今回の議論で重要になってくると思われます。 ■資本主義におけるねじれ現象 ほかのトピックスとしては、一つは自然科学です。池田さ んもいらっしやるので、科学論の失墜についてお伺いしたい 大澤 ( 信 ) 今回、二〇〇一年から二〇一五年までの名著を 考えるということですが、この十五年間を考える前に、さら です。かって科学論が現代思想に接近したときには、思考の 交流があった時期もありました。でも今は、専門家の啓蒙書 に十年ほど遡るところから始めたいんです。というのは、フ ランシス・フクヤマが一九八九年に発表した論文「歴史の終 が多くの読者を獲得しても、科学が思想的な課題にはなりづ わり ? 」で、冷戦の終結によって共産主義と資本主義のイデ らくなっている印象があります。それから国内での犯罪事件 オロギー対立は消滅し、世界は安定した方向に進むというビ があります。少年犯罪の件数が増えたか減ったかは別にし ジョンを提示しました。しかし、その直後に湾岸戦争が起こ て、非常にイン。ハクトのある事件が生じました。最近、神戸 り、日本ではバブル経済が崩壊します。それから約十年を経の酒鬼薔薇事件の元少年 < が手記を出版して話題になりまし た二〇〇一年に、九・一一のテロで二十一世紀が始まる。 たが、この十五年間に、世間の常識では理解の及ばない、若 そうなるとフクヤマの言っていた「資本主義と民主主義の者による猟奇的な犯罪がたびたび発生しています。ジャッ 勝利」みたいな話は何だったのか。すると、この十五年を括ク・ラカンはもともと、猟奇犯罪の研究から精神分析の理論 をつくっていったという経緯があります。 るときに重要になるのはむしろ、柄谷行人さんの『トランス あと、今回はフォローできるかわかりませんが、 クリティーク』 ( 二〇〇一年 ) からトマ・ピケティの『幻世紀 の資本』 ( 二〇一四年 ) という、資本制についての批判的考察 W 一 ndows95 以降にパソコンとインターネットが普及してい ではないでしようか。資本主義が世界を覆った二十世紀末以 く中で、文化やメディア、テクノロジーがどういう役割を果 降、国内的にはナショナリズムや労働格差の問題が次々と出 たしたのかということも、この十五年間を考える上で必要な てきました。特に、ここまで日韓・日中関係が悪化するのは視点だと思います。 想像外で、自分の同世代が嫌韓・嫌中に走り、ナショナリズ大澤 ( 真 ) 今回、名著を選ぶにあたっていろいろ本を思い 出しながら考えていたの←すが、二十世紀と一一十一世紀に ムが力を握ることになるとは、大学時代には思ってもみませ んでした。他方、国際的にはイスラム教やテロリズムが問題は、たまたま数字上の区切りがついただけではなく、文学や になりましたが、二〇〇〇年ごろに自分が思想書を読んだり . 哲学、あるいは自然科学も含めた思想界に、何か質的な転換 があったという感じがしました。信亮さんが『トランスクリ 哲学や文学を学んだりしていた中では、それほど前景化して いなかった気がします。そのあたりについて思考した本が、 ティーク』から『幻世紀の資本』までと設定してくださった
。なしか、ともなる。フクヤマの予言は、まちがった理由に よって、表面上は当たっていた、という感じになったわけで す。昔だったら、そこでいよいよ労働者が立ち上がるときな のに、その逆で、ますますマルクス主義はあり得ないという 話になったわけです。そういうねじれ現象が起きているのが 面白いところです。 池田普通だったら、資本主義が悪いから格差が広がったん ヒケティはそういう意見じゃない。 だという話になるけど、。 でも、『幻世紀の資本』を読んで資本主義の拡大と格差拡大 がバラレルになっていることは理解できても、何が結果で何 が原因かがよくわからなかった。彼の示す処方箋でうまくい くかど , つかもわからない。 