歴史 - みる会図書館


検索対象: 20200404/群像 2016年1月号
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1. 20200404/群像 2016年1月号

きるようになった。そういうものを時々思い出して読み返し の自分の一貫性というのは結局、自分と言われるものの記憶 てみたりする間に、九〇年代の初めにアゴタ・クリストフの に帰してしまう。それがベルクソンが『物質と記憶』でやっ 『悪童日記』の翻訳が出て、ほんとうに面白いなと思って読 た問題だと思います。長野さんは、『少年アリス』の頃から、 みました。 記憶喪失にこだわりがあったし、他人の記憶にもこだわりが あったし、自分の記憶と他人の記憶の境界線に関してもこだ 今はいわゆる英米文学じゃないところで書いている人たち わりがあった。そのこだわりがいま詩と歴史への関心となっ の作品を読むことが多いです。最近は新潮クレスト・ブック スばかりで、カナダのアリステア・マクラウドや、ロシアの て現われているのだと思う。 リュドミラ・ウリッカヤの著作を固めて読んだりしていま長野記憶に関しては、ずっと c-v やファンタジーの形じゃ ないと書けないと思っていました。記憶は、意識の中にとい す。私は翻訳でしか読めないから、翻訳が出るのを待っしか ありませんが、その人たちが書いているのも土地のことで うか、一人の肉体の中にとどまるものではなくて、持ち運び ができたり、入れかえができたり、それが時を超えてほかの す。特にマクラウドの作品は、ノバスコシアとか北の海のこ とが書かれています。日本の歴史は最近勉強し始めたけれど人に使われたりというふうに、何かある形を持ったモノと化学 してポータブルになっている。その状態を書くのに、当時のの も、ヨーロッパのことは何も知らないなと実感しながら読ん でいます。 筆力の問題もあるけれども、現実の中へ取りこむことはとて時 もできなかったので、として表現しました。そうするり 三浦日本に限らず、地誌や歴史はそれ自体が言ってみれば と、ずっと読んできている読者の若い世代ほどそれに反応す終 無名の膨大な人々が人類として書いた巨大なフィクションで るというか、書いてあることが読めるんですね。 説 す。記憶は事実の虚構化、作品化です。『冥途あり』に収め そのいつばうで、大人からは「わけがわからない」とずつ られているもう一篇「まるせい湯」もそうですが、地誌は必 と言われ続けることになる。そのころ書いたものは、今読み一 然的に歴史であり、空間はつねに時間を含んでいるという認 ジ 返すと、自分でも何を言わんとして書いたのかよくわからな 識はとても重要です。世界文学の要請に応えている。 工 い部分もあります。 言葉の仕事はいま詩と歴史という二つの焦点へと向かって と一 いると言いましたが、それが必然に思えるのは、自分という 三浦それは実際に小学校五年生、六年生くらいから始まっ略 て、いわゆるティーンエージャー、十三歳以上の中学生、高 のは一個の他者だということが明確化されつつあるからだと 思います。自分とは外部のことなんですね。外部から見たそ校生にとって最大の問題だからです。自分がいまここにこう

