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検索対象: 記号のペシミズム
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1. 記号のペシミズム

であって、書き手の独りよがりな見解を は四コマ全てが同一の図像で構成されるしたことにはならないであろう。 ランドルト氏による解説は大きく二つ披瀝するものではないというスタンスを 作品すらある。通常ならば退屈な印象を 迅速かつ一方的に確立し、文章上の全て 与えかねないが、ランドルト作品の場合、の系統に分かれる。一つは作品理解の前 の責任を読み手の側に押しつけるという こついての真面目な説明に 記号という題材の特殊性と相まって、名提となる知識 ( 状しがたい独特の効果を出すことに成功終始したもの。もう一つは、氏持ち前の高度な情報戦術が巧みに織り込まれてい る点が指摘できよう。これは非常に詭弁 している。記号というものがそもそも反ューモアを生かした屁理屈を垂れ流すこ 復的使用を前提として作られた素材であとによって、作品理解の攪乱をもたらす的な手法であり、長く詭弁論部で研鑽を もの。前者の例としては二五ページ下段積んできた筆者にとっても馴染み深いや ることを考えると、機械的反復によるコ り口である。 マ構成は、むしろ記号の特質を最大限発や二八ペ ] ジ下段のものが、後者の例と このようにして議論の主導権を掌握し しては二八ページ上段や三一ページ上段 揮する演出であるといえる。 た後は、矢継ぎ早に自説をまくし立てる 四コママンガという極めて定型的なシのものが挙げられる。 一般的な読者は前者をありがたがるののが定石である。ランドルト氏も、両義 ステムに則りつつも、その解釈において であろうが、それがウイキペディアの記性、非人間性、七五調という三つの論点 全く新しい機軸を打ち出し、表現の可能 性を押し広げている点に、ランドルト作述の稚拙なアレンジに過ぎないことを知を立て続けに指摘し、相手に反論の隙を る筆者としては、むしろ後者にこそラン与えまいと必死の攻勢を繰り広げる。 品の傑出した創造性が認められる。 しかし筆者ほどの非凡な知性の持ち主 ドルト氏のオリジナリティの発露を見る 解説の妙 にしてみれば、ランドルト氏の虚妄を暴 ことができて興味深い。よって本稿でも、 一つの記号に二 くことなど造作もない 後者について詳しく検討する。 本書を凡百の同人マンガ誌から隔てる たとえば三一ページ上段の解説。もはつの意味を持たせたのは別々の記号を描 のが、マンガ本文とほぼ表裏一体の形で くのが面倒くさかったからであり、画面 や狂気の沙汰としか思えないトンデモ理 書かれた解説の存在である。実際いくっ 論が縦横無尽に展開されることによって、から人間を一切排除したのは人間を描く かのマンガは、解説なしには理解するこ 作品自体の理知的で洗練された印象が見のが面倒くさかったからであり、ナレー 一フンドルト氏自身「執 とすらできない ションを原則七五調に統一したのは語呂 事に台無しになっている。 筆に際しては本文よりも解説の方に多く まず「賢明なる読者諸氏は既にお気づがよかったからである。 の時間を費やした」と語っている。とな なるほどタネを明かせばいささか拍子 きのことと思うが」という断り書きの挿 ると、我々も相当の字数を費やして解説 入によって、以降の陳述はあくまで読み抜けの感は否めない。とはいえ、ランド に光を当てる必要がある。それを怠るな 手のスタンダードな認識を代弁するものルト氏の詭弁術は、多くの一般的な読者 らば、一フンドルト作品を真に鑑賞し尽く

