キリスト - みる会図書館


検索対象: 20200404/群像 2016年1月号
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1. 20200404/群像 2016年1月号

である。あるいは、こう言ってもよい。王の触手にそれな体に対応する要素の二つによって、国王二体論は成り立っ りの治療効果があったのは、民衆が、キリストのことを ているはずだ。ところが、カントーロヴィチは、三つの要 知っており、無意識のうちに王をキリストと重ね合わせて素を挙げている。なぜ二ではなく三になるのか。 見ていたからである、と。 ともあれ、三つの要素をまずは列挙しておこう。それら このように、西洋の王は、ときに意識的に、ときに無意は、王朝 Dynasty 、王冠 C 「 own 、そして威厳 D 一 gn 一 ( y であ 識のうちにキリストを模倣し、反復した。その到達点が、 る。二つの身体とこれら三つの要素とはどう対応している 「二つの身体」だった、と見なすことができる。しかし、 のか。 同時に、奇妙なプロセスが進行してもいた。二つの身体へ 2 自然的身体としての王朝 の道は、王や王権が、キリスト教や教会から、少なくとも カトリックから距離を隔てていく過程でもあったのだ。連 前王が死んだあと、新王の戴冠式が執り行われるまでの 載第七十五回でも述べたように、王権の準拠点が、「キリ 間に、どうしても王が空位の期間ができてしまう。中世初 スト↓法↓政体」と遷移していく順序が、大きく見れば、 期のごく古い時代には、期間の長短に関係なく、空位は危 キリストからの距離を開いていくプロセスと見なすことが険なことであった。このとき王国の全体が、権力が機能し できる。「二つの身体」論が完成したときには、距離はさ ない真空地帯のようなものになってしまうからだ。たとえ らに大きくなっている。それゆえ、まことに逆説的だが、 ば、戴冠式の前の王は未だ完全な王ではないのだから、そ 王の身体は、キリストから距離をとることを通じて、キリ の王に反逆しても大逆罪の咎で罰せられることはない等と ストに近接していったことになる。 主張する者もいた。実際、イングランド王ヘンリー一世が 王の二つの身体が、どのような意味で、キリストからの亡くなったとき ( 一一三五年 ) 、一部のイングランドの民衆 距離を隔てているのか。そのことを示すためには、王の二 は、王の死によって王の平和は停止したのだと申し立て、 つの身体の構成要素を、一つずつ確認しなくてはならな 強盗その他の騒動の限りを尺、くした。イングランドだけで しかし、確認の作業に入ろうとしたとたんに、われわ はない。神聖ローマ皇帝ハインリヒ二世が亡くなったとき れはまた戸惑うことになる。カントーロヴィチによれば、 には ( 一〇二四年 ) 、バヴィアの市民は、皇帝の居城の所有 構成要素は三つなのだ。おかしいではないか。どうして、 者はもはやないということを根拠に、居城を破壊したり、 二つではないのか。自然的身体に対応する要素と政治的身略奪したりした。こうした問題が起きないようにするに 274