2. 20200404/群像 2016年1月号

んの背中がきらきら光っているという描写がある場面です。 こんな鉱物を採集することができ、それにあわせた産業や暮 あれは驚異的でした。広島で被爆したために背中にガラス片らしが生まれる。そんなことを歴史をふまえて知りたいと思 が入っているというのです。細胞の一部が石化していると いました。網野さんから谷川健一さんに移行しました。古代 言ってもいい。主題としても方法としてもこの展開は強烈で の人々の暮らしこそ地理的なことに関わるからです。古代が す。詩と歴史を一挙に感じさせる。しかも、真面目な小説家はいれば民俗も欠かせません。そこでこんどは柳田国男さん だと、広島を題材にした場合、それだけで威儀を正さなけれ へとつながります。あらためてなにもかもがつながった気が し 6 した。 ばいけない感じになってしまうわけですが、それを、表題の 「冥途あり」がじつは「まいどあり」のもじり、つまり言語 三浦確かに冒頭の地誌はそういう読書の積み重ねを感じさ せますね。 遊戯だと明かすことによって、いわば芭蕉の軽みに達してい る。ほんと , つに感、いしました。 長野震災のとき、同時に父のぐあいが非常に悪くなって、 地誌や歴史を素材として積極的に取り入れる。それも省略介護状態に入ったことも大きかったかもしれません。気分的 や飛躍によって詩に接近させ、たとえば司馬遼太郎とは違っ に現実逃避が必要になり、神話や民俗にふれることが安らぎ た緊張を孕んだ文章にしてゆこうとしている。それが一番強 になりました。父が亡くなると、こんどは戸籍探しがはじま く印象づけられたことです。 りました。先祖のルーツになどまったく興味がなかったの 長野地誌に関しては、二〇一一年の震災の後にしばらく計で、祖父の下の名前すら知らずにいました。先祖は瀬戸内の 画停電があったことが関わっています。原稿の締め切りも海賊だったと親戚たちが一一一一口うのを耳にしていましたが、くわ 迫っていたのですが、電気を使えないと。ハソコンが使えな しい出身地など知ろうともせず、漠然と広島だと思っていた んです。 原稿書きはあきらめ、とりあえず本を読むことにしまし た。そのときに固めて読んだのが網野善彦さんの著作です。 実際に原戸籍を取り寄せてみたら、先祖はみんな愛媛県の なぜかといえば、地震や津波に関係する地面のしたのこと、 人たちでした。ほんとうに海賊だったかどうかはわかりませ 海のこと、そこでの暮らしぶりの歴史のことをもっと知らな んが、船乗りであったことは確かで、そうすると網野善彦さ いといけないなと思ったからです。もともと石は好きでした んが言う海民です。船とともに暮らしていたはずです。で が、視覚的な愉しみに偏っていました。こんな地質だから、 は、海の民としてどんな暮らしを営んでいたのか。愛媛県は 106

3. 20200404/群像 2016年1月号

イ・シャルグノフ、ロマン・センチンなどといった若手作家文学作品の主題や背景となっているわけですが、野崎先生が たちは「ニューリアリズム」と呼ばれていて、やはり一人称挙げているジョナサン・リテルの『慈しみの女神たち』は独 を特徴としています。 ソ戦の話で、これもまさに二十世紀の戦争というか災厄に真 文学に歴史や自伝性といったドキュメンタリー性が持ち込正面から取り組んでいますよね。 まれるというのは、ロシア社会自体が激変してフィクション野崎本当にそう。読むのも大変だし、翻訳した皆さんは よりノンフィクションのほうが迫力があるという事実と関係もっと苦しかったと思います。作品を支えている資料の情報 していると思います。先日、ウクライナのキエフ在住の作家量だけでも大変だし。先ほど沼野さんがおっしやったよう アンドレイ・クルコフが来日してシンポジウムに参加したの な、現代文学を大きくしていく新しいドキュメンタリー性 ですが、今ウクライナでは小説を書く人はほとんどいない、 が、この作品にも感じられますね。 作家の多くが coZc-n を使ってジャーナリズム的な発言をして 歴史を描くためには、さまざまな意味での証言を収集して いる、そのほうがすぐに読者に考えが伝わるし反応も分か整理するというドキュメンタリズムが必要になりますが、そ る、と話していました。こういう時代に物語の持っ虚構性と れをさらに別の次元で統合しないと物語として自立はできな いうのがどこまで通用するのかというのが、今のロシア語圏 い。例えばジョナサン・リテルは、絶対的な悪の刻印を押され の大きな課題です。 た「わたし」の一人称で物語を紡いだ。そういった思い切っ 小野今年スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチがノーベル た工夫によって、一気に虚構が立ち上がってくるんですね。 賞を取りましたが、ロシア語圏では書くことが政治とすごく ところで僕は今年のノーベル文学賞には感謝しているんで 密接に結びついているし、結びつかざるを得ないようなとこすよ。というのも、今回の件がなければアレクシェーヴィチ ろがありますね。 の作品にはなかなか出会えなかったかもしれないと思うから なんです。 沼野現実とどういうふうに切り結んでいくかという問題が 大きいですから。 小野恥ずかしながら、僕も彼女の名前すら知りませんでし 小野ウリッカヤはユダヤ系ですか。 沼野そうです。 野崎原発事故に遭遇した人々のインタビュー集である 小野ユダヤ系の問題というと、ナチスによるユダヤ人の大『チェルノブイリの祈り』を読んだら、最初の数ベージぐら 量殺戮が二十世紀の歴史の大きな悲劇の一つであり、多くの いでもう、驚きを禁じ得なかった。強烈な感動がありまし

