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検索対象: 20200404/群像 2016年1月号
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1. 20200404/群像 2016年1月号

たりで終わっている。その後にラテンアメリカ文学が出てき ないので、くださる手紙のなかで、昔のものを読み返してい て、さらに長野さんが先ほどおっしやったような世界文学が ると書き、暗に昔のほうがよかったとほのめかすのです。 出てきた。そういう文学は大正期から昭和期にかけての文学 「あのね、私は立ち止まれないのよ」という感じです ( 笑 ) 。 でも、すっとファンクラブを維持しながら現在に至っている とはまったく違います。日本文学もまた違ってくるでしょ ので、サービスを放棄するのは、なかなか難しいことでもあ ります。 歴史や地誌へと向かった司馬遼太郎も、最終的にはその文 体のなかで詩を求めました。ダラダラ書いていく文章はだめ 三浦もうだめ、もう無理です ( 笑 ) 。引き返すのは難しい です。詩は、どこかでバシッと切ったときに、生まれる。一一一一口 長野さんの文体は『冥途あり』でかなり結晶化してきてい て、よほどませた子でないと読めない。一見、年寄好み、玄語自体が覚醒する瞬間のようなもので、それは自分が自分自 人好みになってきている ( 笑 ) 。ただ、ませた子はそれなり身とコミュニケーションする瞬間です。長野さんの文体はそ ういう方向に向かっている。それでもついてくる子どもは必 にたくさんいる。長野さんご自身がそうだったと思います。 ずいる。 だから読者は必ずいる。ついてくる読者も必ずいる。とはい 詩人と小説家は一一 = ロ語の専門家です。社会のいちばん大切な え、もう、読者のことは考えす、自分のことしか考えないと いう時期になっているのだと思う。長野さんの成長と言って部分を引き受けている。その最大の要点は、子どもたちが最 しいと思いますが、そういう変化は作家として不可避だと思初に感じる疑問、自分はなぜいまここにこうしているんだろ うという疑問を抱えたまま、そのままで社会に適合していっ います。 ていいんだということを納得させることです。むしろ、疑問 長野「群像」で『となりの姉妹』や『簟笥のなか』を書く を抱えたままでいたほうがいいんだと納得させること。長野 ようになってから、若い読者の要望とのギャップが大きく さんにはこれから詩と歴史の両輪を回転させて自由に展開し なったよ , つに思います。 三浦「群像」からの申し出を断わらなかったのは、潜在的ていってはしい。自由は怖いけれど、そのつどそのつどの決 断の中に長野さんの個性がでてくる。これまで長野さんを支 に自分の中に変化を強く感じていたからですね。それでいし えてきた子どもたちのためにもそうなさるほうがいしとく のだと思う。 は思います。 しままでの「主人公が成長して 冒頭でお話ししたように、、 ( 二〇一五年十一月十六日、講談社にて ) きましたよ」という小説はもうサルトルの『自由への道』あ 114

