【 13 】そして娯楽として 「萌え、が「オタク」にとって決定的な救済になるとは思いません。「萌え」の快楽は、キャラクターを素材に して自分で作り出すものに過ぎず、「萌え」の快楽の向こうには自分しかいないからです。あるいは、自分の「萌 え」を支えるコンテキスト・ストック、それを与えてくれた「オタク」文化全体にしても、今や強固なまとまり を持つものではなくなってきています。 同時に、「オタク、であることによって人間は救われないと考えられます。一時期、「オタク」を優れた能力を 持った人間だと賞揚使用とした時期がありました。しかし、「オタク」を「アニメ・コミック・ゲームなどの商品 を支持する人々」としてしか捉えられなくなれば、「オタク」とそうでない人の差異は、単純に娯楽の範囲の違い に帰着します。「オタク」は「ただアニメ・コミック・ゲームが好きなフツーの人」となり、いわれのない批判を 受け流すことができるようになった代わりに、非「オタク」に対する優位性は失われました。 もはや、アニメやコミック・ゲームの愛好者であることの正当性を担保するものはありません。また、それを 阻むものもありません。ただただ、それらは「娯楽」のひとつであるのみなのです。「萌え、や「オタク」に自分 の人間性を賭けるということが、どの程度本気で行われているのか、私はよく知りません。しかし、それを「本 気」でやったとしても、自分の人間性の保証は見出せないのだと思います。 自分の人間性のヒントを「娯楽」に求めることはできても、それ以上のことは「娯楽」は与えてくれません。「所 詮は娯楽、、これが「萌え」と「オタク . の今日行き着いた場所なのではないかと筆者は考えます。その上で、「娯 楽」にどのように向き合うのか、本書がその参考になるならば幸いです。 が出来るでしよう。 4 91
【 9 】属性主義 この「属性」概念の顕在化は、おそらく「恋愛主シミュレーション」ないしは「恋愛アドベンチャー」と呼ば れるゲームの登場と同期していると考えられます。「恋愛主シミュレーション」はそれまでのマンガやアニメに登 場してきた恋愛的なコンテキスト、美少女キャラクターの魅力を司るあらゆるコンテキストを選りすぐった集大 成であり、コンテキストの見本市のようなものだったと捉えることができます。各ヒロインにはいくつかの関連 性の高いコンテキストが与えられ、ある意味で「属性」の権化としてのキャラクターが顕現しました。個人が複 数の作品をプレイし、同系統のヒロインを攻略するうちに、そこで共通して見られるコンテキストと、共通して 見られる外見や性格などのレッテルが結びつき「属性」認識が確立されていったのではないかと考えられます。 そして、「属性」がキャラクターに与えられたとき、それはコンスタントに「外見快楽」と「人格快楽」を引き 起こすスイッチになります。ですから、「属性」を組み合わせてキャラクターを作れば、ユーザーが勝手に「萌え」 てくれるキャラクターが出来上がるというわけです。そこに頼りきった、「属性万能主義」とでも言うべきものが、 作品において、キャラクターの人格のリアリテイや、それをとりまくストーリー。それらを描写する作画などの 表現をないがしろにしていったものの正体ではないでしようか。 また、この「属性、は作品が大量に供給される環境にあって、ユーザーの商品選別の有効なツールでした。そ こに、ある作品の購入を検討する際、自分の好みのコンテキストがどれだけ含まれているかによって、その作品 から得られる快楽の期待値が得られます。そして、供給側と消費側である程度共通して用いられる「属性 , は、 その中のコンテキストを予想させることに役立つものです。そのため、商品の宣伝文句に多用され、ユーザーも それを判断基準尾ひとっとするようになったのです。 ただし、この「属性」主義に関しては決定的な落とし穴が存在します。それは、「属性、は、その場その場で「外 見快楽」や「人格快楽」を励起しますが、それが乱発された場合、キャラクターの人格が破綻し、それらの快楽
いうものは、万人が共通して持っている、ある事物の純粋形、理想形です。しかし、「美少女のイデア」は個々人 で相当に異なるはずですから、 ( 図 ) のように個々人に内部化されていると考えるのが妥当でしよう。 このモデルは、「美少女のイデア」を中心に起動していますが、それ自体が最大の問題となっています。つまり 「美少女のイデア」が何処から、どのようにしてもたらされるのか、それがまったく解らないのです。このモデ ルでは、快楽の原因がまったく説明できていません。 筆者は、ここに「コンテキストのストック」という考え方を持ち込むことで、「萌え」の構造をより正確に把握 できると考えています。その構造は、 ( 図 4 ) のようなものとして想定されます。 