26 / 52 8 分音符 000 06 ■ 00 漫画特有の記号表現に漫符と呼ばれるものが ある。何事かをひらめいたときに頭上に電球が ともったり、怒りの発作とともに額に # に似た マークが浮かび上がったりするアレである。 音符には音価ごとに形の異なる様々な種類の ものがあるが、漫符としての音符にはもつばら 8 分音符が用いられる。何らかの音楽が流れて いることを示すほか、楽しげな雰囲気を表わす 際にも使われる。 音楽は、その字義に反して必すしも楽しげな ものとは限らないが、にもかかわらす音符が 楽しげな表現として広く通用するのはなぜか。 おそらくは、「楽しい→歌→音符」の連想から、 楽しげな場面で漫符として音符が多用される うちに、「音符→楽しい」という逆方向の連想が 成立するようになったためであろう。 ( しかし p → q から q → p を導くのは、論理学的にいえば 後件肯定の虚偽と呼ばれる誤謬である ) なお、漫符においては愛情表現の記号である O は、トランプでは聖杯を表わすものであり、 僧侶を象徴するとされる。 何がそんなに 楽しいの ? ◇ ◇ あなたには レ」うして ◇ O べっ別に 赤くなってなんか ないんだから ! この悲しい調が - 楽しげに 聴こえるの ? ◇ 無題 三目並べは典型的なニ人零和有限確定完全 情報ゲームであり、先手後手がともに最善を 尽くした場合は必す引き分けとなることが 知られている。 1 9 8 3 年のアメリカ映画 『ウォー・ゲーム』では、コンヒ。ュータがこの ゲームのシミュレーションを繰り返し、 勝者のいない戦争の無意味さを悟る。 しかしこのような功利主義的な裏づけによる 戦争の抑止には危険が伴う。自陣が勝者となる ことが明らかな場合にはむしろ進んで戦争を せよという結論になりかねないためである。 モーセの十戒が「汝殺すなかれ」と命じる時、 それは神が定めた掟として無条件に従うべき 規範なのであって、損得勘定を踏まえて従うか 否かを判断する余地など与えられていない。 コンピュータによるシミュレーションを待つ までもなく「人を殺してはいけない」のである。 イマヌエル・カントは、無条件に「 ~ せよ」と 要求する定言命法を、「 ~ ならば ~ せよ」の 形で条件的に表される仮言命法と区別し、 自身の倫理学の根幹に据えた。 000 ■◎ 0 000 = 十 = 十 = = 十 = 2 十 = 十 = = 十 = 00 0 0 2 十 = 十 = 22 0 0 0 2 十 20 = 22 46
方で意図するのは、先にも挙げた図像の に過ぎない記号という題材を、大胆にも マンガと記号 デフォルメや漫符の使用といった、表現作品の核心に位置づけてみせた点に、ラ の簡略化・定型化のことである。このと ンドルト作品の革新性があることは間違 マンガの記号性がしばしば問題となる。 しない。しかしながら、真に強調すべき き、記号はあくまで表現の一手段であり、 図像の大胆なデフォルメ。あるいは、感 なのは、かくも記号が前面に押し出され 情や動作の描写に不可欠な「漫符」と呼主題を効果的に演出するための補助的な 要素に過ぎない る中にあって、ある種の記号だけは、む ばれる種々の定型表現。マンガの歴史と ところが、ランドルト作品における記 しろ徹底的に冷遇されているという点で は、畢竟マンガの記号化の歴史であった 号化とは、記号それ自体の主題化に他なある。以下、詳しく検討しよう。 といっても過言ではないだろう。 らない。記号は表現の一手段としての地 注意深く読み解けば分かることである 先人達によって創出された記号は多岐 位に甘んじることをやめ、いまや目的そが、我々はここまでの議論において「記 にわたる。中でもとりわけ優れたものは のものと化すのである。 