キャラクターは架空の存在であり、最初の時点では「人格」はないはずです。つまり、何らかの手続きによっ て、私たちは描かれたものに「人格」があると認識するようになると考えられます。キャラクターに「人格」と して強い魅力を感じる以前に、そこに「人格」を持った存在がいると認識させるものがあるはずだ、ということ です。 それを、私はキャラクター表現の「外見快楽」と呼ぼうと思います。それは、キャラクターの「絵」や「声」、 「台詞」、作画による「動作」などの表面的な表現そのもの、なんらの説明もなしに、圧倒的な迫力と実在感をも たらす表現のことです。たとえば、戦闘シーンの圧倒的な作画力、精緻な塗りが行われたイラストがそうですし、 声優の演技は、キャラクターの図像にかかわらず一定の実在性をもたらす便利な表現装置です。 これまで、「萌え」の快楽が、単純に外見によってもたらされるということを、私たちは否定して来ました。「萌 え」はそんな単純で低次元な感情ではなく、キャラクターの「人格」による複雑で高次元の快楽なのだと。しか し、複雑で高次元名ものを実現するためには、その土台として単純で低次元なものが必要なはずなのです。それ こそ、問答無用でキャラクターに存在感を与える、キャラクターが無条件にそこに「いる、と感じさせる単純な 表現そのものであり、それこそが「萌え」のもっとも基本的な快楽なのです。 単純に絵を見て、声を聞いて「かわいい」とか「好みだ」と思うことがなければ、それをただの図像としてで はなく、一個の「人格」として見ていく手続きが開始されないということです。 この「外見快楽」と「人格快楽」は、明確に区別されず、一体のものとして意識されています。正確に言うな ら「外見快楽」は「人格快楽」に取り込まれて見えなくなっているのです。ですから先に挙げたように「萌え」 を高次のものとして扱おうとしたときに「外見快楽」が否定されるということが起こるわけです。 この「外見快楽」の表現技法の洗練が、「萌え」の進展に関して重要な役割を担っていると考えられますが、そ れは「個人の局面」ではなく、「プロダクションの局面」において語られるべきことでしよう。
はないでしようか。それは「萌え」に関して一般に言われるようにキャラクターがストーリーに取って代わった 2 のでなく、「キャラクターの前面化」が起こっているだけなのではないかと考えられるのです。 キャラクターの快楽は、「萌え、の構造によって、キャラクターに魅力を仮託してゆくことであり、その基礎と して「人格快楽」が、そしてさらにその基礎に「外見快楽。があったはずです。ここで、キャラクターは作品中 のすべて表現の最終成果物として立ち上がってきます。「外見快楽」をもたらすものは何だったでしようか。それ はキャラクターの「絵」や「声、、「台詞」、作画による「動作」などの表面的な表現そのもの、つまり、画面に表 現されるすべてのものです。そして、キャラクターの「人格」、もっと言うなら魅力的な人格は、作品の全編を通 して、どのように行動し、どのように思考し、どのように成長したのか、通時的な視点を抜きにしては語れない のです。キャラクターを、キャラクターの「人格 , の魅力を現出されるものは、ストーリー構成までを含む、そ の作品のすべての表現であり、それらの上に、キャラクターたちの「人格」が描き出されるのです。 つまり、キャラクターの「人格、〈の賛美は、本来、作品全体〈の賛美であるはずなのです。ただ、ストーリ ーはキャラクターの人生として語られ、個々のシーンの描写はキャラクターの仕草として語られる。キャラクタ ー〈の「萌え」というものが重要視された結果、キャラクターが作品の魅力の全てであるように感ぜられている だけで、実際は、キャラクターは作品の魅力の全てを集約させる特異点として機能していると考えられているの です。「属性」まみれのキャラクターだけに頼った作品も存在しますが、そうでない秀作において、ユーザーはキ ャラクター以外の部分に無関心になったのではなくて、作品の全ての魅力をキャラクターを通して見ているだけ なのです。表面的にキャラクターしか見えないようになること、作品の魅力をキャラクターに集約して意識する こと、これが「キャラクターの前面化 . です。 「萌え」の「プロダクションの局面」は次のように整理できます。コンテキストのストックを意識化させた大 きな要因は、「属性」の登場であり、それは個人が嗜好を自覚し、快楽を得られる作品を取捨選択するための有用 なツールでした。また、同時に供給側にとってもユーザーを食いっかせるのに非常に便利なものでした。これら
