記号四コマシリーズの記念すべき第一作 を手玉に取るには十分な水準を満たして いると一一口えるだろう。実際、氏の弁舌に 目なのだが、単純さと奥深さの両立とい う点において、後発作品のいずれも、 知らず知らず説き伏せられてしまった読 者は、決して一人や二人ではあるまいと まだ本作を凌ぐには至っていない。その 意味で、この作品はまさに原点にして至 推察される。 懇切丁寧な解説を装いつつ読者を煙に 高の存在なのである。以下、具体的に見 巻いてほくそ笑むという底意地の悪い遊ていこう。 び心に、苦虫を噛み潰しながらもやはり 本作の構成は極めて単純である。三角 円が与えられた場合、その円を外接円と 賛嘆の念を禁じえないのは、ひとえにラ 形が円に向かって円の定義を述べ、円が する ( Ⅱその円に内接する ) 正三角形は、 ンドルト氏の抜きん出た詭弁の才覚によ同意する。それだけの話である。だがそ 向きを固定して考える限り、 ただ一通り るものだろう。無意味な言辞を弄するこれだけの話の中に、圧倒的な量の情報が に定まる。したがって、正三角形は外接 詰め込まれているのである。 とに余程習熟した者でなければ、この芸 円によって一意的に決定することができ ランドルト氏は円の中心が持つ情報量 当は到底真似できない。その意味で、氏 る。他方、外接円は円であるから、当然 に着目して解説を展開したが、これはい の解説はマンガ本文以上に充実の内容を 中心と半径によって一意的に決定される。 ささか皮相な理解であって、やはり不満 誇っている。 以上を勘案すると、正三角形は外接円の が残る。そこで本稿では、氏とは異なる 中心と半径によって自らを規定される存 中心と半径 視点から新たな解釈を試みたい。 在なのであり、その意味において、外接 まず、三角形と円をめぐる基本的な知 ランドルト氏による解説は確かに充実 円の中心と半径こそが正三角形の全てで 識について確認しておこう。任意の三角 しているのだが、必ずしも全てを語り尽 あると断じても決して過言ではない。作 くしているとはいえない。そこで、本書形について、その三角形の全ての頂点を 中で正三角形が円に対して言い放った言 通る円をただ一つ描くことができる。こ の中でも殊に秀逸と思われる一つの作品 葉は、実は巡りめぐってそのまま正三角 の円を三角形の外接円と呼び、三角形は に焦点を合わせ、それに対する筆者なり 形自身に返ってくるのである。 この円に内接していると言い表す。 の解釈を提示することで、氏の解説の不 注目すべきは、本作に登場する三角形 足分をを補ってみようと思う。 記号のニヒリズム が正三角形であるという点である。一つ 取り上げるのは一〇ページ右側の作品 ここから我々はすぐさま形而上学的な の正三角形にただ一つの外接円が対応す である。あえて題を付けるなら「中心と 半径」とでもなろうか。実はこの作品はることは言うまでもない。逆に、一つの議論に足を踏み入れることができる。 正三角形の外接円あるい は円に内接する正三角形
【右】 3 時 15 分や 8 時 45 分の時には短針がわずかに傾くから 一直線になるのはおかしい、この台詞は間違いた、 と勘繰る人がいるかも知れないが、それは読みが 甘い。 3 時と 12 時の区別もっかない L に、短針の傾きを 考慮に入れるなどという高度な思考ができるわけは ないのたから、この台詞はこれでいいのである。 どうした なんだ 3 時 なあ 6 時 うーん 33 銀窺なくしてさ あれがないと 何も見えなくて 困る ならを 県の代りに 使うとい あいつは 3 時分か 8 時分か どっちた 【左】 ・漫画的表現において、視力の悪い人が眼鏡を外した 場合の目の描写にしばしほ 3 の字が用いられること ・の字形を眼鏡に見立てていること ・無限遠が使いこなせずヒントが合わないこと 以上三点を踏まえれば読解できる。 逆に言えば、それ以外に見所はない さ あ 0 0 0 oc 8 8 8 N N N z 見えるか ? 