114 「ありがとう」 しすれ別の形で礼ができればいいのだろう。そ カインは小袋をしまった。彼女の好意には、 : う結論づけて立ち上がる。幸い酔いは残っていない 「あともう一つ、申しあげたいことがあります。昨夜、パルスさんがお連れになっていた女性 のことなのですが : : : よろしいでしようか ? イングリドは少しためらいがちに、カインを見る。 「金髪の ? 」 、とうなすいたのでルーフアのことだと理解する。 「かまわないよ。なんだい ? 「ご関係については存じませんが、あまり親しくならないほうがよろしいかと思います。何と : 心が笑っていなかったので」 申しあげるべきか : けげん イングリドの言葉に、カインは屋訝そうに首をひねった。彼女の言葉の意味が、いまひとっ 理解できなかった。 「それは都会的表現なのかい ? 」 「強いて言、つなら文学的表現でしようか」 どちらにせよカインには無縁のものだった。率直に尋ねる。 「もう少しわかりやすく話してくれないか」 問われて、イングリドはわずかにうつむく。どう説明すればわかってもらえるのかを考えて
帝国の法では、平民と貴族は結婚できないが、騎士と貴族は結婚できる。そのため、平民が 貴族と結婚するには、平民がどこかの貴族の養子になるか、騎士になるしかない そ、つだったのか、とカインは驚き、それから、そ、つだよなと思った。たとえば騎士志願者が 一千人いれば、騎士を目指す理由も一千あるはずなのだ。 「まあ、でも俺も若いからさ」 深刻な表情になったカインを見てか、レイクはいつもの軽薄な笑顔と口調に戻る。 「どこかでなんとかしたかったりするんだよ。で、おまえはどうよ ? 故郷に恋人とかいない おさななじみ の ? 騎士になったら結婚するって約束した幼馴染とか」 「あいにく、そんなのはいないよ」 カインは正直に答えた。本当にそう思っている。 「僕は、そういう方面には弱いんだ。これまでろくに考えたこともなかった」 「なるほど。じゃあそれこそルーフアとかど、つよ ? 「退屈はせずにすみそうだが、 精神的にもたないと思う」 呑気にかまえてはいるが、帝都ラウルクでの暮らしは緊張と疲労を少しずつカインの内に溜 勲めこんでいる。レイクならばまだ気兼ねなくつきあえるが、ルーフアが相手では、十七年を田 舎の農村で暮らしてきた若者には厳しすぎる。 銀「あの侍女の子はどうだ ? 話だけ聞いてると、けっこう脈ありそうだけどな。もう関係があっ たり : : : 」 じしょ
悩みや疑いとはあまり縁のない人生を送ってきただけに、うまく対処することができなかった。 これではいけないと思っても、どうすればいいのかがわからない。時間がたつほどに精神は侵 され、蝕まれて、思考はますます深刻なものになっていく。 「 : : : すまない。今日は僕はもう帰るよ」 疲れた顔と言葉で、カインは立ち上がった。 「おう、じゃあまたな」 レイクが軽い口調で手を振ってきたので、振り返して円形闘技場をあとにする。 こはくたて ふらふらと通りを歩き、気がついたら『琥珀の盾』に着いていた。 ちゅ - っぽう 扉をくぐると、イングリドが厨房から顔をのぞかせる。彼女はすぐ引っこみかけたが、思い とどまってカインを見上げた。 「今日はお早いお帰りですね」 「うん。ちょっと調子が悪くて」 「私が借りている部屋で寝ますか ? ようするに物置なのだが、カインの寝床は節約のために廊下から変わっていなかった。部屋 であるだけはるかにましだ。 そうさせてもらうよ、と力なく笑って彼女が使っている部屋に入った。彼女が使うようになっ てから、ここは整頓され、小奇麗にかたづけられている。壁に槍をたてかけて、古そうな寝台 に倒れこむ。きしんだ悲鳴があがった。