2. 20200404/群像 2016年1月号

をもち、また機能を果たしたかを分析した。王たちは、実 いほどに大きな権能をもっていたかどうかについては、今 に多くの奇跡をなした。奇跡の中心にあったのは、病気を 日では専門家は懐疑的である。しかし、絶対王政は、財政 治癒する王の能力である。とりわけ、瘰癧は、王がその患 の規模、傭兵による常備軍、効率的な官僚制等の点で、そ れ以前の王権からは断絶があり、封建諸侯や領主の中に埋部に触れること (king's touch. royal touch) で完治する、 没していた中世の王権とははっきりと異なっていた。王権と信じられていた。王の触手によって重篤な瘰癧がたちま ち治癒したという奇跡が、歴代の王に即して、いくつも記 のこうした新段階を可能にしたのが、「二つの身体」とい う政治神学 ( の完成 ) だった、のではあるまいか。もっと録されている。瘰癧をはじめとする病に苦しむ多数の庶民 が王の行幸を待望し、王が実際に到来したときには、彼ら も、「二つの身体」論が、理想的なかたちで真に完備され たものになったのは、イングランドの王権においてのみ は列をなして王の手によるタッチを受けたという。プロッ 、、つ ) っこ 0 クが引用している史料によれば、患者はほんとうに快癒 し、歓呼の声をあげ、王への尊崇の念を深めた。たとえ 国王二体論が成熟するまでの過程をふりかえったとき、 ば、一三世紀のフランスの王ルイ九世、中央集権化政策や 一見背反する二つの動きが同時進行して、ひとつの結果を 生んでいることがわかる。まず表面上は、王の政治的身体二回の十字軍遠征などで知られたこの王は、触手の能力に は、キリストの身体をモデルにしており、キリストの身体とりわけ長けており、瘰癧だけではなく、いくつもの難病 を治療した、と記録されている。彼は、この治療の奇跡の に十分に類似したものになったときに完成した、と見なす ことができる。西洋の王がキリストを模倣していたという実績によって、カトリック教会から正式に聖人と承認され たため、「聖王」と呼ばれている。 こと、そして民衆もまた王にキリスト的なものを見ていた プリミティヴ このような王による奇跡を、原初的な呪術の一種と解釈 ということは、カントーロヴィチの大著に先立っ西洋王権 したくなるが、プロックはそのようには見ていない。聖別 学 の歴史的研究としては最も重要な著書、マルク・プロック の『奇跡を行う王』からも明らかである。 や塗油などの儀礼化された手続きによって、王が聖化・神の アナール学派の初期を代表するこの学者は、若き日に著格化される過程が、背後にはあった。もっとはっきり言っ 史 界 てしまえば、他者の身体に触れることで、その他者の皮膚 したこの浩瀚な書物の中で、西洋の中世から近世にかけ 世 て、国王がどのような「奇跡」を行ったかーー、・行ったと民等に現われている病を癒す、というのは、まさにキリスト 衆に信じられたかーーを跡づけ、それらがどのような意味がやっていたことではないか。王はキリストを模倣したの

3. 20200404/群像 2016年1月号

体は、自分自身という単一の要素しかない集合体である、 か。それは、神が、単一の人間の身体として現れるという と解釈するわけだ。このような観点で認識された王の身体 ことであろう。この関係は、本来的には、集合的・類的で が、「威厳Ⅱ高位」である。一般には、種というものそれ あるべき政治的身体を、王の自然的身体に合致させる、と 自体は見ることができないが、個体ならば可視的である。 いう構成とよく似ていないだろうか。言い換えれば、キリ それゆえ、不死鳥においては、不可視な種が可視的な個体ストは、「単独法人ーのようではないか。このような類似 として現われていることになる。同様に、王の威厳におい が、西洋近世の王権が、「威厳日高位」を導入した理由を ては、集合的な政治的身体が、個人の自然的身体として現解明するための手がかりになる。 さらに、次回の展開をもう少しだけ予告しておこう。 われている。このような状態、つまり、個体がそのまま団 「キリスト」と「威厳」は、ごく近いところ、よく似たと 体と解釈されているとき、これを「単独法人 Corporation ころを出発点としながら、反対の方向へと事態を発展させ sole 」と呼ぶ。威厳日高位は、単独法人としての王のこと である。 ていく。この点を知る糸口は、今回はほとんど無視した不 これで、威厳Ⅱ高位が何を意味しているのかは分かった死鳥のもうひとつの性質、つまり「決して死なない」とい う性質である。「威厳は死なす」という法諺がある。この だろう。しかし、真に理解すべきことは、この先にある。 言明は、あからさまに不死鳥を連想させる。 どうしてこんな要素を導入しなくてはならなかったのか。 なぜ、王をわざわざ単独で法人としても解釈する必要が 1 例えば以下を参照。樺山紘一『歴史の歴史』千倉書房、一一〇 あったのか。どのような内的な衝動が、このような観念を 一四年、三七九ー三八一頁。 案出させたのか。これらの問いに答えるのは、次回にまわ 2 マルク・プロック『王の奇跡ーー王権の超自然的性格に関す さなくてはならない。 ここでは、ヒントになる事実だけ指摘して、この後の考る研究 / 特にフランスとイギリスの場合』井上泰男・渡邊昌美 訳、刀水書房、一九九八年 ( 原著一九二四年 ) 。 察のための端緒を開いておこう。またしても、鍵はイエ 3 これは、レヴィ日ストロースが「象徴的効果」と呼んだ現象 ス・キリストにある。キリスト教の世界は、神と人間、神 のひとつである。『構造人類学』荒川幾男はか訳、みすず書房、 と被造物の二元化だけでは尺、くされない。キリストがいる からだ。「神 / 人間」だけであれば、その関係は、「王冠 / 一九七二年 ( 原著一九五八年 ) 、第川章。 4 マルク・プロックを継承した、この主題についての研究とし 王朝」の二項対立と類比的だ。キリストとは何であろう 281 く世界史〉の哲学