4. 20200404/群像 2016年1月号

どあって、面積からいうと、そっちのほうが断然大きいんだ保坂もろ、そうなってますよ。 よね。それを考えると、今は中国がいろんな民族を支配して古川ありがとうございます。ただ、これができるかどう か、最初はわかんなくて。デビューしたころからすごく悩ん いるけど、中国自体はちっちゃい でいたのは、もともと持ってる専門的な知識で書いているん 国だって、国は政府なんだと考えれば、地方のはうがずつ でしようとか、自分は書けると思っているでしようとか、み と大きくなってくる。地方のほうが大きくて、地方の集合の んな僕に関して相当な先入観があって。僕、大体どういうも 上に政府という国がのっているとか、膨大な歴史、いろんな のも、思いついたとき、「これはすごいけど、誰が書くの ? 歴史がある中で一つだけ正史と呼ばれるものがちょこんと のっているだけで、危うい均衡を今に振りかえる。そういう俺かよ : : : 」と絶望しているんですよ。 保坂本が一冊あれば、本を書く前にプランの青写真がある 現代性を、この小説は持っているんだよね。 と思っているんだよね。書きながら、書く行為を通じて、そ 古川結局、僕たち、自分で現実を認識していると思ってい るけれども、それは今まで蓄積された言葉を介して自分で世れがつくられて立ち上がってくるということが本当にわから れてない。世間の人たちは何度言ってもわかんないんだよ。 界を構成し直しているという作業でしかないわけで。明らか びつくりするよね。 に自分で体験した現実よりも書物を通してプロセッシングし 古川しかも、たとえプランを持ったところで、つくり始め てきた現実のほうが大きいと思います。 ちゃうと、その細部は絶対にプラン全体を変容させちゃう。 日本で言ったら、平安時代までさかのばったところで、京 それで、もともと見えていたビジョンと齟齬ができてきたの 都という大きさ、あるいは五畿内という大きさよりも、その を、どこまで齟齬に自走させて、どこまで齟齬を統御するか 外側のほうが大きかったわけだし、ちょこんとのっているも のを支える土台である部分、あるいは周囲を包囲している部という、そのやりとりの過程が書くということだと感じてい るんですね。 分のほうが大きいんだということは、真っ当に社会で生きて そこで引きずられたり引きずり返したりしている中で初め説 いると「それは考えちゃいけないぜ」と言われちゃうんだけ て、あ、俺、この世の中のことを全然わかってなかった、 ど、もともと考えたところで「あんたが持っている考えは、 書 やっとわかってきたという感じで、一冊書くごとに、やっと 大体誰かの考えを教え授けてもらっただけなんだよ」みたい で 身 なところからスタートしないとダメで。多分、僕はそれを一 幼稚園児になれたみたいな感覚がありますね。 全 冊の本の中で徐々に体感できるようにしたくってしようがな保坂そういう感覚からの歴史観とか日本観とか国観という 感じのものが、ここでは本当に立ち上がってきている。で かったんだと思うんですね。

