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検索対象: 萌学協会雑誌 第3巻 第1号
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1. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

「個人の局面」、つまり「萌え」 という快楽感情・快楽体験はいっ たいどのようなものか、というのモ、、の がここで扱われます。各人の「萌ア一少 え」の対象、快楽の度合いや性質一丁 は様々ですから、一概に「『萌え』イ の快楽とはこういうものだ」と言 女 い切ることはできないでしよう。 少 むしろ、「萌え」を俯瞰するため 美 には、個別の質的な問題よりも構「 造的な問題に注目するのが妥当 と考えられます。「萌え」という 感情、「萌える」とい一プ行為の中 に共通して見られる構造がある のではないかということです。それはつまり、個人がキャラクターに著しく没入することを可能にする今日的な 構造です。 まず一番簡単に思い浮かぶ快楽構造は ( 図 3 ・ =) のような「美少女のイデア」モデルではないでしようか。 筆者が最初に採用したのもこのモデルですが、このモデルは単純過ぎて、「萌え」の特徴を理解するのに、それほ ど役立っモデルとはいえません。 ( 図 3 <) は、まず、美少女の理想像、すなわち「美少女のイデア」なるものが存在し、具体的な美少女と「美 少女のイデア、のパターンマッチングによって、「萌え」の快楽が生まれるとするものです。通常、「イデア」と 個人 。萌ん イデア 具体的な 美少女・ キャラクター 個人 美少女の イデア 具体的な 美少女・ キャラクター 萌え : 0

2. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

いうものは、万人が共通して持っている、ある事物の純粋形、理想形です。しかし、「美少女のイデア」は個々人 で相当に異なるはずですから、 ( 図 ) のように個々人に内部化されていると考えるのが妥当でしよう。 このモデルは、「美少女のイデア」を中心に起動していますが、それ自体が最大の問題となっています。つまり 「美少女のイデア」が何処から、どのようにしてもたらされるのか、それがまったく解らないのです。このモデ ルでは、快楽の原因がまったく説明できていません。 筆者は、ここに「コンテキストのストック」という考え方を持ち込むことで、「萌え」の構造をより正確に把握 できると考えています。その構造は、 ( 図 4 ) のようなものとして想定されます。 個人は、多くのキャラクター表現に触れる中で、自分の好みのシーンやシチュエーションを蓄積着ていきます。 ここではそれらを「コンテキスト」と総称しますが、このようなコンテキストのストックを持った状態で、新た にキャラクター表現に触れることで、「萌え」の快楽構造が起動します。これが ( 図 ) において個人が「美少 女のイデア」を獲得した状態のことです。 キャラクター表現の中に、あるコンテキストと密接にかかわるもの、特定のコンテキストを想像させるもの、 すなわち「コンテキストの表象、が含まれていると、個人はそれを読み取ることができます。そうすると、「この キャラクターがあんなことしたら、きっと魅力的だろう」という想像が働き、自分のコンテキストのストックを 利用して、キャラクターにコンテキストを付与することができるようになるのです。つまり、自分の好みのコン テキスト ( Ⅱキャラクターの魅力 ) をいくらでも仮託することができ、キャラクターはこの構造が駆動され続け る限り、無限に魅力を増大することになります。個人は、無限の魅力を自らキャラクターに与え、そこから著し い快楽を得ることができる、この循環構造が「萌え , には存在しています。 つまり、「萌え、の快楽は、単純に理想形とのパターンマッチングによって起動するのではなくて、快楽の素材 を個人が蓄積していって、それを具体的キャラクターに加算していくことで、キャラクターの魅力を増大すると いう、能動的な快楽励起行為でもあるわけです。

3. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

ただし、コンテキストのストックの量と質、キャラクター表現からコンテキストを読み取る能力、キャラクタ ーにコンテキストを実現させる想像力の個人差によって、この構造がどれだけの強度で駆動するのかが変わって きます。そこでは、あるコンテキストに、別のコンテキストを連結させる能力、個々のコンテキストを関係付け、 次々に連鎖させていく能力が働きます。表現されているコンテキストから、表現されていないコンテキストを想 像してゆく能力と言ってもいいでしよう。このコンテキストを関係付けていく能力は、コンテキストの鑑賞体験 の多さに比例して高まってゆくと考えられます。もちろん、「萌える」こともキャラクター表現の鑑賞体験の一種 ですから、「萌え」体験はフィードバックされて、すでに経験したコンテキストの関係付けを容易にしたり、あら たな関係付けを発見することにつながっていきます。 「萌え」慣れていけば、次の「萌え」はさらに容易に、さらに強くなっていくということです。場合によって はあるコンテキストを見た瞬間、ある特定のキャラクターを見た瞬間に、条件反射的に快楽得ることも可能にな るでしよう。これは、自分で自分にパプロフ大的な条件付けを行っているようなもので、そこにおける「萌え」 はすでに「自己暗示的段階」とでも呼べるでしよう 【 7 】ニつのキャラクター快楽 さて、 ( 図 4 ) のような構造が機能しないと「萌え」と呼ばれないのか、という間題があります。キャラクター 表現から快楽を得るときに、必ずその構造が働いているか、ということです。 この答えは、簡単に否といえます。この構造では ( 図 4 ) の①にあたる、好みコンテキストをストックすると いう行為を前提にしているからです。あるコンテキストを見て、魅力的に思う、快楽を感じる、ということがな ければ、そもそもコンテキストがストックされてゆかないはずです。 先ほどは「美少女のイデア」モデルでは、その快楽が何処から来るか解らないと言いました。ここでも同様に、 3

4. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 4 】「萌え」の実体はどこにある 「萌え」に対する特権が機能するのは、あくまで感情としての「萌え」についてのみです。本来、それ以外の 部分に対して、「萌え」の特権は機能しないはずです。ですが、「萌え」の特権化の効力は「萌え」全体に及び、「『萌 え』は感情の問題だから定義できない」などという言葉は、まことしやかに囁かれてきました。これは、「萌え」 が感情の局面の問題だけでなく、それ以外の複数の局面の問題をはらんでいることが意識されてこなかったこと にも問題があるでしよう。 つまり、「萌え、の実体の把握が非常に困難なことによって、私たちは「萌え」を感情の問題だと信じ、感情の 問題に「萌え」の全てが回収できると思い込んでいたのではないか、ということです。今日「萌え」をめぐる言 説は多様化し、どこまでが「萌え」で、どこからが「萌え」でないのか、その境界を画定することは日々困難に なってきています。 そもそも、各人が触れることのできる「萌え」事象の範囲は限定的なものです。「萌え」の中核をなすと考えら れる美少女系コンテンツの供給は、明らかに個人の消費できる量を上回っていますし、その上で、ユーザーの性 向の変化、市場規模の変容、政府の支援制作と「萌え」のかかわり、「萌え」に関する識者の論説など、全てを網 羅しようとしても、およそ不可能でしよう。 各人は、各人の目の触れる範囲にある、「萌え」と呼ばれる物事、あるいは自分が「萌え」だと感じた体験、こ れらの限定的なものから、自分の「萌え」観を作り上げているのです。目にするものが違えば、そこから導かれ る「萌え」観が異なったものになることは当然でしよう。よく「十人十萌え」などといいますが、これは「萌え る」対象の違い、快楽の違いの以前に、それぞれ違った範囲のことを見て、違った範囲のことを「萌え」という として、「萌え」の特権化に疑義をかけることは、必然的な流れなのです。

5. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 9 】属性主義 この「属性」概念の顕在化は、おそらく「恋愛主シミュレーション」ないしは「恋愛アドベンチャー」と呼ば れるゲームの登場と同期していると考えられます。「恋愛主シミュレーション」はそれまでのマンガやアニメに登 場してきた恋愛的なコンテキスト、美少女キャラクターの魅力を司るあらゆるコンテキストを選りすぐった集大 成であり、コンテキストの見本市のようなものだったと捉えることができます。各ヒロインにはいくつかの関連 性の高いコンテキストが与えられ、ある意味で「属性」の権化としてのキャラクターが顕現しました。個人が複 数の作品をプレイし、同系統のヒロインを攻略するうちに、そこで共通して見られるコンテキストと、共通して 見られる外見や性格などのレッテルが結びつき「属性」認識が確立されていったのではないかと考えられます。 そして、「属性」がキャラクターに与えられたとき、それはコンスタントに「外見快楽」と「人格快楽」を引き 起こすスイッチになります。ですから、「属性」を組み合わせてキャラクターを作れば、ユーザーが勝手に「萌え」 てくれるキャラクターが出来上がるというわけです。そこに頼りきった、「属性万能主義」とでも言うべきものが、 作品において、キャラクターの人格のリアリテイや、それをとりまくストーリー。それらを描写する作画などの 表現をないがしろにしていったものの正体ではないでしようか。 また、この「属性、は作品が大量に供給される環境にあって、ユーザーの商品選別の有効なツールでした。そ こに、ある作品の購入を検討する際、自分の好みのコンテキストがどれだけ含まれているかによって、その作品 から得られる快楽の期待値が得られます。そして、供給側と消費側である程度共通して用いられる「属性 , は、 その中のコンテキストを予想させることに役立つものです。そのため、商品の宣伝文句に多用され、ユーザーも それを判断基準尾ひとっとするようになったのです。 ただし、この「属性」主義に関しては決定的な落とし穴が存在します。それは、「属性、は、その場その場で「外 見快楽」や「人格快楽」を励起しますが、それが乱発された場合、キャラクターの人格が破綻し、それらの快楽

6. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

むのか、という問題があります。文化庁は「メディア芸術」という名で振興指針を打ち出しましたが、これも 0 2 やデジタルアート全般を含むもので、少々広すぎます。単に「コンテンツ系文化」といっても、なんだかわか りません。 そこで、メディアが注目したのが、ニュートラルな新語である「萌え」だったわけです。アニメ・コミック・ ゲームはもとより「オタク」文化が跨るメディアには、往々にして「萌え」が存在していました ( 少なくとも「美 少女」というモチーフが共通して見られました ) し、なにより新語ですから、「オタク」のように余計なイメージ が無い。さらに言えば非常に使いやすい語感を持っていたことなどもあって、「萌え」という言葉は急速に広がり ました。 要は、ネガテイプなイメージを持った「オタク」文化が、新語である「萌え」というラベルを貼り直されるこ とよって、イメージを好転させたということです。 ただ、「萌え」日「オタク」ではないので、そこに新たな認識の齟齬が発生するという問題もあります。 【 12 】モブカルチャーの中で 「モプ (mob) 」とは「群集、のことで、「モプカルチャー、は「群集文化」のことを指します。この「モプカ ルチャー」という語によって、今日の「萌え、及び「オタク」を巡る文化状況を的確に示すことが出来るのでな いかと、筆者は考えています。 通常、「群集」には「 crowd 」ないし「 mass 」という語を使います。しかし、基本的にそれらは何らかの政治的 意思の元に集まった場合に用いられるものです。しかし、「モプカルチャーはそうでありません。「萌え、にお いては、中心的教義がなく、向かうべき方向性は各人に完全に委ねられています。そうすると各人は離散して行 くようにも思えますが、現実はそうではありません。各人が多様性を認め合い、緩やかな共同体を形成し、社会