" 東部戦線の天王山クルスクの戦い " 1941 年 6 月に始まったドイツのソ連領侵攻も、 43 年 2 月のスターリングラード第 6 軍 の降伏を契機に各地の戦線で壊滅・撤退の道へと突き進んだ。戦争の形勢が徐々に不利 になってきていると悟ったヒトラーは、政治的理由からどこかで大勝利を上げる必要に 迫られていた。 1943 年 7 月、この戦局を挽回すべく一大攻勢作戦「ツイタデル作戦」が発動される。 両軍の決戦地は、モスクワ南南西 500Km の中央ロシア丘陵クルスク。以前はドイツ軍に 占領されていたが、 43 年 2 月にソ連軍が奪還していた。 こにはソ連阜の % が進駐し、 機甲部隊にいたってはその大半が集結していた。ドイツ軍にとってこのクルスクは東部 こを撃破すればソ連軍に致命傷を与えることは必須であった。 戦線最大の驚異であり、 この作戦のためドイツ軍は兵員 151 万 400 名、戦車突撃砲 580 輌、火砲 1 万 6000 門、航 空機 5000 機を動員、戦車の大半は 4 号、 3 号であったが部隊の先鋒にティーガー 1 型が、 新型としてバンターとエレファントが初陣を飾った。対するソ連軍はスパイ活動により この作戦を完全に察知、兵員 264 万名、 T34 を主力とする戦車 828 輌、火砲 5 万 2500 門 、航空機 7000 機が集結、幾にも及ぶ強固な防御陣地を構築して待ち構えていた。 7 月 5 日、クルスク北部と南部で攻撃が開始される。北部ドイツ第 9 軍を待ち受けてい たのは、防御陣地にこもるソ連第 13 軍による強力な集中砲火だった。これにより翌日ま でに前進出来たのは約 10Km 、兵員 2 万 5000 名、戦車 200 輌、航空機 200 機を失い、突破 ならず攻撃開始僅か一週間後の 12 日、ドイツ第 9 軍は攻撃を中止し守勢に転じなければ ならなかった。南部ではクルスクへ直接向かう経路で激しい戦聞が行われた。 S S 機甲 3 個師団を主とするドイツ軍は次々と強固な陣地を撃破していたが、それに危機を感じた ソ連軍は対戦車砲旅団と機甲 3 個師団を投入。ドイツ軍は戦車 700 輌を投入して戦線の突 破を図るが失敗、兵員 1 万 108 名、戦車 230 輌を失って敗退、全体で 40Km 前進しただ こでドイツ軍は攻撃目標を変更し、東に位置するプロホロフカ地区へ攻 けであった。 撃焦点を移した。 7 月 12 日ソ連軍も最優秀予備兵力を投入し、 こに史上最大の戦車戦 が繰り広げられた。ドイツ軍は辛うじて戦線を確保するも兵員 1 万名、戦車 300 輌を失い 戦力を消耗してしまった。ソ連軍はそれを上回る損害を出していたが南北から反撃を開 始、圧倒的兵力をもってドイツ軍を後退させた。攻撃を指揮したマンシュタイン将軍は このまま攻撃を継続し予備兵力を撃破することを主張したが、 10 日イタリアシシリー島 に英米連合軍が上陸したこともあり、 7 月 13 日ヒトラーは「ツイタデル作戦」を中止す ることになる。この戦いは独ソ戦の天王山であり、これ以後ドイツ軍は敗北続きとなっ ていく・・ トホホ : ・ 新型で活の期待された バンター中戦車は故続出、 まともに敵障地を突破出来たのは ティーガー重戦車くらいなもんだ。 クソッ ! 傾料がキッすぎる エンジンに負情が かかってもうもたんー 0 0 0 0 0