5. 20200404/群像 2016年1月号

していたのが『冥途あり』なんです。でも、驚きの内容を消 ら日本の近代史全体が出てくる仕組みになっています。地名 化するには時間が足りす、海賊から海運の部分はぜんぶ捨て なら地名一つ、戸籍なら戸籍一つとっても、そこにはすべて ました。最初は現在の倍以上の長さの小説を予定していたの が含まれている。戸籍の歴史にしても、日本は良くも悪くも ですが、カ尽きました。 ほかの国と違います。どういう仕組みででき上がったかまで 三浦いまのお話は、人間によって体験された時間が物質化調べ始めると、べらばうな分量の文章になってしまうでしょ して残っていることに対する驚きですね。戸籍にしても物質う。だから、この『冥途あり』という結晶体自体がほかのさ みたいなもので、そのほかのものもぜんぶ物質みたいなもの まざまな結晶体を呼び寄せるようにできている。でも、地理 です。その物質を徹底的に調べてゆくと人間が生きた時間ま も歴史ももともとそういうもので、テクストがテクストを呼 で見えてくる。そのことへの驚きというか興奮が文章化され ぶようになっている。司馬遼太郎もそうだけど、長野さん ている。そういう資質はもともと『少年アリス』のときから も、網目状に情報が広がるようになっている。深く掘るため お持ちだった。物質に時間を見るというその感受性が、長野 に広くも掘っているので、視界が開けていて非常に見晴らし さんを書くという行為へと向かわせたわけです。それが地誌かいい や歴史に接近することになるのは当然だったのかもしれない。 長野さんは、もともと文学とはそういう多層的なものだと 「人文地理」とはよく言ったもので、言ってみれば小説の集 いう予感を持っていたでしよう。だから連作もできた。で 合体みたいなものです。人間にとっての事実というのはすべ も、前期というか、つい最近までは、。 せんぶ想像力でつくる て一一 = ロ語化されたものですから、厳密にいえば基本的にフィク のが本来の小説じゃないかとお考えだったのではないかと思 ションであって、いわば世界とは世界小説全集が重なってい います。それが、おそらく『となりの姉妹』のちょっと前く るようなものです。網野善彦がなぜ面白いかというと、世界らいから、「人生」と言われているものにしてもほんとうは 小説全集が重なっていて、それを読んでいくと、これも読ま フィクションの積み重ねである、だとすれば積極的に人々の なくては、あれも読まなくてはと広がっていくからですよ生身の人生そのものを素材に取り入れていいのではないかと ね。 いうことになったのだと思います。人間そのものがフィク 長野でもどんどんのめり込んでいって、頭がこんがらがっ ショナルな存在なんだ。想像力で作られるものも、いわゆる てしま , っこともあります・。 事実と見なされるものも、仕組みそのものは基本的に同じな 三浦ええ。『冥途あり』をみても、この一個の中篇小説か んだ。そこから新しい領域が開けてきたんだと思います。

6. 20200404/群像 2016年1月号

『』にも見られましたが、『冥途あり』では結晶度が異常な ・小説全集がもっ多層性 までに高まっています。時期的に重なりますが、詩壇では川 田絢音さんが詩集『雁の世』で萩原朔太郎賞を受賞しまし 三浦このたびの野間文芸賞、泉鏡花文学賞のダブル受賞お た。長野さんの受賞と川田さんの受賞は深部でつながってい めでとうございます。 るところがあって、文学の状況として面白い。ともに極度の 長野ありがとうございます。 省略が特徴です。言葉が省かれるだけ省かれていて、それが 三浦いま、いわゆる小説の時代が終わりつつあります。今意識的になされているのが、両者ともに鉱物志向であるとこ 後どうなるか。これまで小説が担ってきたものが、とりあえ ろに象徴的に示されている。省略を強めると文章が結晶化し す詩と歴史たとえば自伝や伝記などに分担されてゆくのでは て鉱物的な印象が強まるのですが、その方法の自覚として具 ないかとばくは思っています。物語そのものは絶対になくな体的に「石」が出てくるのです。たとえば川田さんの「螺 らない。文がすでに物語だからです。また、「私」というも旋」という詩はたった六行の詩で、ヴェローナのマツツィー のは物語がなければ成立しない。それが神話になり、伝説に ニ通りのアンモナイトの化石を敷石にした舗道を描いてい なり、語り物になり、現代であればゲームにもなる。だけ る。町の名も通りの名も省略され、ただアンモナイトの螺旋 ど、いすれにせよ従来の意味での小説、十九世紀市民社会に に含まれた時間が人類を狼狽させると語られているだけで 起源を持つような小説はもう終わった。従来の小説によってす。この手法が『冥途あり』と対応しています。『冥途あり』 は、生きているという実感がもう持てなくなった。これから の場合には、端的な形で「硯」が出てきますね。「硯」は文 はおそらく詩的な小説と歴史的な小説の時代が来るだろう。 字を生む石です。 そういう状況の中で今回の『冥途あり』を眺めると、とて 長野さんにはもともと鉱物志向のところがあるけれど、今 も興味深い。『少年アリス』から始まった長野さんの作家と 回はそれが小説の方法と明確に対応している。『テレヴィ しての経歴と考え合わせるといっそう興味深い。詩への接ジョン・シテイ』に言葉はなくなるが文字は残るという一文 近、歴史への接近が顕著に見られるからです。 があるけれど、「硯」はその象徴のようなものです。『冥途あ 『冥途あり』の特徴の一つは、詩的要素がとても強まってき り』の与える感動は詩に接近しています。それが文体上の挑 たことです。これまでの作品、たとえば『となりの姉妹』戦としてなされている。受賞されたのは当然だと思いました。 104

