る。清吉は彼女こそミランダと思ってとりすがる。でも リネ曲馬団の女芸人のミランダとの恋に始まる騒乱だけれ 違った。清吉は絶望して、ふと我に返る。欧米の幻覚、未ど、その恋はあくまで引き金を引いたにすぎない。日本に 来への空想から醒める。どんなユートピア的な世界もミラ おける「西洋派」と「国粋派ーの対決は宿命なのだ。その ンダが居なければ意味がない。清吉は悟る。幻は消えてゆ宿命の戦いがたまたま清吉とミランダの恋をきっかけに現 く。ワルツやチャールストンやプルースを踊っていた人々実化したのだ。日本の近現代を支配するのは、幕末の攘夷 も消えてゆく。清吉は最後にミランダを見つけ直す。時は か開国か以来、いつだってその構図なのだ。「明治百年」 明治一九年に戻っている。「ずいずいずつころばし」が日 を記念するバレエに相応しい展開です。 本の明治一九年の現実を思い起こさせる。「たわらのねず しかし、その抗争はいっかは停止され、止揚されなけれ みがこめくってちゅう」の旋律が反復される。 ここで名 ばならない。誰かが和解させなくてはならない。 ミランダには主汨士ロしか、由汨士口にはミランダしかいオし 乗りを上げるのはミランダです。 極東まで連れてこられて孤独の淵に沈み、清吉の愛に救わ 思えばこのあたりの筋書きはちょっとややこしい。魚河 れたミランダ。壮士のような国粋主義にくみさず、かと岸の兄哥たちゃ彼らを応援する東京の民衆は、清吉とミラ いって欧化主義政治家のように軽薄な文明開化路線にもく ンダを結びつけることで、東西両洋の文化文明の融和の可 みさず、地に足をつけながら、しつかり西洋とつながりた 能性を信じようとしているわけでは決してありません。そ い清吉。ミランダも清吉も共に愛し合いながら、洋の東西 うではなくて文明開化論者の鼻持ちならない楽観主義と浅 をしつかり結び付けたいと願う。 薄さに生理的嫌悪感を覚えているだけなのです。だからこ 音楽はリムスキーⅡコルサコフ風な清吉のテーマを壮大そそちらの側に幕末の攘夷論者の名残りのような壮士の集 に奏で、「ずいずいずつころばし」から派生してくる魚河団も加わっている。清吉とミランダの仲を本気で応援して 岸の兄哥たちの踊りの音楽が、清吉を助けて爆発また爆 いるわけではない。方便と成り行きでそうなっている。対 発。西洋かぶれの政治家やサーカス団の団長の意を受けて して、サーカスの人々や政治家や警官隊も、清吉とミラン 清吉からミランダを取り戻そうとする警官隊との乱戦が始ダを結びつけたい、東西両洋が手をつなげるとは、当然な まる。プロコフィエフの戦闘音楽のような戸田のアレグロ がら思っていません。国粋主義者は斬り捨てればいい。 西 が、騒乱状態を盛り上げる。 洋のものは西洋へ。融和するのではなく、日本が西洋にな れば、 しし。それだけです。 争いはやむ気配をみせない。魚河岸の兄哥の清吉とチャ 292
が、蛍はどうして来るのでしようか。甘い水を探しに来る そのときです。舞台に大海原と汽船が現れます。三島文 のです。どっちの水が甘くて苦いか。品定めをするのが学につきものの海と船。戸田の音楽はブッチーニの『蝶々 蛍。魚河岸と似ていないでしようか。お客さんが蛍。おい 夫人』のようになります。海と汽船は清吉の幻想。彼はミ しい魚を求めて競りに参加する。こっちの魚がおいしい、 ランダと一緒に幻影の汽船に乗って西洋に向かったつもり あっちの魚がまずいと、戸田の「ほ、ほ、ほたるこい」に になります。『帰れソレントへ』とリムスキーⅡコルサコ よるいなせな舞曲にのりつつ、兄哥たちは踊り続ける。そ フ風の清吉の音楽と山田耕筰風のミランダの音楽が汽船に こにミランダも参加します。プロコフィエフ風の音楽が 相乗りします。船はヨーロッパに向かってゆく。政治家 は、清吉の勝手にはさせないと、ミランダをどこかに連れ 「ほ、ほ、ほたるこい」と折り重なります。清吉も加わっ 去ってしまう。清吉はひとり、旅を続けます。音楽はワル て魚河岸の場面は高潮してゆきます。 ツになってゆきます。ワルツに乗って時も未来に進んでゆ でも幸せはつかの間です。『黄金虫』が聞こえてきます。 きます。「明治百年」の記念バレエなのだから、明治一九 サーカスの団長が西洋かぶれの政治家を連れ、ミランダを 追っかけてきます。サーカスの人々も一緒。西洋かぶれの年ばかりでなく、もっと先の世も見せなくては。三島のサ 政治家を暗殺しようと壮士の群れもついてきました。