受賞 - みる会図書館


検索対象: 20200404/群像 2016年1月号
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1. 20200404/群像 2016年1月号

2016 講談社の文芸書 ゆ : 〃わ 00 た clu わ . た 0 面 ns / ICI. co ・、加 / 作家の日々は真剣かっ貪欲 0 3 図書室で暮らしたい辻村深月一一 4 夢中で追いかけてきた小説、漫画、アニメ、音楽、映画、美味しいもの : すべてが詰まった、読むと元気になるエッセイ集。 講談社ノベルス円 8 吉川英治文学賞受賞作ー 0 5 0 0 CO 9 大沢在昌働 海と月の迷路 定 世界遺産に恝定された「軍艦島」で、昭和引年、満月の晩に溺死した少女。 若き警察官の《・許されざる捜査は島に波紋を広げていく 講談社ノベルス円 1 トラベルミステリーの第一人者が描くミステリー 内房線の猫たち衾西村京太当 里見家家臣の末裔と複雑に絡み合う戦時中の重大事とは 猫姓の子孫たちが「里見埋蔵金」探しに挑んだ先は。 緻密な伏線と大胆なトリックでシリーズ 7 作目 講談社ノベルス円る 0 6 O O C) 9 警視庁捜査一課 + 一係麻見和史騁愛 蝶の力学 8 累計万部を突破した人気の警察ミステリ、第 7 弾。ついに女性刑事・如月の相棒が 女月と十一係が殺人誘拐事件に挑むー 離脱に死体に遺された装飾の意味はに日 埋めることのできない「喪失」。 「生と死」を描いてきた著者が投げかける新たな傑作。 この物語の行く末は ? 驚嘆のミステリー ! !

2. 20200404/群像 2016年1月号

けると保証されたわけではなく、同じよ うに不安を感じながら書くしかない。次 の作品を書けるのか、発表できるのかは まったくわからない。それは本当にわか らないのだし、わかって書いていてはだ めなのだということだけうっすらとわ かっている。つらい たしかなものとして私の手に残るのは 賞金で、私はこの間仕事をやめたところ なのでこれはもう遠慮なくいただく。あ お金で安心は買えるかもしれないが不 安は買えない。不安がなければ書けない。 むしろ不安でないと不安だと思うように なってきた。また次の不安を探し、押し つぶされたらそれまでだ。楽しい ■■■ 実態は異なります ) 。まず内裏がある。そ れを包んで大内裏がある。それを包んで 都がある。それを包んで畿内がある。そ れを包んで畿外がある。そこまでが「日 本」であり、しかし地続きに化外がある。 つまり、外があり、外があり、外があり、 外があり、やはり外がある。中心から見 、当る時、一 0 の「境界」を越えるだけで他 者視される。こうした時代を、僕はどう 感じるか ? 率直に言って、腹立たしい です。だから僕は、外から内へ、外から 内へと、越える者たちを書いた。また、 この時代と、あの時代の境界すら、越え る者を書いた。そうした小説で自分が野 その時代には他者ばかりいた、と僕は間文芸新人賞をいただいたことは、本当 感じます。その時代、とは僕がこの『女にうれしいです。なぜならば、同じよう たち三百人の裏切りの書』で照準を定めな「内ー外」のシステムは、たとえばこ た時代です。いったいどんな時代なのの時代 ( 平成の二十七年め ) の文学の世表 発 か ? ひと言で「平安朝」だのその後期界にも、あると感じられるからです。こ 賞 の「院政期」だのと述べたところで、結れは非難ではありません。しかし、越え人 局は何も説明したことにはならない。だるべきものは越えなければならない。僕芸 から、今、ここで説明します。その時代、はあいかわらず、化外から攻めています。 野 日本という「国家」は次のようなモデル突き崩しきれるか、試みつづけます。 で理解されていた ( これはモデルであり、 受賞のことば 内ー外 イ 古川日出男