218 カインは苦笑して首を振った。 「自分で決めたことぐらい、しつかりやらないとなあ、って思っただけだよ それ以外、友人に応える道はもうないのだろうなとカインは思う。そして、それが独善だと わかっているから気分が晴れないのだ。それが顔に出たのだろう。 食事をすませると、カインはバルトの泊まっている部屋を訪れる。薄暗い中で、バルトは黙々 と大剣を磨いていた。 「話はいっていると思うんですが、レイクのこと、お願いします 「君は、出ないのか」 とうしても大切な用事があって」 「 : : : 試験よりも、か」 細い両眼がカインを見据える。カインは黙って頭を下げた。 「君の用事がどんなものかは知らない。だが、君の師は理解を示すのか」 「先生はロを一切出さずに手を百倍出すようなひとですが、わかってくれると思います , そうかとハルトはうなずいた。 そして、試験当日。
ていないんだ。書類もまだすべて確認していない , 「ああ。いますぐこの場でとは言わねえよ とくに気にしたふうもなく、レイクは笑った。 、返事を頼むぜ。騎士志願者の知りあいなんて、てんでいなくてな。おま 「なるべく早く、いし えさんはひとがいいし、ほーっとしてるようで、けっこう鍛えてるみたいだからな」 「どうして僕が鍛えているって思うんだ ? 陶杯に口をつけながらカインは訊いた。こともなげにレイクは答える。 「首筋と腕と指を見りやわかるさ。それと、その槍だ。そうとう使いこんでるだろ。そういう の隠したかったら、新しい布を巻いておいたほうがいいぜ。手も手袋で隠して、服はゆったり として袖の長いものを着る」 そう言うレイクは確かに長袖の服を着ており、右手には何もしていないが、左手には手袋を していた。カインはなるほどと感心する。 「だから君はそんな服装をしているのか」 「いや、これはただの趣味だ」 あっさりと即答されて、カインはがくりと肩を落とした。 日が傾いてきても、往来の人波は絶えない。 かたむ おうらい
「俺は乗らねえ。不正に参加する気なんざないが、止める気もない。それに、試験のための鍛 れん 練はしても、賊を捕まえる訓練なんぞはやっちゃいねえんだ。割に合わなさすぎるぜ」 それから、レイクは首を動かしてカインに視線を向けた。 「おまえはやるのか ? 」 睨まれているわけでもないのに、カインは圧迫感を覚える。 だが、目を逸らさずに、硬い表情でうなずいた。 最悪の結果になったなと思う。 「すまない」 頭を下げた。 ばとう 殴られ、罵倒されるかもしれない。自分の心情がどうあれ、彼を裏切ったのだ。 だが、レイクは穏やかに訊いた。 「こいつに頼まれたからか ? それとも、自分で不正を止めたいって思ったのか ? 「両方だ」 カインはきつばりと答、んた。 勲「ファリアから話を聞いただけだったら、僕もやる気にはなれなかったと思う。でも、僕はそ のいつに会った。話を聞かされたんだ」 銀 他人事ではなかった。そう考えることなどできなかった。 「あいつは、なんとしてでも捕まえるか、倒さなければならない」 たん
302 見つけた」 「では、相手もファリア様だとわかったのでは ? 「おそらくそれはない。気づいた様子はなかったし、第一、私が公の場に最後に出たのは二年 はかな 以上前だ。しかも、余命いくばくもなさそうな病弱で儚げな美姫としてだからな」 さぎし かがみ 「詐欺師の鑑ですね」 すました顔での暴言に、ファリアは顔をしかめたものの、本題に集中する。 「その連中も、アンドラスとやらと同じように顔が広いといわれている者たちばかりだ。それ なりに富裕でもある。彼らがまとまって動けば、なるほど、つまくいく。 一度広めてしまえば、 あとは放っておいても入会した者たちが勝手にやってくれるのだからな」 「それで、今後はどうなさるおつもりですか ? 」 「決まっているだろう」 腰に手を当て、夏の澄んだ湖を思わせる碧い瞳に戦意の光をたぎらせて、ファリアは力強く 宣言した。 「アンドラスを捕らえる」 「その前に、やはり、ハイラム様にご報告するべきではないでしようか」 「そのことはもう解決したはずだー眉根を寄せて、ファリアは機嫌を悪くする。 「兄上はお忙しいのだ。私がやつを捕えてから報告しても問題はない」 「しかし、アンドラスには罪状がありません」
