間隔に並んだ透明の長い物差。部屋の上方に細く穿たれた横 結城さんはの落雁を口に運びながらとてもふしぎそうな 長の窓にはカーテン代わりに虎の絵の扇が連なり、簟笥の銀顔をした。私はいちばん危なかった大学生のときの話と、第 色の取っ手はよく見るとたなびく雲の形でしかも少しずつ異二位である現状についてと、掛け軸のことをできるかぎり手 なり、本棚の側面にはさまざまな天気のもと撮影された同じ短に彼女に話した。彼女は聞き入れてくれているのかどうか 電柱の写真が所狭しと貼られ、使い古された麻袋が何枚も重判然としない表情を私に向けるばかりだった。しかし伊助 ねてレモンイエローの紐で束ねられ、その上には、彼女では の、百年も二百年もねばろうっていうんじゃなしというせり ない誰かが一生涯手もとに置き愛玩してきたという印象を与ふを私が何かの拍子でロにしたときだけ、少し笑って言っ える青銅の鳩が載っていた。 嵐だと思ったのは、その質量のためだけでなく、本当に動 「医療技術の発達で、まだいるかもしれませんけどね。私た いているように錯覚したからだ。それらが落とす全ての影に は彼女の影がふくまれている。それらの裏側から彼女が無数 発想が屈強なのだ。 の糸をしゆっと引っ張れば、全てがいっぺんに彼女のもとへ 「私がどうしてその掛け軸を盗まなかったかわかります ? 」 収斂される。関係性があまりにも密で、まるで彼女の動きに と私は尋ねた。 伴って室内の様相が連動しそうな気配が、そこにはあった。 結城さんは腕組みをしてしばらく考え込み、「モラルです そうだ、私たちの事務机やフリーマーケットのテントの下で か」と真顔で言った。私は小刻みに頷いオ 目にしたときと決定的に違うのは、その規模というより彼女 「まあそれもあります。でも何より、そこまでしても、私自 本人の存在の有無だ。 身が白熱した関心を維持できないからです。私とそれとの関 キッチンから現れた結城さんは煎茶とお茶請を勧めてくれ係は、他のものから独立してるし完結してるし一過性です。 た。湯呑みの底にはピストルの絵が、お茶に揺れながら透け他のものと響きあうことはないし広がりもないし、永続性も ており、精密機械の一部分がリアルに描かれた皿の上に、ギ 。途切れては、また別のものを求める、その繰り返しだ リシャ文字を象った干菓子が点々と載っている。窓の外を見から。いつも振り出しに戻るみたい」 ると月が出ていた。部屋の照明を落として月光の下で見たい 私たちは一対の、大理石の表面が転写されたやわらかな布 ような気がした。 張りの椅子に腰掛けていた。このあまりにもくせの強い部屋 「私はすっと結城さんに会いたかったんです」と私は言っ の中で、結城さん自身はまるで何も書き込まれていない紙の ように、白く仄明るかった。卓上の皿からはギリシャ文字が こ 0 196
時間なのかなと思う。将棋の読んでいる時間というのを反故と言うので、「でも、書けないからこうなっているわけだか 紙をつくっている時間と考えると、すごくリアルなんだよ ら、書くしかない」と言って、この会話のときは問題のシー ね。ゲラは直しますか。 ンを書き上げるまでに三日かかりましたけど。これは最後の 古川あんまり直さないですね。その前にそれこそ反故紙と 三十日間はまったく人と会わずに書いていたんです。とにか 、はいつばい出ますけどね。 く自分の体を消して、本しかないところに持っていこうと 保坂僕も直さない。書き終わって離れたここにいる自分は 思って。 書いてる自分じゃないんだから、ゲラを直せると考えるのは保坂体に悪いよね。 おかしい 古川体に悪いです。命を賭けるってこういうことか、死ん 古川ゲラを直す時点では、著者というよりディレクターと だらど , っしょ , っと思いましたけどね。 いうか、そういうものに変質しちゃってるっていう感じがあ保坂俺、そこまでしないことにしたんだよ ( 笑 ) 。 るんですよね、僕。とにかく著者というのとは作品との向き古川保坂さんもおなかが膨れたことがあるんですか。 合い方が違う。「作者。であることって、相当しんどくって、 保坂そうじゃなくて、僕の場合は、一番空気が張りつめて もたないです。 おかしくなったのは、『残響』という中篇の後半ぐらいだっ これを書いている間は体が壊れたんですよ。