【 9 】属性主義 この「属性」概念の顕在化は、おそらく「恋愛主シミュレーション」ないしは「恋愛アドベンチャー」と呼ば れるゲームの登場と同期していると考えられます。「恋愛主シミュレーション」はそれまでのマンガやアニメに登 場してきた恋愛的なコンテキスト、美少女キャラクターの魅力を司るあらゆるコンテキストを選りすぐった集大 成であり、コンテキストの見本市のようなものだったと捉えることができます。各ヒロインにはいくつかの関連 性の高いコンテキストが与えられ、ある意味で「属性」の権化としてのキャラクターが顕現しました。個人が複 数の作品をプレイし、同系統のヒロインを攻略するうちに、そこで共通して見られるコンテキストと、共通して 見られる外見や性格などのレッテルが結びつき「属性」認識が確立されていったのではないかと考えられます。 そして、「属性」がキャラクターに与えられたとき、それはコンスタントに「外見快楽」と「人格快楽」を引き 起こすスイッチになります。ですから、「属性」を組み合わせてキャラクターを作れば、ユーザーが勝手に「萌え」 てくれるキャラクターが出来上がるというわけです。そこに頼りきった、「属性万能主義」とでも言うべきものが、 作品において、キャラクターの人格のリアリテイや、それをとりまくストーリー。それらを描写する作画などの 表現をないがしろにしていったものの正体ではないでしようか。 また、この「属性、は作品が大量に供給される環境にあって、ユーザーの商品選別の有効なツールでした。そ こに、ある作品の購入を検討する際、自分の好みのコンテキストがどれだけ含まれているかによって、その作品 から得られる快楽の期待値が得られます。そして、供給側と消費側である程度共通して用いられる「属性 , は、 その中のコンテキストを予想させることに役立つものです。そのため、商品の宣伝文句に多用され、ユーザーも それを判断基準尾ひとっとするようになったのです。 ただし、この「属性」主義に関しては決定的な落とし穴が存在します。それは、「属性、は、その場その場で「外 見快楽」や「人格快楽」を励起しますが、それが乱発された場合、キャラクターの人格が破綻し、それらの快楽
【 8 】「一目惚れ」を可能にするもの 「萌え」を重視した作品においては、キャラクターだけが重要視されクオリティの低下を招いたという批判が あるでしよう。ここでいうクオリティとは、脚本、ストーリー構成、作画のことです。 では、なぜそのような事態になったのか、どうしてそのような作品が出現してきたのか。これを考えることが 「萌え」のプロダクションの局面を考える上で重要な手がかりになるはずです。 先ほど提示した、「萌え」の快楽構造において、キャラクターの魅力は、ただ作品 ( キャラクター表現 ) から与 えられるだけのものではなく、作品を見た個人が、自分で魅力 ( 快楽 ) を作り出し、それをキャラクターに投影 しています。つまり、ユーザーが「萌え、の快楽構造を起動させるスイッチが作品内に存在すれば、あとはユー ザーが快楽を自己生成し勝手に作品に熱狂してくれます。ューザーが「萌える」という前提があれば、作品はそ のスイッチを入れるだけでいいのです。 では、その「萌え」のスイッチになるものは何か、それは「直感段階」の快楽を励起させるものであり、「人格 快楽」と「外見快楽」です。もっといえば、「人格快楽 . は「外見快楽」から導くことが可能なので、スイッチの としての役割を果たすには、最低限、「外見快楽」さえあればよいということになります。そこから上の次元のキ ャラクターの魅力は、ユーザーによっていくらでも補完されうるものです。 つまり、そのキャラクターを見た瞬間に「好きだ・好みだ」と思ってしまえば、そのキャラクターに対して「こ んな素敵な性格をしているに違いない」、「こんな魅力的な仕草をするに違いない」と思い込むことはいくらでも 可能なのです。しばしば「萌え」が「一目惚れ」や「初恋」に近いなどと表現されるのは、この「直観段階」に おける「外見快楽」の効果を表したものと理解できます。あるいは「外見快楽」を「一目惚れ快楽」と言い換え てもいいでしよう。 このようなキャラクターへの「一目惚れ」を可能にするのは、アニメ・ゲーム・コミックなどのキャラクター 6