3. 20200404/群像 2016年1月号

講談社の文芸書 ん・ゆ : 〃わ 00 た clu わ . た 0 面 ns / ICI. c 叺加 / 舌題の新刊 一三ロ 没後年、三島由紀夫が照らす現代日本の闇 憂国者たち 三島山紀夫を卒論に選んだ女子大生と、ネトウョに惹かれていくその元カレ。 旧ユ 1 ゴの独裁者と三島の意外な接点とは ? 著者渾身の長篇小説ー 青年は、こうして旅立った 石田千 家族、故郷、そして彫刻家への夢ーーー。あたりまえと思っていたものへのとまどいとた めらい。北の町の透明な空気のなか、迷いもがく青年の姿を追った新しい青春小説ー 国家の自殺を食い止めることはできるのか ? 島田雅彦 虚人の星 7 つの人格をもつ一一重スパイと、血筋だけが取り柄の三代Ⅱ汽相。交圧に明かされる諜 報と政権の秘密。一一人が交差する時、日本の命運が決まる。戦後間年に放っ野心作ー 著者 3 年ぶり、待望の最新長篇小説ー 琥珀のまたたき 「壁の外には出られません」最も大事な禁止事項を、ママは言い渡した。 閉ざされた家で暮らす子どもたちの密やかな世界は、永遠に続くはすだったが 太 定価 1 ,800 円 978-4-06-219804-2 子 定価 1 , 600 円 978-4-06-219734-2 定価 1 ,600 円 978-4-06-219743-4 定価 1 , 500 円 978-4-06-21 9665-9 2 5 イ督さ円 ー ( を ' ん入よ O っ , O 洋的 1 田創価 & 山独定 滝ロ悠生 愛と人生 第訂回野間文芸新人賞 第回野間文芸賞 第回泉鏡花文学賞 冥途あり 長野まゆみ とを 2 、、「 ) 〈違みリ・ . 景ッ円 4 風一 02 、 , レ 0 2 ′ー′ LO 6 ののれ 9 和族価 8 昭家定 続々受賞の話題作 に野まゆみ

4. 20200404/群像 2016年1月号

ころで、あ、そうか、読者がこの本の憑坐になるんだと。こ ■全身で書く小説の増幅 の中で読者によって増幅されて、読者がアンプになって大音 保坂「おめでとうございます」から始めるんですか。それ、 量を出す、そういう感じがしたんですよね。 なんかイヤだなという感じがするんだよね。今さらだし こういう経験というのは、普通の小説でも高揚するときは ( 笑 ) 。「おめでとう」より古川さんとこうして対談できるこ高揚するんだけど、今まで憑坐という一一一口葉を繰り返し書いて とがうれしいです。 きてくれていたおかげで、ここで憑坐という言葉に出会った 受賞が決まって、対談するので二度目を読んだんだけど、 ときに、「あ、読んでいるこの私、ここにいる私こそが憑坐 二度目のほうが面白かったんですね。小説って、一回読んだ になるんだ」という不思議な感じがしたんだよね。 ぐらいではわかんないほうが絶対面白いし 、いい小説なわけ古川普通のメタファーだと、本が楽譜で読者が演奏者だみ えみし ですね。四百ページを過ぎた「蝦夷たち」のところぐらいか たいな話になると思うんですよ。でも、今の保坂さんの話 ら、ガガガガッと面白くなるんだよね。今までがいろいろ伏は、演奏者じゃなくてアンプになると。演奏は誰かがしてい 線とい , つより : て、それを自分の中でイコライジングもかけて、ここを増幅 古川伏流ですかね。 するとか、ここを減らすとか、自分なりの音像をつくって大 保坂そうそう。そうだったものがプワッと出てきて、「本きくしていくという話をされていて、それって結構新しい本 朝はただの異朝になるぞ」というところで高揚するんだよ の立ち上がり方と体験の仕方のような気がして、とてもうれ しいですね。 ね。ここから五十ページぐらいの間がちょっと異常な感じで。 昨日ここを読んでいたときに思ったのは、本というのは、 保坂この本では、本のことも執拗に繰り返すでしよう。 感じない人が読んでも何にも感じないものなんだよね。本自古川はい。 体は、いろいろなものを内包しているんだけど、読者がそれ保坂だから、本と自分の関係というのを自然と考えるわけ をきちんと響かせないと、その本が持っている力が表にあら よ。ここで本当にい、、 説とそうでないものというのがわか われないわけですよ。 るんだけど、作者が書くのは言葉という記号なので、それ自 古川言ってみると、本に読者のほうが読まれているわけで体は音も厚みも色も持ってないわけですよ。読む人が自分で すよね。 妄想的にそれを感じた時点で、ようやっとそれがリアルに はしひめよりまし 保坂そうそう。だから、「橋姫が憑坐となって」というと なってくる、物質化してくるわけだから。 116