机に向かって たんだけど、あれを書いたために、猫のチャーちゃんが死ん いる間には三十八度以上の熱が出るとか、じんま疹が出ると じゃったと、いまだに思っているんだよね。あれで周りの気 か、まさに保坂さんが面白くなってきていると言ってくれた を歪めて書いちゃったからって。チャーちゃんは俺に一番な 後半ぐらいからは、著者が体を持っていることを本が許さな ついていて、圧倒的になっき方が違っていたんで。 いんです。本が体になれと言っている。机に向かって書いて古川受けとめちゃって吸収しちゃうみたいな感じですね。 いると、突然おなかの前がきつくなるんです。どうしたのか保坂さんとチャーちゃんとの皮膜がすごく薄くて、出したも と思うと、おなかが膨らんできちゃって、机と体の距離が詰 のを一番入れちゃったということですね。 まるんです。 保坂そうそう。猫って、もともとそうだから、病気の人に 保坂気でおなかが膨らむらしいんだよね。気が充実してい 飼われていると早死にしたり、変な死に方をするんですね。 る人って、赤ちゃん体型なんですって。朝青龍が、その一番だから、そういうことをして周りに迷惑をかけるのをやめ 典型的な体型だったそうです。 た。もっとダラダラ生きるようにした ( 笑 ) 。 古川やつばりそうですか。妻が愕然として、「どうする ? 」 ( 二〇一五年十一月十八日、講談社にて ) 124
ですね。ふだん対人的には私は外見を気にしないんですよ ? 一つずつ消えていった。私はつづけた。 人同士だとやつばり内面的なものの作用が大きい。そもそも 「鑑賞されることが前提になっているものを鑑賞するのは、 ある意味では当然のことですよね。結城さんはたぶん、そう 私のティストにかなう人ってあまりいませんし、」 結城さんはそこでふいに言葉を切り上げ、それとなく別の いうものには反応できなくて、我が身ひとつで何の道標もな しに歩いて、見出したものを潔く所有する。なくしたら取り梯子をかけ直すように再び話し出した。でも彼女が省略した 返すほど徹底的に。それってすごく孤独で贅沢なやり方に思部分を、私はたどることができる。 玄関で対面した瞬間、彼女は私を見て目の色を変えた。 えたし、だから結城さんに興味がありました。振り出しに戻 ることなんかなく、自分の空白を埋めて自分を作っていく人黙っていてもわかった。むしろあまりにもわかったから一一一一口葉 がいらなかった。私の外見は結城さんの趣味に一致したの のことを、知りたかった」 結城さんは頭を傾げて片手をその後ろに回し、彼女の元夫だ。豆電球つきの修正液や隣町の電柱と同じ系列に自分も連 なったラとは、、 カまわないとしても、さすがに意表を衝かれ が「その短さでなんでくくる気に ? 」と評した一つ結びの根 た。結城さんはなにごともなかったかのように話していた。 もとを、軽くつかんだ。それから手放して、言った。 「ただ、赤ん坊はしばらく無力だから。自立してくれるまで 「実はもうすぐあの会社辞めるんです」 は親の所有物みたいなものなんでしよう ? 私は、所有した 「水泳のインストラクター一本で ? 」 くないものとは無縁ですごすことに慣れてるから、こわいん 「いえ。そろそろ臨月なんです」 、です。私なんかのもとに生まれてくるのはあぶなすぎる」 私は短く絶句してから「わからなかった。それは、おめで 「でも産むことを選んだんでしよう」 とうございます」と言った。会社のあの席は私と彼女の二人 「堕ろそうと何度も思ったけど、なかなか、なかなかふみき だけで共有していたわけではなかったのだ。三人だった。 れなくて、時機を逸しました」 「めでたいですかね ? 」 トレーニングの最中みたいに禁欲的な声で、結城さんはっ挨 結城さんは静かに言った。 の づけた。 「こわいですか」 へ 房 「こわいですね」 「ひょっとしたらいちばんこわいのは、子どもが完全に私の女 「自分の趣味に合わない子どもだったらどうしよう、つ趣味と一致していた場合かもしれませんね。その子のなかで絵 だんだん心や言葉が増えていって私から離れるのに耐えられ て ? 」 なくなって、完全に所有したくなる場合」 「参ったな。砂村さんは私のことをほんとによくご存じなん
