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検索対象: 萌学協会雑誌 第3巻 第1号
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1. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 8 】「一目惚れ」を可能にするもの 「萌え」を重視した作品においては、キャラクターだけが重要視されクオリティの低下を招いたという批判が あるでしよう。ここでいうクオリティとは、脚本、ストーリー構成、作画のことです。 では、なぜそのような事態になったのか、どうしてそのような作品が出現してきたのか。これを考えることが 「萌え」のプロダクションの局面を考える上で重要な手がかりになるはずです。 先ほど提示した、「萌え」の快楽構造において、キャラクターの魅力は、ただ作品 ( キャラクター表現 ) から与 えられるだけのものではなく、作品を見た個人が、自分で魅力 ( 快楽 ) を作り出し、それをキャラクターに投影 しています。つまり、ユーザーが「萌え、の快楽構造を起動させるスイッチが作品内に存在すれば、あとはユー ザーが快楽を自己生成し勝手に作品に熱狂してくれます。ューザーが「萌える」という前提があれば、作品はそ のスイッチを入れるだけでいいのです。 では、その「萌え」のスイッチになるものは何か、それは「直感段階」の快楽を励起させるものであり、「人格 快楽」と「外見快楽」です。もっといえば、「人格快楽 . は「外見快楽」から導くことが可能なので、スイッチの としての役割を果たすには、最低限、「外見快楽」さえあればよいということになります。そこから上の次元のキ ャラクターの魅力は、ユーザーによっていくらでも補完されうるものです。 つまり、そのキャラクターを見た瞬間に「好きだ・好みだ」と思ってしまえば、そのキャラクターに対して「こ んな素敵な性格をしているに違いない」、「こんな魅力的な仕草をするに違いない」と思い込むことはいくらでも 可能なのです。しばしば「萌え」が「一目惚れ」や「初恋」に近いなどと表現されるのは、この「直観段階」に おける「外見快楽」の効果を表したものと理解できます。あるいは「外見快楽」を「一目惚れ快楽」と言い換え てもいいでしよう。 このようなキャラクターへの「一目惚れ」を可能にするのは、アニメ・ゲーム・コミックなどのキャラクター 6

2. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 2 】「萌え」の相互不可侵条約 さらに面倒なことに、「萌え」〈の肯定と、その解らなさが集団意識化することによって、「萌え」の特権化が 進展します。「萌え」が個別的な感情・体験であり、自分にも解らないものであれば、それは「自分以外にも解る ものではない」と思えます。同時に、他人の「萌え」に関しても、自分には解らないものとして意識されます。 ここから、一種の「萌え」の相互不可侵条約が発生します。 ( 図 1 ) これは、単純に相互の「萌え」の「解らなさ」という問題に止まらず、「萌え」という概念全体に影響してくる 問題です。その構造を少し詳しく見てみましよう。 快楽としての「萌え」〈の肯定は、無条件のものであり、合理的説明を伴いません。つまり、「萌え」の快楽に 関して、その正当性を裏付けるものは存在しないということになります。これに関しては異論があるかとも思い ますが、少なくとも、私たちが「萌える」時には、その正当性が何処に依拠するのかといった問題は意識されな いはずです。 ここで、自分の「萌え」を肯定する限り、他人の「萌え」を一切否定できないという構造が出来上がるのです。 自分の「萌え」の正当性は、それが自分にとって快楽であるということによってのみ、担保されています。それ は他人も同様で、他人の「萌え」の正当性について、その判断はできません。他人の快楽のあり方など、当人に しか解らないからです。もし、他人の「萌え」を否定しようと思ったら、自分の「萌え」を否定されることを覚 悟しなければなりません。 つまり、他人の「萌え」の快楽を否定するということは、「お前の快楽のあり方は正しくない」というようなも のです。しかし、そのような否定を行うとすれば「では、お前の快楽の正当性はどこにあるのだ。そんなものは 本当にあるのか」という命題が、否定をした本人に跳ね返ることになります。他人の「萌え」の否定は両刃の刃 であって、他人の「萌え」を否定すれば、それは跳ね返って自分の「萌え」の正当性の否定となってしまうので す。

3. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 1 】快楽としての「萌え」 私たちが「萌え」について考えるとき、最初の、かっ最も重要な作業は「萌え」の特権化を排除することです。 「萌え」とは一体何なのか。この答えを私たちは未だもって得ていません。そもそも、「萌え」の実体がどこに あるのかさえも、判然としません。そのような状況では、本来、「萌え」への価値判断はできないはずなのです。 それが価値のあるものなのか、それともまったく無価値のものか、そのものの実体を把握せずに判断することは できないということです。 しかし、厄介なことに、「萌え」がその一面において、快楽体験・快楽感情であるという問題が存在します。基 本的に「快楽」というものは、個人にとって無条件に肯定されてしまうものです。社会規範との整合性という問 題を横に置けば、単純に「気持ちがいい」ことを否定する人はいないでしよう。また、その「気持ちがいい」と いうことを弁護するために、社会規範の解釈自体を変える可能性すらあります。少し乱暴な言い方になりますが、 快楽は人を盲目にします。 さらに、快楽感情・快楽体験というものは、非常に個別的な体験で、しかも言語化が難しいものです。もしあ なたが、自分の「萌え」という感情を説明しなさいと言われても、おそらく困惑することでしよう。あるいは、 頑張って言葉を紡いでも、しつくりとくる説明ができるでしようか。 無条件に肯定されるものでありながら、一方で自分でも解らないもの。それが自分の「萌え」感情・「萌え」体 験です。ここでは「解らなさ」という問題は、「だって気持ちいいじゃないか」という意識に飲み込まれ、放置さ れてしまいます。解らなくても気持ちいいものは気持ちいいのですし、「解らない、解らない . といって悩むのは、 その快楽の邪魔になるだけです。であれば無理に定義しようとして、「萌え」の快楽を減じようとしないのは当然 のことです。 91

4. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

の中で一定規模を持っ集団として認識されています。 また、「オタク」に関しても、同様の正確が見られます。メディアミックスの進展、作品数の増大によって、全 ての商品を個人が網羅することが出来なくなり、個人は自身の興味範囲に従って商品を消費してゆくしかありま せん。そうすると「オタク、の基準は、作品の消費ということでは決定できないのです。つまり、「オタク、であ れば、消費に熱心でなければならないという論理はもはや通用しないのです。代わりに、「オタク」を「ライフス タイル、という視点で見たとしても、「こうでなければオタクではない」という基準は現在存在しているようには 思われません。 「萌え」も「オタク」も、いまや「アニメ・コミック・ゲームなどの商品を支持する人々」という緩やかな規 範で繋がっているに過ぎず、それらの商品を「好きだ」という限りにおいて、「お前のは「萌え、じゃない」、「お 前は『オタク』じゃない」とは一一一一口えないのです。そして、この一、二年のうちに天から降ってきた「萌え」と「オ タク」に対するする肯定によって、「なぜ『萌え』を選ぶのか」、「なぜ『オタク』でいるのか」という問いは効力 を失いつつあり、「だって、ある程度の人が支持しているからいいじゃないか」と簡単に処理できてしまうのです。 筆者は、そのような状況を嘆いているのではありません。時代の変化に対応して「オタク」という共同体が行 った必然的な変化だと考えます。しかし、社会にはまだ「オタク」と「萌え」に対する変家と誤解が潜んでいま す。そして、そこに対処するために自分が「オタク」である理由、「萌える」理由を問うときが繰るかも知れませ ん。「モプカルチャー」の元では「こうしたらいい、、 「こうすべきだ」という指針は誰も与えてはくれず、自己責 任で対処しなければならないのです。「アニメ・コミック・ゲームなどの商品」の快楽に浴し続けることを望むな ら、「萌え」という言葉の魔力に惑わされず、自分の目の前にあるものの実体を見定め、それと自分との関わりを 理解しておくに越したことはありません。しかし、それをするもしないも、自由なのです。 結局、「私たち一人一人の意識によってーー」という、環境問題などでお決まりの文句に「オタク」と「萌え」 の行く先を委ねるしかないのです。これは、少なくとも「オタク」にとっての新たな困難状況であると言うこと 3

5. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

むのか、という問題があります。文化庁は「メディア芸術」という名で振興指針を打ち出しましたが、これも 0 2 やデジタルアート全般を含むもので、少々広すぎます。単に「コンテンツ系文化」といっても、なんだかわか りません。 そこで、メディアが注目したのが、ニュートラルな新語である「萌え」だったわけです。アニメ・コミック・ ゲームはもとより「オタク」文化が跨るメディアには、往々にして「萌え」が存在していました ( 少なくとも「美 少女」というモチーフが共通して見られました ) し、なにより新語ですから、「オタク」のように余計なイメージ が無い。さらに言えば非常に使いやすい語感を持っていたことなどもあって、「萌え」という言葉は急速に広がり ました。 要は、ネガテイプなイメージを持った「オタク」文化が、新語である「萌え」というラベルを貼り直されるこ とよって、イメージを好転させたということです。 ただ、「萌え」日「オタク」ではないので、そこに新たな認識の齟齬が発生するという問題もあります。 【 12 】モブカルチャーの中で 「モプ (mob) 」とは「群集、のことで、「モプカルチャー、は「群集文化」のことを指します。この「モプカ ルチャー」という語によって、今日の「萌え、及び「オタク」を巡る文化状況を的確に示すことが出来るのでな いかと、筆者は考えています。 通常、「群集」には「 crowd 」ないし「 mass 」という語を使います。しかし、基本的にそれらは何らかの政治的 意思の元に集まった場合に用いられるものです。しかし、「モプカルチャーはそうでありません。「萌え、にお いては、中心的教義がなく、向かうべき方向性は各人に完全に委ねられています。そうすると各人は離散して行 くようにも思えますが、現実はそうではありません。各人が多様性を認め合い、緩やかな共同体を形成し、社会

6. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

が減殺されてしまいます。級アメリカ映画のように、ハイライトシーンがいくら続いたところで、それらが全 体の中で機能し、作品としてのまとまりがなければ、その作品は「面白い . とは感じないのです。 また、「属性、はすべてのコンテキストを類型化できているわけではなく、「属性」に包摂されていないコンテ キストも存在するので、「萌え , の快楽は、「属性」によってすべて語れるわけではありません。また、単一の「属 性」が含むコンテキストの普遍性には限界があるので、「属性」の各論から「萌え , の一般傾向を導くことは困難 でしよう。 ちなみに、よく聞かれる「萌え」はフェティシズムだという意見は半分正しく、半分間違っていると考えられ ます。通常、フェティシズムはエロチシズムの一部として語られますが、もともと、護符に神が宿っていると信 じるとか、通貨の交換価値がら、通貨自体に価値を感じるようになるとかとかいった「表面的部分から、理想的 全体を想像する」こと全般を指すので、これはまさに「萌え、の快楽構造に合致するものです。ただ、通常「萌 え」はフェティシズムだと言われる場合は、エロチシズムが意識されているだけなので、これは必ずしも正しい とは言いがたいのです。 【 e-o 】キャラクターの前面化 キャラクター重視が、「萌え」のプロダクションの局面の特徴であるとして。ュ 1 ザーは本当に、キャラクター しか見ていないのでしようか。筆者はそこに疑問を持っています。 つまり、キャラクターに対して「萌え」と叫んでいるにしても、それはキャラクターだけを見ているのではな くて、そのキャラクターのリアリティの背後にある作品世界全体 ( の賛美なのではないか、ということです。言 い換えるなら、キャラクターの魅力を支えているのは、その作品全体であるのだけでも、ユーザーにとってはキ ャラクターしか意識化されていないので、作品〈の評価のほとんどが、キャラクター〈の評価として表れるので

7. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

ただし、コンテキストのストックの量と質、キャラクター表現からコンテキストを読み取る能力、キャラクタ ーにコンテキストを実現させる想像力の個人差によって、この構造がどれだけの強度で駆動するのかが変わって きます。そこでは、あるコンテキストに、別のコンテキストを連結させる能力、個々のコンテキストを関係付け、 次々に連鎖させていく能力が働きます。表現されているコンテキストから、表現されていないコンテキストを想 像してゆく能力と言ってもいいでしよう。このコンテキストを関係付けていく能力は、コンテキストの鑑賞体験 の多さに比例して高まってゆくと考えられます。もちろん、「萌える」こともキャラクター表現の鑑賞体験の一種 ですから、「萌え」体験はフィードバックされて、すでに経験したコンテキストの関係付けを容易にしたり、あら たな関係付けを発見することにつながっていきます。 「萌え」慣れていけば、次の「萌え」はさらに容易に、さらに強くなっていくということです。場合によって はあるコンテキストを見た瞬間、ある特定のキャラクターを見た瞬間に、条件反射的に快楽得ることも可能にな るでしよう。これは、自分で自分にパプロフ大的な条件付けを行っているようなもので、そこにおける「萌え」 はすでに「自己暗示的段階」とでも呼べるでしよう 【 7 】ニつのキャラクター快楽 さて、 ( 図 4 ) のような構造が機能しないと「萌え」と呼ばれないのか、という間題があります。キャラクター 表現から快楽を得るときに、必ずその構造が働いているか、ということです。 この答えは、簡単に否といえます。この構造では ( 図 4 ) の①にあたる、好みコンテキストをストックすると いう行為を前提にしているからです。あるコンテキストを見て、魅力的に思う、快楽を感じる、ということがな ければ、そもそもコンテキストがストックされてゆかないはずです。 先ほどは「美少女のイデア」モデルでは、その快楽が何処から来るか解らないと言いました。ここでも同様に、 3

8. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 3 】特権化の排除 さて、ここで話が最初に戻ってきます。「萌え , の特権化をまず排除すること、それが「萌え」の正体を知るた めに必要なことだという話です。 「快楽感情・快楽体験」としての「萌え」、ここへの私たちの意識が、「萌え」全体への判断停止が導かれるこ とは今見たとおりで、これが「萌え」の特権化の原理です。 この特権化は、「萌え」が快楽である限り、乗り越えられないものにも思えます。しかし、私はここでひとつの 指摘をしなければなりません。それは、「萌え」という概念が今日包摂する範囲は、単純に快楽感情・快楽体験だ けにとどまらないということです。つまり、快楽感情・快楽体験としての「萌え」は、「萌え」という概念全体の 一部分に過ぎないのです。 たとえば、アニメ・ゲームの制作関係者は、しばしば「萌え」を「ストーリーからキャラクターへの移行。と 説明したりします。あるいは、秋葉原の変容、つまり、秋葉原におけるキャラクタービジネスの全面化なども「萌 え」と言われますし、一般の報道では「オタク」の代替語として「萌え」が用いられることもあります。これら は、すべて個人の「快楽感情・快楽体験」に回収できる問題でしようか。あるいは、これらの問題は「萌え」と いう概念の中心的なものではないとして、「萌え」というものの検討から除外できるものでしようか。筆者はそう は考えません。 これらの問題が「萌え」の中に含まれるとするならば、私は「萌え」の特権化を乗り越える糸口を簡単に見出 すことができるでしよう。要するに、私たちは「萌え」を感情の問題にしすぎてきたのです。「萌え、が単純に快 楽だけを、その快楽感情と、その感情を覚える体験だけを指すのであれば、「萌え」の特権化は絶対のものだった でしよう。しかし、「萌え」を取り巻く現状は、感情以外の部分をも含んでいるのです。単純な快楽の問題だけで は「萌え」全体を議論することは不可能になっているのです。とすれば、「萌え」全体を見渡すことを妨げるもの

9. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

後記 今回の『「萌え」における常識』は、昨年夏に発行した『一般萌学講義』とほぼ同圖 様のコンセプト、つまり「萌え」の入門書という位置づけのものです。昨年冬発行 冊子は調査報告のみでしたので、実質的にはこの一年間に得た新たな解釈を中心に まったく違ったものになっていると思います。昨年夏のものは、より一般の読者向 『萌学協会雑誌第三巻第一号』 bD け、今回のものはそれに比べると少々専門的なものになるでしよう。本書の目的は 0 「萌え」の実体を見つめるためのツールを提供することにあり、それが皆様の「萌 二〇〇六年八月十三日第一刷発行 0 え」への判断の一助となるなら、これに勝る喜びはありません。 去年夏から今日、私は「萌え」理論漬けで生活していました。というのも、何の著者竹林賢三 因果か「萌え」を卒業論文のテーマにしてしまったがために、学士論文のくせに原 稿用紙三百枚というおかしなものを書いてしまったのです。しかも、結局「萌え」 発行者萌学協会 0 こま手を付けられま が定義できない理由を明らかにしたのみで、実際の定義の検討ーー bD せんでした。その定義の部分の加筆と合わせて、現在論文を書き直しておりますの で、今年中には何らかの形で皆様に提供できるかと思います。 ご報告までに、先日講談社の雑誌『メカビ』創刊号に「萌え」に関する小論を寄 稿させていただきました。これも、当会の活動を長い目で見守っていただいた、読 者の皆様のご支援あってのことと存じます。この場を借りて御礼申し上げ上げます。 では、皆様によりよき「萌え」とめぐり合えることを願って。 竹林賢三 頒価一〇〇円 Printed Japan 萌享 あ冒

10. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

表現が営々と作り上げてきた、表現のストックであり、個人がそのストックを得ることは今日、非常に簡単にな っているのです。 それは「属性」というシステムに顕著に現れています。「属性」は「萌え要素」や「萌えポイント」などとも言 われますが、キャラクター表現におけるコンテキストのうち、たとえば「メイド」・「ネコミミ、・「ツンデレ」・「幼 馴染」・「教え子」・「ニーソックス」など類型化され、明文化されたものです。 この「属性」という認識は、キャラクター表現のコンテキストをストックする際、極めて有用なものでした。 それまで、個別の作品、個別のキャラクターに関して、「あのシーンはよかった , 、「あのシチュエーションは好き だ、、「あの描写はすごい , と、個別に評価するしかありませんでした。しかし、ある特定の外見・社会的身分・ 主人公との関係・年齢・類型的性格などの比較的明文化されたレッテルと、それに関連のあるコンテキストを関 連付けすること、すなわち「属性」によってコンテキストを纏め上げることで、個人は作品やメディアの枠を超 えてキャラクターの魅力に言及できるようになったのです。それは具体的には「やつばりメイドは素敵だね」、「や つばりツンデレの魅力はあのギャップだよ、という言及です、これは同時に、自身のキャラクター〈の嗜好を自 覚させたのです。そして、「属性」によってコンテキストを関連付けて行くことで、一つのコンテキストから、別 のコンテキストを導く、「萌え」における想像力は洗練されてゆきます。これまで表現されてきた、あるいはその 中で個人が見てきたコンテキストのストックを、巨大なデータベースに例えるなら、「属性」という検索語によっ て、複数のコンテキストがデータベースから抜き出され、ひとつのデータシートを形成するのです。そして、そ のデータシートに列記された魅力が、キャラクターに与えられるのです。 「属性 . を定義するなら「特徴的な外見、行動、性格などに付随する一群のコンテキスト」と言う事ができる でしよう。これは、キャラクターを語るための非常に便利な言語であり、個人とっては自身キャラクター〈の嗜 好を格段に意識しやすく、語りやすいものにしました。