4. 20200404/群像 2016年1月号

結ばれる。王冠も例外ではない。つまり、王冠もときに末 成年者と見なされた。 中世後期においては、間違いなく、政治的身体の全体 王冠こそが王の政治的身体の本態だとすると、同じ法人 がーー・・・すなわち王から領主と庶民、そして最下位の封 論的な前提から、王をめぐる、二つの正反対の見解が導か 臣に至るまでーーー王冠の中に現存しているという考え れることになる。このよ , つにカントーロヴィチは一一一戸つ。一 が普及していた。このことは、他の場面における異な る解釈を排除するものではない。つまり、 ( 王国とい 方で、王は常に未成年である (ever under age)0 しかし、 ゥニウエルシタス 他方で、王は政治的身体として、不屈の意志や卓越した能 う ) 統合体は、議会によって、あるいは政治的身体 力をもち、何よりも衰えて死ぬことがない ( だんだんと成 としての王 (the king as King) によって代表されえ 長するということもない ) のだから、決して末成年であっ たであろう。ここで重要なことは、王冠に法人的性格 を帰属させうる、ということである。この点からすれ たことはない (never under age) とも言えた。表面上は、 これらの見解は対立しているが、まったく同じ意図を共有 ば、王冠と「王国の神秘体」とは互いによく似た実体 たとい , っことになる。 している。両者はともに、王の例外的な地位を、すなわち 王と王冠が共有する「永続性」を強調することを目的とし ているのだ。 以上で、「王の二つの身体」は完成しているように見え 法人としての王冠は、神秘体の概念の末裔である。神秘る。自然的身体としての王朝があり、政治的身体としての 体は、 ( 本来は聖餐式における ) キリストの身体のことで 王冠がある。この二つの要素があれば、王権は十分に機能 ある。キリストの身体は、 ハウロが述べているよ , つに するはずである。その間接的な証拠が中国だ。皇帝と天の 教会と同一視されてきた。キリストは、類としての人二重性によって、中国の政治システム ( 帝国 ) は支えられ 間を全体として代表し得たからである ( だから、キリスト てきた。厳密さを犠牲にすれば、皇帝を自然的身体に、天 は人類の罪を贖うことができた ) 。二つの等式の言わば推を政治的身体に対応させることができる。この二重性を展 移的な関係によって、神秘体は教会と、統合体としての教開することで中国のシステムは首尾よく機能するのだか 会と見なされることになった。このような意味での神秘体ら、王朝 / 王冠の二重性だけで、王権は維持できるはず の世俗的な転用の最終産物が、王冠である。カントーロ ヴィチは次のように述べている。 ところが、カントーロヴィチによれば、「王の二つの身 278

5. 20200404/群像 2016年1月号

かし、中世後期の哲学的思索と政治的必要の両面から、同 アエウム 王の触手 時に、 ( 時間に内在する ) 「永続性」の観念がもたらされ 王が二つの身体をもっために必要な契機は出そろった。 た。この性質を王が纏えば、政治的身体へと飛躍すること ができる。 ここまでの考察が明らかにしたように、西洋中世の全体を 通じて、王権は次のような段階をたどってきた。「キリス 近世の王権において、つまり「絶対王政」と呼び習わさ ト中心の王権」から「法中心の王権」を経由して、「神秘れてきた王権において、先立っ契機が総合され、「王の二 体Ⅱ政体中心の王権」へ。この神秘体Ⅱキリストの身体の つの身体」が完成した。絶対王政は、一般には、一六世紀 延長上に、王の二つの身体が出現する。神秘体と王の政治頃にはじまる西洋の王国を指している。イングランドの 的身体とを架橋する上で、最後の障害になったのは、「時チューダー朝やスチュアート朝、フランスのプルポン朝、 間」についての性質だった。キリストの身体は永遠だが、 あるいはスペインのハプスプルク朝などが、典型とされて 王の身体を含む任意の地上の物は、はかなく消滅する。し いる。この時期の王権が、「絶対」という形容にふさわし 連載評論爲 〈世界史〉の哲学大澤真幸 冠威 世王 . そ 272