んだけど。 日本近代文学で言うと、漱石、鵐外が文豪とか言われてい て、カノン ( 規範 ) になっているわけですけど、はたしてそ佐々木 famousbook だと、村上春樹ぐらいしかなくなっ れは、単純に彼らの作品の質や水準が飛び抜けて高かったか ちゃいますよね。 らなのか、どうなのかという問題ですね。例えば国語の教科 松浦フェイマスな作家というのはいるし、フェイマスな本 書に載るとか、文学賞受賞で箔がつくとか、いろんな制度に というのは幾らも書かれていて、そのつど何十万部も売れた よってカノンというのは支えられている。作家のキャラクタ りなんかしているんだけれども、それは日本語でいう名著と ー化の話が出ましたが、「則天去私」の人生の師漱石などと いう語感とちょっとずれるじゃないですか。何十万部も売れ いう人格神話もそういうものの一つで、そういう作品外のあ ている本を本気で尊敬するやつなんかいるはずがないんだか クラシック れやこれやを基盤にして、名著とか傑作とか、文学史に残る ら。まあ、佐藤さんから出た古典という言葉のほうが、きょ 作品というものがつくられていくわけです。しかし、きよう うの討議の趣旨だろうとは思うのですが、古典、あるいは日 問題となっている二〇〇一年以降の小説の場合、どうなの本文学史において確固とした規範たり得るような名著といっ 。文芸批評家のある意味で使命と言っていいのは、自分な たものが、そもそも二〇〇〇年代にあり得るのかどうか、僕 りのカノンを提出することでしよう。それが批評家の文学史は実はちょっと疑問に思ってるんです。文学賞が本当に有効 に対する貢献だと思うんですが、スクラップ・アンド・ビル に機能しているのか、という疑いにも結びつくんだけど。 ドの時代に、果たして批評によってそういうことを行い得る 逆に言うと、そのこと自体に今の文学状況の面白さがある のかどうなのか。つまり、暫定名著とありますけど、カノン というふうに捉えるべきだろうとは思うんですけどね。 として機能し得るような名著自体が存在し得るのかどうかと 富岡文芸批評ということで言うと、文学史が書かれなくな いう問題があると思うんですね。 りましたよね。それは出版状況とか、かってのような文学全 きようは名著というお題だったので、これは英語で何とい 集が出ないとかあるけれども、文学史で、これはこうだと評 うのかと思って和英辞典を引いてみたら、単に famous book 価していく文学の価値や、第一次戦後派とか内向の世代とか と書いてあるんですよ ( 笑 ) 。 命名する、文学の規範が既になくなっている。 佐々木身もふたもないですね。 ただ、それは必ずしもマイナスじゃなくて、松浦さんが 松浦身もふたもないわけ。名のある著作ということでね。 おっしやったように、そこに面白さがあるし、未来に残るか 傑作とい、つのだと、 mas ( erp 一 ece とかい , っことになってくる どうかわからないけれども、今の現実なり状況と刺激的に向
ちゃっていると思うんです。 佐藤確かに『シンセミア』で描かれる神町にしても、古川 中上健次の問題をどう引き継ぐかということの中で、ます日出男の『聖家族』で描かれる東北にしても、中上の代表作 大きな仕事をやっている人は阿部和重だと思うんですけど、 で描かれる熊野とは印象が全く異なります。もはや中心が無 阿部さんが『シンセミア』でやったことは、やはり中上とは く網羅的な、現代の物語に思える。そういう意味では中上の 全然違っちゃっている。声ということで言うと、古川日出男後期作品『異族』と繋がる感じが私はするのですが、また二 さんも、ある意味で中上が試みたようなことを明らかに自分十世紀の話に戻ってしまう。 なりのやり方で書こうとしている方だと思います。でも、 文学の外側のエンタメという話が出ましたが、ひとまず小 やつばりそうはならない。その意味は何かと考えたときに、 説のジャンルに限定して考えた際、純文学とエンタメ小説と 文学という一言葉が、もうはっきり括弧つきでしか使うことが を超越している作家として、村上春樹が今なお健在です。 できなくなったということは大きい。