個人は、多くのキャラクター表現に触れる中で、自分の好みのシーンやシチュエーションを蓄積着ていきます。 ここではそれらを「コンテキスト」と総称しますが、このようなコンテキストのストックを持った状態で、新た にキャラクター表現に触れることで、「萌え」の快楽構造が起動します。これが ( 図 ) において個人が「美少 女のイデア」を獲得した状態のことです。 キャラクター表現の中に、あるコンテキストと密接にかかわるもの、特定のコンテキストを想像させるもの、 すなわち「コンテキストの表象、が含まれていると、個人はそれを読み取ることができます。そうすると、「この キャラクターがあんなことしたら、きっと魅力的だろう」という想像が働き、自分のコンテキストのストックを 利用して、キャラクターにコンテキストを付与することができるようになるのです。つまり、自分の好みのコン テキスト ( Ⅱキャラクターの魅力 ) をいくらでも仮託することができ、キャラクターはこの構造が駆動され続け る限り、無限に魅力を増大することになります。個人は、無限の魅力を自らキャラクターに与え、そこから著し い快楽を得ることができる、この循環構造が「萌え , には存在しています。 つまり、「萌え、の快楽は、単純に理想形とのパターンマッチングによって起動するのではなくて、快楽の素材 を個人が蓄積していって、それを具体的キャラクターに加算していくことで、キャラクターの魅力を増大すると いう、能動的な快楽励起行為でもあるわけです。
キャラクターは架空の存在であり、最初の時点では「人格」はないはずです。つまり、何らかの手続きによっ て、私たちは描かれたものに「人格」があると認識するようになると考えられます。キャラクターに「人格」と して強い魅力を感じる以前に、そこに「人格」を持った存在がいると認識させるものがあるはずだ、ということ です。 それを、私はキャラクター表現の「外見快楽」と呼ぼうと思います。それは、キャラクターの「絵」や「声」、 「台詞」、作画による「動作」などの表面的な表現そのもの、なんらの説明もなしに、圧倒的な迫力と実在感をも たらす表現のことです。たとえば、戦闘シーンの圧倒的な作画力、精緻な塗りが行われたイラストがそうですし、 声優の演技は、キャラクターの図像にかかわらず一定の実在性をもたらす便利な表現装置です。 これまで、「萌え」の快楽が、単純に外見によってもたらされるということを、私たちは否定して来ました。「萌 え」はそんな単純で低次元な感情ではなく、キャラクターの「人格」による複雑で高次元の快楽なのだと。しか し、複雑で高次元名ものを実現するためには、その土台として単純で低次元なものが必要なはずなのです。それ こそ、問答無用でキャラクターに存在感を与える、キャラクターが無条件にそこに「いる、と感じさせる単純な 表現そのものであり、それこそが「萌え」のもっとも基本的な快楽なのです。 単純に絵を見て、声を聞いて「かわいい」とか「好みだ」と思うことがなければ、それをただの図像としてで はなく、一個の「人格」として見ていく手続きが開始されないということです。 この「外見快楽」と「人格快楽」は、明確に区別されず、一体のものとして意識されています。正確に言うな ら「外見快楽」は「人格快楽」に取り込まれて見えなくなっているのです。ですから先に挙げたように「萌え」 を高次のものとして扱おうとしたときに「外見快楽」が否定されるということが起こるわけです。 この「外見快楽」の表現技法の洗練が、「萌え」の進展に関して重要な役割を担っていると考えられますが、そ れは「個人の局面」ではなく、「プロダクションの局面」において語られるべきことでしよう。
「個人の局面」、つまり「萌え」 という快楽感情・快楽体験はいっ たいどのようなものか、というのモ、、の がここで扱われます。各人の「萌ア一少 え」の対象、快楽の度合いや性質一丁 は様々ですから、一概に「『萌え』イ の快楽とはこういうものだ」と言 女 い切ることはできないでしよう。 少 むしろ、「萌え」を俯瞰するため 美 には、個別の質的な問題よりも構「 造的な問題に注目するのが妥当 と考えられます。「萌え」という 感情、「萌える」とい一プ行為の中 に共通して見られる構造がある のではないかということです。それはつまり、個人がキャラクターに著しく没入することを可能にする今日的な 構造です。 まず一番簡単に思い浮かぶ快楽構造は ( 図 3 ・ =) のような「美少女のイデア」モデルではないでしようか。 筆者が最初に採用したのもこのモデルですが、このモデルは単純過ぎて、「萌え」の特徴を理解するのに、それほ ど役立っモデルとはいえません。 ( 図 3 <) は、まず、美少女の理想像、すなわち「美少女のイデア」なるものが存在し、具体的な美少女と「美 少女のイデア、のパターンマッチングによって、「萌え」の快楽が生まれるとするものです。通常、「イデア」と 個人 。萌ん イデア 具体的な 美少女・ キャラクター 個人 美少女の イデア 具体的な 美少女・ キャラクター 萌え : 0
