カインはできるかぎり平静を装って答えた。それに対するファリアの返答はなかったが、間 を置いて何かを裂くような音がカインの耳に聞こえた。 「まだ服を着るなよ」 ファリアの声がして、足音が近づいてくる。彼女はカインの前へ回りこんだ。すでに服を着 あんど ていることに若者は大きな安堵と小さな落胆を同時に覚え、そんな自分に顔をしかめる。 ファリアはカインの右肩に手を伸ばす。彼女の手には、薄紫色をした布きれがあった。 「一応、血は止まっているのか」 金色の髪の皇女はほっと胸を撫で下ろすと、薄紫色の布きれてカインの肩を縛る。彼女がそ の作業を終えたあとで、カインは布きれがファリアのスカ 1 トの切れ端だと気づいた。自分の ために、剣を使って切り裂いたのだろう。 「もういいぞ」 若者はうなずいて、絞っただけの服を着こむ。 ファリアはカインの胸をほんと叩く。 「さっきは、本当にごめん」 ろうばい さすがに自分が情けなくなり、心底から悔いて謝った。自分がファリアの裸身で狼狽してい る間に、彼女はカインの手当をするために自身のスカートを裂いていたのだ。 「・ーーさきほどの話の続きをしようか」 明るさと快活さを取り戻した口調での、それがファリアの返事だった。 「私は小さいころ、このあたりで生活していたのだ。何もなければ、おそらく帝都になど行く かいかっ よそお
232 「卿は私の従衛だ。・それを私に見捨てろというのか」 「助けを呼んでほしいんだ。僕らじゃ、あれには勝てない。それに僕はこんな育ちだから、山 にはそこそこ慣れてる」 「それを一言うなら私もだ。とくに、このあたりはな」 おのれ 言いながらファリアは剣を地面に置き、己の上着に手をかけてまくりあげる。ほんやりと立 ふんぜん ち尽くしているカインに、ファリアはその状態で手を止めると憤然として睨みつけた。 「服を絞れないだろうが。さっさと後ろを向け」 言われてカインはようやくそのことに気づき、あわててファリアに背を向ける。それから自 分も服を絞るべく、槍を手近な木に立てかけて上着を脱いだ。服を絞るべく右手に力を入れる と肩が痛んだが、声を出さないよう歯を食いしばる。 せりふ ふと、さきほどのファリアの台詞を思いだし、気になってカインは小声で尋ねた。 「どうして、このあたりに詳しいんだい ? 」 考えてみれば、おかしなことだった。クローディアが領主へ連絡すると言っていたのに、わ ざわざ夜の山に入るようなこだわりを見せるあたりも。 隠す素振りも見せず、ファリアはあっさりと答えた。 「私はこのあたりで生まれ育った」 驚いたカインはおもわず彼女を振り返る。目が合ったと思ったときには、ファリアは声にな らない声をあげ、身体を隠すようにしてその場にしやがみこんだ。
ファリアは山であった出来事を話し、男の死体を回収するよう命じた。捨ておけない部分が、 あの男にはあまりに多すぎる、と思ったのだ。 章 勲 だが、ファリアの命を受け、領主が派遣した者たちは、男の死体を回収することはできな のかった。彼らが死体を発見したのとほとんど同時に、インフェリアの甲冑をまとった騎兵の 銀一団が現れたのだ。 グラフィアカーネと名乗った彼らの隊長は、次のように述べた。 とまど ファリアは戸惑った顔で、クローディアを見上げた。 「さきほども申しあげたように、私にも責任があります。そして、私を処断できる立場にある のは、いまここでは、皇女殿下のみです」 ついにファリアは音を上げた。 「わかった。私が悪かった。今度の件については、私に非があるゆえに卿の非は問わぬ。約束 する。調印をすませて帝都に戻るまでは、おとなしくしている。息を潜め、身を縮こませて、 ロ数を減らし、無駄な物音を立てずにじっとしている。それでいいか ? 」 「 : : : そこまでなさらなくともよろしいですが。 クローディアはまず呆れた顔をして、それから微笑んだ。 「では、今後とも非才なる身の全力をあげて、お仕えさせていただきます。ファリア様」