2. 20200404/群像 2016年1月号

てきたのを見て、その後に三 ・一一が待つまともなんですね。教団における終末論的な文学者のあり方はおかしいじゃないカ ていて津波が来るだろうと予想しながら読なコンセプトであるという大再現について俺はこうやるんだと、そういう否定の契機 み進めていくと、案の定そうなった。予定もそうですし、神とは何かということにつというものをもっと強く出さないといけな 調和で終わって拍子抜けしました。 いても、きちんと考えられた言葉を口にし これだと、単に遊んで最後は都合よく 沼野太字に傍点のついた大再現という思ています。では、が神の代理人かという収めたようにしか見えない。みんなを怒ら わせぶりな一一 = ロ葉が出てきて、一体何が起こと、どうもそうではない。神そのものは直せるようなことを書いたっていいと思うん るんだろうと期待したわけです。最後にわ接描けずに、というにせものの存在だけですよ。冒漬にもなっていない気がしま けのわからないものを持ってくる。あるい を出してきて、まことしやかに駄ボラを吹す。 は、大再現は実はこれから先に起こるんだく co に作者が乗っかっていろんなことを言春日何を書いても、最後に「なんちゃっ という終わり方であれば、まだ作品としてわせているのかなと思うんですけど、それて」で終わらせようという魂胆だったのか 救いがあったような気がします。 が面白いというべきなのか、無責任というもしれません。「暇をもてあました」から、 先々月に取り上げた筒井さんの「モナド べきなのか、よくわからないところです。と。 の領域」もそうでしたけど、小説で神を扱春日それにしても、これだけたくさんの清水否定的な意見ばかり言いましたが、 うのは難しいんですよ。我々は人間だか伏線を回収していない作品も珍しいのでは僕がこの中で一つ面白いと思ったのは、早 ら。でも、この作品の場合、自分は人間だ ないでしようか。確信犯的とか、想像力の乙女が発明した「おみくじプログラム」で と強調して冒頭と合わせて終わっているわテロとか、そういった居直りをすればいす。何かものすごい技術を駆使して、ある いってものじゃないと思う。 けですから、「神の遊び」というテーマを 質問を入力すればコンピューターが答えを 抱きながらも、人間というものにこだわり清水伏線を緊密に張ったリアルな小説作選択してくれるという装置。このナンセン たいという意志が作者にはあるんだろうと法に対する破壊的挑戦。そういう試みなんスさが、もっと笑いとして爆発してくれた 思います。 だろうと思えば、非常によくやっているわらよかったのにと思いました。 清水新興教団のという教祖は、顔を白けです。ただ、モラルや常識に対する反抗沼野上田さんは、日本のほかの作家が真 塗りにして頭には冠をつけた着物姿のいかという側面もあるのですが、そっちはうま似できない書き方のできる貴重な才能の持 くいっていない印象です。 にも怪しげな人間です。その怪しげな人間 ち主です。しかし、同じ。ハターンを踏襲す がでたらめのようにしゃべっていると自分沼野モラルに反する小説を書くのは大いるのはどうなのか。難しいところに差しか では言っているけども、教義の内容は結構に結構ですけど、世間一般あるいは常識的かっているんじゃないでしようか。 318

3. 20200404/群像 2016年1月号

言うことをいい加減に聞いていればい しという考えだけど、 ていかない。成長率が永遠に上昇していくはすがないこと 今の状況には合わなくなってきたよね。六年しか経っていな は、ピケティに聞かなくても小学生でもわかるんだけど、そ いのに、日本は急激に変わってこれからどうなるのか。 れだと希望がないじゃないですか。人間って、一〇〇 % 希望 渡辺正先生と林俊郎先生の『ダイオキシン』は、一時ダイ のないことについてはなかなか物を言えないと思うんです。 オキシンは有害だと騒がれていたのに対して、危険でも何で あるインタビューでアガンべンが、知というのは希望のな もないということを書いた最初の一般向けの本。ヘンリク・ さに耐える勇気なんだ、と語っています。僕らは論文を書く スペンスマルクとナイジェル・コールダーの『″不機嫌な″ 際、最後にちょっと、 しいことを付け足したくなるわけです 太陽』には、グロ ーバルウォーミングは匪よりも太陽の影響よ。だけど、本当は希望がないということも含めて書かなけ ればいけないと思うんです。 のほうがはるかに大きいということが、かなり丁寧に書かれ ている。今、世界中の科学者の半分ぐらいは、匪がグロー アガンべンの名前を出したので、この文脈で、未だ話題に していない本として、彼の『アウシュヴィッツの残りのも ルウォーミングの原因だという定説に疑問を抱いているの ね。僕も地球はこれから寒くなるんじゃないかと思っている。 の』を挙げておきます。アガンペンは、バリバリの現役の哲 結局、世界最大の問題はエネルギーと人口なんだよね。グロ学者の中では最も重要な人だと思う。『アウシュヴィッツ』 ーバルキャピタリズムはエネルギーと人口が増えることを前提は、九〇年代に書かれたもので、邦訳が二〇〇〇年代だか ら、ほんとうは二十一世紀の名著と言うべきか迷いますが、 にしたシステムだから、どちらかが減った後の世界がどうなっ ていくかについては考えが及んでいない。エネルギーがなく ここでは、証言の不可能性ということを媒介にして一一 = 口説につ なるなんて思っていないのかもしれないけどね。人口が百億 いて考察している。フーコーの『知の考古学』のさらに先を篇 人になってエネルギーが足りなくなったらどうするんだろう。 行くものです。アガンペンの最近の研究は、ローマ法とか教般 大澤 ( 真 ) エネルギーがなくなるかもしれないと、多分気会法とかに関するかなりマニアックな議論で、日本人には がついていないわけじゃないんです。エネルギーが枯渇する 「何のためにやっているの」という感じがしてわかりにくい名 定 のですが、この本を読むと、彼の本来のモチーフがわかる。 と警告している人は、少なくとも何か打つ手がある気分がし 暫 の ところで、先ほどコンピューター将棋の話が出てきました ているんです。でも、本当に手がないと思っている人は何も 紀 が、コンピューターに将棋を指させたいという目標まで行き世 言わないんですよ。エネルギーと人口が増える、それによっ て経済成長率は三 % ぐらいでずっと続いていくという前提で着いて、それで我々は知性について深い理解に達したかとい うと、そうじゃないわけですよね。少しも賢くなっていな 考えないと、資本主義というシステムは長期的には成り立っ