『抜 ービス精神でしよう。ワルツに乗って、時は未来へ下って 刀隊』も聞こえてきます。出演者が一堂に会します。壮士 ゆき、文明開化のもっとずっと進んだ東京の町並みが映し は政治家に果敢に挑む。が、ここで壮士を止めに入った人出され、明治末期や大正のいでたちをした未来の日本人が あらわれ、ワルツがいっそう高鳴り、ラヴェルの『ラ・ 物が居る。清吉です。清吉にとって政治家は愛するミラン ヴァルス』のような音楽になり、ついで時代はもっと進ん また清吉 ダを狙う不届き者。かといってテロはいけよ、。 で、大正後期から昭和へと移ろってゆく。戸田の音楽は、 は西洋に憧れる青年ですから国粋主義の壮士連中とは思想 チャールストンになり、ビッグ・バンド・スタイルのジャ もだいぶん異にしている。かくして、清吉は政治家を壮士 ズになる。・ カーシュウインの頃まで行く。やがて美女の群 から助けてしまいます。 れが出現して、清吉を誘惑する。でも清吉はやはりミラン 政治家は感謝感激。清吉に礼をしたいと言い出す。清吉 はミランダとの結婚を認めてほしいと懇願する。政治家は ダを探している。そうしたら結婚式の鐘が鳴り出す。婚礼 困る。ミランダには末練がある。ヨーロッパに留学させて の音楽が響く。それも引用。メンデルスゾーンの『夏の夜 の夢』から「結婚行進曲」。それに乗って花嫁があらわれ やろう。代わりにミランダは諦める。そう持ちかける。 291 鬼子の歌
田の世代的な思い出の詰まった歌でもある。野口雨情作 ンダを探しに来て「ミランダ、サーカスに帰ろう」と呼び 詞、中山晋平作曲の『黄金虫』です。「黄金虫は金持ちだ、 かける。鳴り響くのは『帰れソレントへ』。ミランダは帰 りません。清吉と一緒に踊り続けます。サーカスからは大 金蔵建てた蔵建てた」。団長が算盤を弾き出すと、決まっ て『黄金虫』が流れます。金の亡者というわけです。団長勢が出てきてミランダを取り返そうとします。しかし清吉 が欲望を膨らませれば『黄金虫』の旋律も発展します。フ には強い味方が居る。日本橋魚河岸の兄哥たちです。乱闘 ガートへと育っていったりします。 になり、兄哥たちが勝利。清吉とミランダは築地から日本 日本人の欧化主義政治家とイタリア人のサーカス団長橋へと凱旋してゆき、第一幕を結びます。 が、肝腎のミランダそっちのけで彼女の価格について議論 第二幕の舞台は日本橋魚河岸になります。第一幕の華や を重ねている隙をついて、サーカスのミランダの楽屋に魚かな見せ場だったサーカスの芸のバレエ化に相当するの 河岸の兄哥の清吉が入ってきます。彼はミランダに激しく は、魚河岸の賑わいのバレエ化。「セリの踊り」で華やか 同情します。もともとファンなのですから。けれどミラン に幕が開きます。第一幕のサーカスのバレエは女性の踊り ダはサーカスに魚を売りに来る清吉についてまだよく知り子が中心ですが、第二幕は魚河岸ですから若くていなせな ません。しかし、楽屋にとどまっていたら、団長から西洋男たちが華の舞台を務めます。サーカスと魚河岸。西洋的 な空間と日本的な空間。女と男。三島の対比のアイデアが かぶれの日本人政治家に我が身は売り渡されてしまうで しよう。ミランダは清吉の誘いに乗って、楽屋から逃げ出冴え渡っています。すると戸田はこの魚河岸の賑わいをど します。 んな音楽で表現するでしようか。これまた引用。「ずいず 場面は曲馬団のテントの裏の原つばへ。清吉がミランダ いずつころばし」も機能します。でもそれだけではありま を慰める。愛が急激に発展します。もともと清吉はミラン せん。新しい引用が現れます。「ドッ、ドッ、ドンドンド ン」というリズムのテーマがまず示されます。そのうちそ ダに憧れている。ミランダもようやく本気で自分を心配し てくれる異性に異国の地で巡り会い、ホロリとなる。恋に れが有名なわらべうたのリズムだと分かってきます。旋律 がはっきりしてくるからです。 落ちる。踊る。ふたりで踊る。愛のグラン・ はて、「ドッ、ドッ、ドンドンドン」とはどんな有名な へとグイグイ進む。そこらへんではもちろん、リムスキー わらべうたのリズムなのでしようか。「は、ほ、ほたるこ ⅱコルサコフ風の清吉のテーマと、山田耕筰風のミランダ い」なのです。魚河岸と蛍。関係なさそうな気もします。 のテーマとが機能します。そこにサーカスの道化師がミラ 290
