彼女は、僕よりもず、つつと広い世界が視えているのだろうな。 不思議と焦りを覚える。 「もし何かおもしろいと思う本を見つけたら、教えていただけますか ? 」 じじよ イングリドの言葉に、カインは不思議そうな顔で彼女を見た。黒髪の侍女は続ける。 以前、パルスさんが私の貸した本を楽しんでくださったときは、嬉しく思いました。英雄物 語も , ーーあまり血なまぐさいものでなければ読んでみたいと思います 「でも、君の知っている本かもしれないよ ? 」 「それでも 、パルスさんの感想を聞いて、その物語について語りあって、また読んだら新しい 発見があるかもしれません。それに 恥すかしく思ったのか、声を小さなものにしてイングリドは言った。 「パルスさんがどのような本を、どのように読まれるのか、興味がありますから」 二人は書庫を出た。 「ーー以上で、案内は終了となります」 ランプを長机に置いて、イングリドは一礼する。ありがとうとカインは心から礼を述べた。 勲「ところで、パルスさんはこの屋敷で本当によろしいのですか ? 騎「 : ・・ : ど、ついう意味だい ? 」 こうこう 銀質問の意味を図りかねて、カインは聞き返した。長机の上、ランプの煌々とした光はイング リドの胸元あたりまでしか届いておらず、彼女の顔は闇の中に溶け込んでしまっている。
136 そう艷やかに笑うアウレリアは、オームスの妻となる前は商人だった。その人脈は結婚後も 活きており、よく出かけては商談をまとめてくるのだが、丸一日を自宅で過ごすこともあった。 「イングリド、お茶」 、奥様」 イングリドがこの屋敷に勤めるようになってから、幾度となく繰り返されたやりとりである。 この日も、その短い会話の後、イングリドは焼き菓子と紅茶を用意した。 「パルスさんとはど、つ ? 唐突に尋ねられて、イングリドはかすかな困惑を視線ににじませた。 「どうと申されても : 「あなたがここで働くようになってから、はじめてじゃない ? 私たち以外で寝起きをともに するひとって」 そ、つい、つことかとイングリドは納得した。 「とくに問題はありません。パルスさんも、一日中ここにいるわけではありませんから」 「お弁当とかっくってあげてるんでしょ 「予算は外れないようにしてあります。外で食べるよりは : : : 」 「そういうことじゃなくてね」 さえぎ イングリドの言葉を、苦笑気味にアウレリアは遮った。 「けっこう気に入ってるんだなと思ったのよ。あなたって、あまり他の人を気にすることない
「ここが悪いと一一一一口うつもりは決してありません。ですが、パルスさんの立場で考えれば、さら によい場所はあると思います。皇宮に勤められるのであれば、より近い場所にご住まいを定め るという道もありますし、そうなれば従僕や侍女を新たに雇うこともできましよう」 そ、つい、つことかとカインは、つなず . いた。 「ありがとう。でも、僕はここに住まわせてもらうよ。このあたりはよく通ったから迷うこと もないし それに、と少し照れくさかったので、髪をかきながら冗談のような口調で付け加えた。 「君のつくってくれる料理は、好きだな。今朝のスープはとくにおいしかった」 「ーーーありがと、つございますー 一拍遅れて、イングリドの影が深く頭を下げる。 パルスさん」 「今後も、精一杯務めさせていただきます こ、つして、カインはバラム邸から皇宮に通、つことになった。 「見送り、ありがとう」 ルメリウス門の下、笑った男に、アヴァルⅡレラギ工は、ああとぶつきらほうな返事をした。 ど、つにも気まずさが拭えない 【Ⅱ じじよ