2. 記号のペシミズム

手書きの擬音語や擬態語が画面を埋番を失い、脱記号化が促される。そして連関を持っ例も少なからずあるが、その 場合でも、一ページ単位で話は全て完結 め尽くすこともない。それどころか、集脱記号化によってマンガ的記号が画面か ら消え去ることで、主題たる一般的記号する。各四コマの内容に目を向けてみて 中線や流線といった極めて単純な効果線 の使用さえ拒絶されている。唯一の例外に焦点が集中し、いよいよ記号化の度合も、そこにはストーリーと呼べるほどの いが高まるという寸法である。 起伏は存在しないといってよい はセリフを書き込むためのフキダシであ ランドルト作品における登場人物は記 ゆえにランドルト作品の特色は、記号 るが、これとて最も基本的な楕円形のも のに限って用いられるのみで、たとえばの主題化という表面上の目新しさだけで号ということになるが、彼らは記号の本 来的特質としての形体上の差異を有する よ " 兄明でキ ) なし一三ロイ・・ ( 、、。己号匕こよる脱記号化 感情の起伏に応じて形状を変えるといっ と、脱記号化による記号化、相反する一一だけで、性格上の区別というものを全く たような高度な表現は ( 一九頁右の作品 、、、。固性の描き分けとい 、、。はじめに指摘しつのアプローチの巧みな組み合わせを通持たされてしなし を除いて ) なされなし じて、マンガの記号性という間題を見事う観念が存在しない以上、キャラクター た「徹底的に冷遇されているある種の記 に浮き彫りにした上で、それを他ならぬと呼びうるものが確立される余地はあり 号」とは、取りも直さずマンガ的記号の えない 記号そのものによって無効化するという、 ことである。 世のマンガ家たちが猫も杓子も魅力的 ここで改めてランドルト作品における優れてアクロバティックかっ根源的な批 なストーリーとキャラクターの創造に腐 記号の位置づけを整理してみよう。一般評性。これこそが、ランドルト作品の真 的記号のレベルにおいては、記号の主題骨頂なのであり、本作をマンガ史上に残心するのを尻目に、孤高の表現者ランド ルト氏は、それらを必要としない水準に 化という形で、記号化が推進されている。る一大傑作たらしめる所以なのである。 まで自らを高めてしまった。この類稀な 対して、マンガ的記号のレベルにおいて ストーリーとキャラクター る卓越性に、ランドルト作品の底知れぬ は、むしろ記号の駆逐こそが企図されて ポテンシャルを見出すことができる。 おり、 いわば脱記号化とでも呼ぶべき事 マンガ的記号と並んでランドルト作品 態が進行している。 から排除されているものがある。現代マ コマ割りの放棄 加えて、この記号化と脱記号化は、さ ンガにおいて欠くべからざる二つの要素、 ながら車の両輪のように不可分の関係に 現代マンガの成果物の一つにコマ割り すなわち、ストーリーとキャラクターで ある。すなわち、記号化は一般的記号を がある。一ページあるいは見開き二ペー ある。 作品の主役に据えるが、一般的記号は感 ランドルト作品は複数の四コママンガジの中でのコマの配置に工夫を凝らすこ 情や動作とは無縁の存在であるから、そ とで、読み手の視線と心理を誘導する手 から成るが、原則として各四コマは互い れらを表象するためのマンガ的記号は出 法のことである。コマ割りの巧拙は、マ 7 に独立である。隣接する二つの四コマが