4. 20200404/群像 2016年1月号

ルな問題として捉えました。ただ、それでも敗戦問題を乗り とや対米従属のせいで、何も責任を取らない状況が続いてい 越えられてないというのが率直な印象です。個人的なことを る。加藤さんや白井さんが言っているのはそういうことじゃ 一一一口うと、僕は日本の敗戦問題を考えるよりも「〈世界史〉の 哲学」を書くほうに関心があります。しかし、日本の思想や 同じようなことがあちこちで起きていて、原発の関係者が 論壇という立場で考えてみると、実際問題として敗戦につい 原発事故について二度と再発させないルールをみずからは作 てちゃんと議論しておかないと、日本人は、これから物を考れなくなっています。あれだけの事故を起こし収束してもい えることができなくなるとも思っています。そうしないと、 ないのに再稼働させようというのなら、その前に東電の幹部 重要なことは全部アメリカが決めるという風になっていく気を全員逮捕しなければダメだと僕は思う。そうせずに再稼働 がするんです。 してしまうと、事故を起こしても責任を取らなくて良いとい うお墨つきをわざわざ与えることになり、・ とんなに規制を厳 ■専門主義からオープンダイアローグへ しくしようが必ず人災は起きます。裁きがないままで、規制 松原二十一世紀に入ってから出た本についてこれまで話し さえ厳しくすれば事故は起きない、科学は進歩するものだと てきた中で様々な論点がありましたが、僕は専門主義の弊害 いった話にすり替わっている。もう原子力専門家の内部では という問題が大きいと思う。大学では、学生たちが博士号を 問題を解決できなくなっています。 取るために専門的な論文を書きますけど、そのためのフォー そう考えると専門主義というのはやはり行き詰まりを呈し マットがあって、専門以外のことを考えたらいけないといっ ている。とりあえず博士号を取れと急かされて専門だけを追 た雰囲気があります。たとえば、デリダならデリダをみんな求していくから、細胞みたいな事件が起きるんじゃ 一生懸命読みますが、デリダの本に書かれていない日本の敗よ、、。 オしカこういうことをメタレベルで誰かが一一 = ロわなきゃいけ 戦に関しては議論ができなくなるというのが今の専門主義で ないのに、専門家からは反省が出てこない。常識で考えてお す。応用可能性がない。 かしいんだよと指摘できなくなっているというのが、学問全 戦後、日本は世界や日本のルール変更に自分たちが関われ体を見渡したときに僕が感じることです。ルールの変更はデ ないという縛りを与えられてしまい、決められたルールの中 ータや専門主義では是非を問えないもので、徳や常識や身体 でしか考えることも決めることもできなくなってしまいまし 感覚といった広い構えが前提になります。放置しておくと、 た。もともと、日本人はルールを整理したり設定したりする それを資本主義が勝手放題にやるだけになってしまう。 のが得意だったんだけど、敗戦責任を自己清算しなかったこ大澤 ( 真 ) 松原さんのおっしやることはよくわかります。