自分の「萌え」の正当性、快楽の正当性を信じるなら、もう自分は誰の「萌え」も否定できないのです。そして、 これは、「萌え」という感情を抱いてしまった瞬間、それを快楽として認識してしまった瞬間から、すべての人に 課せられる制約です。「萌え」という快楽体験を持っすべての人は、この制約に従わなければ、つまり「萌え」の 相互不可侵条約に批准しなければ、自分の「萌え、の正当性を担保することができなくなってしまうわけです。 さて、これでめでたく、個人の「萌え」の正当性は守られることになりました、しかし、同時に「萌え」とい う概念にとって非常にクリティカルな問題が出てきます。「萌え」全体に対する判断を、個人が停止してしまうこ と、そしてまた、「萌え」全体に対して、無条件の肯定が与えられ、「萌え」が絶対の価値として君臨することで す。 「萌え」の相互不可侵条約は、個人の「萌え」の快楽を保護することになりますが、それは他人の「萌え」に 介入しない、手出ししない代わりに、ということです。他人の「萌え」がいかなる形態をとっていようと、それ は自分の「萌え , と同様に肯定しなければいけません。他人の「萌え」は解らないという以前に、他人の「萌え」 には介人できないという理由で、個人は他人の「萌え」への判断を停止することになるのです。 「萌え」の全体は、すべての人間の「萌え、の集積として存在します。他人の「萌え」〈の判断の停止は、そ の集積である「萌え」全体への判断の停止と同義です。さらに、個人が「萌え」に与える価値は、自分の「萌え」 の快楽の価値であり、「萌え」全体の価値は、自分の快楽の価値を出発点に、無限に広がったものとして意識され ることになります。 決して否定されることなく、果てしない広がりを持った快楽、それが「萌え」だといえます。個人は、「萌え」 の前にひれ伏し、「萌え」という言葉を聞いた瞬間に、そこ〈の肯定を与えてしまいます。もはや、「萌え」は一 種の権威として君臨しています。そして、「萌え」にそういった特権的地位を与えているのは、私たち自身の集団 意識なのです。 5
ただし、コンテキストのストックの量と質、キャラクター表現からコンテキストを読み取る能力、キャラクタ ーにコンテキストを実現させる想像力の個人差によって、この構造がどれだけの強度で駆動するのかが変わって きます。そこでは、あるコンテキストに、別のコンテキストを連結させる能力、個々のコンテキストを関係付け、 次々に連鎖させていく能力が働きます。表現されているコンテキストから、表現されていないコンテキストを想 像してゆく能力と言ってもいいでしよう。このコンテキストを関係付けていく能力は、コンテキストの鑑賞体験 の多さに比例して高まってゆくと考えられます。もちろん、「萌える」こともキャラクター表現の鑑賞体験の一種 ですから、「萌え」体験はフィードバックされて、すでに経験したコンテキストの関係付けを容易にしたり、あら たな関係付けを発見することにつながっていきます。 「萌え」慣れていけば、次の「萌え」はさらに容易に、さらに強くなっていくということです。場合によって はあるコンテキストを見た瞬間、ある特定のキャラクターを見た瞬間に、条件反射的に快楽得ることも可能にな るでしよう。これは、自分で自分にパプロフ大的な条件付けを行っているようなもので、そこにおける「萌え」 はすでに「自己暗示的段階」とでも呼べるでしよう 【 7 】ニつのキャラクター快楽 さて、 ( 図 4 ) のような構造が機能しないと「萌え」と呼ばれないのか、という間題があります。キャラクター 表現から快楽を得るときに、必ずその構造が働いているか、ということです。 この答えは、簡単に否といえます。この構造では ( 図 4 ) の①にあたる、好みコンテキストをストックすると いう行為を前提にしているからです。あるコンテキストを見て、魅力的に思う、快楽を感じる、ということがな ければ、そもそもコンテキストがストックされてゆかないはずです。 先ほどは「美少女のイデア」モデルでは、その快楽が何処から来るか解らないと言いました。ここでも同様に、 3