さっき文学の外側にあ清水僕が『 1Q84 』を挙げたのは、村上さんのあらゆる るジャンルということでポピュラー音楽と映画を挙げました 作品の中で最もリーダブルな作品だったからです。一種、ミ けど、かって文学的だと思われたようなことを今やっている ステリーアクション小説のような体裁をとっている。実際、 のは、もしかすると文学の外側のエンタメと言われているよ殺し屋の女性が出てきて、女の敵を殺害していくというシー うな人たちかもしれないわけですよ。その中で、文学という ンから始まって、リトル・ピープルという、例によって春樹 言葉で呼ばれている試み、文芸誌に載るということがどうい さん流の謎めいたメタファーというのがきらびやかに出てく う意味を持っているのかというのは、本当に今問われる状況るんですけど、僕自身は、この作品にはむしろ春樹さんの中 にある。 にあるレイモンド・チャンドラーへの先祖返りのようなとこ 現在の状況から考えると、文芸誌がなくなるということ ろがあると思って、一番好きなのはなんですね。 は、実質的に「文学」というジャンルがなくなることだと思 二流探偵がボディガードのタマルという変な男に殺されてし うんですね。その危機感というか、崩壊の兆しというべきも まうシーンは、村上作品の中では異色と言っても、 のが、今回リストにあがっている現代の書き手の作品の中に 、ものすごい精彩があった。 出ている部分も、もしかしたらあるのかないのかみたいなこ 村上さんは、自分の作品で大事にしていることは、やつば とを思っていましたけど。 りポイスだと思うんです。語りの芸のような文体では書かれ
的命題の総括」がふくまれていると論じられていたけれど る。技術にあって問題となるのはひとえに自然原因であ も、両義性を回避しようとするなら、これらはむしろ「技り、それを裏うちする自然概念であって、自由概念ではな 術的命題」と呼んでおいたほうがよいだろう。それらは、 、。倫理とは、そしてカントにとって、端的に自然を超え その存在が意欲されるものを現実化する「技巧 Kunst 」 , るものである。自然過程に下属しない自由を前提としてい コロラリー ぞくするものであって、基本的には理論的命題の系、も ることで、無条件的に自然を超越するものなのだ。かくし しくは帰結に所属するものにすぎないからである (EE て、自然と倫理が分断されなければならないのとおなじよ うに、倫理と技術のあいだにも決定的な境界線が引かれな ひとことで言えば、こうである。いっさいの実践的命題ければならない。 問題は、カントの実践哲学構想その は、それが自然原因によって産出されうるものを、原因と ものにかかわっている。すこしだけ立ちかえっておく必要 しての意志 ( 選択意志 ) から導出しようとするものである がある。とりあえず『基礎づけ』におけるカントの所論か かぎりで、むしろ技術的命題と呼ばれ、そうしたものとし ら見ておこう。 てかえって「理論哲学」にぞくする。これに反し、自由概 自然のあらゆる事物はたがいに作用しあい、かくて自然 念を前提とすることではじめて可能となる実践的命題のみ の内部にはさまざまなできごとが生起する。それらいっさ シュペッイフィッシュ が、その内容にかんしても理論哲学から「種別的に」 、は、法則にしたがって作動し、生起している。カントに 差異化される。ひとり後者のみが「特殊な実践哲学」を、 よれば、しかし、「ひとり理性的存在者のみが、法則の表 カントのばあいには道徳哲学 ( 倫理学 ) を形成することに 象にしたがい、すなわち原理にしたがって行為する能力を なるだろう (vgl. ト 197 ) 。 そなえている」。理性的存在者たとえば人間もまた、崖か カントはここで、技術と実践とを決定的に切断してい ら落下するときには自由落下の法則にあらがうことができ る。あるいは、自然と倫理とのあいだに踏みこえることの とはいえ谷底からふたたび攀じのばるにさいして できない分割線を引いていると言ってもよい。技術も、し は、切りたった断崖を登攀すべきであることが表象されて かし、人間の実践の一部、すくなくともすぐれて行為に いるだろう。この件が理性的存在者一般、とりわけ人間が よって可能となるもののひとつではないだろうか。カント 「意志」を有することの意味である。法則から行為を導出 によれば、そうではないのだ。かってアリストテレスもそするためには「理性」が必要とされるから、この場面で意 テクネー ピュシス う語っていたとおり、技術は自然を模倣する。技術は自然志とは「実践理性」にほかならない (vgl. GMS 4 一 2 ) 。 にもとづき、自然に寄りそうことによってのみ可能とな 行為の規則が意志に対し強制的なものとなるばあい規則 199f. ) 。 246