もっと言えば、格差を是正するた めの有効な処方箋がそもそもあるのかないのか、誰もわから なくなってきているんだよね。 民主主義という制度のもとで選挙を実施すると、日本では 嫌韓・嫌中派が非常に強くてナショナリズムを煽る。そうい う流れは、昔で言えば国民国家を強固にしようという話で しよう。だから一般国民に向かって安倍さんがアピールして スムとは逆のことだ。しかし同時にアメ いるのはグローバリ。 ースムを裏で推進しているという矛盾に リカ主導のグローバ丿。 陥っている。強い日本を目指すといって推進している政策 が、国民国家の解体という冗談みたいなことになっている。 ースムがアマルガムのよう 現状はナショナリズムとグローバ丿。 に全部まじって、かなりグズグズな状況だよね。それをどう いう政策で立て直していいか、誰にもわからないんだと思 二〇二年 ) ・ケネス・ポメランツスティーヴン・トピック『グロー 経済の誕生ー貿易が作り変えたこの世界』 ( 福田邦夫・吉田敦訳、 筑摩書房、一一〇一三年 / 原著一九九九年 ) ・トマ・ピケティ『幻世紀の資本』 ( 山形浩生・守岡桜・森本正史 訳、みすず書房、二〇一四年 / 原著二〇一三年 ) 日モニク・ロバン『モンサントー世界の農業を支配す る遺伝子組み換え企業』 ( 戸田清監修、村澤真保呂・上尾真道訳、作 品社、二〇一五年 / 原著二〇〇八年 ) ■大澤真幸さんが選ぶ「幻世紀の暫定名著」 ・ジョルジョ・アガンペン『アウシュヴィッツの残りのものー アルシーヴと証人』 ( 上村忠男・廣石正和訳、月曜社、二〇〇一年 / 原著一九九八年 ) ・アントニオ・ネグリマイケル・ハート『〈帝国〉ーグロー バル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』 ( 水嶋一憲・酒井 隆史・浜邦彦・吉田俊実訳、以文社、一一〇〇三年 / 原著一一〇〇〇年 ) ・山本義隆『磁力と重力の発見』 ( みすず書房、二〇〇三年 ) ・岩井克人『会社はだれのものか』 ( 平凡社、二〇〇五年 ) ・ニクラス・ルーマン『社会の社会』 ( 馬場靖雄・赤堀三郎・菅原 謙、高橋徹訳、法政大学出版局、一一〇〇九年 / 原著一九九七年 ) ・柄谷行人『世界史の構造』 ( 岩波書店、二〇一〇年 ) ・鈴木健『なめらかな社会とその敵ー・分人民主主 21 世紀の暫定名著一般書篇
ので、この端緒と終端の二冊に即してこの転換の印象を一一一一口う るエマニュエル・トッドの本にもそういう傾向は見られます。 と次のようになります。まず、二〇〇一年に出た『トランス大澤 ( 信 ) 社会経済学がご専門の松原さんは、この十五年 クリティーク』は、僕が思うに二十世紀的な本の最後なんで についてどう思われますか。 すね。柄谷さんはその後、二〇一〇年に『世界史の構造』と 松原自由民主主義と資本制の中で個人個人が自由闊達に いう同じぐらい分厚い本を出しました。でも、その二冊は雰 やっていけば、経済も政治もうまくいくという考えが定着し 囲気がかなり違いますよね。柄谷さんは今でも二十世紀的な たんだと思います。それ以外の体制を模索する歴史は終焉し 雰囲気を残しているけれども、その柄谷さんでさえも大分変 たというフクヤマの予言の通りにです。実際、二十世紀の経 化してきている。その変化の中に、二十世紀的なものと二十済学は基本的にその路線で進みました。国家が市場に介入し わには , っ【刀 _> _> 一世紀的なものの転換が反映しています。 、と、うのが戦後のケインズ主義でしたが、一九 ピケティの『幻世紀の資本』には、富の格差拡大による社 七〇年ごろから、ロ バート・ルーカスをはじめとした経済学 会の行き詰まりを防ぐにはグロ ーバルな累進課税が必要だ者が「合理的期待」という仮説を打ち立て、学界がそちらに と、簡単に言えばそういうことが書いてあるわけです。もう流れたことで、自由放任でいいんだという方針が顕著になっ じき人類史上最大の格差になるそ、このままだともうおしま てしまいました。