6. 20200404/群像 2016年1月号

性はキリストによって保たれていることになる。そのた は、空位期間をゼロにしなくてはならない。 め、王が不在の空所には、キリストが「摂政王」として入 では、戴冠式をできるだけ早く行えばよいのだろうか。 り込み、王権の連続性を確保しているのだ、と教会は主張 が、それでは問題は解決しない。いくら急いでも、先王の した。要するに、支配する王がいないときには、キリスト 死と次王の戴冠式の間にはすき間ができてしまうからだ。 が支配する、というわけである。こうした理屈は、「誰も 「カルヴィン事件」として知られている案件への判決の中 で、王が王になるために事後的に挙行されるべきいかなる支配者はいない」という状態を回避することはできたが、 世俗の王や皇帝にとっては、それ以上に危険である。「キ 儀式や行為も存在せす、戴冠式は、王位相続に際して王に リストの代理者」ということになっている教皇が、摂政王 与えられる装飾に過ぎず、王の権限の本質的な条件ではな の権利は自分に属するとする要求を出してきたからだ。こ という趣旨のことが述べられている。この判決がくだ れを認めれば、空位期間を利用して、支配の権限が王や皇 されたのは一七世紀初頭である ( 一六〇九年 ) 。つまり、一 と帝から教皇に移ってしまう。 七世紀までには、王位の相続は戴冠式には関係がない、 それゆえ、王位の継承は、教会に依拠することなく、直 する観念が確立されていたことになる。少なくとも戴冠式 への依存をなくさなければ、空位期間を解消することはで接に、まったく時間的なすき間を空けることなく実現され きない。 なくてはならない。つまり、王権の教会への依存を断った どのような論理に訴えればよいのか。戴冠式では、聖職上で、王の統治の連続性が確保されなくてはならない。実 者によって王は聖別される。だが、聖職者が王を任命して際、一三世紀の後半ほとんど同時に、フランスとイングラ ンドで、王位の継承は、王の長子の生得の権利であり、君 いるわけではない。王の権力は、神に由来しているのだ。 この点を強調すれ主の死 ( または埋葬 ) によって自動的に、長子 ( あるいは 聖職者は、ただの代理人に過ぎない。 正統な相続人 ) が王となる、ということが認められるよう ば、戴冠式の重要度を大幅にディスカウントできるように になった。フランスでは、前節でもその名を挙げた聖王ル 思える。しかし、この論理は、王にとっては諸刃の剣で あった。つまり、聖職者をスキップして、神との直接の関イが、一二七〇年に、十字軍の遠征中、アフリカで死去し たとき、後継者のフィリップ三世は、フランスを離れてい 係を強調するやり方は、王にとって不利なこともあったの たが、戴冠式を経ずにただちに王権を掌握した。このとき 王の権限が神に直接に由来するとした場合、王国の連続フィリップ三世は、父とともに、チュニジアにいたのだ。 275 く世界史〉の哲学

7. 20200404/群像 2016年1月号

よく見るがいし 、われわれは恐るべき厚かましさで宗教上 の理由を弄んでいることを。運命がわれわれの立場を変える置】」 ~ たびに、われわれがどんなに不敬にその理由を放棄し、また 取り戻したかということを。「宗教を擁護するために、臣下 は国王に反逆して武器を取ることが許されているのかどう かーというこの厳粛な命題が、よく思い出してもらいたい、 去年のことだ、その命題がいったいだれのロで肯定されて、 ある党派を支える補強壁になり、それが否定されて別の党派 の補強壁になったかを。そして現在、その肯定と否定の声と 指令が、どちらの側から聞こえてくるか。どちらの主張のた めに武器の鳴る音がいっそう低いかどうか。耳を澄ませて聴 いてみるがいし ・教 いま私にははっきりとわかっている。われわれが進んで信 , 仰に捧げようとしているものはわれわれの情欲をみたすよう なお勤めだけなのだ。キリスト教徒の敵意ほどすさまじいも のはどこにもない。われわれの熱情は、それが憎悪、残虐、 野心、貪欲、誹謗、反逆に走るわれわれの傾向を助けるとき には驚くべき働きをする。反対に、親切、好意、節度への傾 向となると、奇跡でも起こったようになにか稀な気質が手を 貸さないかぎり、この熱情は走ることも、飛ぶこともできな われわれの宗教は悪徳を根絶するために作られている。と ころが実際は、悪徳をかばい、養い、掻き立てているー ( Ⅱ の十二 ) ニュの書斎 261 モンテー