5. 20200404/群像 2016年1月号

な輝きを持ったものにしたいという欲望が強くあるから出て ■結晶化する言葉 きたのだと思います。それは詩への接近ですよね。 長野は、。 三浦さきほど吉増さんのお名前をお出しになったけれど 三浦長野さんご自身がどう考えるかは別として、ばくは、 文体はいわば正反対だけど、長野さんは司馬遼太郎の手法に も、文体から一一一口えば吉増さんの影響はむしろ部分的だと思い 近づいていると思う。『街道をゆく』の手法です。フィク ます。吉増さんの場合は、漢字に初めて接した万葉人のよう ションとノンフィクションの間で、むしろ想像力が無限に広な初々しい感受性を現代に持ってきているわけですが、長野 がっていくことを許す手法。つまり、あなた方が生きている さんの場合は、やはり、『少年アリス』の段階からすでに感 現実自体が文学的な蓄積によって成立しているんだ、一つの じられる宮沢賢治と稲垣足穂の影響が大きい。言葉を結晶さ 街道なり、一つの神社なりがあり、そこに集落があった場合 せていく度合い、結晶させるための熱量のかけ方が賢治や足 に、それらは小説全集と同じ形をとっていて、読み始めると穂の流儀だと思う。 止められないくらい面白いんだ、ひょっとするとそれこそ文 結晶化ということでは、長野さんの長篇小説の細部、たと学 学の本流かもしれない。そういう考え方ですね。 えば『テレヴィジョン・シテイ』の細部、繰り返しあらわれの 『冥途あり』は、最初は地誌の記述から始まり、そこに生き る真夏の映像などに、思いがけないほど結晶化した言葉がす時 でにあります。でも、それは書くことの熱量がグーツと持ちり てきた人たちが配置されてゆきます。それら人間の具体的な 情報として戸籍が登場し、そこから言葉の問題へと進んでい 上がっていく過程で出てきたことだから必ずしも意識的じゃ終 く。でも、そこがこの小説のいちばんの見どころですが、そ ない。『冥途あり』の場合は、それと違って、はっきり意識説 の過程で、言葉を結晶化させる文体を獲得してゆく。省略、 している。その手法は大きい可能性を持っていて、むしろポ 飛躍、思い切った場面転換が施されてゆく。具体的に言え ポードレール、ランポーといった象徴主義のほうに接近一 ジ ば、一行あけて次にどう転ずるか、長野さんのこれまでの小 していくような構えになっているとばくは思います。 工 ポ 説のなかで『冥途あり』がいちばんよくできていると思う。長野ありがとうございます。 と 飛躍が激しい。さきほど海賊の部分をぜんぶ捨てたとおっ 三浦たとえば、最近とみにその要素が強まっているとばく 省 しやったけれど、捨てるときの捨てる基準というのは、文学は思いますが、一 = ロ語の暴力性が長野さんの中ではすごく強 作品としての結晶度を私はここでどうしても出したい、硬質 。読んでいる人に、一一一一口語が残酷なまでに破壊的な作用をす

6. 20200404/群像 2016年1月号

滝ロ「寅次郎物語」はやくざ者のお父さんを亡くした秀吉存在しているように感じます。例えば最新作の「死んでいな が、失踪したお母さんを寅さんと一緒に探す旅に出る話です い者」には、「目は何も教えてくれない。ただ見るばかりで、 が、その過程で天王寺の小さくて汚いビジネス旅館に泊まる見えるばかりだ」という表現がありますね。これはすごい表 シーンがあるんです。寅さんは壁にくつつけた卓袱台でさき 現です。目玉というのは実のところそこに見えるものしか教 いかをつまみに日本酒を飲んでいて、秀吉は「小便したか、 えてくれない。けれど、理屈で理解できたふりをするほうが よしじゃあ寝ろ」なんて言われて、薄い布団にもぐり込む。 楽だから、目玉以外の部分が余計な解釈を作り出して、本当 僕、実はこの場面がすごく好きなんです。 に見えているものを違うものに置き換えてしまう。現実は実 子どもの頃、事情はよく分からないけどよく知らない大人はただ目に映っているものだけなのに。そのような人間の反 に一晩預けられたり、何かの経緯でやつばりよく知らない親射的な動きに対して、滝口さんはただ受け止めるんだ、とい 戚の家に泊まりこ、、 しし力なきゃならなかったり、そういう経う現実との向き合い方を提示していらっしやると思う。 験ってみんな何かしらあるんじゃないかと思います。子ども 芥川賞候補になった『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエ だから事情は教えてもらえないし、だからこそよけい心細ンス』でも、過去はどんどん長くなるもので、自分の妻や娘 大人になればそういう状況に異を唱えたりもできますといった最も親しい他者にも自分には絶対に共有できない尊 が、子どもって差し出されたものをただ受け止めることしか重すべき過去があるんだ、ということを書いていらっしや、 できないんですよね。でもそれって、すごく強いこととも言 ますね。これはある意味当たり前のことなのですが、当たり えると思うんです。 前のことを恐れずにそのまま受容できている、ともいえま す。 「子どもというのはだいたいみんな、自分ひとりでも のを考えて、受け止めなくてはならないもので、だからどん 滝ロ『ジミヘン』は、書いていくなかで、過去をどう持ち なに意外でも、予想しないことでも、驚くより先に納得せざ続けるか、というのがひとつのテーマになっていきました。 るをえないのだった」という一文がありましたが、まさにこ人は昨日や今日のことならほとんど丸ごと思い出せるけれ こが描きたかったところでもあるわけですね。 ど、それより前になってしまうと、何かを削ったりまとめた 竜ロは、。 この小説を書く上での大きな動機の一つです。 りしなくちゃ覚えていられない。過去を丸のまま持ち続ける 滝口さんの作品には、受容というキーワードがずっと ことは不可能だから、かなり制限された、ある種決まった形 128