の中で一定規模を持っ集団として認識されています。 また、「オタク」に関しても、同様の正確が見られます。メディアミックスの進展、作品数の増大によって、全 ての商品を個人が網羅することが出来なくなり、個人は自身の興味範囲に従って商品を消費してゆくしかありま せん。そうすると「オタク、の基準は、作品の消費ということでは決定できないのです。つまり、「オタク、であ れば、消費に熱心でなければならないという論理はもはや通用しないのです。代わりに、「オタク」を「ライフス タイル、という視点で見たとしても、「こうでなければオタクではない」という基準は現在存在しているようには 思われません。 「萌え」も「オタク」も、いまや「アニメ・コミック・ゲームなどの商品を支持する人々」という緩やかな規 範で繋がっているに過ぎず、それらの商品を「好きだ」という限りにおいて、「お前のは「萌え、じゃない」、「お 前は『オタク』じゃない」とは一一一一口えないのです。そして、この一、二年のうちに天から降ってきた「萌え」と「オ タク」に対するする肯定によって、「なぜ『萌え』を選ぶのか」、「なぜ『オタク』でいるのか」という問いは効力 を失いつつあり、「だって、ある程度の人が支持しているからいいじゃないか」と簡単に処理できてしまうのです。 筆者は、そのような状況を嘆いているのではありません。時代の変化に対応して「オタク」という共同体が行 った必然的な変化だと考えます。しかし、社会にはまだ「オタク」と「萌え」に対する変家と誤解が潜んでいま す。そして、そこに対処するために自分が「オタク」である理由、「萌える」理由を問うときが繰るかも知れませ ん。「モプカルチャー」の元では「こうしたらいい、、 「こうすべきだ」という指針は誰も与えてはくれず、自己責 任で対処しなければならないのです。「アニメ・コミック・ゲームなどの商品」の快楽に浴し続けることを望むな ら、「萌え」という言葉の魔力に惑わされず、自分の目の前にあるものの実体を見定め、それと自分との関わりを 理解しておくに越したことはありません。しかし、それをするもしないも、自由なのです。 結局、「私たち一人一人の意識によってーー」という、環境問題などでお決まりの文句に「オタク」と「萌え」 の行く先を委ねるしかないのです。これは、少なくとも「オタク」にとっての新たな困難状況であると言うこと 3
筆者が考える「萌 え」のロードマップ は ( 図 2 ) のような ものです。 ッ 「萌え」の全体は、 大まかに言って三つド に分けることができ ロ ます。「個人の局面」 は、快楽感情・快楽」 え 体験としての「萌え」 萌 について、「プロダク ションの局面」はユ 91 ーザーの消費性向の図 変化と、作品供給の 変化、アニメ・コミ ック・ゲームの制作 に関連する問題です。「文化の局面」は、「萌え」という現象の社会的効果についてです。この三つで、「萌え」と 呼ばれる現象の大部分を論じることができるようになると考えます。 【 6 】「萌え」の快楽構造 個人の局面 ・直観的段階 L ( 画面快楽 ) ・ ( 人格快楽 ) ・構造的段階 ・自己暗示的段階 「萌え」全体 プロダクションの局面 ・ユーザーの消費性向の変化 ・供給側の対応 。メディア特性の変化 文化の局面 ・「萌え」の集団意識 ・オタクのイメージの変化 ・社会の受容 9
【 8 】「一目惚れ」を可能にするもの 「萌え」を重視した作品においては、キャラクターだけが重要視されクオリティの低下を招いたという批判が あるでしよう。ここでいうクオリティとは、脚本、ストーリー構成、作画のことです。 では、なぜそのような事態になったのか、どうしてそのような作品が出現してきたのか。これを考えることが 「萌え」のプロダクションの局面を考える上で重要な手がかりになるはずです。 先ほど提示した、「萌え」の快楽構造において、キャラクターの魅力は、ただ作品 ( キャラクター表現 ) から与 えられるだけのものではなく、作品を見た個人が、自分で魅力 ( 快楽 ) を作り出し、それをキャラクターに投影 しています。つまり、ユーザーが「萌え、の快楽構造を起動させるスイッチが作品内に存在すれば、あとはユー ザーが快楽を自己生成し勝手に作品に熱狂してくれます。ューザーが「萌える」という前提があれば、作品はそ のスイッチを入れるだけでいいのです。 では、その「萌え」のスイッチになるものは何か、それは「直感段階」の快楽を励起させるものであり、「人格 快楽」と「外見快楽」です。もっといえば、「人格快楽 . は「外見快楽」から導くことが可能なので、スイッチの としての役割を果たすには、最低限、「外見快楽」さえあればよいということになります。そこから上の次元のキ ャラクターの魅力は、ユーザーによっていくらでも補完されうるものです。 つまり、そのキャラクターを見た瞬間に「好きだ・好みだ」と思ってしまえば、そのキャラクターに対して「こ んな素敵な性格をしているに違いない」、「こんな魅力的な仕草をするに違いない」と思い込むことはいくらでも 可能なのです。しばしば「萌え」が「一目惚れ」や「初恋」に近いなどと表現されるのは、この「直観段階」に おける「外見快楽」の効果を表したものと理解できます。あるいは「外見快楽」を「一目惚れ快楽」と言い換え てもいいでしよう。 このようなキャラクターへの「一目惚れ」を可能にするのは、アニメ・ゲーム・コミックなどのキャラクター 6