5. 20200404/群像 2016年1月号

かたられるが、これが一種の鎮魂の儀礼あるはずの方法は読者の意識に強くは迫 というより、方法の縫い目を決 であることは云うまでもない。故人にまらない。 島の人たちもよろこんでくれている。 してみせず、滑らかな手触りをあくまで 「受賞を記念する帯のついた本を買いまつわる出来事やその事績を回想し、かた ることで、当の人物を、その最も生命力残すことにこそ作者の方法はあるのだろ す」とメールやハガキが送られてくる。 もちろん新刊のさいにお買いもとめずにあふれた姿でいきいきと呼び起こし、 収録された二篇のなかで、父親の三回 みのかたがただ。毎度、熟読用と保存用しかるべき場所へと導くのだ。 ほば作家と等身大の「わたし」が、父忌を描いた「まるせい湯」に自分はこと をわけて購入してくださるかたもいる。 「本は図書館で読む」ことが主流となっ親の死と葬儀を契機にして、一族の歴史に惹かれた。夢幻の衣装をまとい、中空 長野まゆみに漾うがごとき水郷の風景がとても美し ている時代において、そうは思わない読をゆるやかにかたっていく、 者に恵まれていたからこそ、原稿は書いさんの『冥途あり』は、太古より繰り返 たものの本が出ない、 という体験はせずされてきた鎮魂の儀礼から生まれた作品 に長年過ごしてきた。編集の方々の理解で、こうした類型の小説や随想はこれま クわたし語りの妙味 もあった。 でも数多く書かれてきた。その意味では 佐伯一麦 あらためてそうした読者および編集者新奇さはないけれど、本作品が、世に無 に感謝したい〈ありがとうございま数にあるだろう鎮魂小説の、上澄みを 掬ったかのごとき透明感と豊かな香りを高度成長期以降からか、私というもの 心に残すのは、やはり文章の質のよさゆが、個室に見合ったかのようなきわめて プライベートなものとなってしまった。 えである。 表 選考委員のことば ほんらいの私は、親や先祖をふくむ歴発 さりげないエッセーのように書かれた 上澄み 文章を読み進む読者は、複数の時間が交史・社会性のひろがりを帯びたもので芸 奥泉光錯する場所へといつのまにか連れ出され、あったにもかかわらず。長野まゆみさん 野 小説としか呼びようのない虚構の水と自の『冥途あり』での″わたし語り″は、 通夜の席ではしばしば故人の思い出が然に戯れることを促されるので、ここにそうした個人にとどまらない私の妙味が

6. 20200404/群像 2016年1月号

他者の身にならなければならない。そのためには俯瞰できな 三浦『冥途あり』の後、どの方向に進もうと考えておられ るのか。地誌や歴史のほうに行ってみたいとも感じておられ ければならない。人間が一一一一口語をしゃべるということは、その 会話を実際には上のほうから見ているということです。だか るだろうし、そうではなく、むしろ結晶化した詩のような作 しかがですか。 ら、魂が離れるというのは当たり前のことで、上から自分と 品を構築したいとも感じておられるだろう。 相手を見るのが会話の前提、言語の前提なんだ。霊界が一一 = ロ語長野確かにファンタジー路線に戻るのはかなり難しいと感 とともに成立したのは当然なんです。話がちゃんと成立する じています。たとえば『左近の桜』というシリーズ作品は、 霊的なものに愛されて、死んだ世界の人々と情交をむすんで には、向き合った人といっ . でも立場が逆転できなければなら ない、つまり両者を俯瞰できなければならない。それが一一 = ロ語 しまう青年の話です。霊のほうで、霊にも人との交わりが必 の条件ですが、その条件は動物も備えている。人間はそれを要だと云うのですが、この手の話をかっては「左手で書く」 外在化しただけだ。俯瞰する目は、肉食動物が獲物になる草と言っていたのに、今年などは新シリーズのために夏から取 りかかったままいまだにできていないという状態です。世界 食動物を追うとき必ず持っている。追われるほうも持ってい とい , っラと る。そうでなければ追うも追われるもできない。 を複雑につくりすぎてしまうからです。単純に遊ぶ方法を忘学 の れかけています。 はつまり、動物も潜在的には一一一一口語獲得へと向かっているとい 代 でも、ほんとうは中高生が読めるものをもうちょっと書き時 うことです。それを延長していけば、植物もまたその要素を 持っている。生命現象そのものが言語現象を育む方向にあっ たい。その人たちの疑問に答え、応援歌になるようなものをり 書きたい。けれども、実はすごく難しい。私は、デビューの終 たのだと考えなければならない。 きっかけとなった新人賞を受賞して以来、ずっと世間的な評説 その問題を十代の子どもたちはすでに感じていて、感じて いるその心の琴線に触れるような文学を求めるわけです。そ価がない状態で書いてきました。ありがたくも読者がいると れに対する答えを求めるためにではなく、それを受け入れる いうことしか本を出す根拠がない時代が続いていて、読者を一 ためにです。長野さんの読者はそういう子どもたちであり、 ないがしろにできない部分が強くあるのです。ところが、最 ポ 近は大部分の読者が望んでいるものと私が書きたいものがか そういう子どもたちが成人した大人たちだったのだと思う。 と なりずれてきています。読者は、自分たちが子どものときに略 読んで楽しかったものを何度でも味わいたいから、ずっとそ ■長野まゆみという現象 れが読みたい。でも、このごろは、私がそういうものを書か