さてそして、パンの男が言う、当然、知っているのに都合が なた方の弁論を聞いている多くの群衆と同じですよ」 悪いので気がっかない振りをしている真の理由とはなにか。 とバンの男が指さす先には多くの群衆が蹲っていた。黒い それは天の下した刑罰であった。人間がすることが気に入ら 目をして鼠のように前歯を突き出したり、頬を膨らませてメ ない、或いはその他の理由によって、天、すなわち人間の知 ジロのようになっている者もあった。顎をガクガクさせてい 恵の及ばない超越的な存在が光の柱となって顕現して、人間 る者の丸首シャツは薄汚れ、首元がダルダルに伸びきってい を焼き尺、くしたというのである。人間はこんなことをされる た。どの人もやる気を失っていた。関係がない、興味がな どんな悪いことをしたというのだろうか。それは人間にはわ という雰囲気を全身から発散させていた。それは無言の 抗議のようでもあった。そうやって理論や理屈を捏ねくり回からない。人間だけではなく動物も一緒に吸い込まれたとこ ろを見ると、悪いことをしたから、というよりは単に気に入 しているが、そんなことはっきりしてるじゃないか。考える らなかったからではないか。そんなことを言う者もあった までもないあたりまえのことじゃないか。それを訳のわから が、賛同する者はほとんどなかった。 ないことを一一一一口ってそうじゃないことにしようとしているおま と 「それであなたはどう思うの」と私は、ポツリポツリと語り えたちのあたまのおかしみが俺たちには理解できない、 出し、途中からはけっこう滑らかにときには芸人のように声 言っているようだった。バンの男は言った。 色なンぞを交えて語るのに半ば呆れながら問うた。彼は全部 「そうなんですよ。群衆はなぜこうなったかを知っている。 少しすつあるのだと思う。と答えた。すなわち、そのすべて そしてそれを直視するのが恐ろしいから、都合が悪いからそ の事由が同時にまたは少しずつずれてでも一部は重なって、 うじゃなかったことにするためにいろんな理屈を繰り出して それであんなことになってきたのだろう、というのである。 くる頭のいい人たちを呆れつつ馬鹿にしているんだな」 「そうでなければ」と彼は言った。「そうでなければこんな奇 「なんだと、このトーテムボール。じゃあ、なんだっていう 天烈なことが起こるわけがない」私は、「どんなことなので んだっ、言えよっ」 す。その奇天烈なこととは」と問うたが、そのときは答えな 「それは : : : 」 「うるさいよっ、黙れ」 男は私が一番、聞きたかったことについても話をした。そ 「言えよと言い、黙れと言う。それこそがあなたがなぜこう れは私の犬についてであった。私が男にそれを問うたとき、 なったかを知っているということを証明しちゃってますよ」 さっきの女の人が水を運んできてくれた。水は丸くて底の浅 と、バンの男が言ったとき、丸首シャツの男のガクガクし い銀色の椀に入っていた。私は女の人に静かに目礼した後、 ていた顎が一瞬、停まって、すぐにまたガクガクし始めた。 159 ホサナ
べ、指についた煮こごりを甘そうに吸い、それでもなんとな さ。いまどきバンとは豪儀だね。とまれ、僕に少し呉れない く膏つばい指、べと付く指を自分の腹や陰毛にこすりつけて か」ヤキトリの男はそう言って隣でバンを食っている若い男 気持ちよさそうにしている男が言った。「さあ、それはどう を見た。男はなにも言わず。ハンを食い続け、答えなか、った。 かな」「なにが、どうかな、だ。腐れ外道がつ。ろくな自説ヤキトリの男はこの冷淡でよそよそしい態度に憤激した。嵐 もない癖に人の思考に難癖をつけるなよ、ツルニチニチソ の中、小舟を出し、小舟のなかで気むずかしい顔で立って泣 ウ」「罵倒が難解すぎてわからない。 