138 でしよう。それが少し意外だっていうだけ」 「 : : : 気になる方ではあります」 無表情だったイングリドの顔に、感情の波が揺れた。 「好きな方に、似ている気がするんです」 「それはどんな殿方かしら」 「女性です」 かすかに、本当にかすかにイングリドは苦笑する。アウレリアの前だからこそ見せる感情で もあった。 「お年寄りで、ひとを信じやすい方でした。パルスさんは雰囲気というか、表情が、その方に 似ている気がするんです。 「それは : : : 本人に言わない方がいいかもしれないわねー 「なぜでしようか」 とくに一一一一口う気はなかったが、尊敬している奥様からそう言われるとあらためて気になり、イ ングリドは尋ねた。 「見たこともないおばあちゃんに似ているって言われても、嬉しくないかもしれないわ。まし て騎士を目指すような男の子なら強いとか勇ましいとか、そういう表現をこそ好むんじゃない かしら」 そうだろうかとイングリドは小首をかしげた。カインならば、穏やかに話を聞いて、かっ理
りんかく 足を止める。お互いに、姿形の輪郭はおばろげに見えても顔は見えない。よかった、とイン グリドは思った。いまの自分はたぶん、ひどい顔をしている。涙すら浮かんでいるかもしれな 「どうしたんだ ? こんな真夜中に」 「パルスさんこそ : : : 」 本当に、意外だった。 少し言いよどんだあと、カインは笑って言った。 ちゅうぼ - っ 「厨房で、少し水をもらおうかなって思って。変なときに寝たものだから、いま目が覚め ちゃってさ 髪をかく仕草。おそらく笑顔。それを想像してイングリドは微笑んだが、カインには見えな かっただろう。 「これを : イングリドは、袋をカインに押しつけた。 「なんだい、これ ? 」 仕えている方の」 贈り物だそうです。あなたが、 もってまわった言い方になってしまったが、カインは気にした様子はなかった。 「なんだろう : : : ああ、これか。そうか、忘れてた」 「よろしかったですね ,
「これでも帝都には置れたつもりなんだが」 「慣れたとか言っているうちは、まだまだだね そのとき、カインの後ろからイングリドの声がした。 「パルスさん、忘れ物です」 わかくさいろ そう言ってイングリドが差し出したのは、四角い若草色の包みだった。レイクの目が興味深 そ、つに輝く。 「なに、また手作り弁当 ? いいなあ、俺の分は ? 」 「申し訳ありません」 いんぎん 慇懃に、イングリドは頭を下げる。その反応に、レイクはあわてて手を振った。 いいんだ。ゝ しまのは冗談だからよ」 ありがと、つと礼を言ったカインに、イングリドはいつものよ、つに冷静に応じる。 「昨夜の余りもので恐縮ですが、煮込みに使った鶏肉を入れておきました」 その言葉に、カインはばっと顔を輝かせた。 「あれはおいしかったな。うん、いまから楽しみだよ」 「おいしそうに食べてらっしゃいましたので」 イングリドはかすかに口元を緩ませたが、すぐにそのことに気づいて無表情に戻る。 「それでは、私は他の仕事に戻らせていただきます。どうぞ、お気をつけて」 「君も無理をしないようにね。あ、そうだ。手紙、すまないけど頼むよ」 ゆる
見えたんです , それでわざわざタオルを用意してくれたのか。 きづか 彼女の気遣いにカインは胸が温かくなったが、その一方で「パルス様」という呼び方に少し 寂しいものも感じた。彼女に言わせれば、バラム邸に帰ってきた以上カインは屋敷の主たるオー ムスの客であり、自分は侍女なのだから、そう呼ぶのが当たり前ということなのだが。 イングリドはもう用事はすんだというかのように、スカートをひるがえして屋敷の玄関へと 歩きだした。カインはも、つ一言二言イングリドと話したいと思ったが、彼女には仕事があるの だからと考え直す。 扉を開けて屋敷の中に入りかけたところで、イングリドは足を止めてこちらを見た。 ちゅうぼう 厨房に来ていただければ、それより早く温かいスープをお 「朝食は半刻後の予定ですが : 出しできます」 カインはも、つ一度ありがと、つと礼を言った。 騎士になるため、カインが生まれ育った村を離れて帝都ラウルクを訪れたのは、およそ一月 前のことだった。 しかし、カインは騎士登用試験の場へ向かわなかった。皇女ファリアⅡアステルとともに、 試験の不正に関わる事件を解決する道を選んだのだ。 じじよ