号」というタームを二通りの意味合いで 類型化され、マンガ界の共有財産となっ 丸や三角などの単純な図形、あるいは、用いてきた。ある場合には、図形や文字 た。しかしながら、あらゆる創造的営為 文字、数字、演算子といった記号たちが、 といった一般的な意味での記号を指して において、類型化は陳腐化と同義である。 意思を持った人格として行動し、セリフ 「記号」と呼び、別の場合には、デフォ 約東事として定着した表現の惰性的な踏 ルメや漫符などのマンガ特有の記号を指 襲は、新たな表現形式の開拓を妨げ、没を発する。なおかっ、彼らの会話は、自 らの記号としての意味と性質に、その関して「記号」と呼んでいる。我々がラン 個性的なマンガの氾濫を生んだ。 心をことごとく集中させている。すなわドルト作品における記号の主題化を論ず しかしここに、記号化の意味を積極的 に履き違えることによって、マンガの記ち「記号が。記号を。語る」わけである。る際に念頭に置いていたのは、言うまで このとき記号は、語りの主体としての役もなく前者、すなわち一般的な意味での 号性、ひいてはマンガそのものの本質を 一三ロ号である。 根本から問い直そうとする極めて尖鋭的割と、客体としての役割を同時に担うこ とになる。ランドルト作品における記号 では後者の記号、すなわちマンガ的な な試みが存在する。本書『記号のペシミ は、語るという行為をめぐるこの両義性意味での記号は、ランドルト作品の中で ズム』にまとめられた、一フンドルトたま を通じて、二重の意味で主題化を施されどのように扱われているだろうか。結論 き氏による一連の作品群がそれである。 ているのである。 を先に述べるならば、一フンドルト作品は、 所謂マンガ的記号をほとんど使用するこ 記号の主題化 記号化と脱記号化 となしに成立している。そこには焦りを 通常我々がマンガの記号化という言い このように、本来ならば周縁的な要素表す汗も、怒りを表す四つ角も描かれな
れ 2 ルート resented b hed 「 on 十ニ面体
記号のペシミズム 2 0 1 2. 0 9. 0 2 初版 2 0 1 2. 1 1 . 1 8 第ニ版 著ランドルトたまき 発行ルート十ニ面体 印刷サンライズバブリケーション株式会社 r00t12hedron@gmaiI ℃ om http://rootl 2hedron.blog.fc2.com/ http://www.pixiv.net/member.PhP?id=226254 62
かの四コマにおいて、三角形は極めて点で作者の自己顕示欲の異常性は推しての内容は何もかも全くの出鱈目である。 尊大な物言いで相手の全存在に対する一知るべしであるが、事態はそれだけに留 附記 方的な断定を下し、さながら超越的な絶まらない。あろうことか作者のランドル トたまき氏は〃玉木蘭堂〃などという明 対者のごとくに振舞っている。ところが、 本稿の執筆に際しては、京都大学第一一 、りかにランドルトたまきをもじっただけ 三角形のセリフの矛先が他ならぬ三角形 詭弁論部の名に恥じぬよう、概ね以下の の見え透いた偽名を用いた上で、解説に 自身へと向けられることが明らかとなっ 方針に従った。 た今、三角形の超越性は剥奪され、三角輪をかけて長大な論文を執筆し、それを ・簡潔よりも冗長を重んじること。 何食わぬ顔で自著の巻末に挿人するので 形の存在論的地位は円と同じレベルに引 ・進んで難解な語彙を取り入れること。 ある。しかもその内容たるや、目も当て き下ろされる。 ・重要な概念に定義を与えぬこと。 られぬほどの自画自賛の嵐なのだから始 超越的な絶対者など存在しない。かっ ・知皿をひけ、りか亠 9 こと。 てニーチェが「神は死んだ」の一言で端末が悪い。はっきりいって、人間性を疑 ・論旨を思いっきで曲げること。 的に指摘した事実を、本作は三角形の存うレベルである。 ・不必要な修飾語を濫用すること。 しかし作者の ( つまり私の ) 名誉のた 在論的転落を通じて告発する。本作を支 ・可読性よりも語感を優先すること。 配するのはあらゆる至上の価値を否定すめに言い添えておくならば、この論文は ・接続詞を駆使して論理性を繕うこと。 る虚無の論理であり、本作こそは現代に決して自作を賞揚するために書かれたも ・取るに足らぬ事柄に意義を見出すこと。 のではなく、あくまで「自作を賞揚する おける虚無主義の教典である。 ・不都合な事実を隠蔽すること。 記号のニヒリズム。本作を評するにあ内容の自演的テキストを自分の同人誌に ・論拠を示さぬこと。 たって、これ以上に適確と思われる表現収録する」という常軌を逸した趣向を実 ・結論を示さぬこと。 現するために書かれたものである。自作 を筆者は知らない。 ・言葉遊びに終始すること。 の賞揚は手段であって目的ではない。私 ・己の文才に酔いしれること。 自己主張する作者 にとっては自演という行為そのものが目 ・読者を見下すこと。 的なのである。したがって、私は本気で 私がかくも偏屈な男に成り果てたのは、 最後に指摘しておかなければならない 自分の作品の傑作性を喧伝したいわけでひとえに大学で出会った得がたい友人た のは、作者であるランドルトたまき氏の はなく、私の関心はむしろ " 自作を手放ちの感化によるものである。この場を借 自己主張の強さであろう。あるいは、自 しで褒めちぎる痛い人という雰囲気をい りて罵倒の言葉を浴びせたい。 己顕示欲の強さと言い換えたほうが適切 かに演出するかという点にこそ向けら ( 京都大学第一一詭弁論部名誉部員 ) であろうか 自作に自ら長大な解説を附している時れている。その当然の帰結として、論文
記号四コマシリーズの記念すべき第一作 を手玉に取るには十分な水準を満たして いると一一口えるだろう。実際、氏の弁舌に 目なのだが、単純さと奥深さの両立とい う点において、後発作品のいずれも、 知らず知らず説き伏せられてしまった読 者は、決して一人や二人ではあるまいと まだ本作を凌ぐには至っていない。その 意味で、この作品はまさに原点にして至 推察される。 懇切丁寧な解説を装いつつ読者を煙に 高の存在なのである。以下、具体的に見 巻いてほくそ笑むという底意地の悪い遊ていこう。 び心に、苦虫を噛み潰しながらもやはり 本作の構成は極めて単純である。三角 円が与えられた場合、その円を外接円と 賛嘆の念を禁じえないのは、ひとえにラ 形が円に向かって円の定義を述べ、円が する ( Ⅱその円に内接する ) 正三角形は、 ンドルト氏の抜きん出た詭弁の才覚によ同意する。それだけの話である。だがそ 向きを固定して考える限り、 ただ一通り るものだろう。無意味な言辞を弄するこれだけの話の中に、圧倒的な量の情報が に定まる。したがって、正三角形は外接 詰め込まれているのである。 とに余程習熟した者でなければ、この芸 円によって一意的に決定することができ ランドルト氏は円の中心が持つ情報量 当は到底真似できない。その意味で、氏 る。他方、外接円は円であるから、当然 に着目して解説を展開したが、これはい の解説はマンガ本文以上に充実の内容を 中心と半径によって一意的に決定される。 ささか皮相な理解であって、やはり不満 誇っている。 以上を勘案すると、正三角形は外接円の が残る。そこで本稿では、氏とは異なる 中心と半径によって自らを規定される存 中心と半径 視点から新たな解釈を試みたい。 在なのであり、その意味において、外接 まず、三角形と円をめぐる基本的な知 ランドルト氏による解説は確かに充実 円の中心と半径こそが正三角形の全てで 識について確認しておこう。任意の三角 しているのだが、必ずしも全てを語り尽 あると断じても決して過言ではない。作 くしているとはいえない。