とまれ、間違ってるこ きながら濡れてたあの時代の熱い思いをこの男は共有してお とに変わりはない」「どこが間違ってるんだよ」憤激した男らないのか。そんな狂おしい思いが男の脳髄を支配してい は目を掻きむしり、掻きむしりすぎて時折、激痛に、あああ た。ヒューマン・ポン卑。そんな訳のわからない言葉が自然 ああっ、と絶叫するなどしながら詰め寄った。「まあ、穏や と口をついてでた日々をわすれたのかつ。そんなことを喚き かに話しましようや。確かに僕らは暗闇に押し籠められて散らしたい気持ちを抱いた。けれども。ハンの男は反応をしな 少々気が立っている。でも浮浪者には浮浪者の知恵がある。 かった。ううつ。嗚咽が洩れた。これにいたってようやっと そうでしよう、プロフェッサー・ロングへアー」「馬鹿にし ハンの男が口を開いた。 てるのかっ」「ままままままままま」そう言ってヤキトリの 「泣きましたね。撒きましたね。さあ、このバンをとりなさ 男は膏の手の指先を揃え、小さく上下させて宥めるような仕 食べてもよいのですよ」バンの男が声を掛け、ヤキトリ 草をした。「とまれ、実験ではない、 ってことでしてね、ま の男はやっと言葉を喋ることができた。「ありがとうよ。で ま士ままままま士ま、まままままま十 ( 、そ , つじゃなく、あ も、僕は君を許した訳ではない。い までも憎んでいる。だっ れは産業の事故だと僕は思いますね。途轍もないエネルギー てそうだろう、君は僕の問いかけを無視したのだからな。こ を発する産業の事故が連鎖するとああいう現象になるんですんな屈辱に僕は耐えられない。僕の複数の事故が重なってあ よね。僕、そういう事故に遭ったことあって、そのときは今 んなことが起きた、という意見に対しておまえがどう思うの 回ほどひどいことにはなりませんでしたけど、それでもマア か。それを聞くまでは一歩も動かない」そう言ってヤキトリ マアひどかったっすよ。覚えてないスカ、プロフェッサー」 の男はパンの男を睨み付けた。そのまなざしはきちがいのよ 「スカ ? 僕がスカだというのか ? 」「ままままままま、まま う。その頬には流れた涙に煤と埃がついて黒い筋がくつきり ままままま。とまれ、事故だってことですよ。発表する政府と現れていた。その視線に怯むことなく、バンの男は言っ もなくなるくらいのね。とまれ、事故が事故を呼び、複数の 事故が重なってあんなバケモノが生まれちまったってわけ 「意見は、ごらんなさい、そこで先ほどから黙りこくってあ
どあって、面積からいうと、そっちのほうが断然大きいんだ保坂もろ、そうなってますよ。 よね。それを考えると、今は中国がいろんな民族を支配して古川ありがとうございます。ただ、これができるかどう か、最初はわかんなくて。デビューしたころからすごく悩ん いるけど、中国自体はちっちゃい でいたのは、もともと持ってる専門的な知識で書いているん 国だって、国は政府なんだと考えれば、地方のはうがずつ でしようとか、自分は書けると思っているでしようとか、み と大きくなってくる。地方のほうが大きくて、地方の集合の んな僕に関して相当な先入観があって。僕、大体どういうも 上に政府という国がのっているとか、膨大な歴史、いろんな のも、思いついたとき、「これはすごいけど、誰が書くの ? 歴史がある中で一つだけ正史と呼ばれるものがちょこんと のっているだけで、危うい均衡を今に振りかえる。そういう俺かよ : : : 」と絶望しているんですよ。 保坂本が一冊あれば、本を書く前にプランの青写真がある 現代性を、この小説は持っているんだよね。 と思っているんだよね。書きながら、書く行為を通じて、そ 古川結局、僕たち、自分で現実を認識していると思ってい るけれども、それは今まで蓄積された言葉を介して自分で世れがつくられて立ち上がってくるということが本当にわから れてない。世間の人たちは何度言ってもわかんないんだよ。 界を構成し直しているという作業でしかないわけで。明らか びつくりするよね。 に自分で体験した現実よりも書物を通してプロセッシングし 古川しかも、たとえプランを持ったところで、つくり始め てきた現実のほうが大きいと思います。 ちゃうと、その細部は絶対にプラン全体を変容させちゃう。 