0 ところで 言っておくが 俺は 6 時しゃない 駄目だ ビントが 合わない 【右】 ーコマ目において、文字 C は文字列 ABC の右端に 右 位置すると同時に、円環の右側を欠いた図形として 描写されている。フキダシ中の「右」は、このニつの 事実を簡潔に指摘したものである。まずニコマ目で 文字列 A B C における位置関係が、続く三コマ目から 四コマ目において円環の切れ目の向きがそれそれ 印象付けられることによって、一コマ目の「右」が持つ ニ重の意味が自然に会得されるよう構成されている。 なお四コマ目では、視力検査でおなしみの記号である ランドルト環からの連想で、 C 字環の直径を徐々に 小さくすることにより、抽象性と論理性の中に一抹の 余韻を残すよう試みた。 Z が N を横倒しにした図形であり、かつイビキの オノマトへ ( 擬声語 ) として多用されている点に 着目したもの。このネタ自体に取り立てて面白みは 感しられないが、実は Z が右の A と呼応し終端を表す 記号としても作用している点に注意されたい。つまり 本編に当たるのはこの頁が最後であり、次頁以降は いわばオマケであるというメッセージが暗黙裡に 込められているわけである。次頁からのニ作品にのみ タイトルが付けられ他と差別化されている点からも 作者の意図が明確に読み取れるであろう。 【左】 コラッ 寝るなツ パな レせ た し 30
【右】 平面上のある点 ( 中心 ) から等しい距離 ( 半径 ) にある 点の集まりというのが円の定義であるから、中心と 半径が円のすべてであるという三角形の指摘は 理にかなっている。しかし現実はそう簡単ではない 例えー p 平面上において中心の位置を特定するには x 座標い座標というニつの実数の組が必要となる。 三次元になると話はさらに複雑で、中心の位置を 示すのに必要な実数がニっから三つに増えるのに 加えて、円が含まれる平面を空間内で一意的に 決定しなければならず、そのためには中心のほかに その平面上にある点 ( すなわち三つの実数の組 ) を ニっ挙げなければならない。これに半径を併せると 全部で十個もの実数が必要になるのである。 ( ※ ) そんな苦労も知らず三角形は平然と「中心と半径」の 言ですべてを片付ける。しかし円としてはやはり、 三角形の言葉に首肯せざるをえない。そこで彼は たた淡々と呟いてみせるのである。「ああ」と。 ※平面上の点として円周上の点を挙げた場合、半径はその点と中心との 距離から求められるので、この場合は半径を除く九個の実数が必要となる。 【左】 〇 x を正誤の表記に用いるのは日本たけである。 にもかかわらす自分か間違っていると信して 疑わない右の x は、その時点で一つの 大きな間違いを犯していることになる。 〇 X 〇△ 〇△ X 〇 〇△ 〇 X 〇△ 〇 X 〇△ ロ△ 〇△ 0 △ 〇△ 0 △ 〇△ 〇△ 中心と半径 それがお前の すべてだ なせお前は 止しいんだ なせ俺は 間違って 、るんだ さ あ あ あ 正多角形の角を増やしていくと次第に円に近づく。 数学の歴史の初期には、これを利用して円周率の 計算が行われた。右ではハ角形から一足飛びに円に なっているが、 17 世紀のはしめにはドイツの数学者 LudoI f van CeuI en が正 461168601 27387904 角形の 辺の長さを計算し、円周率の小数点以下 35 桁を 導いている。 ( ※ 4611686018427387904 は 2 の 62 乗 ) なお、コンパスと定規で作図可能な正多角形のうち 知られている最大のものは正 65537 角形である。 ドイツの J0hann Gustav HermesiS10 年がかりでこの 図形の作図法を調べ、 1894 年に発表している。 200 頁に及ふという当時の原稿は現存しており、 独ケッティンケン大学にて保管されている。 やれはできるとはまさにこのことであろう。 もっと 丸くなれよー・ 丸お く前 なも れ よ やればできる , 絶対できるー やればできる と思ってるんじゃ ないですか ? ギネ プパ ツ ギブアップリ