そこで、本書形について、その三角形の全ての頂点を 中で正三角形が円に対して言い放った言 通る円をただ一つ描くことができる。こ の中でも殊に秀逸と思われる一つの作品 葉は、実は巡りめぐってそのまま正三角 の円を三角形の外接円と呼び、三角形は に焦点を合わせ、それに対する筆者なり 形自身に返ってくるのである。 この円に内接していると言い表す。 の解釈を提示することで、氏の解説の不 注目すべきは、本作に登場する三角形 足分をを補ってみようと思う。 記号のニヒリズム が正三角形であるという点である。一つ 取り上げるのは一〇ページ右側の作品 ここから我々はすぐさま形而上学的な の正三角形にただ一つの外接円が対応す である。あえて題を付けるなら「中心と 半径」とでもなろうか。実はこの作品はることは言うまでもない。逆に、一つの議論に足を踏み入れることができる。 正三角形の外接円あるい は円に内接する正三角形
であって、書き手の独りよがりな見解を は四コマ全てが同一の図像で構成されるしたことにはならないであろう。 ランドルト氏による解説は大きく二つ披瀝するものではないというスタンスを 作品すらある。通常ならば退屈な印象を 迅速かつ一方的に確立し、文章上の全て 与えかねないが、ランドルト作品の場合、の系統に分かれる。一つは作品理解の前 の責任を読み手の側に押しつけるという こついての真面目な説明に 記号という題材の特殊性と相まって、名提となる知識 ( 状しがたい独特の効果を出すことに成功終始したもの。もう一つは、氏持ち前の高度な情報戦術が巧みに織り込まれてい る点が指摘できよう。これは非常に詭弁 している。記号というものがそもそも反ューモアを生かした屁理屈を垂れ流すこ 復的使用を前提として作られた素材であとによって、作品理解の攪乱をもたらす的な手法であり、長く詭弁論部で研鑽を もの。前者の例としては二五ページ下段積んできた筆者にとっても馴染み深いや ることを考えると、機械的反復によるコ り口である。 マ構成は、むしろ記号の特質を最大限発や二八ペ ] ジ下段のものが、後者の例と このようにして議論の主導権を掌握し しては二八ページ上段や三一ページ上段 揮する演出であるといえる。 た後は、矢継ぎ早に自説をまくし立てる 四コママンガという極めて定型的なシのものが挙げられる。 一般的な読者は前者をありがたがるののが定石である。ランドルト氏も、両義 ステムに則りつつも、その解釈において であろうが、それがウイキペディアの記性、非人間性、七五調という三つの論点 全く新しい機軸を打ち出し、表現の可能 性を押し広げている点に、ランドルト作述の稚拙なアレンジに過ぎないことを知を立て続けに指摘し、相手に反論の隙を る筆者としては、むしろ後者にこそラン与えまいと必死の攻勢を繰り広げる。 品の傑出した創造性が認められる。 しかし筆者ほどの非凡な知性の持ち主 ドルト氏のオリジナリティの発露を見る 解説の妙 にしてみれば、ランドルト氏の虚妄を暴 ことができて興味深い。よって本稿でも、 一つの記号に二 くことなど造作もない 後者について詳しく検討する。 本書を凡百の同人マンガ誌から隔てる たとえば三一ページ上段の解説。もはつの意味を持たせたのは別々の記号を描 のが、マンガ本文とほぼ表裏一体の形で くのが面倒くさかったからであり、画面 や狂気の沙汰としか思えないトンデモ理 書かれた解説の存在である。実際いくっ 論が縦横無尽に展開されることによって、から人間を一切排除したのは人間を描く かのマンガは、解説なしには理解するこ 作品自体の理知的で洗練された印象が見のが面倒くさかったからであり、ナレー 一フンドルト氏自身「執 とすらできない ションを原則七五調に統一したのは語呂 事に台無しになっている。 筆に際しては本文よりも解説の方に多く まず「賢明なる読者諸氏は既にお気づがよかったからである。 の時間を費やした」と語っている。とな なるほどタネを明かせばいささか拍子 きのことと思うが」という断り書きの挿 ると、我々も相当の字数を費やして解説 入によって、以降の陳述はあくまで読み抜けの感は否めない。とはいえ、ランド に光を当てる必要がある。それを怠るな 手のスタンダードな認識を代弁するものルト氏の詭弁術は、多くの一般的な読者 らば、一フンドルト作品を真に鑑賞し尽く