7. 20200404/群像 2016年1月号

んだなと思います。一般的ではない漢字をわざわざ拾ってき 長野詩に関していうと、吉増剛造さんとお目にかかり、直 てルビなどで装飾する、あるいは当然あるべきものを省略し 接お話をうかがう機会にめぐまれたことが大きく影響してい て単純化する。そういう手法は、八〇年代の彼らが盛んに試 ます。一一年前に「群像」の創作合評で一緒にお仕事をするに していたことです。 あたり、あらためて吉増さんの詩を読み返しました。もとよ 三浦詩に接近すると同時に、他方で地誌すなわち土地の歴 り吉増さんの詩は好きでしたが、じかにお話をうかがい、な まの原稿を拝見することによって、音的、視覚的に生まれて史に接近している。この地誌への接近が『冥途あり』のもう 一つの特徴です。十九世紀型の小説が終わったということ くる言葉の融合をリアルタイムで体験できたのは、たいへん は、いわゆる大小説家の伝統がサルトルあたりを最後になく 幸運でした。しばしば霊感を受けて、自分の小説を書くと なってしまったところに端的に見てとれますが、それに代 き、その手法をちょっと応用した部分があったかなと思いま わって登場したのが、日本で言うと司馬遼太郎です。司馬遼 それと、私には詩の世界の友人たちが多くいます。詩人の太郎が小説から歴史と地誌、いわゆる人文地理へと明確に語 りの対象を移行させたことは言うまでもないけれど、『街道文 方たちの朗読会にもおじゃましています。私は小説を読むの をゆく』が小説よりも面白いと多くの人に感じられるように代 ですが。同世代の詩人の仕事を八〇年代からずっと意識して きました。言葉を使いこなす、という点において、彼らの詩なったことの意味は、あまり論じられていない。小説よりもの のほうがいつも一歩先にいる。日本語の最先端を確認するつ面白いのは、むしろ『街道をゆく』のほうに生きている人間わ もりで彼らの作品を読んできました。ただ、それと自分の書がいると感じられるからです。 『冥途あり』では、冒頭にじつに生き生きとした地誌の記述 いている小説は違うものであるとも感じていて、詩を建物に が展開しますが、これは司馬遼太郎の、小説から歴史への転 例えるとほんとうに巨大な建物なんだけれど、私の小説し 最初のころはとくにそうですが、ほとんど平面に伏している換と対応しています。しかも戸籍とか、個人史を基軸に据え ることで、その転換を小説家としてじつにスムーズに行って ようなものでしたので、詩の手法を取り入れることはとても いる。そのうえ、先ほども言った省略によって、歴史と地理略 できませんでした。 の記述を詩の次元にまで高めている。それを象徴するのが結 でも今になって、自分が書いてきたものを読み返すと、 やつばり詩人の友人たちの影響を知らず知らずに受けていた末の「四」セクションで、海水浴の思い出のなかに、お父さ