3. 記号のペシミズム

いわば「マンガの極北」とでも形容すべ ンガらしい要素が残っていなければなら ンガ家の力量を判断する際の指標の一つ になっている。 ない。マンガらしさを一切合財捨て去っ き境地に自らを導いたのである。 しかるに、四コママンガという形態を 関西コミティアのカタログ『ティアズてしまったのでは、最早それはマンガと とるランドルト作品は、作為的なコマ割 マガジンかんさい』の第四十号において、呼びうる代物ではなくなってしまう。 りとは明らかに無縁である。いや、コマ本書のコピー本版の紹介記事が掲載され そこでランドルト作品が唯一例外的に た際、評者の井上智順氏は「本書を開い 採用したのが四コママンガというシステ 割りという手法が本来マンガを劇的に演 出するために要請された技術であることてみても、一瞬、漫画であると認識できムである。ランドルト作品は、四コママ を顧みれば、ドラマ性をことごとく排除 ない」と述べ、初見時に少なからず当惑 ンガという形式的特徴を温存することに することで独自の地平を拓いたランドル を覚えた旨を表明している。これは重要よって、かろうじてマンガの範疇に収ま ト作品にとって、コマ割りの採用はむし な指摘である。マンガであるか否かを咄ることを得ている。しかしながら、内容 嗟に判断できないということは、本聿「が ろ蛇足でしかないだろう。ストイックな を仔細に観察すると、やはり既存のマン 内容には、やはりストイックな形式こそマンガと非マンガの境界線上に位置してガの枠組みには収まらない特異性が随所 いるということである。そして、マンガに見出されるのである。 相応しい の本質は、マンガならざるものとの対比 四コママンガは同形のコマの反復から マンガの極北 において初めて鮮明になるのであるから、成る。コマの連続性は画面に安定感を生 マンガと非マンガの境界とは、まさにマむが、弊害として作品の流れが単調にな ここまでの議論で我々は、ランドルト ンガのイデアが顕現する限界点に他なら りがちであるという難点を持つ。これを イロロカいかに既存のマンガの枠組みを超 ない。先に引用した評ー よ、ランドルト作克服するため、漢詩の構成法である起承 越しているかを確認した。現在に至るま 品が「マンガの極北」に位置することの 転結の概念を流用し、内容に起伏と変化 での長いマンガの歴史の中で培われてき 完璧な証左なのである。 を与えるのが一般的である。 た諸々の方法論、すなわちマンガ的記号、 ところが、ランドルト作ロ明はここで極一 ストーリー キャラクター、コマ割りと 反復するコマ めてトリッキーな戦略を選択する。すな いったマンガ構成上の要件は、ランドル 現代マンガを規定するあらゆる制度的わち、四コママンガという形式が欠点と ト作品において徹底的に無視され、無化 して抱える単調性への傾向を、逆にネタ されている。ランドルト作品は、透徹し約束に背を向けることでマンガ表現のフ として昇華するという戦略である。 た批評精神に基づき、マンガにとって必ロンティアを開拓するランドルト作品で ランドルト作品は基本的に、四コマを 須でない要素を躊躇なく切り捨てるとい あるが、それがあくまでマンガという領 通じて画面がほとんど変化しない。中に う手続を経て、マンガのイデアに肉迫し、域に留まり続けるためには、どこかにマ

4. 記号のペシミズム

方で意図するのは、先にも挙げた図像の に過ぎない記号という題材を、大胆にも マンガと記号 デフォルメや漫符の使用といった、表現作品の核心に位置づけてみせた点に、ラ の簡略化・定型化のことである。このと ンドルト作品の革新性があることは間違 マンガの記号性がしばしば問題となる。 しない。しかしながら、真に強調すべき き、記号はあくまで表現の一手段であり、 図像の大胆なデフォルメ。あるいは、感 なのは、かくも記号が前面に押し出され 情や動作の描写に不可欠な「漫符」と呼主題を効果的に演出するための補助的な 要素に過ぎない る中にあって、ある種の記号だけは、む ばれる種々の定型表現。マンガの歴史と ところが、ランドルト作品における記 しろ徹底的に冷遇されているという点で は、畢竟マンガの記号化の歴史であった 号化とは、記号それ自体の主題化に他なある。以下、詳しく検討しよう。 といっても過言ではないだろう。 らない。記号は表現の一手段としての地 注意深く読み解けば分かることである 先人達によって創出された記号は多岐 位に甘んじることをやめ、いまや目的そが、我々はここまでの議論において「記 にわたる。中でもとりわけ優れたものは のものと化すのである。 号」というタームを二通りの意味合いで 類型化され、マンガ界の共有財産となっ 丸や三角などの単純な図形、あるいは、用いてきた。ある場合には、図形や文字 た。しかしながら、あらゆる創造的営為 文字、数字、演算子といった記号たちが、 といった一般的な意味での記号を指して において、類型化は陳腐化と同義である。 意思を持った人格として行動し、セリフ 「記号」と呼び、別の場合には、デフォ 約東事として定着した表現の惰性的な踏 ルメや漫符などのマンガ特有の記号を指 襲は、新たな表現形式の開拓を妨げ、没を発する。なおかっ、彼らの会話は、自 らの記号としての意味と性質に、その関して「記号」と呼んでいる。我々がラン 個性的なマンガの氾濫を生んだ。 心をことごとく集中させている。すなわドルト作品における記号の主題化を論ず しかしここに、記号化の意味を積極的 に履き違えることによって、マンガの記ち「記号が。記号を。語る」わけである。る際に念頭に置いていたのは、言うまで このとき記号は、語りの主体としての役もなく前者、すなわち一般的な意味での 号性、ひいてはマンガそのものの本質を 一三ロ号である。 根本から問い直そうとする極めて尖鋭的割と、客体としての役割を同時に担うこ とになる。ランドルト作品における記号 では後者の記号、すなわちマンガ的な な試みが存在する。本書『記号のペシミ は、語るという行為をめぐるこの両義性意味での記号は、ランドルト作品の中で ズム』にまとめられた、一フンドルトたま を通じて、二重の意味で主題化を施されどのように扱われているだろうか。結論 き氏による一連の作品群がそれである。 ているのである。 を先に述べるならば、一フンドルト作品は、 所謂マンガ的記号をほとんど使用するこ 記号の主題化 記号化と脱記号化 となしに成立している。そこには焦りを 通常我々がマンガの記号化という言い このように、本来ならば周縁的な要素表す汗も、怒りを表す四つ角も描かれな