7. 20200404/群像 2016年1月号

んだけど。 日本近代文学で言うと、漱石、鵐外が文豪とか言われてい て、カノン ( 規範 ) になっているわけですけど、はたしてそ佐々木 famousbook だと、村上春樹ぐらいしかなくなっ れは、単純に彼らの作品の質や水準が飛び抜けて高かったか ちゃいますよね。 らなのか、どうなのかという問題ですね。例えば国語の教科 松浦フェイマスな作家というのはいるし、フェイマスな本 書に載るとか、文学賞受賞で箔がつくとか、いろんな制度に というのは幾らも書かれていて、そのつど何十万部も売れた よってカノンというのは支えられている。作家のキャラクタ りなんかしているんだけれども、それは日本語でいう名著と ー化の話が出ましたが、「則天去私」の人生の師漱石などと いう語感とちょっとずれるじゃないですか。何十万部も売れ いう人格神話もそういうものの一つで、そういう作品外のあ ている本を本気で尊敬するやつなんかいるはずがないんだか クラシック れやこれやを基盤にして、名著とか傑作とか、文学史に残る ら。まあ、佐藤さんから出た古典という言葉のほうが、きょ 作品というものがつくられていくわけです。しかし、きよう うの討議の趣旨だろうとは思うのですが、古典、あるいは日 問題となっている二〇〇一年以降の小説の場合、どうなの本文学史において確固とした規範たり得るような名著といっ 。文芸批評家のある意味で使命と言っていいのは、自分な たものが、そもそも二〇〇〇年代にあり得るのかどうか、僕 りのカノンを提出することでしよう。それが批評家の文学史は実はちょっと疑問に思ってるんです。文学賞が本当に有効 に対する貢献だと思うんですが、スクラップ・アンド・ビル に機能しているのか、という疑いにも結びつくんだけど。 ドの時代に、果たして批評によってそういうことを行い得る 逆に言うと、そのこと自体に今の文学状況の面白さがある のかどうなのか。つまり、暫定名著とありますけど、カノン というふうに捉えるべきだろうとは思うんですけどね。 として機能し得るような名著自体が存在し得るのかどうかと 富岡文芸批評ということで言うと、文学史が書かれなくな いう問題があると思うんですね。 りましたよね。それは出版状況とか、かってのような文学全 きようは名著というお題だったので、これは英語で何とい 集が出ないとかあるけれども、文学史で、これはこうだと評 うのかと思って和英辞典を引いてみたら、単に famous book 価していく文学の価値や、第一次戦後派とか内向の世代とか と書いてあるんですよ ( 笑 ) 。 命名する、文学の規範が既になくなっている。 佐々木身もふたもないですね。 ただ、それは必ずしもマイナスじゃなくて、松浦さんが 松浦身もふたもないわけ。名のある著作ということでね。 おっしやったように、そこに面白さがあるし、未来に残るか 傑作とい、つのだと、 mas ( erp 一 ece とかい , っことになってくる どうかわからないけれども、今の現実なり状況と刺激的に向