経済学の中に「合理的期待」を押さえ込む いだ、破局が迫っているみたいな雰囲気で書いている。そう 一一一一口論はもう成り立たない状態になって、しかしグローバリズ すると、二十世紀であれば、左翼になって革命しかないとい ムは一方的に進行し、そこにリーマンショックが起こり、金 う路線になるはずなんです。ところがピケティは、それでも融資本がクラッシュしてしまった。トッドは『帝国以後』以 資本主義は受け入れざるを得ないというところから始めてい 降の見通しとして、アメリカは帝国化したけれども金融危機篇 書 ます。そこで税制改革という、ある種の行政手段を持ってく で没落するだろうと予告しましたが、これもその通りになっ 般 るわけです。ピケティが言っているのはグロ ズムから国民を守る ーバルな税制改たのです。トッドはそこで、グローバリ 著 革だから、世界政府的なものが必要で、言わば世界共和国が というケインズの保護主義再評価に向かっていくのですが。 名 そこにピケティが出てきました。二十世紀の趨勢としては定 成り立たないと実現できないわけですから、ほんとうは革命 と同じぐらい大変なことです。でも革命を選ばず、グローバル労働者の取り分は結構増えていって、それについてマルクスの な資本主義に対する徹底した現状肯定から始めるところに一一主義の搾取説では説明がっかなかった。資本主義経済の発展地 十一世紀らしさを感じました。。 ヒケティと同じフランス人の によって所得格差は縮まるというサイモン・クズネッツの議 論の方が支持されていました。しかし世紀が替わる頃から格 社会科学者ということでは、お二人の方が「名著ーに挙げてい
ねばならないという考えでした。しかし、運動の内部には の印象で言うと、資本主義自体に対しての抵抗が意識化され 「カネをよこせ」とか「正規雇用者は苦しめ」みたいな意見も ていなかったんですね。この生きづらさは誰のせいだ、金持 あって、それが結局は「今の若者は貧しいけれどもそれなりに ちのせいだと固まってしまった運動だったということが、ま 満足しているんだ」というところへ着地してしまった感があず根本的な弱点としてあったと思います。自分の生きづらさ ります。かってであれば、現状を変えるには革命がいいのか他のはけロ探しになってしまった部分がある。それと関係して の方法がいいのか、どんなビジョンを持てばいいのかといっ いますが、加えて、労働問題として議論や活動をしていた人 た話に発展したはずなのに、そういう話にならなかった。そ たちが、三 ・一一以後、反原発・脱原発のほうにシフトした もそもそういう本も出ていない気がするんですね。僕の知る ことも大きかった。とても違和感を覚えました。反安倍政権 かぎり時代を超えて読まれるべき本は杉田さんの本だけです。 のデモにしても、意味があるとは思うけれども、一体労働は ピケティが流行ったと言ったって、再分配をどうやっても どこに行ったんだろうと。それから僕自身が今は大学の契約 う少し機能的にするかといった話ですよね。それに対して僕教員になったので、当事者意識が薄れたということもありま は、さっき真幸さんがおっしやったように、二〇〇一年以降す。それも含めて現場の人たちがうまく世代交代できなかっ の議論が非常に薄っぺらいという印象を持っています。読ん たという問題もあると思いますね。 だ一週間後にはすっかり忘れているような本ばかりで。現状 松原賃金が下がって労働分配率も下がり格差が広がってき 対応的にその都度薬を与えて、「死にはしないんだから幸せ た、それなのに革命が起きないということについてだけ一言え じゃないの。みんな苦しいんだよ」みたいなところに議論が ば、デヴィッド・リカード的な考えで割と簡単に説明がつく 滑っている気がするんです。 んじゃないでしようか。