5. 記号のペシミズム

。 D 。 D 思いっきで描いたたけのネタがほとんとを占める ① チ 本書にあって、珍しく技巧を凝らした作品 賢明なる読者諸氏は既にお気づきのことと思うが、 ひ と 本作は一つの記号にニつの意味を持たせることで、 パレンタインの両義性一恋愛イベントとしての て 側面と、製菓企業各社の販促イベントとしての き 側面ーを表現している。さらに、画面から人間を 一切排除することで、カカオ原産国における搾取や ② 過度の商業主義、男女差別の助長など、現代における パレンタインの非人間性を告発している。加えて け ナレーションを原則七五調に統一することで、 溶 パレンタインという慣習のなかった頃の古き良き し 日本への限りない憧憬をにしませている。 た 愛もときめきもない高度に抽象的な画面構成に、 著者のパレンタインに対する冷ややかな眼差しを 感し取っていたたけたら幸いである。 ト 形 し ⑤そっとロッカーにしのばせて⑥手に汗にぎる恋の駆け引き⑦やがて想いは相通じ ④リポンをかけてラッビング ⑧めでたくニ人は結ばれる 我ながらこれはひといと思う。

6. 記号のペシミズム

記号四コマシリーズの記念すべき第一作 を手玉に取るには十分な水準を満たして いると一一口えるだろう。実際、氏の弁舌に 目なのだが、単純さと奥深さの両立とい う点において、後発作品のいずれも、 知らず知らず説き伏せられてしまった読 者は、決して一人や二人ではあるまいと まだ本作を凌ぐには至っていない。その 意味で、この作品はまさに原点にして至 推察される。 懇切丁寧な解説を装いつつ読者を煙に 高の存在なのである。以下、具体的に見 巻いてほくそ笑むという底意地の悪い遊ていこう。 び心に、苦虫を噛み潰しながらもやはり 本作の構成は極めて単純である。三角 円が与えられた場合、その円を外接円と 賛嘆の念を禁じえないのは、ひとえにラ 形が円に向かって円の定義を述べ、円が する ( Ⅱその円に内接する ) 正三角形は、 ンドルト氏の抜きん出た詭弁の才覚によ同意する。それだけの話である。だがそ 向きを固定して考える限り、 ただ一通り るものだろう。無意味な言辞を弄するこれだけの話の中に、圧倒的な量の情報が に定まる。したがって、正三角形は外接 詰め込まれているのである。 とに余程習熟した者でなければ、この芸 円によって一意的に決定することができ ランドルト氏は円の中心が持つ情報量 当は到底真似できない。その意味で、氏 る。他方、外接円は円であるから、当然 に着目して解説を展開したが、これはい の解説はマンガ本文以上に充実の内容を 中心と半径によって一意的に決定される。 ささか皮相な理解であって、やはり不満 誇っている。 以上を勘案すると、正三角形は外接円の が残る。そこで本稿では、氏とは異なる 中心と半径によって自らを規定される存 中心と半径 視点から新たな解釈を試みたい。 在なのであり、その意味において、外接 まず、三角形と円をめぐる基本的な知 ランドルト氏による解説は確かに充実 円の中心と半径こそが正三角形の全てで 識について確認しておこう。任意の三角 しているのだが、必ずしも全てを語り尽 あると断じても決して過言ではない。作 くしているとはいえない。そこで、本書形について、その三角形の全ての頂点を 中で正三角形が円に対して言い放った言 通る円をただ一つ描くことができる。こ の中でも殊に秀逸と思われる一つの作品 葉は、実は巡りめぐってそのまま正三角 の円を三角形の外接円と呼び、三角形は に焦点を合わせ、それに対する筆者なり 形自身に返ってくるのである。 この円に内接していると言い表す。 の解釈を提示することで、氏の解説の不 注目すべきは、本作に登場する三角形 足分をを補ってみようと思う。 記号のニヒリズム が正三角形であるという点である。一つ 取り上げるのは一〇ページ右側の作品 ここから我々はすぐさま形而上学的な の正三角形にただ一つの外接円が対応す である。あえて題を付けるなら「中心と 半径」とでもなろうか。実はこの作品はることは言うまでもない。逆に、一つの議論に足を踏み入れることができる。 正三角形の外接円あるい は円に内接する正三角形