いわば「マンガの極北」とでも形容すべ ンガらしい要素が残っていなければなら ンガ家の力量を判断する際の指標の一つ になっている。 ない。マンガらしさを一切合財捨て去っ き境地に自らを導いたのである。 しかるに、四コママンガという形態を 関西コミティアのカタログ『ティアズてしまったのでは、最早それはマンガと とるランドルト作品は、作為的なコマ割 マガジンかんさい』の第四十号において、呼びうる代物ではなくなってしまう。 りとは明らかに無縁である。いや、コマ本書のコピー本版の紹介記事が掲載され そこでランドルト作品が唯一例外的に た際、評者の井上智順氏は「本書を開い 採用したのが四コママンガというシステ 割りという手法が本来マンガを劇的に演 出するために要請された技術であることてみても、一瞬、漫画であると認識できムである。ランドルト作品は、四コママ を顧みれば、ドラマ性をことごとく排除 ない」と述べ、初見時に少なからず当惑 ンガという形式的特徴を温存することに することで独自の地平を拓いたランドル を覚えた旨を表明している。これは重要よって、かろうじてマンガの範疇に収ま ト作品にとって、コマ割りの採用はむし な指摘である。マンガであるか否かを咄ることを得ている。しかしながら、内容 嗟に判断できないということは、本聿「が ろ蛇足でしかないだろう。ストイックな を仔細に観察すると、やはり既存のマン 内容には、やはりストイックな形式こそマンガと非マンガの境界線上に位置してガの枠組みには収まらない特異性が随所 いるということである。そして、マンガに見出されるのである。 相応しい の本質は、マンガならざるものとの対比 四コママンガは同形のコマの反復から マンガの極北 において初めて鮮明になるのであるから、成る。コマの連続性は画面に安定感を生 マンガと非マンガの境界とは、まさにマむが、弊害として作品の流れが単調にな ここまでの議論で我々は、ランドルト ンガのイデアが顕現する限界点に他なら りがちであるという難点を持つ。これを イロロカいかに既存のマンガの枠組みを超 ない。先に引用した評ー よ、ランドルト作克服するため、漢詩の構成法である起承 越しているかを確認した。現在に至るま 品が「マンガの極北」に位置することの 転結の概念を流用し、内容に起伏と変化 での長いマンガの歴史の中で培われてき 完璧な証左なのである。 を与えるのが一般的である。 た諸々の方法論、すなわちマンガ的記号、 ところが、ランドルト作ロ明はここで極一 ストーリー キャラクター、コマ割りと 反復するコマ めてトリッキーな戦略を選択する。すな いったマンガ構成上の要件は、ランドル 現代マンガを規定するあらゆる制度的わち、四コママンガという形式が欠点と ト作品において徹底的に無視され、無化 して抱える単調性への傾向を、逆にネタ されている。ランドルト作品は、透徹し約束に背を向けることでマンガ表現のフ として昇華するという戦略である。 た批評精神に基づき、マンガにとって必ロンティアを開拓するランドルト作品で ランドルト作品は基本的に、四コマを 須でない要素を躊躇なく切り捨てるとい あるが、それがあくまでマンガという領 通じて画面がほとんど変化しない。中に う手続を経て、マンガのイデアに肉迫し、域に留まり続けるためには、どこかにマ