つまり清吉とミランダを理解してくれる勢力は舞台上に 粛な葬送音楽が続き、そのうえにかぶさってくるのは当然 存在していない。その情勢の一発大逆転をミランダは目論 ながら清吉のテーマとミランダのテーマです。リムスキー みます。無茶な綱渡りをすると言い出す。それが成功した Ⅱコルサコフの『シェヘラザード』のモットーのようなメ ら二人の仲を認めろ。そう一一一一口う。本当に命懸けで綱渡りを ロディと山田耕筰のオーケストラ音楽に聴かれるようなメ はじめる。そして落ちて死ぬ。これは恐らく失敗ではな ロディです。そのふたつがついに音楽の上で折り重なるこ ミランダの計算ずくの行動です。死んで本気の意思を とによって、舞台上で生身では清吉とミランダは結婚に至 示す。死んで見せて一同に衝撃を与える。そこまでして清れませんでしたが、音楽の中ではふたりは結ばれます。も 吉と一緒になりたかった。危ない橋をどうしても渡らなけ うミランダは居ないけれど、そのおかげで、清吉と死せる ればならなかった。いや、進んで渡りたかった。つまりミ ミランダは天下公認の仲となり、洋の東西が真に融和する ランダは是が非でも日本人と結婚したかった。その情熱を 夢をもう絵空事だとは誰も嗤えなくなるのです。このバレ 一同は目の当たりにしてしまった。死ぬことを厭わぬ情熱工の初演から三島好みの「死の勝利」もしくは「悲劇に を見た。そしてあてられた。もう単純に西洋排斥だとか西よってこその成就」の典型的一例が『ミランダ』にはあり 洋崇拝だとか言えなくなってしまった。ミランダの目に見ます。三島本人もこのバレエの初演から二年後には、ミラ えていたもの、耳に聞こえていたもの、東洋と西洋の合一 ンダのようにみんなの前で死んでみせるのですけれど。 の夢、ヨーロッパと日本の合体の夢、清吉とミランダのグ とにかく三島由紀夫の台本による唯一のグランド・バレ ラン・。ハ・ド・ドウをまるつきり無視するわけにはゆかな 工はヒロインの自己犠牲による日本文明の新生を描き、そ かった。ここまで本気でそんな夢をかなえようとする振る の台本は、戸田邦雄という作曲家ならではのロシア趣味や 舞いに接してしまったら、その夢をもう虚妄とわらうこと呆然とするほどに平俗な引用の洪水によって、すこぶるユ はできないだろう。 ニークに絵解きされ、これそ「明治百年ーという大規模舞 それで死にゆくミランダを囲んで、欧化主義者と国粋主台作品が産み落とされました。ところがこのグランド・ 義者は手を携えます。一緒に踊ることになります。といっ レエは一九六八年の初演以来、再演されたことがないので ても音楽は二度と明るさを取り戻すことはありません。最す。不思議なことです。勿体ないことです。 後まで葬送音楽は葬送音楽のまま。ワーグナーの『ニーベ ( 以下次号 ) ルングの指環』か何かなのかしらと思わせる、壮大かっ厳 293 鬼子の歌
・ウイドウ』の上演があるとなれば劇場にわざわざやっ接続させる。この『ミランダ』の音楽的アイデアは世界地 てくる。世界に広く報道されていました。ヒトラーといえ図の上で現にヨーロツ。ハと日本のあいだにロシアが大きく ば『メリー・ウイドウ』。だからバルトークが笑い飛ばそ存在していることを思い出せばまことに腑に落ちる。そん , っとしているのはレハールではなくレノ 、ールに象徴される なことについても、もう一一一一口及しました。 ヒトラー。『管弦楽のための協奏曲』はアンチ・レハ でも、それはあくまで山田耕筰風、リムスキーコルサ ではなくアンチ・ナチスの音楽なのです。 コフ風、プロコフィエフ風、スクリャービン風という話で さて、戸田邦雄の『ミランダ』を特徴づけるのは、やは す。「風」というのはそういうスタイルを踏まえてやって り引用の手法です。『ミランダ』が、一九六八年の「明治 いるということであって、山田耕筰やリムスキー日コルサ 百年」を記念した三島由紀夫の台本によるバレエ音楽であ コフやプロコフィエフやスクリャービンの特定の作品が具 ること、文明開化期の日本青年の代表の清吉と彼を受け入体的に引用されているわけではありません。それとは別に れるイタリアのサーカス芸人のミランダとの愛に東西文明 具体的な既成の音楽の引用が『ミランダ』にはたくさんあ の融和を夢見た物語であることは、すでに触れました。そ るのです。引用が音楽による「語り」の大きな部分を占め こで作曲家は、ミランダをあらわす響きに、明治の日本の るのです。