日本で言ったら、平安時代までさかのばったところで、京 それで、もともと見えていたビジョンと齟齬ができてきたの 都という大きさ、あるいは五畿内という大きさよりも、その を、どこまで齟齬に自走させて、どこまで齟齬を統御するか 外側のほうが大きかったわけだし、ちょこんとのっているも のを支える土台である部分、あるいは周囲を包囲している部という、そのやりとりの過程が書くということだと感じてい るんですね。 分のほうが大きいんだということは、真っ当に社会で生きて そこで引きずられたり引きずり返したりしている中で初め説 いると「それは考えちゃいけないぜ」と言われちゃうんだけ て、あ、俺、この世の中のことを全然わかってなかった、 ど、もともと考えたところで「あんたが持っている考えは、 書 やっとわかってきたという感じで、一冊書くごとに、やっと 大体誰かの考えを教え授けてもらっただけなんだよ」みたい で 身 なところからスタートしないとダメで。多分、僕はそれを一 幼稚園児になれたみたいな感覚がありますね。 全 冊の本の中で徐々に体感できるようにしたくってしようがな保坂そういう感覚からの歴史観とか日本観とか国観という 感じのものが、ここでは本当に立ち上がってきている。で かったんだと思うんですね。
きるようになった。そういうものを時々思い出して読み返し の自分の一貫性というのは結局、自分と言われるものの記憶 てみたりする間に、九〇年代の初めにアゴタ・クリストフの に帰してしまう。それがベルクソンが『物質と記憶』でやっ 『悪童日記』の翻訳が出て、ほんとうに面白いなと思って読 た問題だと思います。長野さんは、『少年アリス』の頃から、 みました。 記憶喪失にこだわりがあったし、他人の記憶にもこだわりが あったし、自分の記憶と他人の記憶の境界線に関してもこだ 今はいわゆる英米文学じゃないところで書いている人たち わりがあった。そのこだわりがいま詩と歴史への関心となっ の作品を読むことが多いです。最近は新潮クレスト・ブック スばかりで、カナダのアリステア・マクラウドや、ロシアの て現われているのだと思う。 リュドミラ・ウリッカヤの著作を固めて読んだりしていま長野記憶に関しては、ずっと c-v やファンタジーの形じゃ ないと書けないと思っていました。記憶は、意識の中にとい す。私は翻訳でしか読めないから、翻訳が出るのを待っしか ありませんが、その人たちが書いているのも土地のことで うか、一人の肉体の中にとどまるものではなくて、持ち運び ができたり、入れかえができたり、それが時を超えてほかの す。特にマクラウドの作品は、ノバスコシアとか北の海のこ とが書かれています。日本の歴史は最近勉強し始めたけれど人に使われたりというふうに、何かある形を持ったモノと化学 してポータブルになっている。その状態を書くのに、当時のの も、ヨーロッパのことは何も知らないなと実感しながら読ん でいます。 筆力の問題もあるけれども、現実の中へ取りこむことはとて時 もできなかったので、として表現しました。そうするり 三浦日本に限らず、地誌や歴史はそれ自体が言ってみれば と、ずっと読んできている読者の若い世代ほどそれに反応す終 無名の膨大な人々が人類として書いた巨大なフィクションで るというか、書いてあることが読めるんですね。 説 す。記憶は事実の虚構化、作品化です。『冥途あり』に収め そのいつばうで、大人からは「わけがわからない」とずつ られているもう一篇「まるせい湯」もそうですが、地誌は必 と言われ続けることになる。そのころ書いたものは、今読み一 然的に歴史であり、空間はつねに時間を含んでいるという認 ジ 返すと、自分でも何を言わんとして書いたのかよくわからな 識はとても重要です。世界文学の要請に応えている。 工 い部分もあります。 言葉の仕事はいま詩と歴史という二つの焦点へと向かって と一 いると言いましたが、それが必然に思えるのは、自分という 三浦それは実際に小学校五年生、六年生くらいから始まっ略 て、いわゆるティーンエージャー、十三歳以上の中学生、高 のは一個の他者だということが明確化されつつあるからだと 思います。自分とは外部のことなんですね。外部から見たそ校生にとって最大の問題だからです。自分がいまここにこう