リカードはマルクス以前に資本の利 斎藤一つお訊きしたいんですが、杉田俊介さんたちの「フ潤率の低下が資本主義の停滞をもたらすと説いた人ですが、 リーターズフリー」のような運動が数年盛り上がった後、今資本の利潤率を上げるための打開策として穀物 ( 輸入禁止 ) 度は古市憲寿的な若者像が一気に状況を席巻して、実は若者法を撤廃して自由貿易にしようと主張しました。自由貿易に はそこそこ幸福だったんだという話になり、いわゆる弱者的すれば安い穀物が外国から入ってくるから労働者も何とか生 な若者像が霞んじゃいましたよね。そこで古市憲寿的なもの活できるし、安い穀物を労働者にあてがうことで資本の利潤 に抵抗する人があまり出なかったのは不思議な気がするんで率も上がる。現在でいえば、でしよう。デフレで三百 すが、なぜなんでしよう。 円弁当なんかが登場して、それを食べていればとりあえずは 大澤 ( 信 ) 運動論的な問題は別にあるとして、自分の周辺生きていける。労働者は昔みたいに生きるか死ぬかというぎ
のグロー なければうまくいくんだという消極的自由主義に対して、今 丿ズムに抵抗しようとしたスコットランド的なも やマルクス主義は対抗軸にならない。そのときに、ヨーロッ のなんです。スミスは一方で自由の必要性は説きますが、も う一方で徳が必要だと一一一一口うために、『マキアヴェリアン・モ ハの近代主義の中に共和主義という伝統があるんだというこ とをポーコックは言ったわけです。それをマキャベリの中に ーメント』的なものとして『道徳感情論』を書きました。不 読み込んだり、あるいはイギリスの市民革命の中に見たりす動産の安定所有を基盤とする共和主義を唱えたハリントンや る。僕がポーコックの本の中で一番面白かった箇所はアメリ マキャベリの線で古代ギリシアにさかのばり、恵というのは 力の独立革命に対する解釈ですけどね。 一体何なのかを考えたのです。イングランドが国債を発行し 共和主義というのは、規制をどんどん撤廃して自由貿易体てカネを集め、官僚制を完備して軍拡を進めるというここ百 制を敷くという、今世界を席巻しているタイプのリべラリズ年のアメリカと同じようなことをやろうとしていた時代で ム、消極的自由の確保に重点をおくリべラリズムに対する一 す。スミスが批判したイングランドの重商主義は、後の帝国 番はっきりとしたアンチテーゼの一つだと思うんですよ。た主義の走りでもありました。そういう方針に対する対抗軸と だ、ポーコックの考えは専門家の間でこそそこそこ広まって してスコットランド的なものを打ち出し、古代ギリシアまで いますが、広く言論界を見た場合そんなに知られていませ 戻って自由民主主義を考えた。その意味は大きいと思ってい ます。 ん。僕が指導していた大学院生の何人かはよく『マキアヴェ リアン・モーメント』を引用しているんですが、普通の人に 徳の中身は論者によって変わるのですが、歴史的な文脈や は全然通じないだろうなと思うんですね。この本を挙げた松教養にもとづいた感覚という点では共通しています。そうし 原さんの意図を伺いたいです。 た発想が、共和主義が徳と呼んだものであり、現在では社会的 規制の核にあるものだと思う。しかし一方では無教養に知性 松原自由民主主義や資本主義の内部で別の解があるのか。 そういう大きな問題を考える上で参考になるからという理由 だけが広がっていって、そんな感覚を持ち合わせないのが今の が一つですね。しかしもう少しマニアックに言いますと、経自由民主主義的な資本制です。本来は多様な商品を交換する はずの自由貿易において多様性を破壊しようとするようなカ 済思想史をやっているとどうしても気になるのが、スコット ランドとイングランドの違いなんです。アダム・スミスはあ が蔓延しつつある現在、共和主義の考え方は参考になります。 たかも自由貿易主義の親分的な存在で、規制緩和の発案者の ・ビッグデータとフレーム問題 ように言われるけども、そんなに単純ではない。スミスの一 貫した立場は、先輩であるヒュームとともに、イングランド大澤 ( 真 ) 一九九〇年代には、自然科学から出てくる新潮