8. 20200404/群像 2016年1月号

〔新教徒側の求めた〕規則からはまったくかけ離れている。要て、その目を覆いたくなるような人間たちの行動を『エセ するに、和議の最後の印がやむをえず押されるまでは、たが ー』に記録しつづけることになるのである。 いに相手の信義を期待してはならないということである。そ うなったときでもまだやるべき仕事はたつぶり残っている。 : ◎なぜなら時と場所によっては、相手の弱腰に付け入る ように、敵側の愚かさを利用してはならないと決められてい 宗教戦争にたいする彼の態度でもっとも特徴的なことは、 るわけではないからである。たしかに戦争というものは、本宗教改革そのものに批判的だったことである。彼は宗教改革 来、理性を犠牲にしてでも筋のとおる特権をふんだんに持っ にかぎらず、政治上の制度にしても一般の習慣にしても、す ているものなのだ。ここには《何人も他人の無知を利用して でに定着しているものを改革するということにきわめて懐疑 はならない》〔キケロ〕という規則は存在しないのである」的だった。ましてキリスト教が絶対の力をもっていた時代に 一国の生命にかかわるその宗教が問題になるとき、彼の批判 この事件は、いまも述べたとおり、一五六九年四月のこと はいちだんと厳しさを増した。はじめに法律の変更を批判す であったから、四十年近くにおよぶ長い宗教戦争からすれ るつぎの一節を引いてみよう。 ば、まだそれが始まったばかりの頃の出来事であった。にも 「それがどんな法律であっても、既存の法律を変更するこ かかわらす、戦いはすでに理性を踏みにじるかたちで行われ とが、それを揺るがすときに出る損害に劣らないくらい明白 ていたのである。なぜなら戦争は、たとえ「理性を犠牲にし な利益を生じるかどうかは大いに疑問である。なぜなら国家 てでも筋のとおる特権」をいくらでも用意しているからであ というものは、さまざまな要素が一つに組み合わされてでき る。不条理こそは戦争の現実であり、どんな理性の攻撃をも た建物であって、一つの要素を動かせば、それが全体に響か ずにはいないからである」 ( —の二十三 ) よせつけない強力な武器なのである。 斎 この出来事で道理を破ったのは旧教徒軍のほうであった。 この一節にある「法律ーということばを「宗教」におきかの ュ えれば、それはそのまま宗教改革にたいする彼の批判にな モンテーニュは旧教徒だったが、だからといって旧教徒の肩 をもっということはまったくなかった。不正は身内のものが る。この第一巻第二十三章のエセーはもっとも早い時期に 行っても、不正であることにかわりはないからであり、それ つまり一五七二年ごろに書かれたと推測されるもので、モン がこの内乱のなかで彼が一貫してつらぬいた姿勢でもあった。 テーニュはこの時点では、既存の制度の変更が「明白な利 これ以後モンテーニュは戦争の不条理のなかに生きつづけ益ーを生むかどうかについてまだ懐疑する段階にあった。し 253 モンテー

9. 20200404/群像 2016年1月号

指し示すと同時に、普通名詞でもある。「ウインチェスタ死鳥として甦ることになっている。キリスト教美術にも、 ー修道院長」が、固有名でもないのに単一の人物を指示すまた異教の美術にも、不死鳥は頻繁に登場する。不死鳥の ることができるのは、もちろん、このような高位に就いて重要な特徴は、非常に稀有だということだ。もっとはっき いる者は一人しかいないからだ。「ウインチェスター修道 どの時点を り一言えば、不死鳥は常に一羽しかいなし 士」のような低位であれば、単一の人物を特定できない。 とっても一羽しか生きてはいないのだ。不死鳥の群とか番 いはありえない。 われわれは、ここではまず、カントーロヴィチに倣って、 「不死鳥 Phoen 一 x 」という比喩に注目したい。「高位Ⅱ威 不死鳥を王の身体の隠喩とするときに注目されている、 厳」は不死鳥に似ているのだ。 不死鳥の重要な性質は、二つある。第一に、もちろん、そ 不死鳥は、西洋の国王、とりわけ「二体論」を完成させ れが不死だということ。第二に、種と個体とが合致するこ た後の近世の王と、何らかの本質的な繋がりをもってい と。不死鳥という種の要素となる個体は、常に一個しかな る。一六世紀から一七世紀に鋳造された貨幣やメダルに とすれば、個体がそのまま種の全体だということにな は、不死鳥が刻印されたものが少なからずある。たとえ る。種は、 不死鳥に限らず一般にーー不可死である。 ば、エリザベス女王は、自分の紋章として不死鳥を使って逆に、個体は、一般には、可死的であることにこそその本 いた。彼女が発行した貨幣のいくつかには、不死鳥がデザ来の特徴がある。不死鳥においては、この両面が合致して インされている。彼女が崩御した年に、その業績を讃える いるのである。さらに付け加えておけば、種と個体とが合 べく発行されたメダルでも、やはり不死鳥が刻印された。 致したことになる被造物が、不死鳥のほかにもうひとつあ 「不死鳥」を好んだのは、エリザベス女王だけではない。 る。前回、「時間」の観念との関係で登場した「天使ーが フランス王も同様である。一六四三年に、ルイ十三世の死そうである。天使は、個体ごとに別の種を構成しているこ とになっているのだ。 去とルイ十四世の即位を告知するために考案されたジュト ン ( 代用コイン ) には、山頂の巣にいる不死鳥が描かれて さて、この不死鳥との類比で、威厳日高位としての政治 いる。ここで、不死鳥は、太陽の光に照らされている。 的身体とは何であるか、を説明することができる。ポイン 不死鳥、この神話上の鳥は、五百年か、あるいはそれ以 トは、今しがた述べた、不死鳥のとりわけ第二の性質であ 上の長い年月を生きた後、自分の巣を燃やし、その炎の中 る。不死鳥が個体だけで種を構成しているように、王 ( の でいったん焼け死ぬのだが、 その後、灰の中から新たな不身体 ) が単独で団体になっている、と見なすのだ。王の身