8. 20200404/群像 2016年1月号

差の拡大が顕著になってきました。。 ヒケティの議論には理論 的にいろいろと問題があると思いますが、搾取というのでは なく資本保有に格差があるのだとした点に新味があります。 金融資本の動向が気になるとか、二十世紀的な処方箋として の革命ではうまくいかないと考える人が増えたといった時代 の雰囲気を押さえている。フクヤマ的なものもマルクス的な ものも両方ダメだというところで二十一世紀を迎えて出てき たのが、今のピケティ現象という感じがしますね。 大澤 ( 真 ) フクヤマは「歴史の終わり ? 」を発展させて一 九九二年に『歴史の終わり』を出しましたが、これは一種の 予言書というか、近未来を考えて書かれた本です。九〇年代 の初頭にフクヤマの言ったことがある意味で当たり、ある意 味で外れたわけです。というか、変な言い方ですが、外れた ことにおいて当たった、というようなところがある。フクャ マが書いた当時は、これから比較的いい 時代が来るんだ、リ べラル・デモクラシーが最後の選択肢だということがはっき りしたのだから、もはや戦争がない、退屈と言えば退屈だけ れども平和な時代が来るんだという雰囲気だった。けれど も、特に九・一一以降、実際に来たのは非常に悲惨な時代、 テロとの戦いというかたちで戦争があらゆる場所にまき散ら されて存在しているような時代でした。そうすると、フクャ マの予言とは違うじゃないかという話になる。しかし、にも かかわらず、いやそれゆえにこそ、リべラル・デモクラシー と資本主義の組み合わせしか可能な生き方はないと誰もがひ そかに思っている。その意味では、フクヤマの予一一一一口どおりで ■池田清彦さんが選ぶ「幻世紀の暫定名著」 ・養老孟司『人間科学』 ( 筑摩書房、一一〇〇一一年 ) ・渡辺正林俊郎『ダイオキシンー神話の終焉』 ( 日本評論社、 二〇〇三年 ) ・金子邦彦『生命とは何かー複雑系生命論序説』 ( 東京大学出版 会、二〇〇三年 ) ・倉谷滋『動物進化形態学』 ( 東京大学出版会、一一〇〇四年 ) ・郡司ペギオー幸夫『原生計算と存在論的観測ー生命と時間、 そして原生』 ( 東京大学出版会、一一〇〇四年 ) ・内田樹『日本辺境論』 ( 新潮社、二〇〇九年 ) ・ヘンリク・スペンスマルクナイジェル・コールダー『″不 機嫌なみ太陽ー気候変動のもうひとつのシナリオ』 ( 桜井邦朋監 修、青山洋訳、恒星社厚生閣、二〇一〇年 / 原著一一〇〇七年 ) ・南伸坊南文子『本人伝説』 ( 文藝春秋、一一〇一一一年 ) ・松原隆一郎さんが選ぶ「幻世紀の暫定名著」 ・エマニュエル・トッド『帝国以後ーアメリカ・システムの崩 壊』 ( 石崎晴己訳、藤原書店、二〇〇三年 / 原著二〇〇二年 ) ・ '--i ・・ < ・ポーコック『マキアヴェリアン・モーメントー フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』 ( 田中秀 夫・奥田敬・森岡邦泰訳、名古屋大学出版会、一一〇〇八年 / 原著一九七 五年 ) ・佐藤俊樹『社会学の方法ーその歴史と構造』 ( ミネルヴァ書房、

9. 20200404/群像 2016年1月号

書いている作家なんですよね。 ケネディとか。歴史と切り結ぶフィクションという特徴が あって、そこが面白い 沼野ベストには入れませんでしたが、実は私も好きです。 藤井僕もすごく好きなんですよ。主人公たちが移動をする藤井ちょっとボラーニョとも通じるところがあって、何を なかで物語がだんだん動いていくんです。共同体の過去を引書いているのかよく分からない。だからこれも、後世に廃墟 で輪読してもらうのがいい作品 ( 笑 ) 。二十一世紀の行方を き受けながら、同時に如何にして新しい時代を切り開いてい 占おうという、大風呂敷なところが僕は好きです。物語の技 くか、そのプロセスが全篇にわたってみずみずしく語られて いて、新しい物語ができる現場に立ち会っているという喜び法としても実験的なことをいろいろやっていて、例えば湖に がありました。あと、バスク語で書かれた作品を日本語で直取り残した息子を追いかけて母親が思い切って飛び込んで、 そこから長い長いワンセンテンスが、ページを跨いでつな 接読めるという驚きと感動もあって。 がっているんですよ。ヴィジュアル的な実験ですね。あと、 沼野実は翻訳者の金子奈美さんは私の大学の院生なんで 白人男性が描くアメリカ文学だと、父と息子の絆とか、息子 す。バスク語ってすごく難しいらしいのですが、しっとりし にとっての父の不在なんかがよく出てきますが、エリクソン オしい日本語に訳されていますね。 のこの小説の中心になるのは母と息子です。それも新鮮でし この作品には「見えない物語」があって、それを書くまで たね。 のプロセスが描かれているんですよね。そういう装置という か設定が面白く、まるで一緒に物語を作っていけるような楽辛島これで一通り、皆さんがベストに挙げて下さった作品 しき、がめり・ ( した。 には触れられたかと思います。少し英米に偏ってしまった観 もありますが、藤井さんが「悩んだが選外にしたもの」のな篇 辛島最後に、エリクソンの『エクスタシーの湖』について , っカカい 6 ー ) よ , っカ かに『地図集』のような中国語の作品を入れてくださった文 り、これからもっといろいろな作品が翻訳されるきっかけに海 り野エリクソンは、本国のアメリカではどちらかと一一一一口えば 著 なるといいですね。 マイナーなのに、日本では意外に知られているというイメー 名 定 ジですね。 野崎本当ですね。これだけすごいカ作の文学が続々と出て 暫 きているわけですから、もっともっと翻訳文学を論じる場もの 藤井そうですね。、フィリップ・・ディックを継いだ、 世 作っていけたらいいな ちょっと亜流の作家というふうに本国では見られています。 ( 二〇一五年十月二十四日、講談社にて ) 小野現実に存在した歴史上の人物が必ず小説に出てくるん ですよね。ヒトラーとか、ジェファーソンとか、ロバ