る感じがします。 では必然的にひきこもりが増える。他方、個人主義の強いプ マルクスの『資本論』はドイツ観念論の経済版だから、も ロテスタントの国ではヤングホームレスが増えるという構造 のすごく複雑に書いてあるわけです。でもそんなめんどうな になっています。この辺は家族形態が個人の行動を決定づけ ことは抜きにして、単純に金持ちがひとつの国の中でどのぐ るというトッドの議論がとても参考になります。要するに、 らいの比率でいるか数えて、金持ちが持っている資産の収益その程度と言われようが、人口動態的に説明できてしまうも のは、それはそれでいいんじゃないかという考え方もありか 率で格差を説明してしまおう、というのが、『資本論』の二 なと思うんです。 十一世紀版を目指したピケティの本です。商品や貨幣の存立 トッドの主著と見なしうる原書が刊行されたの 構造から説き起こし、剰余価値論や階級論へと向かうマルク大澤 ( 真 ) は主として八〇年代から九〇年代で、二十一世紀の本と言え スの議論とはまったく趣の違う、ペタな説明です。 るかどうか微妙です。いずれにせよ、斎藤さんが念頭に置か しかし、他方で、こうしたべタな因果関係の中には回収で れている『世界の多様性』や『新ヨーロッパ大全』の内容 きない、複雑で想定外のことがたくさん起きてもいる。豊か は、多くの社会科学者が内心思っていたことです。家族のタ な国でも出てくる原理主義への共感とか、資産の収益率では 説明できない仕方で極端な所得を得ているスーバー経営者へ イプが違えば社会のタイプは違うよねと、何となく思ってい た。けれども実際にそれを調べ、実証した人はいなかった。 の偶像崇拝とか、トッドやピケティの説明の中には収まらな トッドがコロンプスの卵的に、本当に調べて概ね説明したか こうした現象に対応し、これを説明するような本はあま らみんな驚いたわけです。でも、それも発想としてはペタで りなく、フラストレーションも感じます。 斎藤確かにトッドは浅いと言えば浅いんですが、私が説得すね。もっとも、家族のタイプをどのようにして分け、測る篇 性を感じるのは自分の専門のひきこもりに関してです。ひき か、特に自由や平等に関する家族の違いを、どのような指標に般 こもりについてアメリカのマイケル・ジーレンジガーが『ひ よって取り出すか、というところでは、工夫があるわけですが。 著 きこもりの国』という本を書いていますが、彼は日本文化論大澤 ( 信 ) 僕は二〇〇〇年代に若年労働問題で運動に関 名 定 わっていました。従来型の労働運動とは違い、フリーターを に帰着させるんですね。けれども、ひきこもりは日本固有の 暫 の はじめとした非正規雇用者たちが声を上げていたんですが、 現象ではありません。ひきこもりが多いのは日本と韓国とイ タリアとスペインで、いすれも家族主義が強く、子供が成人その中にも様々な意見があって、僕が挙げた『フリーターに世 とって「自由」とは何か』の杉田俊介さんは、革命寄りとい しても親と同居を続ける傾向が強い。ちょっと前に「バラサ うか、若年労働問題は資本主義自体についての議論まで行か イト・シングル」と揶揄された若者たちですね。そういう国
差の拡大が顕著になってきました。。 ヒケティの議論には理論 的にいろいろと問題があると思いますが、搾取というのでは なく資本保有に格差があるのだとした点に新味があります。 金融資本の動向が気になるとか、二十世紀的な処方箋として の革命ではうまくいかないと考える人が増えたといった時代 の雰囲気を押さえている。フクヤマ的なものもマルクス的な ものも両方ダメだというところで二十一世紀を迎えて出てき たのが、今のピケティ現象という感じがしますね。 大澤 ( 真 ) フクヤマは「歴史の終わり ? 