" 史上最大の市街地戦スターリングラードの激戦 " 1941 年 12 月から 42 年初頭にかけてのソ連第の攻撃をどうにか持ちこたえたドイツは、次の攻撃目を ソ連経済の中心である南部へと移すことを決定した。この時ドイツの資源は欠乏し始めており、ヒトラーは コーカサス地区の小麦、石油、鉱石に目をつけていた。それを制圧するとはドイツの戦争資源確保に重要で あるだけでなく、ソ連に経済面、送面で重大なダメージを与えることになる。 総統命令第 41 号「プラウ」と題されたこの作戦は、ドン、ドネッ川の中関地帯を南下して一は南進しカフ カスの油田地帯を抑え、もう一興は東進してポルガ河畔の都市スターリングラードに進撃する、というもの だった。ヒトラーの考えではこの都市を占領すればポルガ流域を北方旋回してモスクワを後方から遮断でき、 カフカスへの進撃でも面から援護可能となる。一方スターリンも自らの名を冠したこの都市を全力上げて の死守を命ずる。 1942 年 8 月 23 日ドイツ第 6 軍はポルガ川に達し、 9 月 1 日スターリングラード近郊に迫った。ここに 150 日関 にわたる血みどろの市街戦が始まる。 9 月 12 日ソ連軍はスターリングラード防衛司令官にチェイコフ将第を任 命、彼の指揮下全市を要第化していった。 9 月 16 日ドイツ軍は市内へ突入し、下旬には工業地帯の一部を占領、 10 月 14 日市中心部に迫りソ連軍をポルガ川近くまで追いつめた。 15 日には第 6 軍司令官フォン・バウルス将 軍は作戦完了を實言した。だが電撃戦など機動戦を得意とするドイツ第は市街戦で本来の力を発揮できず、 不得意な持久戦へと移行する。これはソ連軍の得意とする所で、長期の消耗戦になれば明らかに彼らが勝っ ていた。ソ連軍はかなりの損害を被っていたが、アジア地区からの増援もあり反撃のための戦車、航空機が 準備されていた。ドイツ軍は市の三分のニは占領したものの完全制圧できず、ソ連の反撃が 11 月 19 、 20 日 の始まる。スターリングラード面を守っていたドイツの同盟国ルーマニア軍はこの攻撃にアッという間に 壊滅し、戦線後方から迂回され援車到着経路を遮断されてしまう。 23 日には 33 万名ものドイツ軍が包囲され た。包囲された第 6 軍はなんとか突破説出を図るがヒトラーはこの都市の名“スターリン”にこだわり撤退を 拒否、死守を命じ空軍による空からの物資補給を約東するが失敗に終わっている。 12 月 22 日スターリングラード救出軍がソ連軍の攻撃を退けながら 50Km 地点まで迫り、第 6 軍が市から打 って出れば救出できる位置まですすんだ。しかし第 6 軍バウルス将車は燃料不足を理由に動けず、救出車もそ れ以上進めず作戦は打ち切られた。 1943 年 1 月 8 日ソ連軍はドイツ軍に降伏動告するがバウルス将軍はこれを 拒否、 1 月 10 日全地区の第 6 軍に対して総攻撃をかけた。 7 個軍による攻は疲弊しきったドイツ軍を着実に撃 破していった。 1 月 24 日バウルス将軍は再度ヒトラーに降伏要求をするが拒否される。 1 月 30 日ヒトラーはバ ウルス将軍に元帥昇進するとの電文を送った、これはドイツ軍史上降伏し捕膚になった元がいなかったた めで、降伏より名誉の死をヒトラーは望んだのである。しかし 1 月 31 日「祖国のために最後の一兵まで戦う」 と電文う送り、バウルス将軍はソ連軍に降伏する。 2 月 3 日北方部隊が壊減、これによってドイツの抵抗は 幕を閉じた。 33 万名の内 9 万 1 名が摠膚に、空路説出できた者は 4 万名余りであり、その他多くは戦死もし くは戦病死であった ( のち帰国できた者は 5 0 名余り ) 戦車にいたっては年間生産量の半分に相当する 300 0 輌以上の損害を出した。 ソ連軍が巧みに後退して損害を出さなかったことを合わせて考えればドイツ軍の乾杯といえるだろう、 の戦いは独ソ戦だけでなく第ニ次大戦の一大転機となった。 それはこちらも同じことー 仲間のニコライ・イリューシンは ドイツ兵を三百十五名も 射殺しているんだ ! 瓦礫と化した スターリングラードは 我々スナイバーの 絶好の活第の場だったんだ ! 0 0