10. 20200404/群像 2016年1月号

体は、自分自身という単一の要素しかない集合体である、 か。それは、神が、単一の人間の身体として現れるという と解釈するわけだ。このような観点で認識された王の身体 ことであろう。この関係は、本来的には、集合的・類的で が、「威厳Ⅱ高位」である。一般には、種というものそれ あるべき政治的身体を、王の自然的身体に合致させる、と 自体は見ることができないが、個体ならば可視的である。 いう構成とよく似ていないだろうか。言い換えれば、キリ それゆえ、不死鳥においては、不可視な種が可視的な個体ストは、「単独法人ーのようではないか。このような類似 として現われていることになる。同様に、王の威厳におい が、西洋近世の王権が、「威厳日高位」を導入した理由を ては、集合的な政治的身体が、個人の自然的身体として現解明するための手がかりになる。 さらに、次回の展開をもう少しだけ予告しておこう。 われている。このような状態、つまり、個体がそのまま団 「キリスト」と「威厳」は、ごく近いところ、よく似たと 体と解釈されているとき、これを「単独法人 Corporation ころを出発点としながら、反対の方向へと事態を発展させ sole 」と呼ぶ。威厳日高位は、単独法人としての王のこと である。 ていく。この点を知る糸口は、今回はほとんど無視した不 これで、威厳Ⅱ高位が何を意味しているのかは分かった死鳥のもうひとつの性質、つまり「決して死なない」とい う性質である。「威厳は死なす」という法諺がある。この だろう。しかし、真に理解すべきことは、この先にある。 言明は、あからさまに不死鳥を連想させる。 どうしてこんな要素を導入しなくてはならなかったのか。 なぜ、王をわざわざ単独で法人としても解釈する必要が 1 例えば以下を参照。樺山紘一『歴史の歴史』千倉書房、一一〇 あったのか。どのような内的な衝動が、このような観念を 一四年、三七九ー三八一頁。 案出させたのか。これらの問いに答えるのは、次回にまわ 2 マルク・プロック『王の奇跡ーー王権の超自然的性格に関す さなくてはならない。 ここでは、ヒントになる事実だけ指摘して、この後の考る研究 / 特にフランスとイギリスの場合』井上泰男・渡邊昌美 訳、刀水書房、一九九八年 ( 原著一九二四年 ) 。 察のための端緒を開いておこう。またしても、鍵はイエ 3 これは、レヴィ日ストロースが「象徴的効果」と呼んだ現象 ス・キリストにある。キリスト教の世界は、神と人間、神 のひとつである。『構造人類学』荒川幾男はか訳、みすず書房、 と被造物の二元化だけでは尺、くされない。キリストがいる からだ。「神 / 人間」だけであれば、その関係は、「王冠 / 一九七二年 ( 原著一九五八年 ) 、第川章。 4 マルク・プロックを継承した、この主題についての研究とし 王朝」の二項対立と類比的だ。キリストとは何であろう 281 く世界史〉の哲学