」を発展させて一 九九二年に『歴史の終わり』を出しましたが、これは一種の 予言書というか、近未来を考えて書かれた本です。九〇年代 の初頭にフクヤマの言ったことがある意味で当たり、ある意 味で外れたわけです。というか、変な言い方ですが、外れた ことにおいて当たった、というようなところがある。フクャ マが書いた当時は、これから比較的いい 時代が来るんだ、リ べラル・デモクラシーが最後の選択肢だということがはっき りしたのだから、もはや戦争がない、退屈と言えば退屈だけ れども平和な時代が来るんだという雰囲気だった。けれど も、特に九・一一以降、実際に来たのは非常に悲惨な時代、 テロとの戦いというかたちで戦争があらゆる場所にまき散ら されて存在しているような時代でした。そうすると、フクャ マの予言とは違うじゃないかという話になる。しかし、にも かかわらず、いやそれゆえにこそ、リべラル・デモクラシー と資本主義の組み合わせしか可能な生き方はないと誰もがひ そかに思っている。その意味では、フクヤマの予一一一一口どおりで ■池田清彦さんが選ぶ「幻世紀の暫定名著」 ・養老孟司『人間科学』 ( 筑摩書房、一一〇〇一一年 ) ・渡辺正林俊郎『ダイオキシンー神話の終焉』 ( 日本評論社、 二〇〇三年 ) ・金子邦彦『生命とは何かー複雑系生命論序説』 ( 東京大学出版 会、二〇〇三年 ) ・倉谷滋『動物進化形態学』 ( 東京大学出版会、一一〇〇四年 ) ・郡司ペギオー幸夫『原生計算と存在論的観測ー生命と時間、 そして原生』 ( 東京大学出版会、一一〇〇四年 ) ・内田樹『日本辺境論』 ( 新潮社、二〇〇九年 ) ・ヘンリク・スペンスマルクナイジェル・コールダー『″不 機嫌なみ太陽ー気候変動のもうひとつのシナリオ』 ( 桜井邦朋監 修、青山洋訳、恒星社厚生閣、二〇一〇年 / 原著一一〇〇七年 ) ・南伸坊南文子『本人伝説』 ( 文藝春秋、一一〇一一一年 ) ・松原隆一郎さんが選ぶ「幻世紀の暫定名著」 ・エマニュエル・トッド『帝国以後ーアメリカ・システムの崩 壊』 ( 石崎晴己訳、藤原書店、二〇〇三年 / 原著二〇〇二年 ) ・ '--i ・・ < ・ポーコック『マキアヴェリアン・モーメントー フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』 ( 田中秀 夫・奥田敬・森岡邦泰訳、名古屋大学出版会、一一〇〇八年 / 原著一九七 五年 ) ・佐藤俊樹『社会学の方法ーその歴史と構造』 ( ミネルヴァ書房、
ルな問題として捉えました。ただ、それでも敗戦問題を乗り とや対米従属のせいで、何も責任を取らない状況が続いてい 越えられてないというのが率直な印象です。個人的なことを る。加藤さんや白井さんが言っているのはそういうことじゃ 一一一口うと、僕は日本の敗戦問題を考えるよりも「〈世界史〉の 哲学」を書くほうに関心があります。しかし、日本の思想や 同じようなことがあちこちで起きていて、原発の関係者が 論壇という立場で考えてみると、実際問題として敗戦につい 原発事故について二度と再発させないルールをみずからは作 てちゃんと議論しておかないと、日本人は、これから物を考れなくなっています。あれだけの事故を起こし収束してもい えることができなくなるとも思っています。そうしないと、 ないのに再稼働させようというのなら、その前に東電の幹部 重要なことは全部アメリカが決めるという風になっていく気を全員逮捕しなければダメだと僕は思う。そうせずに再稼働 がするんです。 してしまうと、事故を起こしても責任を取らなくて良いとい うお墨つきをわざわざ与えることになり、・ とんなに規制を厳 ■専門主義からオープンダイアローグへ しくしようが必ず人災は起きます。裁きがないままで、規制 松原二十一世紀に入ってから出た本についてこれまで話し さえ厳しくすれば事故は起きない、科学は進歩するものだと てきた中で様々な論点がありましたが、僕は専門主義の弊害 いった話にすり替わっている。