10. 20200404/群像 2016年1月号

ミゼリコルド 、最終的には神の慈悲による救いを求めている。それが二 も、外から襲いかかる他者の暴力を阻止することはできな 。わたしはまだモンテーニュが一個人として、戦乱によっ 千年にわたってキリスト教の浸透したヨーロッパの人間の心 てどんな苦しみを嘗めさせられたかについて具体的なことは 情であるとき、モンテーニュは悪の存在をめぐって宗教的な 救済だけでなく、救いというものを求めなかった。彼が行う何も語っていなかった。運命がこの思想家を乱世に遭遇させ ことは各人のなかに認められる「人間のありよう」、「根本的たことは彼にとって不運ではあったけれど、乱世は彼の生き な性状」を見極めることであり、もしも悪徳の嵐が彼に及ん方を試すことで思想家としての力量を測るまたとない機会と よっこ。 できたら、その理不尽な暴力を呪い、避けることであった。 なかでもその最大の試練となったのは、おそらく戦いが、 そして自分のこころと行動が正義に反していないかどうかを 彼の城館のある地方を戦場にしてもっとも激しくなったとき 点検することであった。 のことだったように思われる。新教徒のアンリ・ド・ナヴァ そのために内面の証人である良心をもっとも重んじた。カ ールが一五八四年に、正式にフランスの王位継承者となった トリック教徒である彼は新教徒から敵意の目で見られた。ま た彼の住む地方には新教徒が多かったから、旧教徒からは猜のをうけて、旧教同盟派が、ナヴァール王が新教徒であるこ 疑の目で見られた。しかし敵意も猜疑も意に介さなかった。 とを盾にとってこれにはげしく反撥したために、この年から 翌年にかけて、とくにモンテーニュの城館があるべリゴール 彼は身にふりかかる悪徳の横行に堪えた。そしてこころの平 和を求めて、みずからの思考と行動を見張らせるために、つ地方 ( いまのドルドーニュ県 ) では宗教戦争がいちだんと激 化していたのである。 ねに良心をこころのなかに住まわせていた。悪にたいするあ それは、折しもモンテーニュが一五八〇年刊の『エセー』 の非情なまでの人間認識のなかで、彼のこころの砦となった に三巻目を加えるためにその第十二章「人相について」を書 ものは良心であった。彼はそれをセネ力、キケロ、あるいはプ いていたときのことであった。戦乱の危険が城館近くまで斎 ルタルコスといった古代の先賢たちのなかに見出して、宗教 迫ってきたとき、彼は執筆中のエセーを中断せざるを得なくの とは無縁であった彼の現世的な精神によって培ったのである。 これが国家の崩壊するなかでとった彼の生き方であった。 なった。そして数カ月して危険が収まると、ふたたびペンをニ とって中断されたエセーを書きついだ。その際、彼がまっさ きに語ったのは、やすらぎの場であるべきわが家にいて、身 をもって経験した内乱の恐怖と苦しみであった。 次の一節を読んでいただきたい。 しかし良、いは、彼のこころの平和を支えることはできて 263 モンテー