「語り」というのはこの場合、「喚起」を超えて 生んだ代表的作曲家、山田耕筰の初期のオーケストラ音楽「説明」を含みます。『ミランダ』は純粋なバレエ音楽であ を模しているかのような柔らかい音遣いを充てた。清吉は り、歌手や合唱を伴いません。言葉はありません。音はオ ロシアのリムスキーⅱコルサコフの交響組曲『シェヘラザ ーケストラの楽器だけ。ということは『ミランダ』の音楽 は一言葉を語ることはない。にもかかわらず極めて具体的に ード』のサルタンのモットーを思わせる旋律で表された。 音楽が語るのです。言葉を語るのと同等の説明能力をオー ミランダと清吉を結びつけるサーカスの世界はやはり口シ アのプロコフィエフのバレエ音楽の調子で一杯にされた。 ケストラが持ってしまう。それを可能ならしめる仕掛けが そうすると日本とロシアとロシアの組み合わせのように見引用です。既成曲の引用によって、仮にバレエによるバン えるけれど、ミランダの山田耕筰風というのはロシアのス トマイム的演技を伴わずとも、物語の展開がある程度まで クリャービンの立日に通じているから、要するにミランダも 一一一一口語化できてしまう。そのような水準で『ミランダ』は引 清吉もサーカスもロシア的な音調で表現されていることに 用を駆使し、日本のクラシック音楽の歴史の中に「引用に よるナラティヴで雄弁な音楽の範例」としてそびえている なる。日本とヨーロッパをロシア的なるものを媒介にして 286
のです。 と、ミランダを示す山田耕筰風の柔らかい旋律のあいまか では具体的にバレエの筋を辿りつつ、『ミランダ』にお ら、「ずいずいずつころばしごまみそずい、ちゃっぱにお ける引用の実際に耳を傾けてゆきましよう。『ミランダ』 われてとっぴんしゃん、ぬけたらどんどこしよ」という歌 のメロディがざわめきのように聞こえてくる。もちろんオ の第一幕は「海軍ヶ原チャリネ曲馬団の場」と題されてい ます。時は明治一九年、場所は東京の築地。そこでイタリ ーケストラだけで、歌詞はありません。しかし日本人の観 アのチャリネ曲馬団が大評判をとって絶賛興行続演中。ミ客ならます知っている。日本の古謡として知っている。江 ランダは同曲馬団のスターのイタリア人美少女。清吉は日 戸時代からあった旋律か、明治に入ってからできた旋律か 本橋の魚河岸から曲馬団の厨房に魚を入れている青年。今 は判然としていないと思いますが、いずれにせよ、文明開 は魚河岸の兄哥さんだけれど、文明開化に夢を託し、ヨー 化以後のハイカラな歌という印象はないでしよう。江戸情 ロッパ留学さえ望んでいる、まさに青雲の志を抱いた明治緒を感じさせるでしよう。「日本的風俗の子供や、おかみ の若者。幕が開くと、三島の台本にしたがえば「日本的風さん、半裸の人足その他」を、仮に舞踊手たちがそういう 俗の子供や、おかみさん、半裸の人足その他などに囲まれ なりで舞台に現れなかったとしても、観客に確実に想起さ て、チャリネの曲馬の外人の披露目屋がビラを配り、道化 せる歌として「ずいずいずつころばし」が選ばれ、引用さ 師クラウンがはねまはり」、さらに曲馬団のスター れる。戸田が『ミランダ』で多くやるのはこういう引用の ランダの絵姿が描かれた看板が練り歩いているという場面仕方です。バレエを観る者の多くが歌詞を覚えているであ が繰り広げられ、観客はたちまち鹿鳴館時代の日本、西洋ろう歌。メロディによく馴染んでいるであろう歌。そうい への憧憬と不安が渦を巻き、西洋への追随者と反発者の争うものをライトモティーフのように使う。ライトモティー 闘する世界へと引きすり込まれます。 フは示導動機と訳されます。その旋律というか音型が出て そしてこの引きすり込みに戸田の音楽が一役買います。 きたら、「おかみさん」なら「おかみさん」を表すという ことです。「ずいずいずつころばし」はこのあとも言わば 戸田はここでいきなり引用という手段に打って出ます。 「日本的風俗の子供や、おかみさん、半裸の人足その他」東京のまだ和装の民衆のライトモティーフとして全編に執 を音楽で表現するために戸田は既成曲を引用するのです。 拗に登場してきます。 なんでしようか。「ずいすいずつころばし」です。サーカ つまり『ミランダ』はおなじみのメロディの引用に溢れ スを表すプロコフィエフ風の筋肉質のリズミックな音楽たバレエなのです。そのメロディを知っていれば、観客は 287 鬼子の歌