記号のペシミズム : 記号のナルシズム 記号のペシミズム もっと俺を 見ろよ 見んな 3 0 0 円 ンド ~ ト : : 第一 2 0 0 円 ランドルトたまき ランドルトたまき △コヒ。一本の販売風景 ( 関西コミティア 4 の はしめに 03 言己号のヘシミズム 05 記号のナルシズム 33 記号の描き下ろし 51 記号のクリティーク 55
作品解説 浮き世の悩み まるくおさめる 「円」という漢字には「欠けたところがない、 完全な」という意味があり、たとえば「円熟」 「円満」などの熟語にそれが現れている。 「ろくな奴がいない」多角形とは対照的に 乙 0 ロ△ 円の付く熟語でネガティヴな意味合いを 含むものはほとんどないといってよい ( 例外として「円形脱毛症」が挙げられる ) 「方底円蓋」 ( 四角い底の器に丸い蓋の意。 物事が噛み合わないことの喩え ) という 言葉が示すように、多角形と円は性質の 全く異なる別々の図形と思われがちだが、 位相幾何学、或いはトボロジーと呼ばれる 領域では、両者は同じ形とみなされる。 位相幾何学とは、大雑把に言えば「穴」が いくっ開いているかで図形を分類する 学問である。〇も△も口も、穴の数は ーっなので同じ形であるし、ドーナッと コーヒーカップも同じ形である。一方、 8 の字は穴がニつなので違う形である。 例えば左の半円も、空に浮かばうが蕎麦に 浮かばうが位相幾何学的には同じ話であり、 彼の悩みがいかに取るに足らないかがわかる。 四角四面↓ 三角関係↓ ハ方美人↓ 0 多角形には ろくな奴 いねえな 浮かべほ 半月たが そ・ついう お前は どうなんた 練浮そ らかは 品は 大団円↓ 浮かはれ 勝手に話 終わらすな 45
し貧小る や乏銭っ がづみせ つらてえ てえ ! な ねない顔札て えついし束め ぞて気てみ ッんにた らじ な 意外に思われる かも知れないが 我々には 共通点がある U ロ 0 U ロ 0 ロロ 0 意外も何も : 母音だろ 小銭なめんなリ 万札で 9 9 9 9 円の モン買った時 つり銭 どうすんだ つり銭 , 小銭なかったら 払えねえだろ このポケがー え ? じゃあ 一筆書きできる 線対称 ナンセンスだ 違う 否 それも違う 一円札 発行すれは 済む話だろ 磁石だろ : どう考えても てか カード決済で よくね ? ・
・ . ・」はそれそれ「ゆえに」「なせならば」と読み、 前者は結論を、後者は根拠を表す学術記号である。 右の 4 コマでは・ . ・が . ・ . に対して「 . ・ . ゆえに」に続くべき 結論を尋ね、左では . ・ . が・ . ・に対して「・ . ・なせならば」に 続いて当然述べられるはずの根拠を問いかけている。 しかし . ・ . の後に結論はなく、・ . ・の後には何の根拠も 示されないまま、指示する対象を失ったニつの虚しい 記号たけが、延々と同し問答を繰り返す。茶番である。 だが結論のない演説、根拠のない説得が巷間に溢れ、 人々から明晰な思考力が奪われつつある昨今、ふと 自分自身を振り返ってみたとき、あなたには果たして 彼ら記号たちを笑う資格が本当におありたろうか ? 何で そんなこと 、くのワ・ だから 何なの ? 【右】 金銭の話になると、人はかくも醜く ねない顔札て えついし束め 互いを罵りあうものであるという典型。 ぞて気てみ ッんにた 【左】 2010 年 1 月に描いた作品だが ( http : / / www. pixiv. net/member i Ⅱ ust. php?mode=med i um& i Ⅱ ust id = 8072061 ) 、その年の夏にアニメ「けいおん ! ! 」の こ払小つどっモ 9 万小 劇中歌として“ IJ & ドというタイトルの楽曲が のえ銭りうりン 9 札銭 ポねな銭す銭買 9 でな 発表され話題となったことで、 Y 0 U & ーが ケえか ! んっ 9 め た円ん がだつだ 時のな ナンセンスとは必ずしも言えなくなってしまった。 し貧小る や乏銭っ がづみせ つらてえ てえ ! な 意外に思われる かも知れないが 我々には 共通点がある IJ ロ 0 U ロ 0 ロロ 0 意外も何も : 母音たろ 違う えっ・しゃあ 一筆書きできる それも違う 線対称 十 - ンセンスだ 一円札 発行すれば 済む話だろ 磁石だろ : どう考えても てか カード決済で よ・、ねワ・ 29