もう原子力専門家の内部では という問題が大きいと思う。大学では、学生たちが博士号を 問題を解決できなくなっています。 取るために専門的な論文を書きますけど、そのためのフォー そう考えると専門主義というのはやはり行き詰まりを呈し マットがあって、専門以外のことを考えたらいけないといっ ている。とりあえず博士号を取れと急かされて専門だけを追 た雰囲気があります。たとえば、デリダならデリダをみんな求していくから、細胞みたいな事件が起きるんじゃ 一生懸命読みますが、デリダの本に書かれていない日本の敗よ、、。 オしカこういうことをメタレベルで誰かが一一 = ロわなきゃいけ 戦に関しては議論ができなくなるというのが今の専門主義で ないのに、専門家からは反省が出てこない。常識で考えてお す。応用可能性がない。 かしいんだよと指摘できなくなっているというのが、学問全 戦後、日本は世界や日本のルール変更に自分たちが関われ体を見渡したときに僕が感じることです。ルールの変更はデ ないという縛りを与えられてしまい、決められたルールの中 ータや専門主義では是非を問えないもので、徳や常識や身体 でしか考えることも決めることもできなくなってしまいまし 感覚といった広い構えが前提になります。放置しておくと、 た。もともと、日本人はルールを整理したり設定したりする それを資本主義が勝手放題にやるだけになってしまう。 のが得意だったんだけど、敗戦責任を自己清算しなかったこ大澤 ( 真 ) 松原さんのおっしやることはよくわかります。
と言われれば、そうじゃないと返すのは原理的に難しい。僕析していけばいいんだというのが将来をリスクで理解する立 は最近、グロ ーバルウォーミング ( 地球温暖化 ) はインチキ場。それに対してジョン・メイナード・ケインズは、未知の だとよく言っているけれども、今の時点で同時期としては北 ことは起き得るんだと異論を唱えた。不確実性です。ナチス 極の海氷面積はこの十年間で最大で、厚さも最大なんだよ の脅威にさらされる中、母国のイギリス自体がなくなるかも ね。でも、そういうデータは日本ではどこからも出てこない しれないという危機感を集約したような概念ですね。わけの でしよう。意図的に流してないのかもしれないし、そもそもわからないことに対してどう構えるかをケインズは問題にし データなんて処理の仕方によって幾らでも都合よくつくるこ たのですが、しかしビッグデータの解析に楽観的になること とができる。昔はグランドセオリーがあって、わかる人が見で、揺り戻しが生じています。市場に利潤機会があるといっ れば論理的におかしいことがわかったんだけれど、最近は論 てもその価値は過去のデータから瞬時に計算されてしまう。 理的におかしいかおかしくないかが、そもそもわからないよ だから将棋と同じで、人間は市場でコンピューターに勝てな うなやり方でしか科学が出てこない。 細胞もそうい くなっているんだと。 うところから出てきたというか、何か関係しているよね。 しかしだからといってケインズ的な不確実性がなくなった 科学はサイエンティフィックと一言うけど、そういう意味で わけじゃない。むしろ最近では、不確実性の方も巨大化しつ は極めてポリティカルなものになっている。モンサントもそ つある。資本主義というのは利潤率を上げるためにルールや うだけれども、そのデータが本当に正しいのかどうか、誰も枠自体さえ変えようとするシステムじゃないですか。たとえ わからないところで政治的な圧力をかけてシステムに組み込ば、食肉会社は安い土地と労働力を求めて世界を転々としま むと、もう変えることができなくなってしまう。だから、匪 す。豚や牛などの家畜が密集しながら飼育されている中国の 削減効果のある太陽光発電で食っている人がたくさん出てく 南部やメキシコとアメリカの国境あたりでは、養豚場で蚊が るという構造に一回なってしまうと、グロ ーバルウォーミン媒介して、豚インフルエンザ・ウイルスがものすごい勢いで グなんかインチキだと言っても個人のカではどうにもならな進化している。