7. 記号のペシミズム

四角形から角を一個除くと三角形になる。 では三角形から角を一個除くとどうなるか。 字面からすればニ角形になると考えられるが、 それはどういう図形なのか。 一般に n 角形とは n 個の頂点を n 個の辺で結んだ 図形であるから、ニ角形とは 2 個の頂点を 2 個の辺で 結んた図形ということになる。ところで平面上に おいては、 2 点を通る直線はたた一通りに定まるので、 2 個の頂点に対して辺を 2 個持っ図形を考えることは できない。つまり平面図形としてのニ角形は 存在しえない。あるいは線分 ( 一本の線 ) を 内角が 0 度のニ角形とみなすことも可能かも 知れないが、やはり無理がある。 しかし球面上においては話が違ってくる。 球面上では 2 点を通る直線は無数に存在するので、 下のような図形を考えることができる。 これがニ角形である。 どうした 五角形 よ お 0 ロ △ 0 ロ △ 0 ロ △ 0 = 1 0 △ 1 十 1 = 1 0 △△ = 1 0 △△ 0 △△ 三角形から 角 1 個とったら 何が残るんだよ 角 1 個くれや 嫌だよ く席悪 れをい なはが いず君 て いずれにせよ、三角形の角を一個とるという行為は 三角形に多大な負担を強いることになるので、 むやみに角を奪うのはよくない。 正方形もまた自分自身の寄せ集めに過ぎない。 右図の場合が最もわかりやすいが、 下図のようにすべて異なる大きさの 正方形で埋め尽くすこともできる。 下図では 1 辺 112 の正方形が、 1 辺がそれそれ 2 、 4 、 6 、 7 、 8 、 9 、 11 、 15 、 16 、 17 、 18 、 1 9 、 24 、 25 、 27 、 29 、 33 、 35 、 37 、 42 、 50 の計 21 個の 正方形で充填されている。 過俺お ぎの前 な寄は いせ所 ん集詮 だめ そういうお前も 魔の寄せ集めに 過ぎないんによ 1 ルジンの問題 ( 正方形を互いに大きさの異なる 2 個以上の正方形で分割できるか ) の最小の解として 提示されたのがこれで、他にもいくっかの解がある。 世の中には暇人が多いということてある。 お前もな 26

8. 記号のペシミズム

し貧小る や乏銭っ がづみせ つらてえ てえ ! な ねない顔札て えついし束め ぞて気てみ ッんにた らじ な 意外に思われる かも知れないが 我々には 共通点がある U ロ 0 U ロ 0 ロロ 0 意外も何も : 母音だろ 小銭なめんなリ 万札で 9 9 9 9 円の モン買った時 つり銭 どうすんだ つり銭 , 小銭なかったら 払えねえだろ このポケがー え ? じゃあ 一筆書きできる 線対称 ナンセンスだ 違う 否 それも違う 一円札 発行すれは 済む話だろ 磁石だろ : どう考えても てか カード決済で よくね ? ・