かの四コマにおいて、三角形は極めて点で作者の自己顕示欲の異常性は推しての内容は何もかも全くの出鱈目である。 尊大な物言いで相手の全存在に対する一知るべしであるが、事態はそれだけに留 附記 方的な断定を下し、さながら超越的な絶まらない。あろうことか作者のランドル トたまき氏は〃玉木蘭堂〃などという明 対者のごとくに振舞っている。ところが、 本稿の執筆に際しては、京都大学第一一 、りかにランドルトたまきをもじっただけ 三角形のセリフの矛先が他ならぬ三角形 詭弁論部の名に恥じぬよう、概ね以下の の見え透いた偽名を用いた上で、解説に 自身へと向けられることが明らかとなっ 方針に従った。 た今、三角形の超越性は剥奪され、三角輪をかけて長大な論文を執筆し、それを ・簡潔よりも冗長を重んじること。 何食わぬ顔で自著の巻末に挿人するので 形の存在論的地位は円と同じレベルに引 ・進んで難解な語彙を取り入れること。 ある。しかもその内容たるや、目も当て き下ろされる。 ・重要な概念に定義を与えぬこと。 られぬほどの自画自賛の嵐なのだから始 超越的な絶対者など存在しない。かっ ・知皿をひけ、りか亠 9 こと。 てニーチェが「神は死んだ」の一言で端末が悪い。はっきりいって、人間性を疑 ・論旨を思いっきで曲げること。 的に指摘した事実を、本作は三角形の存うレベルである。 ・不必要な修飾語を濫用すること。 しかし作者の ( つまり私の ) 名誉のた 在論的転落を通じて告発する。本作を支 ・可読性よりも語感を優先すること。 配するのはあらゆる至上の価値を否定すめに言い添えておくならば、この論文は ・接続詞を駆使して論理性を繕うこと。 る虚無の論理であり、本作こそは現代に決して自作を賞揚するために書かれたも ・取るに足らぬ事柄に意義を見出すこと。 のではなく、あくまで「自作を賞揚する おける虚無主義の教典である。 ・不都合な事実を隠蔽すること。 記号のニヒリズム。本作を評するにあ内容の自演的テキストを自分の同人誌に ・論拠を示さぬこと。 たって、これ以上に適確と思われる表現収録する」という常軌を逸した趣向を実 ・結論を示さぬこと。 現するために書かれたものである。自作 を筆者は知らない。 ・言葉遊びに終始すること。 の賞揚は手段であって目的ではない。私 ・己の文才に酔いしれること。 自己主張する作者 にとっては自演という行為そのものが目 ・読者を見下すこと。 的なのである。したがって、私は本気で 私がかくも偏屈な男に成り果てたのは、 最後に指摘しておかなければならない 自分の作品の傑作性を喧伝したいわけでひとえに大学で出会った得がたい友人た のは、作者であるランドルトたまき氏の はなく、私の関心はむしろ " 自作を手放ちの感化によるものである。この場を借 自己主張の強さであろう。あるいは、自 しで褒めちぎる痛い人という雰囲気をい りて罵倒の言葉を浴びせたい。 己顕示欲の強さと言い換えたほうが適切 かに演出するかという点にこそ向けら ( 京都大学第一一詭弁論部名誉部員 ) であろうか 自作に自ら長大な解説を附している時れている。その当然の帰結として、論文
れ 2 ルート resented b hed 「 on 十ニ面体
記号のペシミズム 2 0 1 2. 0 9. 0 2 初版 2 0 1 2. 1 1 . 1 8 第ニ版 著ランドルトたまき 発行ルート十ニ面体 印刷サンライズバブリケーション株式会社 r00t12hedron@gmaiI ℃ om http://rootl 2hedron.blog.fc2.com/ http://www.pixiv.net/member.PhP?id=226254 62