176 いらだ ウルバとの話が終わったあと『琥珀の盾』に帰ってからも、カインの苛立ちはおさまらなかっ た。彼の話は非常に不愉快だったが、 焦りや不安を見透かしたかのような言葉は若者の内心を 鋭くえぐり、深く傷つけていたのだ。 三百十五番目では、意味がない。そしてカインには、自分は必ず任用数の枠に入れるという 確固とした自信はない。 さらに、その方法によって去年も一昨年も騎士になった者がいるという言葉。自分の抱いて いる騎士の幻想に汚泥を塗りたくられた気がして、よけい不機嫌になる。 騎士は、人々の平穏を、帝国の平和を守るために日夜修練を積んでいる者たちではないのだ ろうか。十年前に自分が会ったあの騎士はそう言っていたじゃないか。 聞かなければよかったと思うが、衝撃的な内容だけに忘れることなどできそうにない。そし て、そんな提案に乗るような連中に負けてしまうかもしれないと思うと、ふざけるなと叫びだ したくなる。さらに、このことについて、自分は何もできそうにない。 木剣で肩を叩きながら、呆れと心配の入り混じった表情でルーフアが指摘する。 「身体の調子でも悪いのか ? アヴァルだったか、あいつにすら負けかねんぞ」 いや、身体はだいじようぶだー 身体には何の問題もない。だいじようぶではないのは精神だった。 こはくたて みす
「どうです ? 今日のはなかなか味わい深い仕上がりですよ 流しこむように食べる男に、味わいを語ってほしくはないとカインは思った。 「それより、話の続きをそろそろ」 空になった皿を横に押しやって、カインは促した。 「そうですね。私があなたに訊きたいのは、彼らに差をつけたくないかということです。あな た同様に、やってみなければわからないと思っている人たち。試験に対して確信を抱けないで いる、大多数の志願者のことですー 「 : : : 差をつける方法が ? 」 「あるんです」 一一一一口葉を継いでの至極あっさりとした返答に、カインはおもわず唾を呑む。たかだか一杯の果 実酒で酔うはずもないのに、顔が妙に熱い。なんとなく喉の渇きを覚えて、果実酒の残りを一 気に飲み干した。 本当だろうかと思う。本当だとしたら、その方法を知りたい。少しでも可能性を高めて試験 に挑みたい。 勲「どうして僕に、そんな話をしてくれるんです ? 」 騎 ようやく声が出た。低くかすれて、自分のものとは思えない。緊張していた。 の 銀「あなたの馬上試合を観戦しまして」 ウルバはにこやかに答えた。パンとチーズはもう彼の胃の中におさまっている。
g 揺るがぬ意志を瞳に宿らせ、ファリアはクローディアを見据える。 「私が気にくわないのは なによりも問題なのは、人と人のつながりを、金だけのつながり にしてしまっているということだ。儲け話といって、いきなり見ず知らずの他人を誘うか ? ふつうは友人や知人からはじめるだろう。そして、四人以上誘わないことには自分は損をした まま。それが果てしなく続いていくのだぞ。兄上を信じてはいるが、それでも、正規の手続き を経て騎士たちが動くより、私たちが動いたほうが早い」 「とにかく止めるのが先だと ? 」 とが 「そうだ。どこまでを咎めるのかは : : : 兄上の判断を仰ぐ」 「ーーーわかりました」 聞き終えてから一呼吸の間を置いて、クローディアは微笑を浮かべた。 「たったいま思いだしたことなのですが、実は、入会した、もしくは鏡を買った者たちの間で、 じじよ 被害者の会が組織されつつあります。代表はバラムという商人の妻とその侍女ですが、彼らの たいぎ 訴えを大儀として、アンドラスを捕えることとしましよう」 スッラ せりふ その台詞に、一瞬ファリアは呆然として従衛を務める女騎士を見つめた。内容を理解し、肩 かたき を震わせ、まるで仇でも見るかのような激しい視線をクローディアに向ける。 「なぜ、黙っていた ? 」 「忘れていました」 ぬけぬけと答える。もちろんそんなことはなく、ファリアが断念するようであれば持ちだす もう あお みす