212 人影はそこから動かす、若者を待つつもりのようだった。カインはほっとして駆け寄る。思っ た通り、ファリアⅡアステルだった。 「やつばり : : : 君だったか」 彼女の前で足を止めたカインは肩で息をしながら、顔を伝う汗を乱暴に拭った。 ルーメン ファリアもまた額に汗をにじませ、呼吸を整えている。その右手には光灯石があった。 「真夜中の山道を、よくここまで追ってきたものだ。感心したというか、呆れたぞ [ せりふ それはこちらの台詞だとカインは言いたかった。、、こが、 オ他に一言、つことがある。 「どこへ行く気なんだ。こんな夜更けに」 すると、急にファリアはばつの悪いような顔をして黙りこんだ。疑問が、疑惑に変わる。 「クローディアさんは、このことを知っているのか ? 「もちろん、知っているとも 「本当に ? 追及すると、ファリアはロをとがらせてカインを見上げた。 「どうして疑う」 「夜の山は怖いんだぞ。僕はそれを知ってる」 昼間でさえ歩きにくいのに、夜ともなれば慣れた者でさえ厳しい。断崖があれば足を踏み外 して落ちる危険もあるし、狼や熊に襲われる可能性もある。 ましてファリアの服装はいつものもので、腰に剣を帯びているとはいえ、山歩きに向いてい
る。だが、 深刻なものではないことが経験でわかった。 たんれん 「これくらいの傷なら、畑仕事や先生との鍛練で何度も負ったことがある」 くら そ、つ言ったが、ファリアは碧い瞳を申し訳なさと後海とで昏く濁らせる。 「私をかばったせいだな : : ? 卿があのとき飛びこんでくれたから 陰になっていても、彼女の表情が沈んでいるのがわかった。カインは彼女を慰める言葉をい くつか考えて、それを全部捨てる。左手で、ファリアの腕を軽く叩いた。怪訝な顔をしてカイ ンを見上げる皇女に笑いかける。 「君だって、僕を助けてくれただろう。ありがとう」 ファリアがカインをつかんで川に飛びこまなかったら、間違いなく若者はメナートスに斬り 伏せられていただろう。 カインを見つめて、ファリアは何度か目をまたたかせる。一度うつむいたかと思うと、すぐ に顔を上げた。そのときには尊大さをにじませた笑みが戻っている。 「それじゃあ、おたがいさま、だな」 カインはうなずいた。そして、二人はまた同時にくしやみをした。 勲冷静になってみると、濡れた服が身体に張りついて、不快さよりも冷たさが勝る。ファリア が立ちあがるのを待って、カインも立ちあがった。髪や服の裾から水滴がこばれ落ちる。 銀見上げると、断崖が黒い影となってそびえていた。 四 とりあえずは、よしとしよう。この高さから落ちて無事ですんだんだ。
216 数歩ごとにつまずくレイクを、ファリアは振り返って笑ったものだ。 「骨の髄まで口先だけの男になってしまったな」 「俺は骨の髄から都会っ子だからな。育ちが違うんだよ、この野生児め」 「育ちのせいにするのか ? 私は帝都においても卿以上に洗練された上流の生活を送っている のだがな」 二人のやりとりをカインは苦笑して見守っていたのだが、ふと眉をひそめる。若者の耳は水 の音を捉えたのだ。 「近くに丿 日か湧き水でもあるのかな」 その疑問に答えたのはファリアだった。 けいしゃ 「川だ。ここから右の方へ行くと、急な傾斜になっていてな。その下を流れている」 「危険だな」 カインは気を引き締める。明かりがあるとはいえ安心できない。 やがて、月光に照らされてたたずむ山小屋が見えた。ファリアが指で山小屋を示す。 山小屋からは明かりが漏れていた。誰か人がいるということだ。 「山賊かな」 「旅人かもしれない。どうする」 さえぎ カインの問いに、ファリアは取りだした厚地の布きれで光灯石を包んで光を遮り、腰の剣を 確かめながら応じた。
音がして、男の巨体はぐらりとよろめいた。その間にカインは体勢を立て直す。 なた 槍を半回転させ、カインは石突きで男の腹を鋭く撃った。男は短い悲鳴を発し、鉈を取り落 として腹をおさえる。 石突きの方を男に向けたまま、カインは続けて左から右へ槍を薙ぎ払った。側頭部を強打さ れて男は体勢を崩し、地面に倒れる。うすくまって、断続的な呻き声を漏らした。 肩で息をしながら男を見下ろす力インに、ファリアが歩み寄る。若者の背中を軽く叩いた。 「だいじようぶか ? カインはのろのろとした動作でファリアを見て、うなずく。レイクはカインの脇を通り抜け て、うすくまっている男に疑わしげな視線を向けた。 