つまり、生物の進化のルールやスピードを変 モンサントも、松原さんが言ったようにヤバイことを えてしまう出来事が資本主義の中で起きているのです。そん いつばいやっているにもかかわらず、そのヤバさをなかなか なウイルスが発生することは、過去のデータにはない。将棋 データで証明できないんだよね。 のルールそのものを変えてしまうと、過去の棋譜データは使 松原コンピューター将棋の話は経済学に通じます。世の中 えなくなるのです。モンサントなんかはもっと端的に、人力 で起きることは過去の繰り返しだとすると、過去の統計を分で遺伝子を組み換えています。その結果、何が起きるかは誰
にもわからない。 ) そんな不確実性を資本主義そのものが引き ーの計算結果を覆せない。 この説得力を疑うことなく自然に 受け入れるとき、フーコーが言ったのとはまた別の意味で、 起こしているのです。コンピューターのデータ処理速度がい 既に自分たちは人として終わった中で生きているのかなと。 くら速くなっても対処できない問題ですね。 それに対する抵抗というか、そうではないんだという部分を 一九三〇年代にケインズと激しく対立したのがフリードリ ヒ ・ハイエクです。彼は彼で、何が起きるかわからない状況どう思考していけばいいのか。 をコンピューターでは処理できないという立場から社会主義 ・ニ十一世紀における名著とは を批判しました。ハイエクは市場主義者と言われますが、条 件も付けていて、伝統から生まれた慣行や制度、社会的規制大澤 ( 信 ) 今回、「二十一世紀の暫定名著」というテーマで まだ触れてない本について は国によって異なり、その中で市場の自由と共存するものだ 本を推薦していただきましたが、 けがその国々のフレームとして適切なのだと考えました。フ伺えればと思います。 レームは判例のように裁判ごとに進化していくんですが、彼 松原私は先ほど話があったように、同じデータをあっかっ ても、フレームの意味に注目したものを選びました。ケイン は肉体が持っている認識や動作の規則性もそれらに連動する ズの『貨幣論』は社会の動向をえぐり出すのに適切な統計変 と言っている。だから、コンピューターの限界にケインズは 政策で、ハイエクは身体感覚に由来する慣行の進化で対抗し数は何なのかをあれこれと探っていて興味深いのですが、 ちょうど佐藤俊樹さんの『社会学の方法』も、社会統計の扱 ようという結構面白い論争をしていたんだと僕は思います。 しいというニセのケ い方で社会学の歴史を整理したらこんな風になるんだよとい ところが結局は、ただ公共事業をやれば、 うのを示していました。デュルケームが社会なるものをとら篇 インズと、過去のデータさえあれば分析できるというニセの ハイエクとの対決がクローズアップされて二十世紀は終わっ えようとしたのはデータの扱い方を工夫することによって般 だったとして、ルーマンまでを説明してくれています。 てしまった。 著 ケネス・ポメランツとスティーヴン・トピックの『グロー 大澤 ( 信 ) 将棋でコンピューターが人間に勝った話を聞く 定 と、もしかしたら人間はもう終わっているんじゃないかと考ル経済の誕生』は、貿易の歴史にかんして身も蓋もないエピ リズムも自由民 5 ソードばかり集めた本ですが、同じグロー えてしまいます。以前なら、「でも人間とコンピューターは 知能の使い方が違う」という話になったと思うのですが、最主主義の色眼鏡を外して見るとドラッグと暴力だけで動いて世 きたということがわかります。考えてみたらアヘン戦争なん 近は「でも結局勝てないじゃないか」という話になる。誰も て滅茶苦茶な話で、戦争で門戸を開放させてアヘン漬けにし、 が自分は人間だと思いながら、最終的な判断はコンピュータ