足、女物の靴が並んでいた。 美智子が友達でも呼んだのだろうか。 「美智子、いるのか ? 」 じよ、つ ふすま 玄関から、部屋に向かって声をかけた。キッチン兼玄関と六畳をしきる、襖が開いて、美智 子が顔を出した。 タ「お前なあ、友達いるんならな : : : 」 レ もんく プぶつぶつ文句を言いながら、六畳に向かった。 ラ の部屋に入った僕は、目を丸くした。 すわ か円が座って、こっちを睨んでいた。 描「円フ 円はじっと僕を睨んで、ロを開かなかった。べッドに腰掛けた美智子が妙にとりなすような 口調で僕に言った。 取ってこようと思った。もしかしたら、酔いから覚めた美智子が・ハ力な考えを改めたかもしれ よ、 0 にら こ一しか なら
美智子はこてっと、倒れると、寝息を立て始めた。 も、つふ 僕は美智子に毛布をかけてやり、さてどうしたもんかと考え始めた。 橋本のア。ハートは、僕と同じく学校の近くにある。僕はサンダルをつつかけると、美智子を 残して部屋を出た。メモをテー・フルの上に残してきた。メモには、橋本のうちに行く、と書い 三十分ほど歩いて、橋本のア。 ハートの前まで、僕はやってきた。 呼び鈴を押すと、誰や、と中から橋本の声がした。 「俺だけど」 「ユキオ ? 」 とびら 扉が開いて、中から眠そうな顔の橋本が顔を見せた。 レ プ「なんや、どうした ? 」 ふんいき の僕の様子にただごとでない雰囲気を感じたのだろう。橋本の顔が真顔になった。 か「あのな、俺の部屋に美智子がいる」 描「なんやて ? 」 いっしゅん 一瞬で顔が険しくなる。次のセリフ次第では殴る。そんな顔だった。 かんちが 「勘違いすんな。俺たち、そういうのじゃないから」 りんお ねむ しだい
236 第四章描きかけのラブレター まどか あず 円のオヤジさんから預かってきた絵を描くために、部屋を片付けた。実家の、僕の部屋だっ た空間は、今では物置になっていて、所狭しとダンポールの箱が並んでいる。 それを片付けるだけで半日かかってしまった。 折りたたみ式のイーゼルは東京のア。ハートに置いてある。こっちで絵を描くなんて思ってな かったから、持ってこなかった。 しかたなく、台所から椅子を持ち出して、イーゼル代わりにした。 すわ さび 絵の中の円は、椅子に座っている。寂しげに俯いている。真っ白な、今まで着ているのを見 たことがない、夏物のワン。ヒースに身を包んでいる。その姿は、なんだか、とても寒そうに見 えた。 はず この絵を描いた自分の父を嫌っている筈の円だから、おとなしくモデルを引き受けたとは考 そうぞう ちが えにくい。円の父は、おそらく想像でこれを描いたに違いない。 昔、画家を目指したというだけあって、タッチはしつかりしていた。 とほ、つ 預かってきたのはいいけれど、僕は途方にくれた。 きら せま すがた なら