「いかにも山賊ってなりだが、こんなもんか ? もっと恐ろしいのを想像してたんだが。 「いや、なかなかのものだと思うぞ」 そう答えたのはファリアだ。 「だが、卿もカインも年齢に似合わぬ力量の持ち主だ。それに武器の有利もあった」 カインの槍に向けられる。穂先ではなく、石突きに。しかし、彼女はそ ファリアの視線が、 勲れ以上その話を続けようとはせず、首を横に振った。 。とにかく山賊がいるのはわかった。できれば人数まで知りたいところだがーーー」 騎「まあいい そこまで言ったとき、山小屋の中から悲鳴があがった。 みは レイクとファリアは目を瞠り、呆然として立ち尽くしていたカインも我に返る。三人は顔を うめ
214 「ーー散歩だ」 「お姫さんのために教えてやると、あまりにうるさかったら首に縄つけて引きずってもいいっ て許可を、クローディアさんにもらってるからな」 二人の若者から厳しい視線を向けられ、さらに肩の細縄を見せつけられて、ファリアは屈せ ざるを得ないと判断したよ、つだった。 「山賊どもをさがすー その言葉に、カインは正直驚いた 「まさか、ひとりで山賊を倒しに行くつもりだったのか ? ぶぜん 半信半疑の態で問うと、ファリアは憮然とした顔になり、怒りをにじませた声で言った。 「卿はいったい私をなんだと思っている」 「お姫様。ただし、首に縄が必要な」 肩にかけている縄を外しながらレイクは答えた。そちらを軽く睨みつけてから、ファリアは カインに向き ~ 旦る。 「さすがに私とて、単身で数もはっきりしない連中を倒そうなどとは思っておらぬ。やつらの ねぐらをさがすだけだ 「土地勘もないのに、しかもこんな夜に歩き回るのは危険だよ 諌めるように言ったのだが、ファリアは首を振る。 土地勘はある。昔、ここにいたことがあるからな」 「さっきも言ったが、
152 クローディアの冷静な呼びかけが、一気に場の雰囲気を鎮めた。ファリアは一つ咳をして気 を取り直し、条約の更新のために向かうのだと説明する。 「いつ、出発するんだい ? 十日後という返事を聞いて、二人は顔をしかめた。準備は間に合うのだろうか。 「卿らはとくに旅支度を整える必要はないぞ。こちらですべて手配しておく あと、とファリアは足元の袋を指した。 「これは、私から卿らへの贈り物だ。ありがたく受け取るがいい。ああ、中身は私の前では見 るな。帰ってから開けて、ありがたがるのだ」 子供のようなことを言い、ファリアはカインとレイクにそれぞれ袋を押しつける。見かけよ り軽くて、妙にやわらかかった。あとでこっそり見ちまおうぜ、とレイクが視線で合図を送っ てきたので、軽くうなずき返す。 「ありがとう。ところで、僕らと、君と、クローディアさん以外には誰が来るんだ ? 」 「ついでに技術交流も行うので、五十人の職人と、彼らの護衛にあたる衛士が十人という話だ な。あと、私は馬車に乗って移動する」 ぶぜん 然として、ファリアは言った。 「馬に乗るかじゃないのか」 「王女で、病人なのでな」 「仮病なんだろう。いい加減、治ったことにしちまえば ?
きんしん 「謹廩は解けたのかい」 きゅうくっ 「ようやくな。まったく、あれほど退屈で窮屈な日はなかった」 「反省の言葉が出てこないあたりに性根の悪さが麺間見えるな」 わぎら 「労いの言葉が出てこないあたりに卿の人間性がうかがえるな。まあよい。早速だが、卿らに 告げることがある」 腰に手を当て、力強くファリアは宣言した。 「今度、インフェリアへ行くぞ」 「何をしに ? 」 おもわず真面目に尋ねたカインに、ファリアは心底呆れたと言う表情を向ける。 「卿は、いまの立場と私の身分とをもう一度よく考えてみろ」 しゅうしようさま 「厄介払いで嫁入りか。おめでとう。そしてまだ見ぬ花婿よ、 ) 」愁傷様 うた 詠うようにからかうレイクを、ファリアは意地の悪い目で見上げた。 「卿を駐在大使としてインフェリアに派遣してやろうか ? 十年ほどな」 「いまのは私の本意ではなく、この男に言え、言わなければ腿の肉をつねるぞと脅されたので 勲す。皇女殿下」 騎「簡単に脅しに屈するようでは先が思いやられるな。インフェリアとは言わぬまでも北方か南 銀方の視察に放りこんで : : : 」 「ファリア様」