7. 20200404/群像 2016年1月号

て、階段をおりて補充して戻ってくる。その間に、続きを書るような原稿を書く古川さんの自我は、全然別種のものなん きたい気持ちが昂じるというふうにする感じでやっていますだよね。単語では「自我」という二文字なんだけど、それが ね。 持っている内実というのは全く違っていて、自我がものすご 保坂俺の場合、必す猫で中断するから。 い巨大で迷宮化している。僕は、それは自我とは思わない。 古川そのタイミングが訪れるからですよね。 人生全体の広がりとか、生きてきた土地全体の広がりま 保坂というか、基本的に中断しかない ( 笑 ) 。中断しかな で、今の自分に込めようとか、今の自分のペン先に込めよう い中の中断で書く。だから、始まりから終わりが仮に三時間 としたら、自分の知っていることしか書けないし、自分の中 あったとしても、実際に原稿を書いている時間は、僕の場合 に出てくるものや自分の中を通り過ぎることしか書けないけ は二十分ぐらいだから。それ以上書いてない。 ど、それはもう自我じゃないよ。それはただ、「私」を通っ 古川どっちにしても、一旦離れないと、もう一回入れない た的な、そこの「私」が強く出るだけのことだよ。 みたいな作業の繰り返しのような気がします。集中はしてい 例えば、巨大なスー ーコンピューター並みの規模の人工 るんですけど、とり憑かれているとか、書いているときに何知能があったとして、その人工知能が自我を語り出したら、 かの憑坐になっている感じが、なれてきちゃうとだんだん無それは普通の自我と比べ物にならないじゃない。そういうふ くなってくるというか、自我が勝っちゃうので、そこをやり うに考えると、自我と一言で一言っちゃいけよ、。 直し、やり直し、リセットをかけている感じがしますね。 だから、ここで「本」とか「物語」と言っているものも、 僕はよくはわかってないんだけど、この小説を読んでいって ■知識と体験 印象がすごく変なのは、っていうか動的なのは、国と地方、 保坂その自我の話なんだけど、選考会でも、古川さんの自現実と書物というふうに分けたときに、国と地方というと、 我が前面に出ているので、それで退くというか、自我につき 普通の社会的なイメージでは、国が大きくて地方が小さくな 合わされるけど、小説はちょっと違うんじゃないかみたいな るし、現実の中に書物があってというふうになるんだけど、 ことがあった。 四百ページに至るまでに、その大きさのイメージが逆転しつ ただ、これは大事なんだけど、「自我」って一言で言うけ つあるんだよね。 ど、自我も大きさとか強さとかが全然違うわけですよ。本当 僕がもともと考えていることとしては、例えば東北地方は に短い、女の子の詩みたいな、ちょっと私の気持ちを書くよ スコットランドのように独立運動してほしいとか、中国って うな短いものの私の自我と、この本みたいに必ず千枚を超え漢民族の中国の周りにウイグルとかチベットというのが山ほ 118