どのような原理でストックが行われていくのかは説明できていません。ここにおそらく、快楽感情・快楽体験と 1 しての「萌え」を一般化して説明することの限界があります。 つまり、これ以上は個人の趣味嗜好の問題であって、そこには手をつけられないのです。おそらく、その趣味 嗜好に関して、何らかの共通項が見られるのかという問題は、もはや架空の存在に如何にしてリアリティを見出 すのかという「萌え」特有の構造から離れたところにあると考えられます。それはもはや、個人の異性の好みの 問題に過ぎないのであって、「萌え」の特徴を知る上でもはやクリティカルなファクターではないでしよう。もし、 この問題に取り組むなら、膨大な作品のテクスト分析や心理学的アプローチが必要でしようが、そのような手間 をかけて導き出された回答に、どれだけの妥当性と有用性が認められるのかは、疑問だと言わざるを得ません。 さて、話を元に戻しましよう。コンテキストのストックに基づく構造によって「萌え」の快楽を得ることを、「構 造的段階」とするなら、その元となるコンテキストをストックしてゆくことを、「直感的段階、と表現することが できるでしよう。 コンテキスト、つまりそれは一区切りのキャラクター表現であり、そこから何らかの快楽を得て個人の中にス トックされてゆくわけです。このキャラクター表現の快楽は、「外見快楽、と「人格快楽」の二つに分類できるで しょ一つ。 私たちがコンテキストから快楽を得る場合、要は「萌える」場合、私たちは描かれたキャラクターの中に「人 格」を見出していると考えられています。そこに一人の人間がいるというリアリティがあって、その人間的魅力 よって「萌える」のだ、という考え方です。 たしかに、私たちが自分の「萌え」たキャラクターについて語る場合、それはキャラクターの性格、発言、仕 草、あるいや生い立ちゃ置かれた環境にまで及びます。これは心理学用語で言うところの「パーソナリティⅡ人 格」に非常に近いものです。ここから得られる快楽をキャラクター表現における「人格快楽」と呼ぶこととしま しょ - つ。
筆者が考える「萌 え」のロードマップ は ( 図 2 ) のような ものです。 ッ 「萌え」の全体は、 大まかに言って三つド に分けることができ ロ ます。「個人の局面」 は、快楽感情・快楽」 え 体験としての「萌え」 萌 について、「プロダク ションの局面」はユ 91 ーザーの消費性向の図 変化と、作品供給の 変化、アニメ・コミ ック・ゲームの制作 に関連する問題です。「文化の局面」は、「萌え」という現象の社会的効果についてです。この三つで、「萌え」と 呼ばれる現象の大部分を論じることができるようになると考えます。 【 6 】「萌え」の快楽構造 個人の局面 ・直観的段階 L ( 画面快楽 ) ・ ( 人格快楽 ) ・構造的段階 ・自己暗示的段階 「萌え」全体 プロダクションの局面 ・ユーザーの消費性向の変化 ・供給側の対応 。メディア特性の変化 文化の局面 ・「萌え」の集団意識 ・オタクのイメージの変化 ・社会の受容 9
によって、「属性」主義、コンテキストのストックが進展し、キャラクターの魅力の補完していく「萌え」のスキ ルが顕在化してきたということです。それはさらに、キャラクターの重要性が増し、それ以外が見られていない ようにも感じられますが、実際には、作品の魅力が、キャラクターに集約されて語られている「キャラクターの 前面化」が起きているに過ぎない、 と捉えることができるのです。 】「萌え」によるイメージ転換 「萌え」に対する視点のうち、最も巨視的な位置を占めるのが、「文化の局面、という捉え方です。それは、「萌 え」という概念が、人々にどのような意識をもたらし、社会文化状況をどのように変化せしめたのかということ です。ただし、ここで扱う「萌え」は「オタク」と同義で使われているものをも含むので、オタク文化の変容と、 そこへの一般者社会の認識が主な検討対象となります。なお、個々の作品であるとか、業界の変化にかかわる意 識変化については、「プロダクションの局面、に所属します。 さて、この「プロダクションの局面」における大きな効果は二つです。それは一般の人々の「オタク」への認 識が変わったこと、そしてオタク文化の「モプカルチャー」化です。 これまで「オタク」という語は、一九八三年の宮崎事件以降、決定的なネガテイプ・イメージと結びつき、一 種の差別語として機能してきました。しかし、九〇年台後半の「エヴァ」プーム、米国での「攻殻機動隊」のビ デオセールス記録、宮崎駿の『もののけ姫』などの効果により、アニメーションを中心としたコンテンツは「評 価せざるを得ない」ものになっていきました。 そこで、それらのコンテンツ、およびそのコンテンツ表現する言葉が必要となりました。まず「オタク」はそ のネガテイプ・イメージがすでに払拭しがたいものになっていましたし、「アニメ文化」だとメディアミックスに 対応しきれていません。「キャラクター文化」だと″ ハローキティ〃や″サザ工さん〃 ・″ドラえもん〃なども含 1
