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検索対象: 萌学協会雑誌 第3巻 第1号
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1. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 1 】快楽としての「萌え」 私たちが「萌え」について考えるとき、最初の、かっ最も重要な作業は「萌え」の特権化を排除することです。 「萌え」とは一体何なのか。この答えを私たちは未だもって得ていません。そもそも、「萌え」の実体がどこに あるのかさえも、判然としません。そのような状況では、本来、「萌え」への価値判断はできないはずなのです。 それが価値のあるものなのか、それともまったく無価値のものか、そのものの実体を把握せずに判断することは できないということです。 しかし、厄介なことに、「萌え」がその一面において、快楽体験・快楽感情であるという問題が存在します。基 本的に「快楽」というものは、個人にとって無条件に肯定されてしまうものです。社会規範との整合性という問 題を横に置けば、単純に「気持ちがいい」ことを否定する人はいないでしよう。また、その「気持ちがいい」と いうことを弁護するために、社会規範の解釈自体を変える可能性すらあります。少し乱暴な言い方になりますが、 快楽は人を盲目にします。 さらに、快楽感情・快楽体験というものは、非常に個別的な体験で、しかも言語化が難しいものです。もしあ なたが、自分の「萌え」という感情を説明しなさいと言われても、おそらく困惑することでしよう。あるいは、 頑張って言葉を紡いでも、しつくりとくる説明ができるでしようか。 無条件に肯定されるものでありながら、一方で自分でも解らないもの。それが自分の「萌え」感情・「萌え」体 験です。ここでは「解らなさ」という問題は、「だって気持ちいいじゃないか」という意識に飲み込まれ、放置さ れてしまいます。解らなくても気持ちいいものは気持ちいいのですし、「解らない、解らない . といって悩むのは、 その快楽の邪魔になるだけです。であれば無理に定義しようとして、「萌え」の快楽を減じようとしないのは当然 のことです。 91

2. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

どのような原理でストックが行われていくのかは説明できていません。ここにおそらく、快楽感情・快楽体験と 1 しての「萌え」を一般化して説明することの限界があります。 つまり、これ以上は個人の趣味嗜好の問題であって、そこには手をつけられないのです。おそらく、その趣味 嗜好に関して、何らかの共通項が見られるのかという問題は、もはや架空の存在に如何にしてリアリティを見出 すのかという「萌え」特有の構造から離れたところにあると考えられます。それはもはや、個人の異性の好みの 問題に過ぎないのであって、「萌え」の特徴を知る上でもはやクリティカルなファクターではないでしよう。もし、 この問題に取り組むなら、膨大な作品のテクスト分析や心理学的アプローチが必要でしようが、そのような手間 をかけて導き出された回答に、どれだけの妥当性と有用性が認められるのかは、疑問だと言わざるを得ません。 さて、話を元に戻しましよう。コンテキストのストックに基づく構造によって「萌え」の快楽を得ることを、「構 造的段階」とするなら、その元となるコンテキストをストックしてゆくことを、「直感的段階、と表現することが できるでしよう。 コンテキスト、つまりそれは一区切りのキャラクター表現であり、そこから何らかの快楽を得て個人の中にス トックされてゆくわけです。このキャラクター表現の快楽は、「外見快楽、と「人格快楽」の二つに分類できるで しょ一つ。 私たちがコンテキストから快楽を得る場合、要は「萌える」場合、私たちは描かれたキャラクターの中に「人 格」を見出していると考えられています。そこに一人の人間がいるというリアリティがあって、その人間的魅力 よって「萌える」のだ、という考え方です。 たしかに、私たちが自分の「萌え」たキャラクターについて語る場合、それはキャラクターの性格、発言、仕 草、あるいや生い立ちゃ置かれた環境にまで及びます。これは心理学用語で言うところの「パーソナリティⅡ人 格」に非常に近いものです。ここから得られる快楽をキャラクター表現における「人格快楽」と呼ぶこととしま しょ - つ。

3. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 2 】「萌え」の相互不可侵条約 さらに面倒なことに、「萌え」〈の肯定と、その解らなさが集団意識化することによって、「萌え」の特権化が 進展します。「萌え」が個別的な感情・体験であり、自分にも解らないものであれば、それは「自分以外にも解る ものではない」と思えます。同時に、他人の「萌え」に関しても、自分には解らないものとして意識されます。 ここから、一種の「萌え」の相互不可侵条約が発生します。 ( 図 1 ) これは、単純に相互の「萌え」の「解らなさ」という問題に止まらず、「萌え」という概念全体に影響してくる 問題です。その構造を少し詳しく見てみましよう。 快楽としての「萌え」〈の肯定は、無条件のものであり、合理的説明を伴いません。つまり、「萌え」の快楽に 関して、その正当性を裏付けるものは存在しないということになります。これに関しては異論があるかとも思い ますが、少なくとも、私たちが「萌える」時には、その正当性が何処に依拠するのかといった問題は意識されな いはずです。 ここで、自分の「萌え」を肯定する限り、他人の「萌え」を一切否定できないという構造が出来上がるのです。 自分の「萌え」の正当性は、それが自分にとって快楽であるということによってのみ、担保されています。それ は他人も同様で、他人の「萌え」の正当性について、その判断はできません。他人の快楽のあり方など、当人に しか解らないからです。もし、他人の「萌え」を否定しようと思ったら、自分の「萌え」を否定されることを覚 悟しなければなりません。 つまり、他人の「萌え」の快楽を否定するということは、「お前の快楽のあり方は正しくない」というようなも のです。しかし、そのような否定を行うとすれば「では、お前の快楽の正当性はどこにあるのだ。そんなものは 本当にあるのか」という命題が、否定をした本人に跳ね返ることになります。他人の「萌え」の否定は両刃の刃 であって、他人の「萌え」を否定すれば、それは跳ね返って自分の「萌え」の正当性の否定となってしまうので す。

4. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

いうものは、万人が共通して持っている、ある事物の純粋形、理想形です。しかし、「美少女のイデア」は個々人 で相当に異なるはずですから、 ( 図 ) のように個々人に内部化されていると考えるのが妥当でしよう。 このモデルは、「美少女のイデア」を中心に起動していますが、それ自体が最大の問題となっています。つまり 「美少女のイデア」が何処から、どのようにしてもたらされるのか、それがまったく解らないのです。このモデ ルでは、快楽の原因がまったく説明できていません。 筆者は、ここに「コンテキストのストック」という考え方を持ち込むことで、「萌え」の構造をより正確に把握 できると考えています。その構造は、 ( 図 4 ) のようなものとして想定されます。 個人は、多くのキャラクター表現に触れる中で、自分の好みのシーンやシチュエーションを蓄積着ていきます。 ここではそれらを「コンテキスト」と総称しますが、このようなコンテキストのストックを持った状態で、新た にキャラクター表現に触れることで、「萌え」の快楽構造が起動します。これが ( 図 ) において個人が「美少 女のイデア」を獲得した状態のことです。 キャラクター表現の中に、あるコンテキストと密接にかかわるもの、特定のコンテキストを想像させるもの、 すなわち「コンテキストの表象、が含まれていると、個人はそれを読み取ることができます。そうすると、「この キャラクターがあんなことしたら、きっと魅力的だろう」という想像が働き、自分のコンテキストのストックを 利用して、キャラクターにコンテキストを付与することができるようになるのです。つまり、自分の好みのコン テキスト ( Ⅱキャラクターの魅力 ) をいくらでも仮託することができ、キャラクターはこの構造が駆動され続け る限り、無限に魅力を増大することになります。個人は、無限の魅力を自らキャラクターに与え、そこから著し い快楽を得ることができる、この循環構造が「萌え , には存在しています。 つまり、「萌え、の快楽は、単純に理想形とのパターンマッチングによって起動するのではなくて、快楽の素材 を個人が蓄積していって、それを具体的キャラクターに加算していくことで、キャラクターの魅力を増大すると いう、能動的な快楽励起行為でもあるわけです。

5. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

【 3 】特権化の排除 さて、ここで話が最初に戻ってきます。「萌え , の特権化をまず排除すること、それが「萌え」の正体を知るた めに必要なことだという話です。 「快楽感情・快楽体験」としての「萌え」、ここへの私たちの意識が、「萌え」全体への判断停止が導かれるこ とは今見たとおりで、これが「萌え」の特権化の原理です。 この特権化は、「萌え」が快楽である限り、乗り越えられないものにも思えます。しかし、私はここでひとつの 指摘をしなければなりません。それは、「萌え」という概念が今日包摂する範囲は、単純に快楽感情・快楽体験だ けにとどまらないということです。つまり、快楽感情・快楽体験としての「萌え」は、「萌え」という概念全体の 一部分に過ぎないのです。 たとえば、アニメ・ゲームの制作関係者は、しばしば「萌え」を「ストーリーからキャラクターへの移行。と 説明したりします。あるいは、秋葉原の変容、つまり、秋葉原におけるキャラクタービジネスの全面化なども「萌 え」と言われますし、一般の報道では「オタク」の代替語として「萌え」が用いられることもあります。これら は、すべて個人の「快楽感情・快楽体験」に回収できる問題でしようか。あるいは、これらの問題は「萌え」と いう概念の中心的なものではないとして、「萌え」というものの検討から除外できるものでしようか。筆者はそう は考えません。 これらの問題が「萌え」の中に含まれるとするならば、私は「萌え」の特権化を乗り越える糸口を簡単に見出 すことができるでしよう。要するに、私たちは「萌え」を感情の問題にしすぎてきたのです。「萌え、が単純に快 楽だけを、その快楽感情と、その感情を覚える体験だけを指すのであれば、「萌え」の特権化は絶対のものだった でしよう。しかし、「萌え」を取り巻く現状は、感情以外の部分をも含んでいるのです。単純な快楽の問題だけで は「萌え」全体を議論することは不可能になっているのです。とすれば、「萌え」全体を見渡すことを妨げるもの

6. 萌学協会雑誌 第3巻 第1号

キャラクターは架空の存在であり、最初の時点では「人格」はないはずです。つまり、何らかの手続きによっ て、私たちは描かれたものに「人格」があると認識するようになると考えられます。キャラクターに「人格」と して強い魅力を感じる以前に、そこに「人格」を持った存在がいると認識させるものがあるはずだ、ということ です。 それを、私はキャラクター表現の「外見快楽」と呼ぼうと思います。それは、キャラクターの「絵」や「声」、 「台詞」、作画による「動作」などの表面的な表現そのもの、なんらの説明もなしに、圧倒的な迫力と実在感をも たらす表現のことです。たとえば、戦闘シーンの圧倒的な作画力、精緻な塗りが行われたイラストがそうですし、 声優の演技は、キャラクターの図像にかかわらず一定の実在性をもたらす便利な表現装置です。 これまで、「萌え」の快楽が、単純に外見によってもたらされるということを、私たちは否定して来ました。「萌 え」はそんな単純で低次元な感情ではなく、キャラクターの「人格」による複雑で高次元の快楽なのだと。しか し、複雑で高次元名ものを実現するためには、その土台として単純で低次元なものが必要なはずなのです。それ こそ、問答無用でキャラクターに存在感を与える、キャラクターが無条件にそこに「いる、と感じさせる単純な 表現そのものであり、それこそが「萌え」のもっとも基本的な快楽なのです。 単純に絵を見て、声を聞いて「かわいい」とか「好みだ」と思うことがなければ、それをただの図像としてで はなく、一個の「人格」として見ていく手続きが開始されないということです。 この「外見快楽」と「人格快楽」は、明確に区別されず、一体のものとして意識されています。正確に言うな ら「外見快楽」は「人格快楽」に取り込まれて見えなくなっているのです。ですから先に挙げたように「萌え」 を高次のものとして扱おうとしたときに「外見快楽」が否定されるということが起こるわけです。 この「外見快楽」の表現技法の洗練が、「萌え」の進展に関して重要な役割を担っていると考えられますが、そ れは「個人の局面」ではなく、「プロダクションの局面」において語られるべきことでしよう。