8. 20200404/群像 2016年1月号

調子で言うと彼は、「そうですか」と言って目を伏せた。そ も搬入していたので、人々が無聊をかこっこともなかった。 の睫が長くてカールしていて美しかった。もしかしてマツェ しかし、なによりもよかったのは、そこに集まっている人間 ク ? の人間性の素晴らしさで、教育レベルも高く、機知に富ん 「けれども、まあ、君はそう思うのだろうが、問題が残るこ で、どんなときでも穏やかなほほえみを絶やさない、気持ち とは確かでしよう」 のいい人間ばかりで、なにかと自己主張が激しく、なにかと 「どういうことですか」 問題を起こす人や情緒の不安定な人、極端に不細工な人、悪 「つまりだねえ、彼らは自分たちは充分、快適にしているわ 疾・悪弊を持つ人、特定の思想や宗教に凝り固まった人など けじゃないか。つまりそこにはまだ充分な余裕が、スペース は慎重に排除されていたので、人間関係に起因するトラブル がほとんど起きなかったという点であった。そんなことで人も含めてあるということですよ。それを確保したいために多 くの者を見殺しにする。あまりにも無人情だと思いません 間としてのレベルが高い彼らは避難場所で極上のワインや か」 炙った肉に舌鼓を打ち、かつまた、洗練された会話を交わし 「そりやまあ、程度問題ですよ。あなたのしたのは話を単純 つつ、災厄をやり過ごすことができたのだが、そのとき外の 化するためにした譬え話でしよ。イエス様じゃあるまいし、 世界ではなにが起きていただろうか。彼にレベルが低いと判 現実にはそんなことはないでしよう。もうちょっと余白があ 定された多くの人間がその身体を砕かれ、焼かれてむなしく りますよ」 なっていった。といった事態は人間としてどうなのだろう 「その余白になにを書くかが問題だと思うんですがね、それ か。口をとんがらせて、「だって仕方ないじゃないか」と言 えば済む話なのだろうか。と彼は問うた。「実際の話、自分はこっちゃっぺらに置いといて、いや、この現実においては だけ助かりたいというのが人情ですからね。そのために一部意外に現実ですよ」 「僕は僕の大を探したいだけです。そして、現実に帰還した が犠牲になるのはやむを得ないんじゃないですかね。僕だっ い」 ていざとなったら他人を蹴落としてでも自分が、自分だけが 「わかります。よくわかります。僕らだって同じですよ」 助かりたいとおもいますからね。犠牲はどうしたって必要 「じゃあ、聞きますけど、その予め知らされていた人たナ じゃないですかね」と私が答えると彼は真剣な眼差しで私を サ ち、っていうのは一体、誰によって知らされていたのでしょ 見て言った。「本当にそう思いますか」そんな真剣に問われ ホ , つね。僕はさっき、とい , つか、も , つ、なにがさっきかすらわ ると思わなかったのでちょっと焦って、けれども改めて考え からないんですけど、よりよくしようとするものが現れ、こ るのも面倒だったので、「ええ、思いますね」と敢えて強い

9. 20200404/群像 2016年1月号

が藤枝静男の熱心な良き読者であるわけがない ) 、この作品 巻目の後がきで藤枝が書いている自筆の「署名」と自刻の のタイトルには、二つの作家名の間に、「天皇ーという、こ 「印ーを捺した過程について引用したのは、純文学の文芸作 れは人の名ではなく「制度」の名称がはさまれているのだ 品の、ある種の「本」が持っていた手触り・ーー本は紙だけで が、そのどれに対しても、当時 ( 著作集が出た頃 ) まった はなく、表紙に張られた布地によっても作られていた く、と言ってよい程興味がなかったからである。 ついても触れたかったからである。 全六巻の著作集 ( 波形のしばのある和紙風の紙を張った手 さて、箱入り布装の著作集の外見には、幾分かは一種、 折りの箱入りで、麻布装で丸背で、全巻ほば四百五十ペー うっとうしくもある、いわゆるステロタイプの私小説性かあ ジ、装幀は辻村益朗、ロ絵写真と差し込みになった薄い透き るうえに、読者として署名をいただくことをお願いしたわけ とおった和紙に著者の「自刻の陶印を捺し」た署名があり でもないし、著者から署名入りで恵贈されたわけでもないの 「殊に最終の第六巻は、「藤」と「地厚」に焼朱、「静」と に独特な色彩の美しい青味の混った黒い岩絵具で書かれた 「天高」に赤朱を用い、「枝」と「男」はそれそれ緑と青の岩署名があり、薄く透ける和紙越しに、「月報」の書き手の多 絵具で書いた。だから一枚につき六回手を下だし、二千七百 くが「男性的」や「雄々しい」という一一 = ロ葉で語る、文体と作 枚分で合計一万六千一一百回用紙を繰った」という手作業がほ 品と肉体の持ち主であったらしい著者の、思いの外に肉厚でつ どこされている書物である。二千五百円という定価が奥付け 肉感的な唇へ白髪のロ髭がたくわえられているが、太目の黒胱 ではなく箱に記されているのは、この頃にはじまった習慣 い縁の眼鏡の印象のせいもあって、若々しく見えはするけれ っ で、オイル・ショックのせいで紙やインク代が値上りし、書ども、著者六十八歳の精悍とさえ言えそうな男性の写真を見 籍の定価が変わっても奥付けを印刷し直す必要がないように ることになって、つい、十日程前六十八歳になった私は、説 っ という知恵なのだ、と編集者に説明されたことがあるのを思 明のつかない狼狽とも違和感ともっかない気持になるのだっ い出した ) を買ったのがいつだったのかも思い出せないのだ たが、それはそれとして、私が書いておきたかったのは、 の が、著作集の奥付けを見ると、三巻は昭和五十一年十一月十「志賀直哉・天皇・中野重治」の半ばに登場する『白樺』創の そのいけきんゆき 女 二日第一刷、四巻五十二年一月十六日第一刷の二冊のみ、五刊同人の園池公致のことである。 十二年四月十八日に二刷が発行されているのも、なんとなく 名前を見るのもはじめてで、「きんゆき」と読むのも『新 不思議な気がするものの、ここではそうしたことについては潮日本文学小辞典』を調べて知ったくらいだが、十二行とい 触れるつもりはないが、著作集の床しく渋い好みの装幀と六 うささやかな紅野敏郎の文章を引用すると明治十九年生れで 169