【 13 】そして娯楽として 「萌え、が「オタク」にとって決定的な救済になるとは思いません。「萌え」の快楽は、キャラクターを素材に して自分で作り出すものに過ぎず、「萌え」の快楽の向こうには自分しかいないからです。あるいは、自分の「萌 え」を支えるコンテキスト・ストック、それを与えてくれた「オタク」文化全体にしても、今や強固なまとまり を持つものではなくなってきています。 同時に、「オタク、であることによって人間は救われないと考えられます。一時期、「オタク」を優れた能力を 持った人間だと賞揚使用とした時期がありました。しかし、「オタク」を「アニメ・コミック・ゲームなどの商品 を支持する人々」としてしか捉えられなくなれば、「オタク」とそうでない人の差異は、単純に娯楽の範囲の違い に帰着します。「オタク」は「ただアニメ・コミック・ゲームが好きなフツーの人」となり、いわれのない批判を 受け流すことができるようになった代わりに、非「オタク」に対する優位性は失われました。 もはや、アニメやコミック・ゲームの愛好者であることの正当性を担保するものはありません。また、それを 阻むものもありません。ただただ、それらは「娯楽」のひとつであるのみなのです。「萌え、や「オタク」に自分 の人間性を賭けるということが、どの程度本気で行われているのか、私はよく知りません。しかし、それを「本 気」でやったとしても、自分の人間性の保証は見出せないのだと思います。 自分の人間性のヒントを「娯楽」に求めることはできても、それ以上のことは「娯楽」は与えてくれません。「所 詮は娯楽、、これが「萌え」と「オタク . の今日行き着いた場所なのではないかと筆者は考えます。その上で、「娯 楽」にどのように向き合うのか、本書がその参考になるならば幸いです。 が出来るでしよう。 4 91
の中で一定規模を持っ集団として認識されています。 また、「オタク」に関しても、同様の正確が見られます。メディアミックスの進展、作品数の増大によって、全 ての商品を個人が網羅することが出来なくなり、個人は自身の興味範囲に従って商品を消費してゆくしかありま せん。そうすると「オタク、の基準は、作品の消費ということでは決定できないのです。つまり、「オタク、であ れば、消費に熱心でなければならないという論理はもはや通用しないのです。代わりに、「オタク」を「ライフス タイル、という視点で見たとしても、「こうでなければオタクではない」という基準は現在存在しているようには 思われません。 「萌え」も「オタク」も、いまや「アニメ・コミック・ゲームなどの商品を支持する人々」という緩やかな規 範で繋がっているに過ぎず、それらの商品を「好きだ」という限りにおいて、「お前のは「萌え、じゃない」、「お 前は『オタク』じゃない」とは一一一一口えないのです。そして、この一、二年のうちに天から降ってきた「萌え」と「オ タク」に対するする肯定によって、「なぜ『萌え』を選ぶのか」、「なぜ『オタク』でいるのか」という問いは効力 を失いつつあり、「だって、ある程度の人が支持しているからいいじゃないか」と簡単に処理できてしまうのです。 筆者は、そのような状況を嘆いているのではありません。時代の変化に対応して「オタク」という共同体が行 った必然的な変化だと考えます。しかし、社会にはまだ「オタク」と「萌え」に対する変家と誤解が潜んでいま す。そして、そこに対処するために自分が「オタク」である理由、「萌える」理由を問うときが繰るかも知れませ ん。「モプカルチャー」の元では「こうしたらいい、、 「こうすべきだ」という指針は誰も与えてはくれず、自己責 任で対処しなければならないのです。「アニメ・コミック・ゲームなどの商品」の快楽に浴し続けることを望むな ら、「萌え」という言葉の魔力に惑わされず、自分の目の前にあるものの実体を見定め、それと自分との関わりを 理解しておくに越したことはありません。しかし、それをするもしないも、自由なのです。 結局、「私たち一人一人の意識によってーー」という、環境問題などでお決まりの文句に「オタク」と「萌え」 の行く先を委ねるしかないのです。これは、少なくとも「オタク」にとっての新たな困難状況であると言うこと 3