8. 20200404/群像 2016年1月号

" 週末の楽しみ " 田中正人 私のベスト ◎映画 ソンは、たとえ。ハリに住もうが日本人と言われるだろ 「頭を空つばにして楽しもう」ノ 、リウッド映画のレ う。実際、日本人である条件は、人種でも、住所で ヴューによくある文面だ。けれどもドイツの哲学者も、国籍でもないようだ。ウイトゲンシュタインによ フッサールは、人間の意識はそのような構造にはなつれば、なんとなく日本人だったら日本人ということな てはいないと考える。彼によれば、コップを見たらのかもしれない。ロンドンのパプで隣の酔っぱらいと コップに対する意識、ニューヨークの街並みを見たらこんな会話をしたことがある。「お前、中国人か ? 」 ニューヨークに対する意識がその都度頭の中に現れ「日本人です」「そうかそうか日本はいい国だ。だけど る。画面にそれらが映る度に「あっ、僕のコップと同お前は今、ロンドンの。ハプでイギリス人である俺とこ じだ」とか「ニューヨークのあの店だ ! 」となるわけ うして飲んでいる。だからお前も今はイギリス人だ。 だ。つまり意識は自分の意志と関係なく対象に対してわっはつは」週末、ビールの時間に時々思いだす。 自動的に生まれてくる。意識対象が存在しない「意識だ◎登山 け」という状態はありえない。人間の脳はコップや風無数の情報がインターネットから押し寄せてくる。だ 景などの意識内容が入っている器のような構造ではな から無意識に、自分の価値観に合う情報とそうでない いのだ。そういうわけで「空つば」にもできないはず。情報を振り分けてしまうことになる。フランスの哲学 週末、家でハリウッド映画を見るのは大好きだが、レ者ドウルーズは、自分の価値観だけでできたアイデン ティティを「トウリー ヴューどおりに「空つば」にはしていないのだと思う。 ( 樹 ) 」と呼んだ。自分の脳か ◎ビール ら、自分に都合のよい幾つかの価値観へ向かって、木 「家族」の定義は難しい。一緒に住んでいる両親や配の枝のように意識が結ばれているさまを系統樹の形に 偶者や子供は家族だ。一度も会ったことがない祖父母例えたわけだ。トウリーは、純粋な要素からの単純な や疎遠になっている兄弟はどうだろう。同居している構造なのでもろい。何かの拍子でバッサリと折れてし 親戚や知人、柴犬の太郎、テデイベアのモモ : 。ィまう。週末、登山をしていると、枝の茂りすぎで倒れ ギリスで活躍した哲学者ウイトゲンシュタインは「家たのか、大木の切り株を見かける。でも大丈夫、切り 族」であるための共通の条件は実は存在しないと言株の脇から出た新しい蒼い芽を見つけることができ う。「日本人」の条件も同じだ。近年、アメリカ国籍る。地面の下に「リゾーム ( 根 ) 」が伸びているから のノーベル賞受賞者も日本人として報道されていた。 だ。リゾームがある限り、トウリーは何度倒れてもま また、日本に帰化したアメリカ生まれのアングロサクたすぐに再生する。 199 私のベスト 3