10. 20200404/群像 2016年1月号

時間なのかなと思う。将棋の読んでいる時間というのを反故と言うので、「でも、書けないからこうなっているわけだか 紙をつくっている時間と考えると、すごくリアルなんだよ ら、書くしかない」と言って、この会話のときは問題のシー ね。ゲラは直しますか。 ンを書き上げるまでに三日かかりましたけど。これは最後の 古川あんまり直さないですね。その前にそれこそ反故紙と 三十日間はまったく人と会わずに書いていたんです。とにか 、はいつばい出ますけどね。 く自分の体を消して、本しかないところに持っていこうと 保坂僕も直さない。書き終わって離れたここにいる自分は 思って。 書いてる自分じゃないんだから、ゲラを直せると考えるのは保坂体に悪いよね。 おかしい 古川体に悪いです。命を賭けるってこういうことか、死ん 古川ゲラを直す時点では、著者というよりディレクターと だらど , っしょ , っと思いましたけどね。 いうか、そういうものに変質しちゃってるっていう感じがあ保坂俺、そこまでしないことにしたんだよ ( 笑 ) 。 るんですよね、僕。とにかく著者というのとは作品との向き古川保坂さんもおなかが膨れたことがあるんですか。 合い方が違う。「作者。であることって、相当しんどくって、 保坂そうじゃなくて、僕の場合は、一番空気が張りつめて もたないです。 おかしくなったのは、『残響』という中篇の後半ぐらいだっ これを書いている間は体が壊れたんですよ。机に向かって たんだけど、あれを書いたために、猫のチャーちゃんが死ん いる間には三十八度以上の熱が出るとか、じんま疹が出ると じゃったと、いまだに思っているんだよね。あれで周りの気 か、まさに保坂さんが面白くなってきていると言ってくれた を歪めて書いちゃったからって。チャーちゃんは俺に一番な 後半ぐらいからは、著者が体を持っていることを本が許さな ついていて、圧倒的になっき方が違っていたんで。 いんです。本が体になれと言っている。机に向かって書いて古川受けとめちゃって吸収しちゃうみたいな感じですね。 いると、突然おなかの前がきつくなるんです。どうしたのか保坂さんとチャーちゃんとの皮膜がすごく薄くて、出したも と思うと、おなかが膨らんできちゃって、机と体の距離が詰 のを一番入れちゃったということですね。 まるんです。 保坂そうそう。猫って、もともとそうだから、病気の人に 保坂気でおなかが膨らむらしいんだよね。気が充実してい 飼われていると早死にしたり、変な死に方をするんですね。 る人って、赤ちゃん体型なんですって。朝青龍が、その一番だから、そういうことをして周りに迷惑をかけるのをやめ 典型的な体型だったそうです。 た。もっとダラダラ生きるようにした ( 笑 ) 。 古川やつばりそうですか。妻が愕然として、「どうする ? 」 ( 二〇一五年十一月十八日、講談社にて ) 124