手書きの擬音語や擬態語が画面を埋番を失い、脱記号化が促される。そして連関を持っ例も少なからずあるが、その 場合でも、一ページ単位で話は全て完結 め尽くすこともない。それどころか、集脱記号化によってマンガ的記号が画面か ら消え去ることで、主題たる一般的記号する。各四コマの内容に目を向けてみて 中線や流線といった極めて単純な効果線 の使用さえ拒絶されている。唯一の例外に焦点が集中し、いよいよ記号化の度合も、そこにはストーリーと呼べるほどの いが高まるという寸法である。 起伏は存在しないといってよい はセリフを書き込むためのフキダシであ ランドルト作品における登場人物は記 ゆえにランドルト作品の特色は、記号 るが、これとて最も基本的な楕円形のも のに限って用いられるのみで、たとえばの主題化という表面上の目新しさだけで号ということになるが、彼らは記号の本 来的特質としての形体上の差異を有する よ " 兄明でキ ) なし一三ロイ・・ ( 、、。己号匕こよる脱記号化 感情の起伏に応じて形状を変えるといっ と、脱記号化による記号化、相反する一一だけで、性格上の区別というものを全く たような高度な表現は ( 一九頁右の作品 、、、。固性の描き分けとい 、、。はじめに指摘しつのアプローチの巧みな組み合わせを通持たされてしなし を除いて ) なされなし じて、マンガの記号性という間題を見事う観念が存在しない以上、キャラクター た「徹底的に冷遇されているある種の記 に浮き彫りにした上で、それを他ならぬと呼びうるものが確立される余地はあり 号」とは、取りも直さずマンガ的記号の えない 記号そのものによって無効化するという、 ことである。 世のマンガ家たちが猫も杓子も魅力的 ここで改めてランドルト作品における優れてアクロバティックかっ根源的な批 なストーリーとキャラクターの創造に腐 記号の位置づけを整理してみよう。一般評性。これこそが、ランドルト作品の真 的記号のレベルにおいては、記号の主題骨頂なのであり、本作をマンガ史上に残心するのを尻目に、孤高の表現者ランド ルト氏は、それらを必要としない水準に 化という形で、記号化が推進されている。る一大傑作たらしめる所以なのである。 まで自らを高めてしまった。この類稀な 対して、マンガ的記号のレベルにおいて ストーリーとキャラクター る卓越性に、ランドルト作品の底知れぬ は、むしろ記号の駆逐こそが企図されて ポテンシャルを見出すことができる。 おり、 いわば脱記号化とでも呼ぶべき事 マンガ的記号と並んでランドルト作品 態が進行している。 から排除されているものがある。現代マ コマ割りの放棄 加えて、この記号化と脱記号化は、さ ンガにおいて欠くべからざる二つの要素、 ながら車の両輪のように不可分の関係に 現代マンガの成果物の一つにコマ割り すなわち、ストーリーとキャラクターで ある。すなわち、記号化は一般的記号を がある。一ページあるいは見開き二ペー ある。 作品の主役に据えるが、一般的記号は感 ランドルト作品は複数の四コママンガジの中でのコマの配置に工夫を凝らすこ 情や動作とは無縁の存在であるから、そ とで、読み手の視線と心理を誘導する手 から成るが、原則として各四コマは互い れらを表象するためのマンガ的記号は出 法のことである。コマ割りの巧拙は、マ 7 に独立である。隣接する二つの四コマが
記号のクリティーク 玉木蘭堂 ( たまき , らんどう ) 一九八七年金沢生れ。京都大学法学部入学後、奇行 の限りを尽くして「法学部のアウトロー」の異名を とる。ニ〇一〇年一一月、友人ニ名と共同で京都大学 第ニ詭弁論部を設立。学園祭への出展や、ビラ配り と称した紙資源の浪費など、精力的に活動。中でも 毎年入試の際にばら撒かれる解答速報には定評が ある。現在、京都大学第ニ詭弁論部ならびに京都大 学第ニ詭弁論部部員統合の象徴。 玉木蘭堂