9. 20200404/群像 2016年1月号

めいた生態についての報告がもっと充実百人』は自我が肥大しすぎていて、これ 書くこと、語ること していれば、タイトルを裏切らない内容でもかこれでもかと来るのがうっとうし になっていた。 い」というような否定的感想、あるいは 星野智幸 駐在員家族のファミリーロマンスであ「新人らしくない」という意見、それはそ る『 Masato 』は語り手を息子にした時点うだ、古川さんは文学賞の序列から外れ誰もが近代小説のくびきである語り手 で、児童文学にも、教養小説にもなり損たことをやってきたためにそういうことや視点という制度に縛られ、それを逃れ になってしまった、もともと自分に課すようと格闘したり、形式に従いながらす ねた。息子の英語の習得と母の不適応の バーが高すぎるためにその高い ーを基り抜けようとするが、『愛と人生』の滝ロ しとして、母の困惑、息子の変 対比はい、 容を描く際の踏み込みが浅くなるのは避準にして減点法で判断されるという悪循悠生はそれをじつに軽やかに超えてしま けられなかった。 う。語りというテクストしかないのだか 環にはまってワリを食う人がいる古川さ らそんなこと気にしなくていいんだよと、 んはその典型だと選考会で思った。 言わんばかりに。語りの裂け目から下を 古川さんが順調に ( というのはたんに 高すぎる志の災い 文学賞的に順調にという意味だが ) 評価覗き込めば、そこには何もないが、その されてきていたらこの『女たち三百人』語りで描かれるエピソードは、不可逆的 保坂和志 は谷崎賞に値する小説だと思う、それもな生の感触そのものである。血の通った 二作受賞となったが私は『女たち三百歴代でも上位になる、私はこの小説を選生身の自由な語りが、底なしの空虚の上 人の裏切りの書』が大本命で『愛と人生』考委員という立場を離れて一読者としてを飛翔している、これぞ人生。児童文学 は苦戦、と予想し事前には『愛と人生』毎晩布団の中で眠る前に読んだから読みの形式に無批判に囚われているなどのマ表 の方を推す言葉の準備ばかりしていたと終わるのに二週間くらいかかったわりに イナス面はあるものの、『 Masato 』は新し賞 ころがフタを開けると苦戦したのは『女全体像がよくわかってない、それは『百い移民文学だと感じた。親の事情で子ど新 たち三百人』の方だった。力量において年の孤独』や『響きと怒り』の初読時とものうちに他国に来て言語や文化の差別文 『女たち三百人』が圧倒的なのは一目瞭然同じ経験で濃密さだった。 にぶち当たりながらも乗り越え、自分の卅 なのだが、「『愛と人生』の自我の東縛か『愛と人生』については他の委員の選評アイデンティティが半ば現地化し、その 社会で生きていくことになるという、 ら解かれた軽やかさと比べて、『女たち一一一に委ねる。

10. 20200404/群像 2016年1月号

なんてことが起きると紙なんて儚いもの うなのだが話がそこへ一気に飛ぶのでは 養を含んで種の落ちるのを待っている。 なく、まず今の荒川区にあたる部分を江でそうやって苦労して伝えてきた記録が 歴史の調べ物をして得た知識がその土に 植えられても、ちゃんと育つまで手間と戸の地図と引き合わせて眺めているうち虚しくなってしまう。それを補うために 時間がかかる。「小説」を書いていたのでに水の見える風景が広がり、地図の中をあるのが物語で、これを用いれば家格の は間に合わないのではないかと思われる記憶の水が、徐々に流れ始め、最後まであまり高くない人も、いろんなことに接 ほど政治が行き詰まった時代にはナマの動きを止めないところが魅力的だった。続できて便利なのだが、このところの何 言葉をそのまま吐く作家もいて、それは湯船の縁から豊かな水がゆっくりとこば十年かは、家なんてものに拘泥していた らろくなことはない、 という考え方が中 それでいいと思うが、この作者の場合はれ出るのを眺める思いで読んだ。 身に深い影響を与えたので、接続する流 植物を育てる忍耐強さを失わず、だから れにあまりよいものがなく、バックグラ と言ってうつむいてしまうこともなく地 選評 ウンドが単純化してあまり面白くなかっ 平線に視線を合わせて作業を続けた。そ 町田康たのだけれども、受賞作となった『冥途 の結果完成した作品群は、言葉を読む喜 あり』は技巧を凝らした、どのような局 びを味わわせてくれると同時に、政治性 家・イエの記録が長く残っていればい面でも大勢には与しない気質が滲み出る を放棄していない。 るほど家格というものが高く、短くなる文章が、数代で消滅してしまうはずの庶 東京出身です、と人はさらりと言うが、 その「東京」は土地ではなく実はイデオにつれ家格は低くなっていく。なぜなら民の家の記憶と戦乱や開発によって形を ロギーになってしまっていることも多い 個人の記憶は一代で消滅し、一代前、二変えてきた山河、いま現在も普請が継続 ひどい被害に遭ったんですけれどね、過代前ならともかく四代前、五代前となる中の生き物のように形を変える東京市中 表 去は忘れて中央の利益に貢献する「普通と覚えようにも知らない。だから家格をの姿を他にない物語の形を著してあらわ発 の日本人」ですから、という意味での意識する人々はこれを躍起になって記録しているように思った。 文 「東京」でごまかしている。しかしそうした。その唯一の方法は家にまつわるい 野 言っている人も、本当は広島出身だったろんなことを紙に書いて書き残すという のかもしれない。言 語り手の父がまさにそこと。けれども戦乱や兵乱、飢饉や大水