9. 記号のペシミズム

【右】 平面上のある点 ( 中心 ) から等しい距離 ( 半径 ) にある 点の集まりというのが円の定義であるから、中心と 半径が円のすべてであるという三角形の指摘は 理にかなっている。しかし現実はそう簡単ではない 例えー p 平面上において中心の位置を特定するには x 座標い座標というニつの実数の組が必要となる。 三次元になると話はさらに複雑で、中心の位置を 示すのに必要な実数がニっから三つに増えるのに 加えて、円が含まれる平面を空間内で一意的に 決定しなければならず、そのためには中心のほかに その平面上にある点 ( すなわち三つの実数の組 ) を ニっ挙げなければならない。これに半径を併せると 全部で十個もの実数が必要になるのである。 ( ※ ) そんな苦労も知らず三角形は平然と「中心と半径」の 言ですべてを片付ける。しかし円としてはやはり、 三角形の言葉に首肯せざるをえない。そこで彼は たた淡々と呟いてみせるのである。「ああ」と。 ※平面上の点として円周上の点を挙げた場合、半径はその点と中心との 距離から求められるので、この場合は半径を除く九個の実数が必要となる。 【左】 〇 x を正誤の表記に用いるのは日本たけである。 にもかかわらす自分か間違っていると信して 疑わない右の x は、その時点で一つの 大きな間違いを犯していることになる。 〇 X 〇△ 〇△ X 〇 〇△ 〇 X 〇△ 〇 X 〇△ ロ△ 〇△ 0 △ 〇△ 0 △ 〇△ 〇△ 中心と半径 それがお前の すべてだ なせお前は 止しいんだ なせ俺は 間違って 、るんだ さ あ あ あ 正多角形の角を増やしていくと次第に円に近づく。 数学の歴史の初期には、これを利用して円周率の 計算が行われた。右ではハ角形から一足飛びに円に なっているが、 17 世紀のはしめにはドイツの数学者 LudoI f van CeuI en が正 461168601 27387904 角形の 辺の長さを計算し、円周率の小数点以下 35 桁を 導いている。 ( ※ 4611686018427387904 は 2 の 62 乗 ) なお、コンパスと定規で作図可能な正多角形のうち 知られている最大のものは正 65537 角形である。 ドイツの J0hann Gustav HermesiS10 年がかりでこの 図形の作図法を調べ、 1894 年に発表している。 200 頁に及ふという当時の原稿は現存しており、 独ケッティンケン大学にて保管されている。 やれはできるとはまさにこのことであろう。 もっと 丸くなれよー・ 丸お く前 なも れ よ やればできる , 絶対できるー やればできる と思ってるんじゃ ないですか ? ギネ プパ ツ ギブアップリ

10. 記号のペシミズム

2 x 2 とは 2 を 2 回足す操作に他ならないから 2 X 2 = 2 十 2 となるのは自明であろう。 この作品に関して他に特記すべき事柄はない。 仕事中に寝てはいけないというたたの説教くさい 寓話である。こんなものにおかしみを感しる人は 感受性が豊かすぎて仕事に支障をきたす恐れが あるから気をつけたほうがいい。いっそ寝ていて もらったほうが周りに迷惑がかからなくて済む。 2 X 2 = 1 X 1 2 X 2 = 4 1 X 1 困るな 勝手に計算 されちゃ 困 2 十 2 = 4 1 X 1 寝てたんだ 2 X 2 = 4 1 十 1 = 1 自然数 n について、 1 から n までのすべてを 掛け合わせたものを n の階乗といい、 n ! と表す。 ・・ X 3 X 2 X 1 ( たたし 0 ! = 1 ) なお記号に「 ! 」を使うのは、計算した値が驚くほど 大きくなるという驚くほど安直な理由による。 どのくらい大きくなるかというと、例えば 5 の場合 5 ! = 5 x 4 x 3 x 2 x 1 = 1 2 0 である。 また定義より n ! = n x ( n ー 1 ) ! であるから 6 ! = 6 X 5 ! = 6 x 1 2 0 = 7 2 0 7 ! = 7 x 6 ! = 7 x 7 2 0 = 5 0 4 0 8 ! = 8 x 7 ! = 8 x 5 0 4 0 = 4 0 3 2 0 9 ! = 9 x 8 ! = 9 x 4 0 3 2 0 = 3 6 2 8 8 0 もとの数が 1 増えるごとに桁が一つ増えるという 恐ろしい増え方をしているのがわかる。 当然、もとの数の桁が増えれば、それにつれて 階乗数の桁の増え方も激しくなる。 しかし数学における巨大数の表現は奥が深い 次頁で説明するテトレーションをはしめ 偉大な暇人先人たちがあれこれ工夫を凝らして 編み出した巨大数表記を知るにつけ、階乗程度では 大して驚けなくなるから困りものである。 0 十 0 = 0 ! ー 0 ! 1 十 1 = 2 ! 1 十 1 = 1 ! 十 1 ! 3 十 3 = 2 十 2 = 2 ! X2 ! 3 十 3 = 3 ! 3 十 3 = 3 ! 27