イングリドは強く首を振った。これは、カインのものだ。客人のものだ。勝手に中を見てい いわけがない しかし、気になった。いま、この一瞬、視界に入ったものが見間違いでないのなら。 思いきって、イングリドは袋へ歩み寄る。光灯石を近づけた。 服だった。 褐色を貴重に、銀色の縁取りが為されている。光沢で、上等な絹を使っているのだとわかっ た。刺繍も専門家の手によるものなのだろう、細かく、優れたものだ。 うつ イングリドはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。虚ろな瞳で卓上を振り返る。 カインの上着が折りたたまれて置いてあった。自分が繕った上着が。 見せつけられた気がした。 自分には、どう足掻いてもこんな服は用意できない。繕うのが、せいぜいなのだ。 わけがわからなくなって、イングリドは袋を抱えると部屋を出た。早くカインのところへ 持っていこう。こんなものは、もう一瞬も見たくない。 このとき、真夜中であることをイングリドは忘れていた。廊下には、隙間から射し込む月明 勲かりしかないが、二年間歩き続けた廊下はもう慣れだけで進むことができる。 騎「 : ・・ : イングリド ? けげん 銀廊下の奥、自分の名前を呼んだ怪訝そうな声で、イングリドは我に返った。 「パルス、さん ? 」 あが ルーメン
「失一言をお詫びいたします。ですが、せめて悪用はなさらないでください」 クローディアはため息をついた。 新たな焼き菓子に手を伸ばしながら、ファリアは不器用に話題を変える。 「ところで、カインとレイクはど、つだ ? 」 その口調こ、、 = 一。しくらか申し訳なさのよ、つなものが漂っていることをクローディアは感じ取っ た。彼女の心情を思いやって微笑を浮かべ、それから真面目な顔になって報告する。 「個人的な感想では、悪くはないといったところでしようか」 「詳しく頼む」 「ます、カイン Ⅱパルスですが、槍の技量だけなら騎士として申し分ないと思われます。年齢 を考えてもさらなる成長の余地は充分にありますし、磨けば磨いた分だけ伸びていくかと そう語る黒髪の女騎士の顔は、素直に嬉しそうだった。騎士になって五年目のクローディア には、カインが昔の自分を思い起こさせて微笑ましいのだ。 その報告に、ファリアは満足げにうなずいた。 「そうだろうな。あいつの槍は巧い。私でさえ負けたことがあるのだからな。卿はどうだった ? あいつに負けない自信はあるか ? 「そうですね。一、二年後はわかりませんが、さすがに、今日明日に負けることはないといっ たところでしよ、つか」 きしよくまんめん クローディアの返答に、ファリアは自分のことのように喜色満面になる。だが、彼女の
絽さえ、一瞬で理解してしまった。 「そろそろ行こうぜ。これから毎日拝むようになるんだからさ」 レイクに声をかけられて、カインはようやく感激の世界から戻ってきた。平然としている友 人に、自分の狼狽ぶりが気恥ずかしく思える。 「君は、皇宮を見慣れているのかい」 「ここから見たのははじめてだけどな」 そのとき、宮殿から、見覚えのある女性がこちらへ歩いてくるのが見えた。肩の下あたりま あさお で伸ばした波打っ黒髪が特徴的な美女で、白い麻織りの服は市井の娘と変わらないものの、腰 に帯びた細身の剣がそのような印象を打ち消している。 「カインⅡパルスとレイクⅡロノベね」 温かみを感じられる言葉にカインとレイクはそれぞれうなずいた。 気負いのない、 スッラ 「私はクローディアⅡアイン。ファリア様の従衛を務める騎士で、あなたたちの先輩というこ とになるわ。従衛として、あなたたちに指導することになったの。よろしくね」 お願いしますとカインはクロ 1 ディアと握手をかわす。 「あのとき、地下道に・ 「ええ。ファリア様が助かったのはあなたたちのおかげよ。ありがとう」 「そのお姫さんはどこに ? カインよ そう訊いたのはレイクだった。同じようにクローディアと握手を交わしたのだが、 ば しせい